カナエに案内されてやって来たのは、蝶屋敷に併設されている訓練場であった。
なんでも、鬼との負傷で長期間休んでいた隊士が体の感覚を取り戻すための訓練に用いる場とのこと。鬼との戦いは一瞬が生死を別つ。鈍った体で戦地に出す訳にはいかないという訳だ。
「それで僕は一体何をすればいいんでしょうか?」
「まずは柔軟で体をほぐすの。それからしのぶとの鬼ごっこよ」
「鬼ごっこ?」
カナエが目配せした先に佇むのは、凛が蝶屋敷で起きて初めて目にした少女であった。
ほんわかしたカナエとは裏腹に、少々険が刻まれた顔つき。
(なんで怒ってるんだろう)
機能回復訓練に入る前から苛立っているしのぶに、やや怯える凛。
一方しのぶはフンと鼻を鳴らしつつも、「早く済ませましょう」と凛を敷布団の上に導く。
特にいやらしいことを考えていない凛ではあるが、世間に疎い凛の目から見ても美少女であるしのぶに体を触れられ、自然と鼓動が高鳴ってしまう。
だが、しのぶに至っては異性の体に触れることに一切恥じらいを見せることもなく、手慣れた様子で準備を整えた。
「じゃあ、これから凝り固まった体をほぐします。痛かったら言って下さいね」
「はい」
たかが柔軟だろう。そう思ったのも束の間、激痛が体に走る。
「イータタタタタタタァッ!!?」
「痛かったら言ってくださいねー?」
やや弾んだ声音のしのぶが、一層強く凛の背中を押す。
グイグイ、グイグイと。
それにより、股間が今までに鈍い音を奏でる。
このままでは体が折れるのではないか? ―――そのような危惧を覚えた凛は叫びまくる。
「いたたただだだだだだ!! 痛いです痛いです!!」
「そうですか。我慢してください」
「えぇ!? 特に何もないんですか!?」
「痛かったら言って下さいとだけしか言ってませんよ」
「確かに!!」
なるほど、これは一本取られた。と、思うはずもない。
始めに与えられた希望を踏み躙るように、一切手心が加えられない柔軟が凛の体に襲い掛かる。
しかし、これを乗り超えなければ次の訓練へ進むことはできない。
必死に情けない声を上げるのを我慢しようとする凛―――であったが、その度にしのぶの込める力が一段と強まる。そして、我慢していた声が漏れてしまうのだ。
「頑張ってください、氷室くん! もうちょっとですよ! はい! そーれっ! そーれっ!」
「はぎぃ!」
しのぶが楽しそうにしているのは、きっと幻覚ではない。
ふと視界に入ったカナエが、居た堪れないような、それでいて申し訳ないような面持ちを浮かべているのを目にし、凛はなんとなく「ああ、そういう子なんだ」と諦めるに至った。
そうしてしのぶによる地獄の柔軟運動が終わった凛は、カナエの言った通り鬼ごっこへと移る。
相手は勿論しのぶだ。
しかし、柔軟運動とは違い一方的にやられるだけではない訓練である。それだけでやる気がみるみる溢れてくるというものだ。
(一泡吹かせてやるぞぉ!)
柔軟運動の恨みを晴らすべく、凛は走った。
そしてボロ負けした。無念。
「ぜぇー! はぁー! ぜぇー! はぁー! ぜ、全然……追いつけない……!」
「ふふんっ」
床に這いつくばるように倒れる凛を見下ろすしのぶ。したり顔を浮かべた彼女は、鼻も鳴らして随分と気を良くしているようであった。
滝のように汗を流す凛に対し、しのぶの顔は涼し気だ。
ほんのりと額に汗が滲んでいるだけであり、さも「このくらい準備運動です」と言わんばかり。
(なんか……憂さ晴らしに使われてるような気が……)
明らかに訓練前よりも気分の良いしのぶに、自分が使われているのではないかという疑問を覚えることを禁じ得ない凛であるが、敗北は覆しようのない事実だ。
どうすれば勝てるのか。悶々と悩みつつ、次にカナエに提示された訓練は、湯呑に入った薬湯を相手に掛け合うというものだった。湯呑を持とうとした手を相手に抑えられたら、その湯呑は持ち上げてならない。そうした条件の下、いざしのぶとの対決へ。
結果は―――これまた惨敗であった。
全身薬湯臭くなるまで湯呑の中身をぶっかけられた凛は、完全に意気消沈していた。
一方、しのぶはこの上なく楽しそうにニコニコと笑顔を浮かべている。
「あらあら、びしょ濡れですね。まあ、まだ起きたばかりですもの。体に痺れが残ってるんじゃあ、私みたいなひ弱な女子に負けるのも致し方ありません。そうそう、し か た な い 、ですもんね!」
「……くぅ……」
煽られている。バンバン煽られている。
だが、言い返す言葉もない。頬には薬湯とは違う雫が一筋伝う。
苦渋を味わう凛であったが、ここでようやくカナエが割って入る。
「こら、しのぶ。そうやって相手を傷つけるような言葉遣いはやめなさい」
「はーい」
「ごめんなさいね、氷室くん。でも、言葉で説明するより実際に体感してもらった方が早いと思って」
「は、はい……」
手拭いを渡された凛は、薬湯だらけの体を拭きつつ、カナエの言外の意図をなんとなく察した。
「これが柱の人たちの体温が高い理由につながるんですか……?」
「その通り! 全集中の呼吸・常中って言うのよ」
「常中……?」
「四六時中全集中の呼吸を行うことで、基礎体力が飛躍的に上昇する技術……身につけるのは大変だけれど、これを体得してるか否かでかなり動きに差が出るの」
「はぁ~、なるほど……」
チラッとしのぶを一瞥すれば、またもや鼻を鳴らした彼女がしたり顔を浮かべる。
育手の下で訓練していた期間であれば、普通の剣士よりも大分長い凛ではあるが、それでも年の離れていない―――それも一般的に男よりも力の劣る女である―――相手に完敗したとなれば、全集中の呼吸・常中によって得られる力がどれだけ凄まじいものか理解できるだろう。
(全集中の呼吸はたくさん酸素を体に取り込んで血の巡りを良くする技術……そっか、それをいつもやってるなら、体温も高い訳だ)
柱の体温が高いことにも合点がいった凛は、呼吸も大分整ってきたところで、頬を叩いて気合を入れる。
「分かりました! いつも欠かさず全集中の呼吸をすればいいんですね!」
「そう。でも、簡単なことのように思えてとっても難しくて大変なことよ。肺も急に大きくはならないから、呼吸を続けられるだけの肺活量は地道に鍛えていくしかないの」
こればかりは近道はない。いや、何にしても言えることだが、結局のところ努力は地道に積み重ねていくしかないのだ。
柱も最初は何もできなかった。それでも気の遠くなるような時間と、血の滲む努力を重ねて今の立場に座しているのである。
少しでも彼等と同じく―――大勢の人を守れるようになりたいのであれば、時間は幾らあっても足りない。どれだけ早く始めても遅いのだ。
よし、今からでも始めよう。
そう意気込んだ凛であったが、
「無理よ、姉さん」
酷く冷めた声が響いてきた。
「その人にはできやしない」
「しのぶ!」
凛の気概をへし折るようなしのぶの一言に、穏やかな口調であったカナエの語気も強まる。
「どうしてそんなこと言うの? やってみなくちゃ分からないじゃない」
「
場の空気が凍てつくのを、凛は肌で感じ取った。
しのぶの体迸る熱からは、怒りや悲しみ、悔しさといった複数の感情が入り乱れていた。心なしか彼女の瞳は濡れている。ゆらゆらと揺れ、今にも零れ落ちそうなものをその瞳にやっとの思いで押し留めている。
「私を見て言ってるの?」
「しのぶ……」
カナエもまた得も言われぬ面持ちでしのぶを見つめる。
しばし見つめ合っていた姉妹であったが、
「……もういい。勝手にして」
しのぶが踵を返し、訓練場を立ち去っていった。
場に残るのは言葉を発するのも憚られる重々しい雰囲気。
困惑して身動きの取れない凛に対し、申し訳なさそうにカナエが振り向く。
「ごめんなさい、氷室くん。変な空気にしちゃって」
「い、いえ……」
「とりあえず今日はここまでにしておきましょ。本格的に常中の訓練をするのは明日からで」
「はい!」
せめてもと溌剌とした返事をする凛。
すると、
「氷室」
「はい?」
訓練場の端で眺めていた流がやっと口を開いた。ここまで完全に気配を消していた彼であるが、わざわざ声をかけてきたということは、何か用事があるのだろう。
「顔を貸せ」
「は、はい」
端的な呼び出しだった。基本的に表情が変わらない能面づらの流だ。ただ呼ばれただけにも拘わらず、威圧感がそれなりにある。
だが、特に怒っているような熱は感じないため、カナエに見送られていることもあって安心して流の呼び出しに応じた。
そのまま二人は訓練場を抜け出し、人気のない蝶屋敷の庭まで歩いてきた。
花の香りに包まれるのは心地よい。先ほどまでの重い空気が嘘のようだ。
「……お前はなぜ鬼殺隊を志した」
「え?」
凛は流の問いを理解しかねた。いや、言葉通りのまま受け取るのであればさほど悩まなかっただろう。
しかし、流の言葉の奥にはもう一つ―――別の意味が隠れているような気がした。
(何を話そう……回りくどいのもあれだし正直に話そう)
だが、意図を測りかねて答えあぐねるのは性に合わない。
「―――人を守りたいと思ったからです」
「……そうか」
「でも僕の場合はちょっと志すまでの経緯が特殊と言いますか……まず、僕は鬼になった母親の胎から産まれたんです」
「……なに?」
「産まれてきた僕自体は普通に人間として生まれたんですけどね。家族は……鬼になった母親に喰い殺されたと聞いています」
「……そうか」
「だけど、鬼になっても母親は産まれた僕を抱きしめてくれていたって……最期には人の心を取り戻していたって聞いたんです。例え鬼にされたとしても、完全に人の心を失うことはなかった……確かに僕に愛情を抱いてくれていた」
全ては育ての親である育手から聞いた話であるが、疑うつもりは一切なかった。
愛されていると信じたかった。愛し育ててくれた育手の言葉も信じたかった。
浪漫的と言われようが、育手から全てを聞いたその日から、凛の中にはとある信念が生まれたのだ。
「だから僕は、鬼になってしまった人の…その中にある人の心を守りたい。鬼から鬼じゃない人を守るだけじゃなくて、確かに人として生まれた
体が鬼。それだけで醜い鬼として滅殺するのは間違っている。
彼等の心に一片でも人の心が残っているのであれば、鬼であったとしても、最期は人として介錯したい―――そうした想いで凛は鬼殺隊を志した。
その旨を聞いた流は、数秒沈黙する。
光を失ったはずの瞳が自分を射抜く。見えていないのに見られている。これまた妙な感覚だとこそばゆさを覚えていると、今度は瞼を閉じた。
すると、顔に刻まれた痛々しい傷跡を指でなぞり始めた。
心なしか、触れる指先には懐古の念が滲んでいるように見えた。
「……俺は百姓の家に生まれた」
「え?」
「長男だったが、体は小さく、力も弱くてな。それが理由で捨てられた。なに、珍しい話じゃない」
それは雪の降る厳しい寒さが襲い掛かる日だったと言う。
「そこで俺は剣の師―――育手に出会った。捨て子を預ける知り合いに預けられる話もあったが、剣士を志した」
「それは……どうしてですか?」
「育手に『國一番の剣士になれる』と言われたからな。自分の非力さを知っていたからこそ惹かれたんだ」
「それで“柱”にまで……!」
「だが、俺は最終選別で目と右手、そして両脚を失った」
「え……?」
「怪我をした他の剣士を守りながら戦ってな。だが、結局のところ俺の未熟さが招いた結果だ。なにより、守った剣士は選別後すぐに事切れた。守り抜けなかったんだ」
凄絶な過去に思わず息を飲んだ。
鬼殺の剣士となるための選別で四肢のほとんどを失い、盲目となり、さらには守ろうとした者さえ死なせてしまった。自分であればきっと剣士を諦める程の傷を負いながら―――体も、心も―――それでも鬼殺隊として流の人生は、まさに波乱万丈というべきものだろう。
「俺は多くのものを失った。だが、それでも俺を立ち上がらせたのは育手との約束だった。國一番の剣士になる……そのためには勝ち抜かなければならなかった。剣士として戦えるようになるまで時間はかかったが、俺は再び戦えるようになった。柱にもなった。だがそれも、あくまで過程でしかない」
“柱”になることさえも過程と口にする流だが、その様子は真剣そのもの。いや、四肢を失っても尚剣士である事実こそが、彼が育手との約束を果たすために戦っている理由に他ならない。
「だからこそ忠告する。高みへ上ろうとすればするほど、どれだけ手を伸ばしても届かないものが分かってくる」
怜悧な瞳が凛を射抜く。身動きを許さない―――現実から目を背けることを許さないと言わんばかりの瞳だ。
「お前はまだその手前に居る」
「手前……ですか?」
「知らなければ幸せだったと後悔する現実だ。どうしようもない才能の差に打ちひしがれることもあるだろう。努力を積み重ねても思い通りにならないもどかしさに苦しむこともあるだろう。掌から零れ落ちていった命を数えて……絶望することもあるだろう」
「っ……!」
「それでも強くなろうとするのか?」
喉元に
鉄のような冷たさを放つ流に、息をするのもままならない。
しかし、
「……から」
「……なに?」
「知らないのも……苦しいから」
胸いっぱいに空気を吸い込んで紡ぐ。
流の威圧感に圧されぬよう、鬼に対峙した時と同じように全集中の呼吸で全身に力を漲らせて。
「確かに流さんの言う通り、知らない方が幸せなこともあると思います……けど、もう知ってしまった現実もあるんです。僕は、そこから目を逸らして生きるのが堪らなく苦しい。僕が幸せに生きられているのは、知らなくちゃいけないことを知らないからじゃないか、って……」
「……」
「知って苦しむのと知らなくて苦しむ……その二つだったら、僕は前者を選びます。知らないと何にもできない……でも、知っていたならちょっとでも良い未来に進める気がするんです」
「……そうか」
フッと流の口元が緩んだ。同時に辺りを包んでいた厳めしい空気も霧散する。
「いらない世話だったな」
「い、いえ!」
「柄にもないことを聞いた。
「そんなことありません! なんというか、こう、気をビシッと引き締められました!」
“柱”の言葉は想像以上に重いものだ。
だからこそ、直接彼等の言葉を耳にして覚えた感覚は貴重であった。忘れてはいけない、心に刻んでおこう―――そう思えた。
「僕、頑張ります! 流さんと同じくらい強くなれるように!」
「……俺より強い“柱”を目標にしておけ。その方が良い」
「いえ、流さんがいいです! だって、國一番を目指してる剣士なんですから!」
「! ……そう、か」
一瞬呆気にとられ、次に笑みを零した流。
まるで郷愁に耽るかのような所作を見せる彼は、爛々と目を輝かせる凛へ振り向く。
「なら、諦めるな」
義手を掲げて続ける。彼が
「諦めなければ好機は訪れる。生死を別つのは、死の直前……三途の川底に沈んでいる石ころのような
「最後の……?」
「ああ。それさえ見逃さなければ、無様な姿でも生き永らえることができる。再起不能の怪我を負ったと周りが宣ったところで、再び立ち上がり、人を守ることができる」
「なるほど……!」
「所謂英雄と呼ばれる類の人間は、それを手にし続けた者のことだ。特に俺達のような生業の者達は特にな。なればこそだ。お前も諦めるな。お前が拾い上げた最後の好機は、きっと誰かの希望となる」
「!」
瞠目する凛の胸を、一歩前に出てきた流が、義手の先端で小突く。
本当に少し触れるだけであったはずなのに、凛の体は後ろへ弾かれる。まるで義手に不思議な力が宿っているようだった。
「俺とまた会うまで生きろ」
「っ……はい!」
羽織を翻し、蝶屋敷から去っていく流に対し、凛は彼の姿が豆粒ほどになるまで延々と手を振っていた。
必ずや彼に並び立つ剣士になろうという想いを胸に抱きつつ―――。
「よし……居ても立っても居られない! 常中の特訓だァ!!」
その日、全集中の呼吸・常中の体得に精を出し過ぎて倒れた凛は、しのぶに死ぬほど怒られた。