極楽なんてものは無い。
だけど、俺の下に集う信者たちはこぞって「極楽に導いてほしい」と縋り付く。泣いて、喚いて、嗚咽を漏らして救済を求めてくる。
俺はなんて可哀想な人たちなんだと思った。
そんなものが存在しないことくらい理解できないなんて。
神や仏が御伽噺の話だと分からないなんて。
でも、何百何千と聞かされた退屈な話から
彼らは共通して苦しい身の上で、どれだけ努力をしてみても状況が好転しないどん詰まり。
成程、現世に期待が持てないのならあの世に期待したくなるんだ。俺は賢かったから、子供ながらに思い至っては信者の話に付き合ってあげた。
やれ中々子供ができないんだとか。
やれ借金で生活が困窮してるとか。
やれ商売に失敗してしまったとか。
やれ流行り病で女房が死んだとか。
やれ行きずりの強盗に遭ったとか。
さして内容に興味はなかったけれど、どういった時に人が悲しんだり怒ったりするか参考になった。
ほら、この人たちはせめて話は聞いてもらいたいんだ。
だから俺がしっかり共感して涙している姿を見せるだけでも、御目出度い頭をした彼らは救われた気分になる。これも一つの救済だ。
けれども、死んだら何も残らない。
この極楽を信じている人たちは、実体のない幻想を抱いたまま土に還っていく。
そんなのは
だから俺が救済する。
早々に苦痛に満ちた世の中とおさらばし、永遠の時を生きられる俺の血肉となって生きていくのだ。
死が恐ろしいから―――幸福を得られなかった生を受け入れ難いから、あの世を妄信する。
死の間際に散々言い聞かされてきた「生まれ変わったら」なんて、もう言う必要はないんだよ。
次なんてそもそもないんだから。
死ねば、はい、そこで終わり。
なのに。
なのにだ。
鬼狩りの剣士は、どうしてこうも死に急ぐのだろう?
一度きりの人生だというのに、それを溝に捨てるかの如く無謀な戦いに身を投じては命を散らしていく。
馬鹿だ。なんて可哀想な頭の悪い輩の集まりなんだろう。
師匠を殺した仇?
姉を手にかけた敵?
母親を喰い殺した鬼?
いや、分かる。分かるぞ。
文章から登場人物の心情を書き綴れなんていう問題の解答みたいに、彼らが俺を目の敵にする理由は。
怒っているんだよな? 悲しんでるんだよな? 憎んでいるんだよな?
けれど、死んだものは仕方ない。
ようく考えてみてくれ。死ねば焼かれて灰になる人生に何の意味があるのかと。
それなら誰かに喰われた方がよっぽど意義がある。自然の摂理にも適う。
自然から逸脱しているのは寧ろ人間の方だ。無意味に悼んで涙を流し、心身くたびれていくなんて馬鹿みたいだろう。
君たちが俺を殺しても意味なんかない。
鬼も死ねば灰燼となって何も残せない。
俺が喰らった人々の記憶や証拠さえ残せない。
君の因縁なんて、たかが百年も経てば綺麗さっぱりなくなるものだ。
それの為に人生を棒に振るなんて考え、普通じゃない。
そうだ、君たちは頭が悪いんじゃない。頭が
俺が心の無いがらんどうみたいな言い草をしているけれども、心という歯車のせいで狂っている人間―――
わざわざ地獄を見ようとするんだから。
本当、人間って気の毒な生き物だ。
***
きっかけは、ほんの僅かな光明が見えた瞬間だった。
絶望的なまでに凶悪な血鬼術を持つ鬼の頚を刎ねる好機。戦える者の全てが日輪刀を手に取って、童磨に斬りかかっていった。
しかし、鬼という存在は悪辣だ。
太陽の光を拒むように、一筋の光明でさえ許し難い性質であるらしい。
血鬼術 霧氷・睡蓮菩薩
それが危機に陥った童磨が繰り出した最大の血鬼術。
巨大な氷で模られた観音像が生み出す光景は、地獄絵図と言って差し支えなかった。
圧倒的な質量。今迄の攻撃が涼しいと錯覚する絶対零度の吐息。それらが御子の数だけ現れた出鱈目さ。
その全てが、この場に居る鬼殺隊の面々の心をへし折りかけた。
現に二体の観音像が現れてから童磨を取り囲む陣形は崩壊。無傷の者など一人も残っておらず、いずれも体のどこかが凍り付いているか、鋭い氷花に刻まれた裂傷から血を流している有様だ。
過去に上弦と相まみえた者や、そうでない者でも抱く絶望。
これまで戦った上弦は間違いなく強かった。体捌きや技術、そして血鬼術に至るまでが下弦以下とは別格。
それでも何とか喰らい付けたのだ。仲間と共に戦い、食い下がり、九死に一生を得る場面をなんとか繋いでいき。
が、そうした経験が無意味に思えてしまう現実。
―――次元が違う。
誰もがそう思った。
だが、一人の喝が空気を裂いた。
「絶対に止まっちゃ駄目だ!!! 動け!!! 止まったら死ぬぞ!!!」
刮目し、観音像が紡ぐ冷気の合間を縫って進む凛の声。
氷の観音像が現れてからというもの、部屋の温度は急激に下がってきている。
類まれなる温度感覚故に自らの体温さえも詳細に把握し“痣”を発現させた凛であったが、そんな彼だからこそ即座に理解する
体温維持にはそれだけ体力が居る。複数体との結晶ノ御子との連戦で、既に凛の体は限界に近い。
加えて、圧倒的な制圧力を有する観音像の吐息だ。
一息吹かれれば、それだけで自分たちの命のともし火が消えかねない威力。直撃を免れたとしても足場である橋は凍り付き、足場としての安定さを欠いていく。
何よりも、体温を奪われる。これが不味い。
“痣”は現状童磨と渡り合えるに至る生命線。これを失えば待つのは―――死。
(動け。動け。動け。止まったら最後だ。ああ、心臓が張り裂けそうだ。頭の中が響いてる。手が
血走った眼を閉じ、全身の温度感覚を研ぎ澄ませる。
対となって待ち構える観音像。主を守る門番として立ちはだかるそれらは、童磨の分身である御子によって操作されている。
何度も御子と戦ったからこそ分かる。御子の繰り出す血鬼術は本体と遜色のない強さだ。が、それでも動きがやや単調になるという弱点がある。
加えて、血鬼術で生み出された存在である以上、本体の異変には敏感だ。
(感じる。微かに冷気が薄い場所。やっぱり正確な狙いを付けられていない……!)
一見隙間なく埋め尽くされている冷気の波。
だが、集中すれば強引に突破しても致命傷に至らない
(行け。行くんだ。腕や脚の一本や二本なくなったって構やしない。生きて……勝って帰られれば、他の全部を犠牲にしてでも)
まだ穴に突撃するには拙い。
しのぶが童磨に仕込んだ血―――風柱・不死川 実弥の血と鬼殺隊に与する鬼・珠世の血鬼術から作られた幻惑剤が続く時間は、確実に己の“痣”が消えるよりも長い。
悠長にしている暇もないが、功を急いて仕損じれば全員が死ぬ。
全員が全員の命を背負っている中、自分一人が下手を打つ訳にはいくまい。
自分にとって最期に振る刃になるかもしれないと覚悟を決めた凛は、水が逆巻くような呼吸音を轟かせる。
(ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、流さん。いくら謝っても謝り足りない。貴方はきっと、僕にこんなことをしてもらいたかった筈じゃない。貴方の想いを無下にしてしまうようでごめんなさい……でも)
(どんなに困難な、苦しんで、蹲って、悲しみで打ちのめされそうになる道を進んだとしても。例え、その道の中で生きていられないようなみっともない姿を晒したとしても)
(帰ると誓った場所があるのなら―――!!!)
逆風を激流が裂く。
「!!」
酩酊状態に加え、景色が幾何学な幻覚に苛まれている童磨が目の当たりする姿。
それは観音像の熾烈な猛攻を凌ぐ凛の剣舞であった。
観音像が丸太よりも遥かに太い剛腕を振り下ろせば、まったく刀身を欠けさせることなく受け流し、その剣舞を加速させていく。
少し離れた場所で見遣るしのぶは、そんな凛の繰り出す型に釘付けになっていた。
(
水の呼吸・拾ノ型に“生生流転”という型がある。
一方で、凛の師が開祖である氷の呼吸・零ノ型に“零閃”と呼ばれる型もあり、曰く零閃は水が氷へと移ろう間に誕生した二つの呼吸の特性を併せ持つ特殊な型であった。
前者は回転するごとに斬撃の威力を増していく。
後者は攻撃を受け流した勢いで加速した斬撃を叩き込む。
しのぶは、たった今観音像の攻撃を受け流していく凛の太刀筋に、その両方の型が脳裏を過った。
生生流転とは真逆。
迎え撃つのではなく、受け流すことで斬撃を加速させる凛だけの型。
それこそが水の呼吸・拾壱ノ型―――流。
状況に応じた柔軟な対応力に富んでいる水の呼吸だからこそできる芸当。
だが、表皮に張り付く氷を尻目に踊り狂うのだ。当然強引に氷を引き剥がされた肌は、傷ついていく。すでに裂傷が刻まれていた部位は、凛からさらなる血肉をかっさらっていく。
それでも止まる訳には。
止まれない瞬間が、今だった。
「嘴平君!!! カナヲちゃん!!!」
「「!」」
「後ろに続いて!!!」
「ッ……はい!」
「ぉぉぉおおおオオオっしゃああああああ!!! 任せろおおおオオオ!!!」
獣の呼吸 捌ノ型
奮い立つ伊之助が日輪刀を両手に、観音像の攻撃を受け流していく凛の背中についていく。防御を捨てて敵の懐へ突撃するという単純な型だが、伊之助の優れた触覚感知を活かせば致命の一撃を紙一重で躱すことができる。
猪頭が脱げて露わになった表情からして、血潮が沸騰しそうなほどの怒りに燃えている伊之助。それもこれも全ては童磨の暴露した過去が原因だ。
伊之助の母親・
稀血の中でも特に珍しい鬼を酩酊させる血を浴びた童磨は、上気した顔でケタケタと笑いながら話していた。
『赤ちゃんを抱きかかえた女の子が来たんだよ』
『綺麗な顔でさ』
『置物にいいかなって思ったんだけど』
『俺の善行を盗み見した挙句癇癪起こしてさ』
『嘘つきだなんだと喧しかったなあ』
『最期に逃げた先で赤子を川に落としてさ』
『本当に頭が悪い真似したのがおかしくて仕方なかった』
『不幸な人生だったよね』
『本当に無意味な人生』
『だから、せめてこうして笑ってあげなきゃね』
胡乱な瞳で、楽し気な思い出を語るように。
心なしか、その時の童磨は今日の戦いの最中で最も人間らしい顔を見せていた。
それが伊之助に逆鱗に触れた。
しかし、手痛い反撃を受けた彼もまた満身創痍。
上半身半裸ということもあって、体温はみるみるうちに奪われていく。
(寒ィ!!! 冷てェ!!! でも関係ねェ!!!)
歯が砕けんばかりに食い縛る伊之助は、薄ら笑いを湛える童磨を睨みつける。
「俺様の憤怒に比べたら……こんな氷、生温ィんだよおおおおおおお!!!」
己を奮起させる雄叫びを上げ、猪突猛進する。
「アハハ! 愚かだねぇ。そんな馬鹿正直に真っすぐ突っ込んできたところで来させる訳がないじゃないか!」
笑い上戸となっている童磨が鉄扇を仰ぐ。
すると、観音像の一体が巨大な腕を凛と伊之助目掛けて振り下ろした。直撃すれば一山いくらの肉塊になりかねない質量。掠っただけでも折角加速させた斬撃が死んでしまいかねないだろう。
「凛、進めえええええ!!」
「!」
だからこそか。割って入る人影が一つ。
炎の羽織を揺らめかせ、紅い日輪刀を振り上げる男が、氷の観音像を相手取らんと吼える。
炎の呼吸 弐ノ型
全力の斬り上げが氷の腕に喰い込む。
それにて一瞬止まる動き。
が、直後に鈍い音が響き渡った。
「ぐうううううッ!!?」
決死の覚悟で攻撃を受け止めた燎太郎。そんな彼の腕からは、骨に罅が入った―――否、折れたように生々しく軋む音が鳴ったのだ。
刹那、轟音と共に腕が橋を叩き割った。
舞い上がる砂煙や噴き上がる水飛沫のせいで、燎太郎の安否は確認できない。
だが、凛は振り返らなかった。彼の生存を信じている―――という顔つきでもない。ただ信じるしかないと自分に言い聞かせる壮絶な表情は、頑なに童磨へと向けられていた。
人の足掻く姿を見物にする鬼は、鋭い牙を覗かせてニタニタと笑っている。
「はい、一人おーしまいっ! 呆気なかったね。勢いだけじゃあ勝てないよ! 若気の至りって奴かな? 一時の気分で人生台無しにするなんて馬鹿馬鹿しいねっ!」
畳みかける様な侮辱の言葉。
それらに凛の赫怒が増す―――よりも前に、氷が砕ける音が轟いた。
「腕の一本くらい……なんだッ!!!」
白い靄を切り開く燎太郎。
無事な部分を探す方が困難な血塗れの姿を晒す彼は、見るも無残な左腕を宙ぶらりんにさせつつも、尚も氷の剛腕に食い込んでいた日輪刀を振り切っていた。
あの巨大な腕を破壊するには幅が足りない―――かと思いきや、すかさず燎太郎が蹴りを入れると、自重に耐え切れなくなった剛腕が地に落ちる。
が、御子も黙っているままではない。
敵を沈められていないと分かるや、今度こそ鬼狩りの剣士を潰さんと観音像の御手を振り上げさせた。
「やらせない」
そこへ割って入るつむじが、観音像を操る御子の一体へ肉迫した。
これには御子も燎太郎を撃破する動きから、目の前の敵を迎撃する態勢に移り変わる。死に体の男一人、放っておいても問題はないという童磨の深層心理を反映した自律思考だろうか。どちらにせよ燎太郎への攻撃はあからさまに甘くなる。
一方で、即刻対処すべき敵とみなされたつむじへの攻撃は熾烈を極めた。
血鬼術
御子から伸びる氷の蔓が、つむじへ殺到する。
彼女も無傷ではない。霧氷・睡蓮菩薩が現れてからの攻防の間、体の至る所に赤い血の滴る傷と青く腫れあがった痣を作っている。
それでも尚、絶望的な戦力差を前に焦燥をおくびにも出さない彼女は、尽くせる限りの手を打って出ることに決めた。覚悟した。
風の呼吸 拾ノ型
絞り出せる限り全てを一息に。
嵐が過ぎ去ったかのように、彼女の轍には数多の裂傷が刻まれる。
繰り出した斬撃の余波。迎え撃った氷の破片。切り裂かれた羽織の布切れ。叩き落された暗剣。紙一重で躱した時、すっぱりと斬り飛ばされてしまった髪の一房。
落ちた物は捨て置き、少しでも敵の注意が自分へ向くよう。そして凛が童磨へと集中できるよう御子を倒さんと奮戦する。
刹那、燎太郎の左腕を奪った―――つむじから見て背後に佇む観音像が震動音を唸らせながら動く。
血鬼術
吹雪が迫るような甲高い音。瞬間、背筋に怖気が奔る。
つむじは振り返らない。目にせずとも極寒の冷気が差し迫っていると直感したからだ。仮に振り返ろうものならば、滅殺すべき怨敵を捉える瞳をやられてしまうだろう。
「そんなに色んな武器を持ってるんだなんて凄いね! まるで曲芸だ。でも、惜しいなぁ~。見たところ鬼用の道具だろ? そんなんじゃその子は倒せないよ。それに倒されたところで何体でも作れるんだぜ? 無意味な努力ほど可哀想なものはない。ほらほら、頑張っても仕方ないんだから諦めなよ」
膝を叩いて笑う鬼に「黙れ」と内心毒づく。
―――仕方ない? それは間違いだ。
例えば天災に遭って大切な人を失ったとしよう。それならば自然の中に生きる生命として受け入れられもできよう。
けれども、お前はここに居る。大切な人を奪った張本人のお前がだ。
超常的な存在をいくら憎もうとも手は出せない。
だが、お前はここに居る。生きている。骨に穢い肉がこびり付き、ねじ曲がった根性のように絡まり合う血管が血を巡らせ、その不快な鼓動を鳴らしているのだ。
目の前に居る―――お前が鬼狩りに狙われる理由など、それ以上必要ない。
賢そうに振舞っているが、奴は馬鹿丸出しだ。
頭が回っているならば、自分が手にかけた生き物が、その同類がどのような真似をするかなど予想できるだろう。
獣でさえ捕食者に牙を剥くのだ。それ以上に情緒に富んだ人間が、どうして歯向かわないと思えたのか不思議でならない。
人とは、必ずしも生きる為に命を屠るのではない。
心が―――魂が発するがまま、剥き出しの感情を曝け出すからこそ、時にその手を血に染める。
(今!)
手あたり次第の道具を使い込み、やっとの思いで射程距離に入るつむじ。
蔓蓮華も中距離以上に離れた敵に有効な血鬼術だ。至近距離まで詰められた場合、思うような効果は期待できない。
血鬼術
だからこその範囲攻撃。
鳥肌が立つ鋭利さを誇る氷花が、波となってつむじへ押し寄せる。
対して彼女は、懐から日輪銃で弾幕を張りつつ、懐から黒色の物体を放り投げた。
それは弾丸に穿たれてできた穴を潜り抜け、御子の目の前へと躍り出た。
「ッ……!!」
針の穴を狙うような標的に狙いを澄ませるつむじだが、引き金を引くと同時に捌き切れなかった花弁が押し寄せてきた。
片腕で日輪刀を振るうも、物量差が激しい。
敢え無く腕からは血飛沫が舞う。皮は当然のこと、筋肉やその奥に埋まっている骨にまで到達するような裂傷を負った。
つむじは苦悶の表情を浮かべる。
しかし、情けない声を出したくないと言わんばかりに歯を食い縛る彼女は、僅かなずれもなく投擲した物体を撃ち抜いた。
瞬間、爆音と共に御子が弾け飛んだ。
“痣”を発現した凛でさえ全力を込めねば斬れなかった氷像をだ。
(鉄火松……良い仕事する!)
それは日輪銃同様、日輪刀の原材料を火薬と共に詰め込んだ手投げ爆弾。
本来導火線に火をつけ、頃合いを見計らって投擲する手順が正しい使い方だが、今回は一秒すらも惜しい状況だったが故に撃ち抜いて着火した。
日輪刀と同じ原材料を使っていることから鬼にも効果覿面との談であったが、想像以上の戦果だ。爆発する瞬間、飛び散る鉄の破片が
兎にも角にも、間もなくして背後の観音像が崩れ落ちていく。童磨でなく御子が主導権を握っていた個体故の結果だ。
「燎……太郎……」
襤褸雑巾となった両腕から血を滲ませるつむじは、朦朧とする意識の中で名前を口にし、足を引き摺って行く。
腕に力が入らない。というより、人体の構造上力を入れられないほどに筋肉や靭帯に深手を負ったのだ。幸か不幸か、傷を負わせたのが極低温であった為か、傷口が凍り付いて出血は少ない。が、早急に処置せねば凍傷のみならず壊死は必至だ。
しかし、傷ついた者を手当てする時間さえ、今は惜しい。
(こいつを……今はこいつだけを!!!)
吐き出す息は白く輝く。
彼が飛び込むのは吐息の水分が瞬く間に凍り付く極寒。
残る一体の観音像とそれを操る御子の攻撃を受け流す彼は、最早後ろに付く伊之助でさえ視認できぬ速度で刃を煌かせる。
銀と青。氷と水。二つの呼吸を併せて振るわれていた日輪刀であったが、既に
(まただ。刃が
未だ幻惑に苛まれる童磨であったが、その眼で確と目に焼き付ける。
(無惨様と戦った剣士と同じ―――赫刀)
赫く染まり上がる日輪刀。
原理こそ知らない童磨だが、鬼としての本能が警鐘をかち鳴らす。
迂闊に近づかせるのはまずいと残る観音像を前へ繰り出す。
が、巨腕より突き出された掌は赫刀を前に呆気なく両断された。しかも断面から氷の腕を修復させられないではないか。いや、徐々に水分を収束し再生こそしているが、凛の速さを前には間に合わないというのが童磨の見立て。
(いや……睡蓮菩薩の再生が遅いのか。一体どういう絡繰りかな?)
それ以外にも要因はありそうだ。
が、推測ばかりしている彼ではない。
血鬼術 結晶ノ御子
二体の内、一体はつむじに倒された。
残る一体は睡蓮菩薩を操る制御の役目を担っている。倒されてしまえば、一気に自分の守りが手薄になってしまうことを理解した童磨は新たなる御子を生み出した。
一、二、三、四、五―――総勢六体、恐るべき力を有する御子の群れが、童磨を守る陣形を作り上げる。
(まだあんなに……!?)
酩酊している状態ならば、と抱いていた希望も露と消えるような光景。
息を飲むカナヲは、寒さだけが理由ではない震えを押し殺して日輪刀を握り直す。
(しのぶ姉さん。カナエ姉さん。アオイ。きよ。すみ。なほ。皆の心配を無下にするようでごめんなさい)
心の中で紡ぐ謝罪。
次の瞬間、見開かれた彼女の瞳は紅く染まり上がっていた。
花の呼吸 終ノ型
元より秀でた動体視力を極限まで高めるカナヲの切り札。そして己から光を奪いかねない諸刃の剣である。
酷使される視神経。
しかしながら、それまでカナヲでさえ把握するだけで精一杯であった凛と敵の攻防をはっきり捉えられるようになった。
凄い。ただその一言が脳裏を過る。
そしてそれだけの力を得るに至った理由を推し量り、胸を締め付けられるような感覚を覚えた。
彼の強さは悲しみの裏返し。決して帰ってこない故人との本懐を果たすが為、研鑽を続けてきた結果。
(
強くなれる理由は、確りと胸に刻んでいる。
各々の心が燃え盛る中、頃合いを見計らったかのように赫刀で観音像の頚を刎ね飛ばす凛。
巨体を飛び越えて進む三人を待ち構えるのは、六体の御子と本丸である童磨である。
ここで滅殺せねば敵の凶刃は他の剣士を襲うだろう。
殺るのだ、確実に。
今、ここで。
不退転の決意を胸に日輪刀は構えられ、一息に肉迫する三人。
凄まじい気迫だ。遠目に見るだけでも肌が粟立つ怖気が全身を駆け巡る童磨は―――嘲笑した。
「飛んで火にいる夏の虫ってやつだ! 頭が悪いと可哀想だね。自分の死に様も想像できないんだから」
童磨が言葉を紡ぎ終えた瞬間、御子がその手に握る対の扇を振るう。
ただ一言。圧倒的だった。
視界を埋め尽くす冷気の波が三人に向かって押し寄せる。いくら“痣”を発現し、赫刀までをも携えた剣士と言えど、これだけの物量を一度に捌けるはずがない。
共感性に致命的な欠陥がある童磨だが、本人が認めるように頭は回る方だ。例え常人なら催す吐き気で立つことさえままならぬ酩酊状態でも、現状における最適解に近い答えを導くなど造作もない。
―――
「ありがとう、しのぶさん」
細やかな謝辞が木霊のように紡がれた。
直後、徐に懐から取り出すや蹴り上げた物体を両断する凛。それはしのぶから受け取った鞄だ。
中身から赤い物体、否。液体が撒き散らされる。
それらは押し寄せる冷気に触れて凍る―――ことはなかった。
寧ろ、逆。
部屋中を紅蓮に染め上げる閃光を瞬かせたかと思いきや、辺り一面に真紅の炎が広がっていく。
(炎? さっきの女が使った爆弾みたいなものを……)
「―――違いますよ」
思案を巡らせる童磨が見当違いな憶測を立てていると察したしのぶがほくそ笑む。
(それは禰豆子さんの血鬼術―――“爆血”。お前の腐り切った細胞を燃やし尽くす浄火ですよ)
珠世との合同研究の折、味方となっている鬼の血鬼術を何とか使えないものかと模索した結果の品。
浅草で鬼にされた男性に始まった研究は、血液が媒体となる珠世と禰豆子の血鬼術に目を付けたしのぶは、二人の血を用いた道具を作っていたのだった。
珠世の血鬼術“惑血”と実弥の稀血を混ぜた幻惑剤は使ってしまった。
残っていたのは鬼だけを燃やす特性を持つ禰豆子の血鬼術“爆血”を利用した焼夷弾。那田蜘蛛山にて累の糸を焼き切った戦果を残した威力は凄まじかった。
冷気と拮抗すること数拍。
鬼でない三人は、冷気を押しのける炎の尾を引きながら童磨たちの前へ降り立った。
「おおおおお!!!」
一閃。
赫刀が二体の御子の胴体を泣き別れにする。
「うっ……!」
そのまま視線を滑らせる凛と怨敵の視線が重なった。
生まれて始めて気圧される童磨。その感覚に困惑しつつも反撃は繰り出す。二体の御子に“寒烈の白姫”を繰り出させ、自身は後ろに下がる。
「逃がすかああああああああああああああ!!!!!」
血反吐を吐きながら絶叫する凛は、広範囲の冷気に対し真正面から突っ込んでいく。
これが一方向であったならば兎も角、少なくとも三方向からの攻撃。
案の定、一体の御子を斬り飛ばした凛の右腕は吹き付ける冷気によってみるみるうちに凍り付いていく。
「おぉ!? おまッ……」
「構うな!!!」
愕然とする伊之助を一喝するや、
―――それは修羅の道だ。
不意に流の言葉を思い出す。
―――地獄を見ることになる。
何気ない会話の一幕。
―――だが、その道の先でお前は……國一番の剣士となっているだろう。
優しい笑顔が、脳裏に蘇る。
(流さん……僕に勇気をッ!!!)
これ以上なく
狙うは童磨。一体の御子が割って入るが、それが何だ。
「童磨あああああアアアアアッ!!!!!」
赫刀より繰り出される刺突は、御子を、そして童磨の頚を貫き、彼らの体を背後の観音像に縫い付ける。
「ッぅぅぅうううん……効くねぇ!! こんなに
喉に襲い掛かる焼かれる苦痛。
ややもすると人間の身であったなら痛みで即死してしまいそうな攻撃だった。
しかし、彼の舐めるような視線が釘付けとなっていたのは、眼前の鬼狩りの頚だ。酩酊している上であれほどの速さで動き回られていた時は狙いもつけられなかったが、これだけ接近され、尚且つ一瞬でも動きが止まったなら話は別だ。
鋭い対の鉄扇が凛に振り下ろされた。最後の一体となった御子もまた、彼の背後から不意を突こうと飛びかかっている。
(終わりだよ)
もう片方の凍った腕では刃を振ることもできない。
つまり彼は差し迫る挟撃に対し、為す術がない。
―――たった一人であったならば。
耳を劈く轟音。刹那、凛の背後に居た御子の頭部が弾け飛び、あえなくそのまま吹き飛ばされた先の水面に沈む。
馬鹿な、と視線が向けられた先に佇んでいたのは半死人の鬼狩りが二人、寄り添う姿。
「ぜぇ……ぜぇ……!! 良い狙いだ、つむじ……!!」
「げほっ! はぁ……
「馬鹿言え!!
血みどろの燎太郎とつむじ。
片や左腕が挽肉となって眼球も凍らされており、片や両腕が箸さえ持てぬ襤褸雑巾となっている状態。
だが、辛うじて右腕が無事だった燎太郎が日輪銃を構え、彼の肩に顎を乗せるつむじが照準器代わりに狙いをつけていたではないか。
(人間ってのはどこまでも……)
しかし、問題はない。
挟撃が水泡に帰したところで、眼前の敵に対処する手段はないと高を括る。
どちらにせよ柄から手を離した凛が、
「は?」
思わず間の抜けた声が出た。
が、次の瞬間にはその場で円を描いた凛が、童磨に突き刺さったままの日輪刀を逆手で握り直し、残る力を絞り出すように刃を滑らせた。
(おかしいだろ。頭が狂ってる)
心の底から抱いた感想。
人は腕を失ってもまた新たに生えてくることはない。
血を失ってもすぐに体中に満ち満ちることもない。
なのに、何故だろう。
失うことを何よりも恐れている愚図で阿呆な弱者が、どうしてこうも己の血肉を切り捨てられるのは。
どんなに答えを導こうにも、それが「鬼狩りが異常だから」との理由しか思いつかない童磨は、斬り飛ばされた腕の断面を見つめる。頚に突き立てられていた刃を斜め下に振り抜かれた際、赫刀に成っていた日輪刀で斬られたのだ。再生もままならず、断面からは止めどなく血が溢れ出す。
(命が惜しくないのかなあ? 親からもらった体が大事じゃないのか?)
とうとう力尽き、氷が張り巡らされる地に這いつくばる凛。
しかし、倒れる寸前までの間に童磨を睨みつけていた彼は鬼の如き形相を浮かべていた。
そんな彼に続き、二人の剣士が現れる。
今にも泣きだしそうな悲痛な面持ちで。それを一瞬の間に戦意へと変換してみせた伊之助とカナヲは、血の轍を踏み越え、倒れた凛の前へ躍り出る。
「おおおオオオッ!!!」
「はあああああッ!!!」
交差する刃が童磨の頚へ叩きつけられる。
単純計算で二人分の腕力がかけられているはずだが、それでも手負いの鬼の頚を刎ね飛ばすには至らない。
「伊之助!!! もうちょっと!!! もうちょっとだから踏ん張って!!!」
「わぁってるんだよおおお!!! ちくしょうがあああああ!!!」
童磨の背後―――荘厳な佇まいで構える観音像の吹き付ける冷気が、二人の腕を凍り付かせ、斬撃の勢いを鈍らせていた。
立ち位置の関係上、童磨も巻き添えを喰らっているが、あとで再生できると踏んでの攻撃だ。今は頚を斬られないことが何よりも優先されるべき事由。
だがしかし、絶対零度を切り裂いて刃を後押しする応援が飛来した。
「やれェ、伊之助ェ!!!」
「カナヲ!!!」
燎太郎とつむじ。
またもや死に体を晒しながらの共同作業で日輪銃を撃った彼らは、正確無比な狙いで刃に弾丸を着弾させる。
一瞬。ほんの一瞬であるが、日輪弾が日輪刀に触れた瞬間、童磨の頚に突き立てられていた刃が赫く発色し、それまでが嘘であったかのようにするりと肉に滑り込む。
(あぁ―――俺)
頚に走る衝撃。そして痛み。
世界が反転し、頚から上がなくなった自分の体が視界に映った。
(死ぬんだ。こんなに呆気なく。あんなに人の為に尽くした俺が)
ゴンッ、と頭蓋に震動が響いて間もなく、体が崩れ始める感覚を覚える。
(やっぱり感情なんて夢幻だったなあ。死ぬ間際だってのに―――)
そう己の人生を回顧しようとした童磨であったが、不意に彼の瞳に刃が突き立てられた。
細身の刀身。頚を斬るのに適した形状ではない特殊な日輪刀は、まさしくしのぶの愛刀であった。
「死ね」
淡々と言い放つ。
「死ね」
凄絶な顔つきで吐き捨てる。
「死ね」
足で踏みつけにして刃を引き抜き、もう一度全力で突き立てる。
「死ね……死ね……死ね……死ね……死ね……死ね! 死ね! 死ねッ! 死ねッ!! さっさと死ねェ!!!」
何度も何度も突き立てては、紡がれる声に怨嗟の情が帯びていき、やがて喉が裂けんばかりに叫び声を上げられた。
血飛沫が舞う度に、残された観音像はバラバラと崩れ落ちていく。
ガラガラと。置き土産に伊之助やカナヲを殺すべく振り上げられた手も、鈴の音のように甲高い音を奏でて砕けた。
「ざまあみろ!!! あんたみたいな奴は死ぬのが当然の報いなのよ!!!」
大粒の涙に濡れるしのぶは絶叫する。
怒りが、恨みが、憎しみが、悔しさが。
ありとあらゆる負の感情こそが、彼女の表情を彩っていた。
童磨の目には、そのような血化粧の施された顔は、酷く幼く、そして艶やかに見えた。
「あんたなんか!!! あんたなんか!!!」
最後、頭部の原形もなくなった肉塊の前でへたり込む。
自分の血か鬼の血か。どちらか分からないほどに汚れてしまった彼女は、血溜まりの中で声を絞り出す。
「あんたなんか……死んでたって生きてたってどうでもいいのよ……!」
蝶の髪飾りと共に、髪が解けてしまうしのぶの本音が静寂に零れ落ちた。
失ってから気付く幸せにしても、奪われた平穏はあまりにも大きい存在だった。世界は無情に広がり、残酷な現実を自分に突きつけ、何度も何度も打ちのめすに事欠かないのだから。
「どうでもいいから……私から……何も持っていかないで……返してよ……お父さん……お母さんを……!」
少女の心は、少女のままだった。
ただ父を、母を、姉を、家族皆を愛する蝶よ花よと育てられた無邪気な女の子。
これ以上、手に入れた幸せを失いたくはなかった。柱となり現実を突きつけられる立場においても、その想いは依然変わりなく。
そんな彼女を前にし、血溜まりに沈む
「―――あはっ。なんだろう、この気持ち」
―――腹の虫がおさまらない。
「とってもいじらしいなぁ……今の姿。これが胸のときめきって奴かな!」
―――さっさと消えろ、塵虫が。
「すっごく可愛いよ、しのぶちゃん。そんなに汚れちゃってるのに、涙も流して怒った顔も素敵だ」
―――虫唾が走るのよ。
「ねえ、しのぶちゃん」
―――何も残せないあんたが。
「家族が恋しいなら、俺と夫婦になってみない?」
―――私から、全部奪っていこうとする欲深さが。
「とっととくたばれ、糞野郎」
赫怒の瞳を浮かべ、最後の最後まで狂言を口にしていた童磨を踏みつける。
ぐちゃり、と水分を含んだ肉が潰れる感覚が響くも、しのぶはその不快感をおくびにも出さなかった。かといって清々しい面持ちを湛えることもなく、水を打ったように静まり返る。
その表情は冷徹そのものであり、灰燼と化して消えて行った童磨を見ても尚、何の感慨も感じていない冷めた目つきを浮かべるばかり。
だが、一文字に結ばれた口元だけは誤魔化せない。
慙愧の念に肩を震わせる少女が一人、凍える部屋の中、唇に血で紅を引いた。
「大丈夫……大丈夫よ、しのぶ……」
「しのっ……師範……」
「……ごめんなさい、少し取り乱しました」
眩暈を覚えるかの如く足取りが覚束ないカナヲの声に、しのぶははにかんだ。
「カナヲ。貴方の目を診たい気持ちは山々ですが、今は後に回させてください」
「と、当然です! 私なんかより……!」
「『私なんかより』、なんて言わないで」
「っ……!」
「生きてくれてありがとう、カナヲ。お礼は全部が終わってから」
「……はい!」
「伊之助君も手伝ってください! 早く三人をこの部屋から運び出します!」
「おう!! 力仕事ならバリクソ任せろォ!!!」
極寒の中、倒れた三人を捨て置いてはおけない。
例え生存が絶望的であったとしても、恥や外聞をかなぐり捨てて素を曝け出したのだ。今更見捨てて無惨の下へ……など、しのぶにはできなかった。できるはずもなかった。
(氷室君……明松君……東雲さん……貴方たちは助けます……助けてみせます……! だから……)
―――死なないで。
祈りを胸に、しのぶは馳せた。
***
花畑に居た。紅い花が咲き乱れる、何とも美しい光景のど真ん中。
「ここは―――」
凛は一人立ち尽くしていた。
意識がなくなる直前、自分は童磨と戦っていたはずだ。
悪夢のような強さを誇る悪鬼。叶うことならば出会った瞬間から、全てが夢であったと願うほどの存在だ。
斯様な鬼を前に一矢報いはした。
倒せたかどうかまでは分からない。が、きっと後ろに続いてくれた者たちが倒してくれていると信じているからか、凛の表情は穏やかだ。
「少し……寒いかな」
一陣の風が肌を撫でる。
しかし、寒風ともまた違う。どこか清々しい爽やかな冷涼感。
導かれるように視線を移せば、目の前には川が広がっていた。
「あ……」
息を飲んだ。
対岸の向こう。自分と彼を大きく隔てるせせらぎの先に佇む人影を目の当たりにして。
「あっ……あぁあ……ぁぁああぁぁああぁぁあああ……!!」
堰き止めていた感情が決壊するように溢れ出した。
会いたかった。どれだけ会いたくとも会えなかった―――そして会う訳にはいかない男が居るのだから。
「流……さん……!」
「―――凛」
伴田 流。
その男が微笑みをこちらに向けていた。
「流さん! 今、そっちに!」
「来るなっ!!!」
「うっ……!?」
しかし、次の瞬間に響き渡る一喝が、水面に腕を浸けた凛の足をぴたりと止める。
すると穏やかだった川の流れは、それまでと打って変わって轟々と荒れる激流と化した。
流れに取られた腕は、いとも呆気なく流れに掻っ攫われていく。
そうして腕を失った凛は、痛みと―――忘れてはいけないものを。このまま置いていってはいけない人々を思い出す。
「……皆」
「そうだ、お前の帰りを待っている。燎太郎も、つむじも、しのぶも、カナエもだ」
「帰ら……なくちゃ……」
「それでいい。ここに長居してはいけない」
流が居るということは、この場は即ち
何故気付かなかったのだろう―――そのような無粋な疑いなど、彼の姿を見れば明らかなのは言わずもがな。
キュッと唇を噛み締める凛は、そのまま踵を返し立ち去ろうとした―――が。
「流さん!!! やっぱり駄目だ!!! 聞いてください!!!」
言わずには居られない。
告げずには帰れない。
再び流に向かい合った凛は、大粒の涙を目尻に拵えながらあらん限りの声で叫んだ。
「本当に……本当にありがとうございました!!! 僕は!!! 氷室 凛は伴田 流と出会えたことを誇りに思います!!!」
「凛……お前という奴は」
「しのぶさんやカナエさん……超屋敷の皆と出会えたのも!!! 燎太郎やつむじと仲良くなれたのも!!! 煉獄さんのところで強くなれたのも!!! 全部……全部が貴方が居てくれたおかげです!!! 楽しかった思い出も!!! 苦しかった思い出も!!! 今では全部が愛おしいんです!!! 恋しくて堪らないんです!!! 貴方と共に居た時間が!!!」
「っ……」
「だって貴方は……僕の恩人で、師匠でっ……兄や父親みたいに大きな背中を見せてくれた人だったから!!! 温かくて大きな手で頭を撫でてくれたからっ!!! 僕、絶対に忘れません!!! 貴方が生きた証を!!! 國一番の剣士になった人のことを!!!」
―――涙でくしゃくしゃとなった顔は、何ともみっともない姿だったろう。
それでも湧き上がる感情は止めどなく心から喉へ、そして口を通して彼へと届けられた。
「ああ……あと、あとっ……!!! いっぱい話したいことがあるんです!!! 流さんの真似をして水の呼吸を覚えたこととか、そのおかげでたくさんの人を助けられたこと!!! 燎太郎がつむじのことで相談してきたりとか、つむじも他の友達を作って食べ歩きに出た話も!!! 流さん、僕……っ!!!」
「凛」
澄み渡る声。
「幸せになれ」
柔らかな風が、彼岸の花を舞い上げる。
彼の姿は華々しい紅い幕に覆われるように消えていく。
「流さん!!! 僕は……―――貴方と出会えて幸せでした!!!」
嘘偽らぬ言の葉。
穏やかさを取り戻したせせらぎの先からは、微かに息を飲む音が聞こえた。
それから花の幕が開かれることはなく、凛の視界を埋め尽くした。
程なくして感じるのは鉄の匂い。
そして、その先には―――仄かな藤の花の香りが在った。
*拾章 完*
*余談*
・氷の呼吸 拾壱型
氷の呼吸において凛が編み出した型。舞うように刀を振り回す様は、さながら巫女が神楽を踊るかのような光景。実際には流の遺した情報から童磨の血鬼術に対抗するべく、斬撃の風圧で結晶化した氷の粒を振り払うという、まさに童磨に対抗するための型。
「白姫」とは冬を司る女神。「散華」とは花を撒いて仏を供養すること。
・氷の呼吸 拾弐ノ型
氷の呼吸において凛が編み出した型。氷の呼吸の型全てを繋げ連撃として叩き込む氷の呼吸集大成とも呼べる大技。本来、一つ一つの型にタメがあって型から他の型へ続く連撃を繰り出すことに向いていない氷の呼吸であるが、水の呼吸を併せることで得られる柔軟性と、それ以上に絶え間ない鍛錬を積んだ凛によって成立する奥義。
「極月」とは12月、「愛日」は冬の日光、あるいは時間を惜しんで父母に孝行することを意味する。加えて12月は「師走」とも呼ばれ、その語源に師が走りまわる、または「
・水の呼吸 拾壱ノ型
水の呼吸において凛が編み出した十一つめの型。攻勢に出る生生流転とは逆に、敵の攻撃を受け流すことで回転を増していき、斬撃の威力を高めていく”守”の生生流転とも呼べる型。その性質は水の呼吸 拾ノ型 生生流転と氷の呼吸 零ノ型 零閃の間に位置するものであり、水の呼吸を会得するに至った理由でもある恩師・流に対する餞の型として編み出した経緯もある。