焼肉屋から帰った俺が扉を開けると、部屋の真ん中にちょこんと座る弟子の姿が飛び込んでくる。
雛鶴あい女流玉将は、俺が帰ったことにも気付かず、将棋盤と向き合い小刻みに頭を振っていた。
「……こう、こう、こう……うん! こうこうこうこうこうこうこうこうこう……よしっ!」
盤上没我している弟子に声をかけるか迷っていたが、どうやら一段落付いたようだったので……。
「あい、ただいま」
言った瞬間、あいは勢いよく首を巡らせる。
「おかえりなさい、師匠!」
あいはとても嬉しそうにニコニコ笑い、アホ毛もブンブン揺れているが、俺に駆け寄ってこず、盤から離れようとしない。
「詰将棋か?」
「はい! アマチュアの人にも解きやすいモノをと思って」
「そうか、あいは偉いなぁ」
でき上がった詰将棋を見ながら、あいの頭に手を置くと、俺の弟子は目を細めて幸せそうな顔をする。
「ししょー、ししょー」
そのまま頭をぐりぐり押し付けてくるあい。俺は頭を撫でたままあいに話しかける。
「今度、二冊目が出るんだっけ?」
「はい、まだ出版社の方と打ち合わせの段階ですけど!」
女流玉将雛鶴あいは、去年の暮れに詰将棋の本を世に送り出した。『分かるが増える! 詰将棋
入門編と名付けられつつ、プロでも考えるようなキリングマシーンだったのである。その難しさから、世間では『聖典』なーんて呼ばれてたり、呼ばれてなかったりする。
猫になったあいは、俺の腕に抱きついてにゃーんと声を出していたが、突然真剣な表情を浮かべて口を開いた。
「私、将棋を始めたきっかけは、師匠で。師匠にはとっても感謝してて、でも詰将棋にも同じくらい感謝してるんです」
「それはどういうこと?」
訊き返すと、あいは真剣な顔のまま言葉を続ける。
「師匠と会う前の私に将棋を教えてくれたのは、詰将棋なんです! 詰将棋が有ったから、将棋をもっと好きになれて、こうして師匠の弟子になれてっ!」
「……あい」
「私、師匠の将棋を見て将棋を始めた人に、今度は将棋を楽しんでほしいんです! そのために私ができる事は、詰将棋だって思ったんです。もっと沢山の人に将棋を指してほしいんです!」
「うぅ……あいっ」
真っすぐで綺麗な弟子の想《おも》いに当てられ、俺の涙腺が決壊する。
なんて良い娘なんだっ、うちの弟子はっ!
思わずあいを抱きしめると、あいも俺の背中に手を廻してくる。そして……。
「師匠……?」
「んん、どうした? ……ヒエっ」
あいが俺の胸に埋めていた顔を離すと、そこからハイライトが消えていたのだ。
「……かみ……おおかみ……チッ」
「あ、あいさん?」
怖い、怖いよ舌打ち。小学生の頃は舌打ちなんてしなかったのに……。
「……雌狼の臭いがします」
「焼肉のニオイしかしないはず――」
「黙ってください。今日一緒にご飯食べた人は、椚創多《くぬぎそうた》七段じゃないんですか? 師匠言ってましたよね? 『創多の竜王戦4組昇級のお祝いだ』って、本当だったら椚七段だって師匠に近付けたくないのに……いえ、そんな事はいいんです。師匠の嘘つき。嘘つき……だらっ」
「あい……さん?」
「師匠、正座」
「はっ、はい」
足を組み替えて、瞬時に正座する。おかしいな、焼き肉屋にいた時より汗かいちゃうよ……アハハ。
あいは正座した俺の正面にちょこんと座り、どんよりした眼で俺を正面から見つめる。
「将棋の神様に誓って、しっかり答えてくださいね」
俺が勢い良くうなずくと、あいはゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「今から師匠にちょっかい出す女性の名前を言っていきます。名前が出たら頷いてくださいね?」
「――ッ、――ッ(首を振る音)」
「
「…………」
「
「…………」
「シャルロット・イゾアール」
「…………」
「
「…………ビクッ」
「…………」
「…………」
「空銀子」
「…………ビクッ」
「うぅ……あいが目を離した隙に……あいが目を離した隙にいっ」
「あいさん? あい?」
あいの目に光が戻り、今度は一瞬で涙が溜まる。
「ししょうのだらっ、だらぶち! なんであいに内緒なんですか? 嘘つくんですか? 師匠のだらけ!」
「ごめん。悪気は無かったんだ」
手を合わせて謝ると、あいは腕組をして横を向き、唇を尖らせる。
「どーだか。ばっかいならんなぁ」
あいは金沢弁? でまくし立て、携帯でどこかに電話をかけ始めた。
『もしもし、雛鶴です。今ってぇ~お電話大丈夫ですか~?』
『はい、先ほど本人から。今日はうちの八……がご迷惑をお掛けしたみたいで…………えぇ、えぇ。
あいが電話を切り、むふーと息を吐く。『うちの八一』と言っていた気がするが……流石に気のせいだと信じたい。
「あい、どこに電話を?」
「もちろん叔母さんです。今度、叔母さんがいらっしゃる
あいがニコニコ笑いながら、両手を合わせて可愛く首を傾げる。
「師匠、あいと将棋を指してください!」
「あぁ、望むところだ」
あいと将棋盤を挟んで向かい合う。一日を締めくくる弟子との将棋《ジカン》だ。
同時刻、難波の白雪姫が怒りのあまり携帯を壁に投げつけた事は誰も知らない。