弐拾伍.生者必滅
上弦の参・猗窩座の襲撃は、鬼殺隊にとっての大きな転換点となった。
数か月後、音柱・宇髄天元率いる隊員数名が、遊郭に潜んでいた兄妹の鬼―――上弦の陸・妓夫太郎と堕姫を討伐。
さらに数か月後、刀鍛冶の里に襲来した上弦の肆・半天狗と上弦の伍・玉壺も、霞柱・時透無一郎及び恋柱・甘露寺蜜璃を筆頭に、偶然里を訪れていた隊員が、甚大な被害を出しながらも討伐に成功。
二年にも満たぬ間、百年斃されなかった上弦の鬼が撃破されたのだ。
この朗報は鬼殺隊に轟き、今日まで辛酸をなめ続けていた隊員らを勢いづけるきっかけとなった。
一方、刀鍛冶の里の一件以来、鬼の出没がはたりと止んだ。
それを鬼が怖気づいたと見るか、嵐の前の静けさと見るか。鬼殺隊の見解は―――後者であった。
しかしながら、鬼が出ないことは巡回に回す人員を減らせるという意味でもある。
鬼が虎視眈々と力を蓄えているのならば、こちらも力を蓄えよう。
それはつまり、柱が隊員へ直々につける稽古の始まりを意味していた。
合同強化訓練―――またの名を柱稽古。
長い鬼殺隊の歴史の中でも最強と謳われる面子。
稽古をつける対象は、柱を除く全ての隊員。
来たる戦いに向け、地獄の柱稽古は始まるのであった。
***
澄み渡る青空。小鳥の気持ちよさそうな囀りや木の葉の騒めきが、一層爽やかな清涼感を与えてくれる。
そうした日柄の下、大勢の人間がドタドタと足を立てて走っていた。
「ひぃー!」
「ぎ、ぎぇ……!」
「こひゅー……こひゅー……!」
この光景を例えるなら、“阿鼻叫喚”だ。
上着を脱いだ体からは汗が滂沱の如く流れ落ちており、激しい息遣いの合間に大きく咳き込む音も聞こえてくる。
刹那、風を切る鋭い音がへばっている隊員の鼓膜を殴りつけた。
「はいはい!! 休憩じゃねえんだよ!! 喘いでないでさっさともう一本走り込んでこい!!」
『ぎゃー!!』
音柱・宇髄天元。
元忍という鬼殺隊の中でも異色の経歴を有す彼は、“派手”を信条に長年柱として市井の人々と嫁三人を守ってきた美丈夫だ。
上弦の陸・妓夫太郎と堕姫の討伐に際し、左目を負傷、左腕を斬り落とされるという深手を負ったため、現在では柱こそ引退したものの裏方で鬼殺隊を支える大黒柱的存在となっていた。
柱稽古第一の試練は、そうした彼による基礎体力向上訓練。
とどのつまり走り込みといった単純な内容であるが、柱から下される稽古は、大多数の隊員にとって地獄に等しい訓練量。だからこそ、冒頭の通り喘ぐ者が続出していた。
「はっはっは!! お天道様の下での走り込みは気持ちいいな!!」
「ん」
「……周りの視線が痛いなぁ」
とある一部を除いて。
溌剌とした声と土煙を上げて走る燎太郎につむじと凛が続いていく。
杏寿郎の扱きに比べればなんてことはない! と宣う燎太郎につむじが首肯している。
だがしかし、そうした彼等に信じられないものを見るような眼差しを向ける周囲に気がついた凛だけは、得も言われぬ面持ちを浮かべつつも、真面目に稽古へ打ち込んでいた。
「おうおう、煉獄が扱いてるだけあるな。その調子で残り十本走り込んでこい!」
『はい!』
天元の課す稽古はあくまで基本的な内容だ。
日常的に柱から稽古をつけてもらっている継子にしてみれば、慣れた訓練量に過ぎない。
炎柱の継子三人は、早々に他の隊員より一歩先んじて訓練を終わらせることとなった。
「ただいま戻ってきました!」
「お疲れさん。走り込んで腹減っただろ。飯でも食ってかねえか」
「え? でも、次の柱のところに……」
「まあそんなに逸るなよ。もう日も暮れてきたんだ。時透のところにゃ明日行くってことにしてよ。俺も色々話がしてえんだ」
と、誘われるがまま向かったのは給仕―――もとい、天元の嫁三人が夕餉を準備する場所だった。
次から次へとひっきりなしに炊かれている米の香りが、実に食欲をそそる匂いを辺りに漂わせている。
「うわぁ、おいしそう!」
「そりゃあ俺の嫁が作ったんだからな。大事に食えよ」
などと軽口を叩きながら席に着く面々。
ぱちぱちと焚き火が燃える音が耳を打つ中、口火を切ったのは天元であった。
「こうして面と向かって話すのは初めてだなあ。何度か煉獄の後ろをくっついてんのは見かけたが」
「意外と話す機会がないですもんね」
「そりゃあ鼻くそみてーな一般隊員と神様みてーな俺様とじゃあ、機会どころか話すの自体が烏滸がましいってもんよ」
「んあ゛?」
「つむじ、声」
握り飯をたらふく頬張った口からドスの利いた声を漏らすつむじ。
そんな彼女を宥める役目は燎太郎に任せ、凛は苦笑を浮かべてから天元に応える。
「だから今は対等に話してもらえる、ってことですか?」
「俺様も腰を据えてな。とまあ、偉そうに語るつもりはねえよ。先輩として世間話から相談まで何でも聞いてやるって話だな」
「ははっ、ありがとうございます」
「で、なんか聞きたいことはあるか? 稽古か? それとも―――」
「痣」
遮るように言い放たれた凛の声。
一瞬硬直する天元であったが、すぐさま気を取り直し、真っすぐに見つめてくる凛を見返す。見つめてくるのは彼だけではない。燎太郎やつむじも“痣”の一言で様子を一変させていた。
「それについて詳しくお尋ねできたらと」
「痣……か。煉獄からいくらかは聞いてるんだろ?」
「はい」
応える凛が口にした“痣”とは、鬼殺の剣士の体に起こる謎の現象。
上弦の鬼が討伐された戦闘。そのどちらにおいても、この“痣”が浮かび上がった剣士が勝利に大きく貢献したと言われている。
炭治郎を始め、蜜璃、そして無一郎。現在、この三人の痣発現を確認している。
鬼の紋様に似た痣の発現は、呼吸によって人ならざる力を発揮する剣士に、更なる力をもたらす。
猗窩座との死闘以来、一層鍛錬に励んだ三人であるが、ついぞ上弦の鬼討伐の場面には出くわさなかった。
しかし、嵐の前の静けさの如く鬼の出没が止んだ今、残りの上弦の鬼―――そして諸悪の根源・無惨を滅殺する為に、三人としては是非とも痣を発現したいと考えていた。
「お願いします」
深々と頭を下げる凛。
「……ふぅ。条件ぐらいは聞いただろ?」
「心拍数が二百。体温が三十九度以上、ですよね」
「だが、痣の発現を目下の目標にしてんのは柱だけだ。裏を返せば、柱ぐらいじゃなきゃ出せないって意味でもある」
「柱に匹敵する自負があると言えば?」
「……はっ! 嫌いじゃないぜ、そう活きがいいのは」
不敵な笑みを零す天元。彼にも人を見る目はある。三人の姿を見ていれば、時期こそ違えば彼等も柱になる剣士であると評価していた。ただ、他の剣士が柱になる条件を先に満たしたり、そもそも柱の座が埋まっていたりと、不運が重なっていただけだと。
「ただなぁ、俺も柱合会議に直接参加した訳じゃねえ。話を聞くにしても、他の奴らより話せることはねえよ」
「そう……ですか」
「柱稽古ん中で痣出したいっっていうなら岩柱のところがいい。稽古の内容的にも都合がいいだろうからな」
「なるほど……ありがとうございます!」
柱稽古の内容は以下の通りだ。
元音柱による基礎体力向上。
霞柱による高速移動の稽古。
恋柱による地獄の柔軟。
蛇柱による太刀筋矯正。
風柱による無限打ち込み稽古。
岩柱による筋肉強化訓練。
蟲柱による心肺強化訓練。
炎柱による実戦形式の試合。
水柱・冨岡義勇だけは、未だ柱稽古に参加する意志を見せず、稽古内容が定まっていないことから、現状では以上八つが柱稽古の全てとなっている。
「まあ、胡蝶んトコの継子みてえにちゃっちゃと進めんのもいいが、折角の柱が相手だ。色んなモン吸収してけよな」
「はい!」
望むところだという気概を感じる返事。
それを受け、天元はフッと頬をほころばせる。
次の瞬間、彼から悩ましそうな“熱”が漂ってきた。
思わず首を傾げてしまう凛であったが、気のせいか否か判断する前に、なんてことはなさそうな面持ちの天元が、途端にニヨニヨとした笑みを浮かべる。
「そういやよ……お前ら、鬼殺隊に入ってから大分経つが恋仲の異性とかはいないのかよ」
「ぶっ!」
不意をつく質問に、口に含んでいた米を吹き出してしまう凛。
「汚ねえな!」と喚く天元であるが、発端は彼なのだからと抗議の視線を返す。
「きゅ、急にそんなこと聞いて……僕には居ませんよ」
「そうか、寂しい人生送ってんだな」
「……一体なんのつもりなんですか」
恋仲が居ないくらいで寂しい人生とは、中々に癇に障る発言だ。
思わず敬意もなくなってしまう視線を送ってしまう凛であったが、呵々と笑い声を上げる天元が語を継ぐ。
「なんてこたぁねえさ。鬼殺隊やってる身にしても、平々凡々な幸せも見ろって話だ。嫁の一人や二人迎えてみろってな!」
「お嫁さんは一人じゃないと揉めません?」
「幸せにしてやりゃ何人でもいいんだよ」
半ば冗談気味に締めた天元。
そんな彼を前に、凛は指にくっついた米粒を舐め取り、仄かな甘みにじっくりと味わう。
(お嫁さんかぁ……)
自分だって普通の幸せには憧れる。
誰かと結ばれ、結婚し、子供をもうけ、明るい家庭を築いていきたい。
だが、知ってしまった非情な現実が、ありふれた幸せを手に掴むことに忌避感を覚えさせる。
加えてもう一つ、重大な問題があった。
(出会いがないんじゃなぁ)
鬼狩りは激務。
加えて、内容が内容だ。ほとんど一般人は鬼狩りを生業としている者と交流を持たぬだろう。世界が違うとは、まさにこのことだ。
となれば、必然的に残るのは同僚となってくるが、彼等も憎き鬼を滅殺する為に精を出している人間である。色恋沙汰に現を抜かしている暇はないと一蹴されるのがオチだ―――蜜璃は例外中の例外だが。
「ははっ。全部済んだら頑張ります」
「おう、そうしとけ」
冗談を流すように応える凛。
そんな彼が目を外した瞬間、天元が神妙な面持ちを浮かべたが、誰の目にも映ってはいなかった。
***
音柱の稽古が済めば、霞柱の稽古。
「―――しのぶさんからは、炭治郎君の容態も大分良くなってるって聞いてるよっ」
「そうなんですかっ。それは良かったですっ」
「そう言えば、時透君も痣が発現したようでっ」
「はいっ。まだ自在に出せる訳じゃないですけどっ」
無一郎邸の道場では、絶えず木刀を打ち合う音が鳴り響く。
現在、剣戟を繰り広げているのは凛と無一郎。二刀流を披露する凛に対し、最年少の柱である無一郎は木刀一本でなんなく応戦してみせる。
しかし、何よりも凄まじいのは、その足捌き。互いに自分の間合いに入るよう、あるいは相手の間合いから抜けるよう立ち回る攻防は、交わしていた世間話の呑気さに反比例する苛烈さであった。
床が踏み抜かれるのではないか。そうした勢いで剣戟が繰り広げられること数時間。
「ふぅ、このくらいにしましょうか。言ってることは最初からできてましたし。どうぞ、次の柱に行ってください」
「うん、お疲れ様でした時透君」
「いえ、僕も良い経験できましたので」
足腰の動きと、筋肉の弛緩と緊張の切り替えが肝要な稽古。
氷と水の呼吸を使い分け、二振りの日輪刀を扱う凛にとって、さほど難しい話ではなかったことから、一日に満たぬ時間で次なる柱へ向かうことを許された。
「おいでませ、我が邸宅へ!」
「蜜璃さん、お久しぶりです!」
「元気だったぁ~!? ささっ、上がって上がって! 美味しいパンケーキご馳走してあげるから!」
迎えに上がったのは我儘な肢体を誇る大食い女子、蜜璃である。
言われた通り、パンケーキをご馳走してもらった凛は、地獄よ称される柔軟へと取り掛かった―――のだったが、
「えっと……」
「どうしたの?」
「この恰好は……?」
「動きやすいでしょ?! 柱稽古の為にたくさん買って来たのっ!」
「たくさん……」
着慣れぬ服装に難色を示す凛。
と言うのも、柔軟に当たって着替えさせられた服がレオタードであったからだ。ハイカラな色合いはともかく、何より際どい。何がとは言わないが、うっかり零れ落ちてしまいそうな危うさを感じていた。
だが、本題は柔軟。
体が柔らかいのは、利点さえあれど欠点はない。
謎の音楽を聴きつつ踊って体を温めてから、いざ柔軟へ。
「それじゃあ行っくよー!」
「ははんっ。僕って結構体柔らかいですからね」
「そうなの? それじゃあとくと拝見! そーれっ!」
「どうです?」
「わぁ、ホントに柔らかいんだねぇ! 真っすぐになりそう!」
脚を押し広げる蜜璃は、感心した声を上げながら、さらに凛の股を開かせようと力を込める。
離れぬよう手を引っ張り、ひし形を描いていた二人の脚はみるみるうちに一直線を描こうとしていた。
「えいっ! えいっ!」
「あの、蜜璃さん。そこらへんで……」
「あらっ? もう限界なの? いやいや、まだ行けるよ!」
「そうじゃなくて……」
「?」
「それ以上脚開いたら、スカートの中が……」
「 」
ピタリと止まる蜜璃。
数秒硬直していた彼女だったが、カァーっと茹蛸の如く紅潮した顔を俯かせれば、自身の下半身へ目を落とした。
鬼殺隊の中でも珍しいスカートを穿いている彼女であるが、その丈の短さから、下腹部を隠すには少々心もとない。
そもそもゲス眼鏡と呼ばれる隠が下心全開で仕立てた物だ。
“あわよくば”を狙っているのだから、助平な事故が発生する可能性は否めない。
「……きゃあああああ、見ないで恥ずかしいいいいいい!!!」
「いえ、まだ見えてませんから……って、いだああああああ!!?」
恥ずかしさの余り、凛の手を取っていた腕を引き、スカートの裾に持っていく蜜璃。
そうなれば凛の体が引き寄せられる訳なのだから、一気に距離を縮める上半身に対し、脚で押さえられていた下半身―――脚は、一層押し広げられる形となる。
だが、限界を超えて広げられる脚に、凛の股間は悲鳴を上げた。いや、絶叫だ。
バキボキと変な音を立てながら百八十度を超す角度に押し広げられた凛は、痛みのあまり泡を吹いて悶絶する。
蜜璃が早とちりしていたと気付いた頃にはもう遅かった。
「え? ……あああああ!!? ごめぇ―――んっ!!!」
「ひっ……開いちゃいけない角度に……」
氷室凛、負傷。
数日の療養を取らざるを得なくなった。
そんな悲劇から三日後、次に彼が訪れたのは小芭内邸である。
「よく来たな、ゴミカス。甘露寺との稽古はさぞ楽しかっただろうな」
「いや……楽しいとか楽しくないとかじゃ……」
「お前の感想は求めちゃあいない。甘露寺に付きっ切りで稽古をつけてもらった身分で……!」
「いや、楽しいです! 楽しかったです!」
「何を楽しんでいる、この蛆虫めが。万死に値する……!」
(なんて答えれば納得するんだろう、この人)
今回稽古をつけてくれる柱は、蛇柱こと伊黒小芭内である。
一部の人間には周知の事実だが、彼は恋柱・甘露寺蜜璃に恋をしている男だ。それだけであれば微笑ましい限りなのだが、彼女と仲良くしている人間―――特に男性に敵対心を向ける部分がある。
当然、継子云々で蜜璃と仲が良かった凛も彼の標的と化していた。
「羨ま……死ねぇ!!」
「隠すつもりもないッ!!?」
障害物として数多くの木の柱が設置された道場の中、斬り合う二人。
満足に刀を振るえぬ中、僅かな隙間を縫い、正確な太刀筋を以て小芭内の羽織を斬るまで続く稽古であるが、その間に凛は小芭内から謂れのない罵詈雑言を受け続けた。
精神的な疲労を覚えたのは、きっと異様な太刀筋を見せる彼の刀に集中していたからだけではない。
鬼気迫る小芭内の猛攻を掻い潜り、何とか稽古を終える。
これまでの稽古の中で最も熾烈な内容だったと深く息を吐く凛であったが、この後、小芭内の癇に障った隊員が柱に括りつけられるとは夢にも思っていなかった。
こうして地獄の柔軟からやって来た隊員の処刑場と化す稽古を抜け、向かった先は不死川邸だ。
(二人は先に行っちゃってるし……早く追い付かなきゃ)
逸る想いを胸に歩を進める。
しばらく走れば、遠方より甲高い音が響き渡ってきた。聞き慣れた音だ。木刀を打ち合う際の衝撃が、木霊となって晴天を駆け抜けている様に、凛もそっと耳を傾けた。
それにしても激しい打ち合いだ。
風柱との稽古は、無限に打ち込み合うと説明を受けているが、実際に見て見なくては実情が分からないというものである。
さっさと目的地に辿り着く凛。
そこで目にしたのは、
「うわぁ……」
嵐―――否、剣士二人による剣舞だ。
庭に敷き詰められた砂利を巻き上げながら、苛烈な剣戟を演じるのは、さらしを胸に巻いているつむじと痛々しい傷跡が目を引く胸を晒す風柱、もとい不死川実弥であった。
周囲には気絶している隊員が伏しているが、その屍山血河が如し光景の中、二人が拮抗した戦いを見せている。
(いや、不死川さんが押してるかな)
圧巻せざるを得ない光景を目の前にしつつ、冷静に戦況を分析する凛。
はてさて、観戦もそこそこにして稽古に参戦しようと思った彼であるが、如何せん入り辛い雰囲気が漂っている。
両者、共に風の呼吸の使い手。熾烈な剣戟の周りに旋風が吹き荒ぶのを幻視する凛は、どうしようものかとタタラを踏んでいた。
「おぉ、凛! やっと来たのか!」
「燎太郎。今来たの?」
「ちょっと厠にな」
そこへやって来た人影は、良い笑顔を浮かべる燎太郎だった。
気絶するまで打ち込むのが風柱流の稽古であったらしいが、つむじと燎太郎だけになった時、彼女きっての頼みで
その間、手持ち無沙汰になってしまった燎太郎は、急に催した尿意を発散すべく厠へ―――とのこと。
「それにしても凄まじいな、風柱様は! 俺もやり合っていた時は、思わず吹き飛ばされるかと思ったぞ!」
「そんな人と一対一で戦いたいだなんて、つむじも気合い入ってるなぁ」
「まったくだ、はっはっは!」
朗らかに笑う燎太郎。
彼と共に、折角だからと観戦を始める凛は、じっと実弥の立ち回りを観察する。つむじとも一味違った荒々しさ。それでいて研ぎ澄まされた剣閃は、見る者を圧倒する迫力に満ち溢れている。
木刀であるにも拘わらず、剣閃の軌道に立ち入った砂利は切り裂かれるように砕け散っており、生身に当たれば無事で済まないのは明白であった。
だが、つむじも負けてはいない。
疾く、そして鋭い剣閃を紙一重で躱しながら、重力を感じさせぬ軽やかな動きで飛び回っては、反撃に転じている。
同じ呼吸の使い手同士、手の内は分かり切っている可能性が高い。
だからこそ、彼女だけの型である“疾駆狂飆”が対等にやり合う要という訳だ。
それにしても激しい。
汗を振り撒きながら立ち回る二人の動きは、ある程度鍛えた者でなければ目で追えないだろう。
だからこそ、二人は異変に気がついた。
「……なんか、布が伸びてるように見えない?」
「残像……じゃあないな」
最初こそ余りの速さに残像を幻視したかと疑う二人であったが、どうにも現実に起きている事態だと冷や汗を流す。
次第に長くなる布。それに反比例するかの如く、肌色が視界に映り込む。
―――では、一体誰の?
「……まずいっ!! つむじのさらしが
「いや、きっと不死川の兄貴の木刀が掠って切れたんだ!! このままではっ!!」
観戦する態勢を解き、すぐさま加勢に赴く男二人。
地面を蹴り飛ばせば、敷き詰められていた砂利が散弾のように宙を舞い散る。
鬼気迫る表情を浮かべながら、木刀を握り締めて駆け出して間もなく、吹き荒れる嵐の中へ彼等は飛び込んでいった。
「嫁入り前ぇぇぇええっ!!」
「助太刀御免っ!!」
―――なんて素っ頓狂なことを言ったんだろう。
そんなことを思いつつも、凛と燎太郎は実弥に立ち向かった。
「なんだぁ、てめぇらぁ!! 急に割って入りやがってぇ!!」
「すみません!! すみません!!」
「つむじぃー!! ここは俺たちに任せろぉー!!」
「??」
一対一に割り込む無粋な輩二人に激昂する実弥。
一方、つむじは状況を飲み込めず立ち尽くしている。これでは実弥にとって格好の的でしかない。
しかしながら、ここ一番の連携を見せる二人が実弥の前進を許さない。
「どけぇ!!」
「いいんですか!!? このままじゃあ取返しのつかない事態になりますよっ!!」
「何の話だってんだぁ!!」
「このままつむじを狙おうものなら、貴方を助平と呼ばざるを得なくなるっ!!」
「はぁ゛!!?」
男三人の激闘を前に置いてけぼりにされるつむじ。
そんな彼女の肩に、そっと手が置かれた。
「つむじ」
「真菰?」
「着替え……行こっか」
「ん」
何処からともなく現れたのは水柱が継子・真菰だった。
得も言われぬ表情を浮かべていた彼女は、一息吐いてからつむじを颱風の渦中から引き連れていく。
「ほんと……どうしようもないなぁ」
呆れたような、それでいて微笑ましいような笑みを浮かべる真菰。
喧騒を背に、花柄の羽織を靡かせる彼女は、束の間の平穏に―――虚実であるものの―――心が温められる感覚を覚えるのだった。
***
風柱の稽古は、最初こそ騒ぎになったものの滞りなく進められた。
しかし、水を差されたことだけには不満を覚えた実弥。彼には尻を叩かれるように送り出された。
こうして凛は、いよいよ目的であった岩柱・悲鳴嶼行冥の下へ赴く。
“痣”を発現させる稽古―――天元には、行冥が執り行う稽古こそが都合が良いと聞いていた。
現柱最強とも謳われる行冥だ。
痣が発現していない柱の中では、彼が最も発現に近い人間だと言っても過言ではない。
彼から得られるものは、きっと多い。そもそも杏寿郎から教え伝えられた反復動作も、元々は行冥が彼へ教えたものだ。
上背のある巨躯を誇り、一見近寄りがたい雰囲気こそ醸し出しているが、柱同士の交流で親しみやすい姿を何度も拝見している。面と向かって痣について聞き出すことも、さほど難しい話ではなかった。
(一体何をするんだろう……?)
期待と緊張が胸の高鳴りを早め、歩を逸らせる。
彼の修行場は山の中だ。滝が流れ落ちる轟音が山中に鳴り響く中、一際
「……」
絶句した。
「ようこそ……我が修行場へ……」
焙られている。
誰が?
行冥が。
これだけでも目を疑う光景であったが、これに加えて、極太の丸太三本に岩を数個ぶら下げた重りを背負い中腰を維持していた。
盲目であるというのになんたる平衡感覚―――と、感心している場合ではない。
(まさか……これ……?)
例え國で雷名を轟かせる横綱でさえ、彼と同じ真似はできまい。
ましてや、筋肉こそついているが体格で劣る凛は尚更だ。
「あ、あの……悲鳴嶼さん」
「どうかしたのか……」
「その……今、悲鳴嶼さんが行ってるのが痣を発現させる修行で……?」
「如何にも……体温と心拍数を上げる修行だ。ただし、あくまでこれは私が個人的に行っている修行……柱稽古はまた別の―――」
「僕も」
「?」
「痣を出したい……と言ったら」
割って入った凛の言葉に口が止まる行冥。
しばし、考え込むように硬直する。その間も微動だにしない体幹にはほとほと感嘆するばかりであったが、真摯な眼差しを逸らすことだけはしない凛。
行冥の周りで赫々と揺らめく炎が、不意に爆ぜたように燃え盛る。
だが、火の粉が眼前を舞い散っても視線を逸らさぬ凛に、行冥が岩のように硬く閉ざされていた口を開いた。
「痣を……か」
「はい」
「……鬼殺隊に入った以上、君も
「?」
首を傾げる凛。
対して行冥は、ツーっと涙を一筋零す。燃え盛る炎の熱で感覚が鈍るが、彼からは悲哀の“熱”が伝わって来た。
―――一体どういう意味なのか?
純粋な疑問と共に、得も言われぬ不安が胸の奥より湧き上がる。
しかし、しかしだ。
「……覚悟なら、元より」
「そうか……しかし、痣を望む以上伝えなければならない事実もある。兎にも角にも、話はそれからだ」
闇しか映さぬ瞳が、確かに自分を見据える。
延々と見つめれば吸い込まれそうなだと錯覚する、強く、それでいて悲しい瞳。
それはこれから彼が伝える“覚悟”に関係するものだ―――そう理解しつつも、修羅道の最深へ向かわんと、凛は覚悟を決めるのであった。
「痣が発現した者は―――」