ふわ、ふわ。
俺は何もない中を風船のように漂いながら、ゆっくりと降下している。
風は吹かず、上下左右に光はなく真っ暗だ。果てしない闇の中、自分がどこに向かっているのかも俺には分からなかった。
それでも俺は恐怖や苦痛は感じず、まるで母親に抱きしめられる胎児のように安心し切っていた。これから、俺は新しく生まれ変わるのだ。……何にだろう?自問自答しても分からない、ただ俺にはそうだという確信があった。
誰かが、そう教えてくれたはずだ。目が覚めるまでにバキボキと音を立てて、昆虫が変態するかのように闇の中で静かに変質していく自分の骨格を俯瞰するように俺は眺め続けていた。
ポカポカと温かい日差しを感じながら、次第に明晰になっていく視界を確かめるように俺は何度も瞬きをした。風が頬を撫でるように僅かに吹き、ウグイスの鳴く音が聞こえる。
しかし何度瞬きをしても土の地面しか見えない。
俯せに倒れていた俺はゆっくりと起き上がり、服に付いた泥を手で払い落とした。
視界に無数の樹木が映る。上を見上げると、青々と茂る緑の葉が視界に飛び込んできた。
どうやら自分が林の中にいる、という現状を俺はゆっくりとだが理解し始めた。
だがここがどこの林なのか、という疑問は依然として付きまとっている。
俺はゆっくり、じっくりとあたりを観察することにした。
斜め右下の南東の方角を向くと、地面はしばらく急斜面となっていたが崖は途切れており、遠くに小さな川が見えている。川は日光に当たって光り輝き、川魚が水面に波紋を作っていた。斜め上を確認すると、勾配がきつい坂道と木々の根が俺の視界を埋め尽くしていく。
(ここは、山の中みたいだな……でもどうしてここに?)
俺は自分の記憶を辿ってみるも、何も思い出せず軽い頭痛がするばかりだった。
自分の服装を確認していく。黒い紐靴、土に汚れた白いTシャツ。他に荷物は持っていない。衣服があるだけまだマシなのだろうか?しかし山の麓は見当たらず、己が誰かも分からないこの状況は絶望的な状況と言わざるを得ない。だが常人なら心細く思えるこの状況で俺は楽観的だった。喉の渇きや食欲が己を支配していないし、俺は生きているという事実があれば十分である。
(まあ、いいか。何とかなるだろう)
楽観的を通り越して危機感がないと思われるかもしれないが、俺はゆっくり歩いて山頂を目指すことにした。幸いにもほんのり温かい程度の気候で、雲一つない快晴。暑さに汗を流すことも、寒さに震えることもない。もしかしたら今は春なのかもしれない。
いずれにせよ登山するにしては、いい日和であることは間違いないであろう。
ならばのろのろと、山登りを愉しんでみるべきだ。そんなに焦って川沿いに麓を目指す必要もないだろう。
そう結論を出した俺は急斜面の中、土を一歩一歩ゆっくり踏みしめながら山頂へ歩みを進める。
葉っぱを掻き分け、根が張る斜面を登るのは大変だ。ゆっくり、ゆっくり、だが確実に俺は歩みを進めていった。暫く歩いた俺は、自分の体の異変に気が付いた。
(……あれ、全然苦しくないぞ?)
斜面を上るに従って、どんどん急になっていくにも関わらず、俺は息切れをすることも、汗を激しくかくこともなかったのだ。むしろ山頂に近づいている実感が喜びとなって闘志のように湧き出てくる。自分が登山の挑戦者である、という喜びが俺の表情を綻ばせていた。俺の記憶喪失前は、登山家だったのだろうか?それも今の俺には分からなかった。
時には岩の足場に手をかけ、よじ登るようにしながらも俺は山頂に向けて歩み続けていた。
「……わあ」
数時間は経っただろうか。俺は山頂に到着し、そびえたつ崖の上から眼下を眺めて達成感に浸っていた。山風が俺の僅かな汗を乾かせてくれる。遠くを見渡してみると、町はそう遠くないようだ。とは言えなぜだか分からないが、俺は猛烈にこのまま山を下るのは良くない、という予感に襲われていた。第六感というべきなのか?謎の『直感』とでも言うような何かが警鐘を鳴らし続けている。
(まあ、本能のままに行動してみるのも悪くないか)
俺は相変わらず危機感もなく能天気に、そんなことを考え続けていた。
このようなノリと勢いで数日後、軽く脱水症状を起こしながらも野草を口にくわえ、山頂でだらけている俺の姿を登山家が発見するまで、俺は未知の山を堪能し続けていた。
「……どういうことだ?」
俺は病院で血液検査やレントゲンを受けた後、軽い脱水症状は起こしていたものの健康と分かったようで安心していたのだが……俺はなぜか身元確認のために警察に連れていかれることはなかった。
目隠しをされた俺はトラックに乗せられ、住宅やビルが立ち並び、人が行き交う都会の街並みへと運ばれる。
俺が連れていかれたのは、高さ十八メートル程のビルだった。
中に入ると一階の内装は白い柱と遠くに見える階段とエレベーターのみ。常に黒いスーツ姿の屈強な男たちが俺の周囲を取り囲んでいるため逃げることもできない。普通の人間なら自分がどうにかされるんじゃないかと恐れる状況かもしれない、でも俺はそんな状況でも、何とかなるんじゃないかな、と思っていた。
白い簡素な作りの階段を上り、俺は三階へと連れていかれていく。
「お前は何者だ?どこの呪術師だ?」
「分からないと何回言えばお前たちは分かるんだよ……俺が知りたいよ……」
簡素な広間の中、小さな椅子に座らされた俺に激しい尋問のような事情聴取が行われたが、名も生まれも分からない俺は正直に記憶喪失と答えるしかない。そもそも魔術とは何だろうか、危ない予感しかしない。数人がぶつぶつと妙な呪文のようなものを唱えているが、俺は病を患っているのかなと思う他なかった。いい大人が深刻な表情で呪術や魔術が効かないだのギャグのように議論している姿は滑稽であり、俺はクスクスと口に手を当て噴き出してしまう程だった。
「貴様、何がおかしい!」
「いや、明らかにおかしいだろ。アニメとかの見過ぎなんじゃないか……?」
記憶を失っているにも拘わらず呑気そうな俺に対して苛立ちを増し、痺れを切らしたのは尋問する側の方だった。俺の右肩に向け正拳突きを繰り出してくる。
重い物体がぶつかり合い鈍い音が響く。俺は衝撃を受けるも対して痛くないことが驚きだった。むしろ痛がっているのは殴った側の男であり、男は衝撃に耐えきれずうずくまっている。殴った拳からは血が流れ出ているようだ。俺は怪現象に胡乱に思いながらも、思わず殴った男に声をかけていた。
「大丈夫か……?痛そうだが」
「……!貴様に心配される謂れはない!」
「安静にしたほうがいいぞ」
俺はドクドクと男の拳から流れる血を痛々しく思い、心配することにした。
一方俺の憐みの表情に気付いた男は激しく舌打ちをすると、立ち上がり何やら周囲の他の人間と相談し始めていた。俺はこの後どうなるのかな、と軽く気分が高揚していた。
痛々しい人達に囲まれるのは中々新鮮な気分だ。何となく楽しい。
「ええい、埒が明かん!多少の拷問は覚悟して貰う!」
俺は温和な表情を浮かべ続けていたが男の一人が、懐から数センチの何かを取り出すのを見つけ、軽く驚いた。茶色い鞘から抜かれたのは小さなナイフであった。
刃渡り十センチ程度だろうか、しかし人を殺傷するには十分だろう。
(お、ついに武器っぽいものまで出てきた!)
記憶喪失だが、俺の表情は傍目からはっきり分かるように輝いていたことだろう。
とはいえ、あれをそのまま突き刺されると『少し危ない』か……?
そう感じた瞬間、いつの間にか俺の能天気な思考は『切り替わって』いた。
俺をこれ以上害するのなら、容赦する必要はないだろう。平穏を乱すこいつは敵だ。
俺の温和だった表情は崩れ去り、いつの間にか獲物を狩る肉食獣のような獰猛なものへ変貌していく。青年のナイフを手に取る男に向けて、無意識に俺は手をかざし言葉を発していた。
「我は炉を護る者なり!」
俺の言葉が発せられるや否や、ビル内部に凄まじい爆音が響き渡った。
俺は心の片隅で鼓膜が破れそうだな、と呑気に思っている。
「……!?」
男たちの驚愕する視線を感じたのは一瞬であった。
俺の手から放たれた焔は燃え広がり、周辺の男たち全員に襲い掛かる。男達は悲鳴を上げるまでもなく、苦痛を感じる暇もなく一瞬で白骨へと変貌していった。
不思議なことに俺の手から放たれた焔は、燃え広がったにも関わらずビルの壁そのものに焦げ目一つすら作っていなかった。
ただ人の肉が焦げ、焼けるような匂いが俺を襲ったに過ぎない。
「臭いな……」
俺は自然と鼻をつまんでいた。一酸化炭素の煙を吸い込んだにも関わらず、俺の体には何の問題もないようだ。数秒後に脅威が過ぎ去ったのを確認した俺は、物言わぬ骸となった三つの白骨死体に大きなショックを受けた。人を殺めるなんて、俺はなんてことをしてしまったのだろうか。このままでは指名手配されてしまうかもしれない。
そもそも先程の言葉による炎の発生は、俺が起こしたものなのだろうか?
こんなことじゃ、先程まで馬鹿にしていた呪術だの魔術だのを笑えない。
そこまで考えをめぐらせた俺は、そこで思考を放棄した。そもそも、くよくよ考えるのは性に合わない。
「まあ、しょうがない。何とかなるか……これも悪い体験じゃないかもしれない」
いつも通りの温和な表情を自然に浮かべていた俺は笑顔で階段を降り、ビルから出ていくことにした。
明日は明日の風が吹く、とは何かの歌詞だっただろうか。
俺の視界は晴れており、空は俺の自由を祝福するかのような晴天であった。
『この世界で初めて』の神殺しの誕生は、このような経緯である。
この後青年は様々な呪術師や魔術師に畏れられ別の存在と勘違いされつつも、たった一人でまつろわぬ神と言われる自分と同格の戦いに身を投じるようになるのだが……
それは青年にとって、まだまだ先の話になりそうであった。