鬼滅の流儀   作:柴猫侍

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陸.和風細雨

 胡蝶しのぶは最近苛立っていた。

 藤の花の研究が行き詰っていることや、患者が自分や姉に色目を使っていることはいつものことであるが、ここ最近は一層気が立っている。

 

 理由は、先日運び込まれた新人鬼殺隊士だ。

 鬼の毒にやられたようであり、治療自体は容易に済んだからいいものの、問題はそこからであった。

 

 痺れた体の感覚を取り戻す機能回復訓練。大抵の隊士は、全集中の呼吸・常中を体得しているしのぶに手も足も出ることなく蝶屋敷を出ることになる。その度、しのぶは日々の鬱屈が晴れ、いい気分転換になっていたのだったが、

 

「っぁあ!」

「くっ……!」

 

 薬湯を掛け合う訓練。以前ならば、しのぶが完勝するだけであったこの訓練も、数日経ってから相手が食らいついてくるようになった。

 ()()()()()()()()()()。その結果にしのぶは、納得がいかない、認められないと悶々する羽目となったのだ。

 結果的に普段以上に眉間に皺が寄り、余りの険しい顔に姉のカナエからも嗜められる始末。

 

(本当になんなの、もう!)

 

 プンスコと訓練場を後にするしのぶ。

 今日もまた彼女の勝利に終わったが、明日には負けているかもしれない。その後から鬼殺隊になった者に追いつかれる―――否、追い越されようとしている事実に、胸の中で焦燥が渦巻く。

 

(あんな子に負けたら、私は……!)

 

 研究室でもある私室を目指す足取りは、昨日よりも一層荒々しいものであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「すぅー……はぁー……すぅー……はぁー……」

 

 紅色に染まりつつある空の下で深呼吸する凛。

 できるだけ深く呼吸することを意識し、何度も何度も全集中の呼吸を繰り返した彼は、以前よりも長く維持することができていた。

 

 もう少しだ。

 焦ってはならないと分かっている。無理に続けようとすれば呼吸器を痛め、本末転倒な事態になりかねない。

 しかし、今日はここまでにしておこうと考えた瞬間、不意に流の言葉が脳裏を過る。

 

―――諦めるな。

 

「!」

 

 今一度、先ほどよりも長く全集中の呼吸を維持しようと試みる。

 燃えるように体は熱くなる。滲み出る汗が蒸発するのではないかと錯覚するほどの灼熱に襲われる凛であるが、その表情は至って涼やかだ。

 否、体は限界に近い―――というよりも超えている。しかし、心は穏やかであった。

 集中しているにも関わらず穏やか。これこそが無意識の内に全集中の呼吸を続けられる領域に一歩足を踏み入れられていることに他ならない。

 

 まだだ、まだ続けていられる。

 そう思っていた瞬間、柔らかな花の香りが漂ってきた。

 

「あ……」

「あら? もしかしてお邪魔しちゃったかしら?」

 

 スッと力が抜けて集中も途切れてしまった凛が振り返った先には、申し訳なさそうに眉尻を下げるカナエが立っていた。これから見回りにでも行くのだろう。“柱”は激務だ。担当警備区域も、一般の隊士とは比べ物にならないほど広いのだから。

 

「いえ、そんな! ちょうど切り上げようと思っていたところです」

「そう? 良かった。ここ最近、精が出ているようだったからつい気になっちゃって」

「あ、ありがとうございます!」

「うふふっ」

 

 カナエが居るだけで場が華やぐようだった。

 彼女のような美人に免疫のない凛は、真面目な場以外は、こうして面と向かっている間に常時赤面する始末だ。

 幸いであったのは特訓後で体が火照っているため、言い訳がつくことだろうか。それでもぎこちない所作からバレそうな気配はするが、例えバレたとしてもカナエは微笑むだけだろうが。

 

「少しいい?」

「え? はい、勿論!」

 

 そんなカナエは凛に手拭いを渡してから、近くの腰かけられそうな石にちょこんと座り、「お話しましょう」と手招く。

 断る理由もない凛が隣に座れば、カナエはきょとんとした顔を浮かべている凛ににっこりと笑顔を浮かべた。

 

「常中の練習はどう? 私から見たら、中々飲み込みが早いと思うんだけれど」

「そうですね……あと二週間、いや、一週間で出来るようになってみます!」

「そう? うふふっ、心強いわ」

「い、いえ……」

「それにしても体も型もしっかりしてるし……選別を受けるまで、どれくらい育手の下に居たの?」

「う~ん、鍛錬の期間だけで言えば五年くらいです。僕、育手に拾われて育てられたので」

「そうなの? じゃあ、本当に育ての親なのね」

「はい!」

 

 最終選別を受ける剣士が育手の下で鍛錬する期間は、平均して一年ほどだ。それに比べて育手の下で育てられた凛は、兄弟子や姉弟子との鍛錬に加え、弟弟子や妹弟子の面倒を看ていたこともあり、基礎がしっかりとしていた。

 鬼に確かな憎悪を抱き鍛錬していた他の弟子に比べ、鬼殺隊を志す時期が遅かった凛であるが、結果的には最終選別を受ける者達の中でも上位の実力を持って臨めたという訳だ。

 

 昔を思い返す凛に対し、カナエは温かな視線を投げかける。

 しかし、それからカナエは悲しそうな顔を浮かべて夕暮れの空を仰ぐ。まるで何かに思いを馳せるように。

 

「……鬼殺隊は本当にたくさんの人が亡くなるの。毎年毎年最終選別を行っても入って来るのはほんの一握りで、でも、現場ではそれ以上の隊士が亡くなってる。本当なら、氷室くんみたいに育手の下でじっくり鍛えられるのが、隊士の皆が死なないのに必要なんだろうけれど、そういう訳にもいかないのが現状なの」

 

 カナエとしては、全集中の呼吸・常中を体得してもらってから鬼殺隊に入ってもらうのが、現場で鬼に殺されないことに繋がると考えている。

 しかし、実情はそうはいかない。人がどれだけ居ても足りない。どれだけ滅殺しても鬼は増え、それを相手取る隊士は死に、“柱”のような実力者が穴埋めに奔走する。故に、“柱”隊士へ生き残る術を伝えられる時間さえももたらされないのである。

 長く鬼殺隊として勤められるのは決まって、突出した才能を有する者か、運の良い者だけ。

 

「本当なら誰にも死んで欲しくない」

 

 心の底からの言葉。

 

「皆幸せになってほしい」

 

 カナエは濡れた眼を浮かべて紡ぐ。

 

「どうして私たちは、幸せになれるように頑張る時間を、相手を殺す努力に費やさなければならないの、って……時折思っちゃうの」

 

 それは人に限らない。鬼とされた者も元は人間。彼等もまた、本来は人として掴める幸せがったはずだ。だが、鬼となって生きている時間の全てを、人を喰らうことに費やさなければならなくなった。

 そして、鬼殺隊の者もまた、本来得られていた普遍的な幸せの時間を犠牲にし、鬼を殺す事に人生を費やす。

 

 殺し、殺される。

 なんと無為な時間を過ごしているのだろう。

 

 そう訴えるカナエの言葉に、凛はしばし言葉を失った。

 彼女が慮っているのは人間だけではない。鬼に対しても憐憫の情を覚えているようだった。

 

 凛は思う。

 本当だったら、自分は誰と過ごしていたのだろう。誰と友達になり、どのような遊戯に興じていたのか。だが、家に帰れば母親が作ってくれた料理を家族で囲んで食べていただろう。

 

 そう思うと―――涙が止まらない。

 

「―――氷室くん?」

「っ……ごめんなさい」

「ううん、もしかして私が何か泣かせるようなことを……!」

「いいえ、違うんです! ただ……けっこう辛い目に遭ってるなぁー、って……」

 

 必死に笑顔を取り繕う凛だが、余りにも痛々しい笑顔であった。

 しかし、強引に涙を拭った彼は、途端に真剣な面持ちを浮かべる。

 

「でも、遭ったものは仕方ないから……僕は僕なりに幸せになれるように頑張ります。案外、今が不幸のどん底だなんて思えないですもん! お師匠様や流さん、それにカナエさんに出会えたことは幸せです! 経緯が経緯だから、あんまり素直に喜んじゃあれですけど……それでも幸せを幸せだって噛み締められることは、尊いことだって思えるんです」

「氷室くん……」

「だから僕は、今幸せに暮らしている人々を守りたい」

「……うふふっ、そうね」

 

 真っすぐに済んだ瞳を前に、カナエは悲しそうな顔を和らげた。

 

「貴方はとても澄んだ目をしている」

 

 「それから」とカナエは語を継ぐ。

 

「それはきっと……私達とは根本的に違うからなのね」

「え?」

「多分、そのことでこれから苦しむことがあるかもしれない。でも、忘れないで。その時は私たちが力になってあげられると思うから」

「はぁ……」

「その時が来ないのが一番だけれどね」

 

 要領を得ない物言いに首を傾げる凛であったが、あえてカナエが婉曲した言い回しをしているのだろうと考え、追求することはやめた。

 その時とはいったい何のことだろう?

 考えたところですぐにわかる問題でもないが、カナエの表情から察するに、良くないことであることは容易に想像できる。

 なればこそだ。一層鍛錬を積んで強くならねばならない。凛は強く思った。

 

「っと、そうだ!」

「ん?」

「あの……カナエさんの妹さん……」

「しのぶのこと?」

「はい。彼女、いつも怒ってるような“熱”を放ってて……僕がなにかしてしまったかなと」

 

 ここ最近、毎日顔を合わせている相手。

 仏頂面が顔に張り付いた彼女と訓練すること自体は慣れたものだが、どうしてもやり辛さは拭えない。

 しかし、初日に常中の特訓で倒れたこと以外、怒られる理由に心当たりがないのだ。

 心当たりがないことを直すというのは、これまた厄介。そこで姉であるカナエであれば、しのぶが終始憤っている理由に心当たりがあるのではないかと踏んだのだ。

 

 しばし、困ったような面持ちで考えるカナエ。

 

「―――恐らくだけれど……」

 

 カナエは語り始めた。

 

 

 

 花開かぬ蕾の葛藤を―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

 それから一週間経った。

 凛の体の痺れも大分良くなり、全快と言って差し支えないほどに体は快復していた。鬼の異能“血鬼術”による毒は、時に隊士を再起不能にさせるほど強力なものも存在する。

 だが、幸いにも凛はすぐに蝶屋敷にて適切な処置を受けたため、ここまで早い快復が叶ったとも言えよう。

 

 いや、理由にはもう一つ。

 

「うおおおああああ!!」

「っ……!!」

 

 日課となっている機能回復訓練。

 今日も今日とてしのぶに挑んでいた凛であったが、いつもとは一味違っていた。

 しのぶがたじろぐ程の気迫を放つ彼は、滝のような汗を滴らせつつも、しのぶが湯呑に掛けようとした手を押さえつけ、互角の戦いを繰り広げていたのだ。

 初日に比べれば劇的な成長である。

 だが、これには凛の成長のみならずしのぶの精神状態にも起因していた。

 

(嘘!? 私が……負ける!?)

 

 後から常中を体得するような新人に、彼よりも前に常中を体得した自分が負けてしまうかもしれないという焦燥が、しのぶの動きから繊細さを欠かせた。

 凛の常中は未熟だ。長期戦になれば当然しのぶに軍配が上がる。

 それでも数分間の攻防を繰り広げても凛が遅れを取らないのは、それ以上に時が経つ程にしのぶの胸で渦巻く焦燥が膨れ上がっていたからだ。

 

 ありえない。あっていいはずがない。

 負けたら全てが瓦解しそうだったから。

 無力な自分を辛うじて支えているものが、敗北によってもたらされるかもしれないと不安で堪らなくなったから。

 

 次第にしのぶの目じりに涙が溜まっていく。

 半泣きで訓練に挑むしのぶの様子は異様であったが、彼女以上に泣きたくなっていた凛は、ほぼ無心で湯呑を押さえつけ、あるいは手を掛けていた。

 肺が破裂し、心臓が爆発しそうだ。それでも簡単に敗北を喫さぬよう奮闘するのは―――いいや、勝利を譲らないのは、偏に流の言葉が彼の体を突き動かしていたからだ。

 

 彼の言葉を思い出すと勇気が出てくる。

 信念を体で表現する彼のようになりたい―――諦めたくない。

 二度目はないと言い聞かせ、この一戦に全てを掛ける。

 

 そんな凛の力は―――しのぶを一瞬上回った。

 

「!」

「!?」

 

 しのぶの手をすり抜け、凛が持ち上げた湯呑がしのぶの眼前に迫る。

 

(やった、勝っ……!)

 

 あとは中身がしのぶに掛かる光景を見届けるだけ―――だったはずだが、湯呑が手からすっぽ抜けた。

 

「あ」

「あ」

 

 湯呑はしのぶの顔面にぶつかった。当然、中身もぶちまける形で。

 青ざめる凛。一方、薬湯だけではなく湯呑も直撃したしのぶは、しばらくその場で俯いてプルプルと震えていた。

 

「ご、ご、ご、ごめんなさい……こ、これ、手拭い……」

 

 普段から怒っているしのぶに斯様な真似をすれば、どのような事態になるだろうか。想像もしたくない。

 少しでも怒りを和らげようと、普段は自分のために持ち込んでいる手拭いを差し出した凛であったが、

 

「……今日はここまでにしましょう」

「え?」

「私に勝ててよかったですね。もう体は万全でしょう。湯呑も床も私が片付けておくので、病室に戻ってください」

「あ、僕も手伝いま……」

「帰ってくださいっ!!」

 

 ピシャリと言い放たれた怒号が訓練場に響きわたる。

 思わず硬直する凛。しのぶもまた、自分が思っていた以上の声にハッとして面を上げた後、濡れてみっともない顔を隠すように、差し出された手拭いを強引に奪って顔を覆った。

 

「私の……仕事ですから。手を出さないでください」

「……分かりました」

 

 手拭い越しのくぐもった声を聞き、凛は素直に病室へ戻るべく踵を返した。

 足早に訓練場を去る。彼女のすすり泣く声を聞かないであげるために。

 

(……よしっ)

 

 不意に、病室に向かっていた足先を別の場所へと向ける。

 このまま病室へと戻った方が荒波立てずに済むことは重々承知だ。それでも彼女を放ってはおけない。

 

 カナエから聞いた以上―――知った以上、できることがあるはずだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 蝶屋敷の屋根。しのぶがよく訪れる場所だ。

 研究に行き詰った時や姉と喧嘩して鬱屈した気持ちになった時、空を見渡せるここが気分を晴らすのに一番であった。

 誰にも邪魔されない場所だった―――はずなのに、今日は先客が居た。

 

「……」

「あ、あはは、こんにちは」

 

 嫌悪感を隠さないしのぶの表情に苦笑いする凛が居た。

 

―――誰だ? 姉か。

 

 自分が来る場所を教えた人物など、カナエ以外にあり得ない。

 

「……姉さんの差し金かなにか知りませんが退いてくれませんか? ここは」

「あ、いやっ、邪魔はしないから!」

「……」

「……その、『貴方の存在そのものが邪魔』みたいな目はやめてくれると嬉しいです……」

「……はぁ。もういいです。構いませんから、邪魔だけはしないでください」

「! うん!」

 

 しのぶを許諾も取れたところで、堂々と屋根の上に居座ることができた凛。

 しかし、二人の心の距離は遠い。というか、物理的にも遠い。

 凛からかなり離れた場所でしのぶが取り出したのは薬学の本だ。蝶屋敷に揃えられている薬品の多くは、市販品の他にしのぶ自身が調合したものが揃えられている。そうした薬学の知識を下に、鬼に対抗する毒や、鬼の毒に対する薬を開発しているのも彼女なのである。

 

「……凄いなぁ」

「……邪魔しないでって言ったじゃないですか」

「いや、邪魔するつもりはなくて……なんていうか、独り言? そう! 独り言だから気にしないで!」

「……こんなに離れているのに聞こえる独り言なんて迷惑千万ですね」

「は、はははっ……」

 

 凛の称賛する言葉にさえ、しのぶは怪訝な様子を見せる。

 それも致し方のないことだ。そもそもしのぶがここまで苛立っている原因には―――八つ当たりに近いが―――凛が関わっている。彼から称賛の言葉を受けたところで、しのぶは気を良くするどころか、寧ろ苛立つ一方なのだ。

 故に、凛からではない誰かからの言葉が重要だった。

 

「―――カナエさんが言っていました。『しのぶは凄い子だ』って。『皆に誇れる妹だ』って」

「……はい?」

「看護の仕事をしながら、鬼と戦えるように鍛錬もして、それで藤の花の研究もするなんて……カナエさんは『自分には真似できない』って、会う度に僕に話してくれるんです」

「……」

「流さんも言っていました。『胡蝶の妹が為そうとしている研究は、鬼殺の常識を変えるものだ』って。みんながみんな、貴方のことを褒めていましたよ」

「……誰がなんと言おうと……私は……今の自分に反吐が出る思いですよ」

 

 パタリと本を閉じたしのぶは、絞り出したような声で言い放った。

 心なしか声は震えており、表紙に額を押し付ける彼女自身も酷く震えている。その姿は普段の生真面目で厳しさが嘘のような弱弱しいものであった。

 

「私は……鬼の頚を斬れない。本当なら鬼殺隊に居ることさえおかしい人間です」

 

 凛は黙って耳を傾ける。

 彼女が小柄故に鬼の頚を斬り得るだけの腕力がなく、思い悩んでいることはカナエから聞いていたからだ。

 鬼殺隊にも拘わらず鬼を殺せない。矛盾した立ち位置に居るしのぶは、そのことから劣等感や焦燥感を覚えていた。

 だからこそ藤の花を研究し、抽出した毒で鬼を殺せるよう試行錯誤していたのだ。

 

「最終選別も姉さんの反対を押し切って受けました。まだ藤の花の毒も試作品……鬼の自由を少し奪ったところで、私は何度も……何度も何度も何度も何度も!! 鬼の頚に日輪刀を突き立てた!!!」

「……」

「私達から家族を奪った鬼を苦しめられるならこれでもいいと思っていました。でも、結局私は……なんの感慨も得られなかった!! ただただ自分が無様で!! それが仕方なくて!!」

 

 何度も本の表紙に額をぶつけるしのぶ。まるで己の無才を責め立てているようだった。

 だが、体格というものは自分ではどうにもならない要素が多過ぎる。

 誰が悪い訳でもない。それでもしのぶは自分が許せなかった。家族の仇も取れず、姉が命を賭して戦っている他所で、のうのうと安寧たる暮らしに身を寄せることを許せるはずもなかった。

 

「私は……氷室くん。貴方が羨ましいです」

「え……?」

「貴方みたいに体が大きかったら……いいえ、男の子に生まれていたら、こんなに悩まなくて済んだんでしょうかね?」

 

 最早涙も隠さず凛を見据えるしのぶ。

 だが、その視線には羨望や嫉妬の念は一切混じっておらず、寧ろ諦めを含んでいるように見えた。

 しかし―――しかしだ。

 

「諦められないなら、それでいいと思います」

「……え?」

「貴方が鬼殺隊に留まっているのも、研究を続けているのも、諦められないからじゃないんですか? だったら、それでいいんだと思います」

「……簡単に言ってくれますね」

「諦めなくて“柱”になった人とつい最近出会ったばかりですから!」

「!」

 

 凛の言う“柱”が流であることを察し、しのぶはハッとした顔を浮かべる。

 彼のように多くを失い、尚も立ち上がって“柱”まで上り詰めた人間が居るのだ。五体満足ならばそれで上等のように思えてくる。

 

「……でも」

「いつか実を結びますよ! 貴方の努力は絶対無駄になんてならない」

 

 再び折れかけたしのぶに激励を送る凛は、溌剌とした笑みを浮かべて告げる。

 

「僕は貴方の作った薬で助けられたんです! 僕一人じゃ助からなかった。貴方が居て、流さんが居て……みんながみんなを支え合って、ようやく何かを為せるんだと思います」

 

 育手に呼吸を教えてもらった。

 鉄穴森に日輪刀を打ってもらった。

 流に生きるための術を示してもらった。

 

 一人で為せたことなど自分には何一つない。謙遜ではない単なる事実だ。

 それでも悲観する必要など、凛は微塵も感じてはいなかった。

 

鬼殺隊(ぼくたち)は、鬼と戦えない全ての人の代わりに戦う……それは仲間にも言えることじゃないですか?」

「……!」

「僕が貴方の代わりに鬼を斬って人を守ります。だから、貴方が僕が守れない人を代わって守ってください。お願いします!」

 

 そう言って頭を下げる凛。

一方しのぶは、面喰らったように目を白黒とさせていた。まさかこのような頼みをされるとは思ってもみなかった。

 される頼みと言えば、決まって破廉恥な隊服を着るか食事に出かけること。

 こうした頼みは―――案外悪い気はしない。

 

「それにしても……」

「はい?」

「私のことを『貴方』と……呼び辛くありません?」

「あぁ、それは……えっと」

「別に構いませんよ、名前で呼んでもらっても」

「え? 本当ですか!」

「ええ」

 

 慣れ慣れしくされることを嫌いそうなしのぶに対し、自然と「貴方」呼びになっていた凛は、本人の許諾が取れたことから目を爛々と輝かせて呼び方を考える。

 

「それじゃあ、しのぶ……」

()()()?」

「し、しのぶちゃ―――」

()()?」

「し……しのぶ、さん……」

「……ぷっ! ふふふっ! 仕方ありませんね、それでいいですよ」

「(それでいいって他に候補はあったのだろうか……?)」

「なにか言いましたか?」

「い、いいえ!」

 

 呼称に二度圧力という名のダメだしを喰らった凛は、結局それほど親しい呼び方を許されなかった。だが、「貴方」から思えば大分進歩したと言えよう。そう自分に言い聞かせて納得させる。

 そうした凛の一方で、しのぶは実に晴れ晴れとした様子でカラカラと笑っていた。

 

「あー、おかしい! 氷室くんは実にからかい甲斐がありますね。才能ありますよ」

「えぇ……」

 

 嬉しくない才能を見出された。

 と、思っていれば、徐に歩み寄って来たしのぶがちょこんと隣に座り、

 

「えい」

「わっぷ」

 

 頬を指で突いてきた。

 

「えい、えい」

「ちょ、しのふはん……」

「えい、えい」

「あぅ……」

 

 つんつん、つんつん。

 延々と頬に突っつきを喰らう凛は、途中から為されるがままにしのぶに弄ばれることにした。特段痛い訳でもなく、ただ頬がこそばゆいだけだからだ。

 なにより、次第にしのぶの放つ“熱”が温もりに溢れたものへと移り変わっていくからこそ、凛自身が止めてあげたくないと考えた。

 

 そうしてしばらくしのぶのからかいを甘受していれば、清々した様子の彼女がクスリと笑う。

 

「―――ありがとうございます」

「え?」

「氷室くんが私の代わりに鬼を退治してくれるなら、私も研究に没頭できるというもの。あ、でも怪我をしたなら遠慮なく蝶屋敷(ここ)に来てください」

「本当ですか!? わぁ~、ありがたいなぁ~!」

「うふふっ、その時はちゃぁ~んと私が治療してあげますから♪」

「ひっ」

 

 散々凛を突っついた指を掲げるしのぶ。

 凛はその指をなぜか注射と幻視し、腕に奔る幻痛に体を竦めてしまった。申し出はありがたいが、できる限り痛い治療は遠慮したい―――そう思わざるを得ないような怖い笑顔をしのぶは浮かべていた。

 

「お、お手柔らかに……」

「はい、お任せあれ」

 

 上ずった声で返事する凛を前にし、しのぶはいたずらっ子のような笑みを本で隠す。

 

 そんな二人の背中を、少し離れた場所の木陰から見守る人影が一つ。

 

「うふふっ」

 

 久しく見ることのなかった妹の笑顔に釣られて笑うカナエだ。彼女は、清々しい気分で自分の用事へと赴く。

 

(しのぶにお友達ができて良かったわ♪)

 

 妹がささやかながら普通の幸せを得られたことに、姉は満足していたのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「次ノ任務ハァー! 北東デス! 北東デースッ!」

 

 けたたましい鳴き声で次なる任務の地を知らせる鎹鴉。

 蝶屋敷での治療が負えた凛は、今日から任務に復帰することになったのだ。

 

「姉さんは見送りに来られないと言っていたけれど、『ぜひ頑張ってね』と言っていましたよ」

「はい! しのぶさんにもカナエさんにも本当にお世話になりました!」

 

 唯一見送りに来てくれたしのぶに、任務で姿を見せないカナエにもよろしくと伝えるよう頼んだ凛は、名残惜しそうにしながらも笑顔で蝶屋敷を後にした。

 流、しのぶ、カナエ―――この短い期間に鬼殺隊としてどうあるべきかについて考える機会をもたらされ、一歩も二歩も前へと進められたような気がする。

 

 だが、それでも努力は足りない。時間も足りない。

 しのぶに約束したように、鬼と戦えない全ての人々の代わりに戦えるようになるためには、まだまだ強くならねばならないのだ。

 

「よし……任務地まで全力疾走だ! 行くよ!」

「カァー!?」

 

 凛は鎹鴉を置いて行く勢いで走る。

 次なる地で彼を待ち受けている鬼とは一体どのような相手か―――それはまだ、凛には知る由もない。

 

 

 

 

 




*弐章 完*
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