その日、日本の呪術師を統括する組織、正史編纂委員会に激震が走った。
三人の焼死体が発見されたされたビルからは、濃密な呪力の片鱗が今も漂っている。
神の眷属である神獣のものとは別格の呪力は、青年の正体を示すに十分だった。
それ即ち謎の記憶喪失の青年の正体は、地上に降り立ったまつろわぬ神であったという事実である!
神話そのものから地上に降り立ったと言われている絶対的な存在、まつろわぬ神が世界に与える影響は、国一つが簡単に滅ぶものである。
太陽神が現れれば国は炎の海と化し、海洋の神が現れれば津波が国を飲み込む。
地母神が現れると疫病が萬栄し、戦神が降り立てば人々は自ら発狂し、殺し合う。
そのような国家規模の被害が世界各地で報告されているのだ。
そして、その理不尽な神々の暴虐から国を護る方法は、この世に存在しない。
神を怒らせてしまえば取り返しがつかない。それ故に、時にはただ嵐のように過ぎ去るのを待ち、時には強大な霊力を持つ巫女を生け贄に捧げ、怒りを鎮めてもらう。
幾度もそのようにして、この世界は神々からの仕打ちに耐えてきた。
正史編纂委員会はこの事態に四家が集まり会議し、どの様に神に怒りを鎮めて貰うか話し合った。幸いにも青年の風貌は出回っている。まずは爆音を耳にした警察や消防署に手を回し、呪術を駆使しつつも決して青年に手を出さぬようにと入念に釘を刺した。
次に神に捧げる生け贄……供物をどうするか話し合う。最後に日本にまつろわぬ神が出たのは400年程前であり、明確な対処法は存在しない。
先に神に狼藉を働いたのはこちら側であり、このまま神の怒りをかったままでは日本が滅んでもおかしくはない。神ならばそれすら気にしていないかもしれないが、しかし楽観的に考えることは許されなかった。最上級の償いをしておけば被害は最小限に防げるかもしれない。
とにかく神に機嫌を取る方法を考える必要があるのは間違いなかった。
生け贄としての白羽の矢が立ったのは日本が用意できる最上級の媛巫女。神祖の血を継いだ先祖返りの娘……万里谷祐理であった。
万里谷の方にも異論はない。元々万里谷は責任感の強い人間である。
己を神の生け贄とすることで日本が危機から救われるのなら、と彼女は決心した。
しかし正史編纂委員会が全力を上げて青年を捜索するも、青年は見つかることがなかった。呪術師達は躍起となって探す、まつろわぬ神は一体どこに……?
ポカポカとした陽気が俺の体を包む。おひさまの光に当たるというのは、何とも心地良い。
どうやらトラックでかなりの都会まで連れてこられていたらしく、ビルが立ち並ぶ街並みは人混みで混雑している。交差点の近くまで来た俺は斜め上を見上げ、建物に巨大なテレビ画面が埋め込まれているのを確認した。
近くの人に場所を聞いた所、どうやらここは東京都内らしい。幸いにも不審がられることはなく、俺は自分の白いTシャツが生み出した炎で焦げていないことに安堵していた。
だが住居と戸籍を持たない記憶喪失の俺は、人混みの中で右往左往するしかなかった。
交差点で赤信号を待ち、今後の行動をどうするか決める。
三人の男を葬ってしまった俺は警察署に向かい、自首するべきかどうなのか迷っていた。逃げるのは、性に合わない。刑務所の中で労働するのも悪くないかもしれない。
でも誘拐されかけて、てのひらから炎が出て人を焼き尽くしました、と素直に喋って誰が信じるだろうか?そもそも正当防衛と思ってほしいが過剰防衛と思われても仕方ないかも……?
(まあ、とりあえず歩いて考えるか。何とかなるだろう)
人ごみは熱気が溢れかえっている場所であり自由に動けず、俺はあまり好みではなかった。
俺は人混みを抜け、人気の少ない空地を通り過ぎ路地裏へと歩みを進めることにした。
不法投棄されたゴミにカラスが集り、カアカアと鳴く。
茶色く汚れた野良犬がカラスに飛び掛かると、カラスは音を立てて飛び去って行った。
俺はゴミ袋から漂ってくる異臭に鼻をつまんだ。日陰で休憩しようかと考えたのは間違いだったらしい。引き返すか……。
そう考えた俺の視界に、輝く銀色の物体が映る。どうやらカラスが飛び去った後に何かが落ちているようだ。何となく気になった俺は、真っすぐその物体を視界に捉えてみた。
その正体は500と書かれた小さな銀貨、すなわち五百円玉であった。
光るものを収集する癖があるカラスがどこからか持ってきたのだろう。一銭も所有していない俺にとっては大金だ。
この五百円で、俺の覚悟は決まった。
(警察につかまるまで、ホームレスになるのも悪くないな……)
どうせ都会だし、三人も人間を殺害しているのだ。自分が逮捕されるのは時間の問題だろう。
幸いにも今の自分の体は妙に暑さ寒さに強いようだ。新聞紙やすだれにでも包まれば暑さ寒さを凌ぐことはできる。飢えは先程のカラスのようにゴミを漁ればいい。
物乞いをするのも楽しいかもしれない。山で迷っていた時とは違う楽しみや発見がある。
(まあどうにかなるだろう。その気になれば火も起こせる。暫くここでの暮らしを満喫するか!)
時期に日は落ちる。俺は身を温めるものを探すため、路地裏を徘徊するのであった。
こうして正史編纂委員会と青年の間には致命的なすれ違いが発生し、呪術師達は青年の捜索を警察に頼らなかったため、青年の発見は暫く遅れることとなる。正に灯台下暗しとはこのことであった。
まつろわぬ神が、都心の路地裏で自ら貧相な暮らしを楽しんでいるとは誰も思わない。
ホームレスの神殺しの誕生という前代未聞の珍事はこの世界ならではだった。
日本中をひっくり返すように青年を捜索している呪術師達、自分の正体が分からないままにホームレスを楽しんでいる青年、両方とも大分不憫であるのだが……これも大体異世界のパンドラという、うっかり間違えちゃった女神のせいなのであった。
とにもかくにも泥だらけになった青年が発見され、万里谷祐理と邂逅するまでには暫く時間がかかりそうであるのは間違いなかった。