誰も善人ではなく   作:木桜 春雨

1 / 2
最期の夏コミで出した新刊です。

手直し、加筆しながらupしていく予定です。


出会い

 パリの地下道はあらゆるところへと繋がっているが、それは建造物にもいえる、寺院や教会、美 術館、劇場に隠し部屋や通路があるのは暗黙の了解といってもよかった。

 ノートルダム大聖堂、オペラ座の事件が時を同じくして惨事に見舞われて再建を果たすのに、それほどの時間がかからなかったのは芸術的な価値を持つ建物であること、そして貴族たちの支援が あったからといっても過言ではないだろう。 大司祭、クロード・フロローとその養い子、カモドが生き延びたのは神の采配だったのかもしれ ない、だが、それだけではない、他にも生き延びた者達がいた。

 セーヌ川の水は冷たい、心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた瞬間、男は死を覚悟した。 少し前まで自分は法を守るべき者として正しいことをしていると自負していた、ところが、あの 男を追いかけていた最中に迷いが生じた。 大きくなる不安に耐えきれなくなって身を投げた、生きることを自ら放棄した事は罪だ、地獄に 堕ちるだろうと思っていたのに何故だ、自分は生きている、眼を開けると薄明かりに照らされた室 内だということがわかった、ここはどこなのだろう思ったとき、声がした。

 身投げした自分を助けたのはノートルダム寺院の鐘つき男だった、司祭のペットと呼ばれ、街の 人間からは異質な者でも見る様な侮蔑の眼差しを向けられていた、以前、街で警備をしているとき に何度か見かけたとジャベールは思い出した。

 

 何故、この男が自分を助けたのか、会話をするとき、じっと自分の顔を見るのは唇の動きを読ん でいるのだと分かってから数日後、ようやく話ができるようになった。

「助けるつもりはなかったよ、警部殿」 鐘つき男のぶっきらぼうな物言いは苛立っているようで、怒っているのかとさえ思えた。

「彼女があんたを見つけたんだ、この数日ずっとそばにいて看病していたんだよ」

「その女は今、どこに」

「寝てる、具合がよくない」

 怒りを含んだ声だった。

 身投げした自分を見つけた女が息があることが分かると、助けたいと自分に頼んだのだという、フロローに知られたら厄介なことになるだろう、だが、女に頼まれて断ることができなかった、彼女に頼まれたからだとカジモドは繰り返した 。

「この数日、あんたの看病をして彼女は疲れてしまったんだ」

 吐き捨てる様な言葉をぶつけるカジモドに、ジャベールは返事をすることができなかった。 それは体に疲れとだるさが残っていたのかもしれない。

 

 

 

「クリスティーヌ」

「ここから出して、お願いよ、エンジェル」

だが、何度訴えかけても相手は、自分の言葉に耳を傾けようとはしない、笑うだけだ。

「君は私の顔を見た、満足だろう」 「ええ、確かに、でも」 言葉に詰まってしまう、無理もない、こんなことになるとは思っても見なかったのだ、クリステ ィーヌ・ダーエ、今、彼女は恐怖と絶望の中にいた。

 今まで歌を教えてくれた天使が、自分を牢屋に閉じ込めるとは思ってもみなかったのだ。  レッスンを受ける事を外部の人間が知れば、生徒志願の人間が押し掛けてくるかもしれない、 その為に素性を知られないように素顔は隠して仮面をつけている。

 その言葉を信じていた、だが、歌が上達して役がつき、念願の主役に抜擢されたとき大役を任さ れることになって、男の事を知りたくなってきた、彼自身の声と同じで、その顔もと思ったのだ。

 好奇心が抑えきれないほど膨れあがってくるのに時間はかからなかった。 自分の顔は醜いから見せたくないと言われ、大丈夫だと言ったのだが、今ではひどく後悔した、 だが、もう遅い彼の怒りを買ってしまった。 男の隠された素顔は今まで見たことのないものだった、髪はない、普段は鬘をつけているのだと、 このとき初めて知った、頭部は陥没したような大きな傷があり、左目は大きく見開いたまま、頬の肉は引きつれたようになっていた、肌の色も浅黒く、血が変色したようなひび割れた傷が痛々しい というものではない、人間らしいという言葉が全て否定されたような顔だ。

 そして自分は彼の顔を見て気を失った、気がつくと牢屋の中だった。 音楽の天使と呼んでいた男は鉄格子の向こうから、自分は母親から捨てられたのだと笑いながら 話しだした。

「化け物、悪魔だと罵って、あの女は自分から命を絶った、自殺だよ、おまえはどうだい、クリ スティーヌ、自ら死を選ぶかい」

 牢屋の中の彼女が呼びかけたが、男は激しく否定した、天使じゃないんだと何度も繰り返し、叫びながらだ。

「おまえは、そっくりだ、あの女に」 「私を殺すの、憎んでいるの」 「ああ、わからないだろうね、おまえには」

 彼は狂っているのではないか、このとき初めて彼女は恐くなった、亡くなった父親から頼まれて、おまえの元に来たんだ、優しい声で呼びかけてくれた、あれは夢、いや、嘘だ。

 帰りたい、ラウル、幼なじみの青年、恋人の顔を思いだして彼女は涙を流した、だが、ここから はどんなに声を上げても届く事はないのだ。

 

 ああ、終わりだ、彼女は自分を恐れている、あの眼は自分の母親、今まで自分の素顔を見た人間 と同じだ、人間じゃない、化け物だ、悪魔だと心の中で叫んでいる。

 皆が自分を恐れて見ないふりをする、女、子供たちを自分たちの背後に隠し、こちらを見る、怯 えたように、だが、自分が一体、何をしたというのだ。

 素顔を見せたのは間違いだった、だが、遅い、彼女を地上に戻せば自分の事を話すだろう、秘密 はいつかはばれるものだ、あの若造、幼なじみ 、 恋人きどりの若造が知れば警察を読んで自分を捕 まえに来るだろう、そうなれば監獄送り、死刑だ、牢屋ではすまないだろう。

 ノートルダム寺院の大広場で見せ物のごとく、絞首刑、そんなことはまっぴらだ、殺されるぐら いなら、いっそのこと、自らの手で、足は自然と階段を上り、オペラ座の屋上へと向かっていた。

 ここから飛び降りれば間違いなく死ぬ、そして彼女は誰にも見つけられず牢屋で一人きり。 孤独なままだ、素顔を見られる前なら彼女を哀れんだかもしれない、だが、今となっては全てが が終わりだ、どうなっても構わない、全ては終わったと自分に言い聞かせる。

 冷たい、ひんやりとした空気が素顔にふれるのは、心地よかった、だが、できるなら昼間の太陽 の光も感じてみたかった、しかし、今となっては、叶わない、そのときだ、足音と人の気配がした。 呼びかける声に驚いて振り返った。 こんな真夜中、オペラ座の屋上に、裏方の人間か、逢い引きの約束でもあるのか、だが、今日は 劇場は休みではなかったか、では、誰だ。

 

「飛び降りる気なの」 女の声だ、オペラ座の人間か、相手が近寄ってくる気配を感じて思わず、来るなと叫び、拒絶し たが、相手は立ち止まる事をしない。

「生きていて何になる、全ては、この顔のせいだ」

「よく、見えないわ、カンテラだけじゃ」

 カンテラの明かりが自分の顔だけでなく、相手の顔も照らした瞬間、突然、相手が抱きついてきた、冷たい石の床に押し倒れた瞬間、驚いた男は言葉が出てこず空を見上げたまま、呆然とした、いや、呆気に取られたと言ってもいいだろう。

 自分の頬に振れた手の感触に緊張する。

「怪我をしてるの」

 生まれつきだと答え、男は目を閉じた。

「夜の空気は冷たくて気持ちいいわね」

 自分のすぐ隣に女が体を横たえ、星が見えないと残念そうに呟くが、男は黙ったままだ。 自分の隣、手を伸ばせば届くほどの近い距離に誰かがいるということが信じられなかった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。