気付けば、僕は奇妙な雰囲気が漂う謎の通路に立っていた。ぼんやりとしていて現実感の欠片もない。まさしく、これは夢だった。
「………」
ここはどこだ?わからない。とりあえず、この通路を進んでみよう。
少し歩くと突然、人の顔が浮き出した石の壁が音を立てて現れた。何時もの僕なら吃驚して叫び声をあげている所だ。けれど、今はなんの感慨も無い。ただ、妙な壁が現れたなという感想しか湧かなかった。夢の中とは、得てしてそういうものなのかもしれない。
―――ここを通らんとするものは何者ぞ!名乗らぬ者を通すわけにいかん。汝の名を名乗れ。
妙にドスの聞いた声だ。声の主はこの顔の浮きだした石の壁だろう。口が動いてるし。
名前…僕の名前か。
「天満…天満ショウ」
これが僕の名前だ。
―――汝はショウと申すか。
僕は軽く頷いておく。それにしてもいきなり呼び捨てか、馴れ馴れしい壁だな。まぁいいや。
―――ショウならば秘められし力があるはず。……む?既に決まっておるか。あい分かった。
秘められし力ってなんだろう?しかも勝手に納得しちゃってるし。
―――ここを通りし汝を待ち受けるのは光と共に選ばれし民の『法と秩序』か、己が力を頼る者どもが相争う『自由と混沌』か……汝の天秤にこの二つを乗せ、こぼれ落とさぬよう歩むがよい。
なんのことだ?と聞こうと思った時だ。出てきた時と同じように、突然石の壁は消え去った。ほんとなんなんだろう。おかしな夢だ。
その後も、僕はこの奇妙な雰囲気が漂う謎の通路を進んでいく。そこで神に捧げられし魂、力を求める乾いた魂の二人に出会う。
彼らも自分の状況がよくわかっていないようだった。
なんとなく3人で通路を進み、その最奥で一人の女性に出会った。
この日から、僕達の日常は終わりを迎えることになる。
――――199X年 東京 吉祥寺
「……うん?」
僕が目を覚ますとそこは自室のベッドの上だった。当たり前か。昨夜は当然、自室で睡眠をとったのだから。いや、僕がこんなことを言っているのは変な夢を見たからだ。あまりに現実感が無く、そして奇妙な夢を。
「夢……だよね?」
神に捧げられた魂と、力を求める乾いた魂、そして。
「ゆりこさん……か」
夢の最後に出てきた裸で水を浴びていた女性。美しかった。とても魅力的だった。まるで同じ人間とは思えない程に……。
「うん、あの人が僕の運命の相手だろう。間違いない」
うんうんと僕は首を縦に振る。夢の中で、彼女自身がそう言っていたのだ。"私達は永遠のパートナー"なのだと。だけどこれ以上ゆりこさんのことを考えると若いリビドーが暴発してしまいそうだ。流石に朝から疲れてしまうようなことをする訳にもいかない。とりあえず、起きてパスカルの散歩にでも行こうか。
「その前に…と」
つけっぱなしになっていたPCの電源を落とそうとしたところ、メールを受信していることに気付いた。
「件名は…えっと。………悪魔召喚プログラム?」
この怪しいメールの内容はこうだ。
Date:199X-10-XX
From:STEVEN
Subject:悪魔召喚プログラム
インターネットに接続している全ての人へ。
現在、我々人間に深刻な危機が迫っている。伝説の悪魔たちが闇から目覚めたのだ。すぐにも、悪魔たちが襲ってくるだろう。
悪魔と戦うために、悪魔の力を利用するのだ。このプログラムがあれば、それができるだろう。勇気ある者が受け取ってくれることを折る。悪魔と戦い、人々を救うために。
「なんだ…これ?」
どう見ても怪しすぎる。スパムメールの類だろう。何時もならこんなもの、削除しておしまいだ。だけど…。
「悪魔……か」
何処かその存在は…僕にとって身近なものだと、本能的に理解してしまっていた。このメールを送ってきた人物は嘘をついていないと、そう信じてしまう自分がいたのだ。変な夢を見たばかりだからだろうか?
「……ま、一応ね」
念のためにウィルスの検疫にかけてみるも、特にそういったものは発見できない。
だから何となく、本当に何となくだ。メールに添付されたその「悪魔召喚プログラム」なるものを、僕はお手製の「アームターミナル」にインストールしてみることにした。
アームターミナルとは、僕が趣味で作った腕に取りつけることのできるハンドヘルドコンピュータのことだ。これならもし壊れてしまっても構わない。元々、有り合わせの部品だけで作った試作品だし。
「ショウ!何時まで寝てるの!」
悪魔召喚プログラムのインストールが終わった頃、母さんの怒鳴り声が1階から聞こえてきた。
「おっと、休みだからってちょっと寝すぎちゃったかな」
PCの時計は既に10時を回った所、完全に寝坊だ。僕はアームターミナルを腕に取りつけると、いそいそと1階へと向かった。
「おはよう、母さん」
「おはよう、ショウ。昨夜はよく眠ってたみたいね」
一階に降りると、呆れたような顔をしながら洗い物をしている母さんが僕を出迎えてくれた。
「パトカーの音があんなにすごかったのに、気付かないで寝てるんだから」
「へ?パトカー?」
何か事件でもあったのだろうか?怖いな、おしっこちびっちゃいそう。
「そうよ。…きっと大きな事件ね、あれは…」
母さんはうんうんと頷いている。一人で納得するように頷いてしまう僕の癖は、間違いなく母さん譲りだろう。
それよりも今はご飯が食べたい。今気づいたのだが僕はかなりお腹が減っていたのだ。けれど母さんは洗い物の最中だ、寝坊した僕にわざわざ朝ご飯を作ってくれるとは思えない。何か冷蔵庫にあるかな?
そう思って冷蔵庫を漁っていると、洗い物を終えた母さんが声を掛けてきた。
「はい、今月のお小遣い。ムダ使いはダメよ」
そう言って、一万円を手渡された。
「ああ!ありがとう母さん!いいの!?」
高校生の僕からすれば一万円は大金だ。バイトも特にしていない身だから、余計に。
「ええ、約束通り勉強頑張ってるからね。代わりに、アーケードのカフェでコーヒーを買ってきて頂戴。お金は立て替えておいてね」
それだけ言うと、母さんはソファーに座ってテレビを見始めた。今日は母さんにとっても久しぶりの休日のはずだ。連日の出勤で疲れているのかもしれないな。
「わかったよ。なら、早速行ってくるね」
「ええ、気を付けてね」
母さんの見送りの声を背に受けながら、僕は玄関に向かった。
『バウ!バウ!』
靴を履いてさあ外に出るかという所で、玄関でお座りしていたパスカルが僕に向かって吠えてきた。
「パスカル、今日も元気だね」
よしよしと撫でる。パスカルは気持ちよさそうに目を瞑り、クゥ~ンと一鳴きしてから僕にすり寄ってきた。可愛い。
パスカルは僕が小学5年生の頃に飼い始めたシベリアンハスキーだ。性別はメス。確か母さんがナカジマという人から引き取ったと言っていたっけ。青いたてがみ、白い毛皮はまるで獅子や狼を思わせるような見た目だが、れっきとした我が家の愛犬だ。
今この家に住んでいるのは母さんとパスカルと僕だけ。父さんは僕が小さい頃に事故で亡くなってしまったから…2人と一匹だけの小さな家族だ。
「一緒に来るかい?」
『バウ!』
当たり前だとでも言う様にパスカルは吠える。そして器用に玄関のドアノブに前足をかけ、扉を開けてしまった。
「相変わらず頭がいいなぁ」
パスカルはとても頭が良い。リードをつけなくても勝手に何処かへ行ってしまうことも無いし、他の犬とケンカすることもない。人を噛んだことだって一度もない。人懐っこく、そしてちょっとだけ毛深い僕の自慢の相棒だ。
パスカルに誘われる様にして外に出てみると、何時もより街の喧騒が大きい様な気がした。
「そういえば母さんが言ってたっけ。何か事件があったんだよね」
そのせいかもしれない。同行者の方に目を向けると、彼女は小首をかしげていた。可愛いもふもふだった。
「ふむ」
街の様子を眺めつつ、吉祥寺の中心にあるアーケード街にやってきた。街を行き交う人々の話に耳を傾けてみると、やはり話題は母さんの言っていた事件のことだった。
「それにしても…殺人事件…ね」
噂話を整理する。どうも、この吉祥寺にある井の頭公園で殺人事件が起きたらしい。この平和な日本で殺人事件とは…いやはや。
「怖いよね、パスカル」
『クゥ~ン』
彼女にも僕の怯えが伝染してしまったらしい。耳をペタンと垂れ、不安げに一声鳴いた。
「大丈夫さ。いざとなったら、僕が君を守るよ!」
『バウ!バウバウ!バウ!』
私が貴方を守るんだ!とばかりにパスカルは吠える。いや、君だって怖がっていたじゃないか!
愛犬とじゃれあいつつも、母さんから言われたお遣いを終わらせるべく、僕達はアーケード内を進んでいく。
「コーヒーだったよね、確か。パスカル、ちょっとここで待っててね」
『バウ!」
彼女は大人しくカフェの前で待っていてくれるようだ。音もなく座り込み、今はぺろぺろと毛並みを整えている。うん、大丈夫そうだ。
馴染みのカフェに入ると何時もより人が多いことに気付く。休日だからだろうか?
「あ、ショウ君…」
不意に名前を呼ばれ、そちらに目を向けてみる。すると見憶えのあるの女の子が視界に映った。確か同級生のはずだが…。彼女は…なんて名前だったかな?
「こんにちは」
よし。ここは名前を忘れていることを悟られないよう、上手く誤魔化すことにしよう!
「あの話聞いた?」
失礼ながら名を忘れてしまった彼女は、そんな僕の気持ちを露とも知らずに話を進める。
「あの話っていうと…もしかして事件のことかな?」
「うん。公園で殺されたの…同級生らしいの。私、怖いわ…」
それは初耳だった。彼女と同級生…といえば僕と同じ高校生だろう。同い年の子が理不尽にも命を奪われた。その事実は、僕を動揺させるには十分なものだった。
「そう…なんだ。……君も気を付けなよ。お節介かもしれないけど、早く家に帰った方がいいと思う」
いや、恐らく彼女も不安だったのだろう。だから人の多いアーケード街のカフェに居たのかもしれない。一人だと、色々と考えてしまうから…。
だが、噂によれば犯人はまだ捕まっていないらしい。ならば自宅で安全を確保しておくことこそがベストだろう。
「…そうだね。うん、そうする。心配してくれてありがとね、ショウ君」
「クラスメイトを心配するのは当たり前のことだよ」
「えっ…?私、ショウ君と同じクラスじゃないけど…」
し、しまった!何とか誤魔化さなければ!
「ご、ごめん。事件のことで動揺して…勘違いをしてしまったみたいだ」
「そ、そうだよね…。私、もう行くね!それじゃあ、また学校で!」
「ああ、うん。気を付けてね」
若干気まずい雰囲気になりながらも、なんとか会話を終えた。危なかった、もう少しで彼女の名前すら忘れていることまで感づかれるところだった。
ほっと胸を撫でおろしていると、何処からかクスクスと笑い声が聞こえた。
「ふふ、ショウ。貴方って、意外とおっちょこちょいなのね」
何処かで聞いたことのある、女性の声だ。それを聞いたのはつい最近。そう、夢の中で出会った、あの女性の……。
「こうして会えて嬉しいわ、ショウ。まるで夢の中みたいね?」
声のする方へと目を向けるとそこには…。
「………ゆりこ…さん?」
「あら、私の名前は憶えていてくれたのね」
夢の中で僕のパートナーと名乗った女性、ゆりこさんが楽し気な笑顔で僕を出迎えてくれていた。
「まさか、こんな所で出会えるとは思いもしませんでした」
「あら、私は確信していたわよ。ここに居れば必ず貴方に会えるってね」
僕は内心ドキドキしながらゆりこさんと会話をしていた。いや、夢の中のゆりこさんはそりゃ美人だった。だけど現実の彼女はそれ以上に……。
綺麗な黒髪のロングヘアーに女性としてかなり高い身長。僕と同じくらいに見える。僕が178cmだから…えっ。ゆりこさんスタイル良すぎでしょ!ていうか足長!
しかも顔は見たことが無いくらいの美人だ。胸も…で、でかい!完璧だ!恐ろしいくらいに僕の好みにマッチしてるじゃないか!
そんな彼女はビジネススーツを着込んでいる、完全に大人の女性だった。…む?胸元がはだけてる…。め、目に毒だよ!僕みたいな童貞には刺激が強すぎるよ!
「ふふ、気になる?」
カフェの小さなテーブル越しに、また彼女が笑う。まずい、どうやら胸を見ていたことがバレてしまったようだ。
「あ、いや…」
「良いわよ。貴方も男の子だものね」
「はは…お恥ずかしい」
ゆ、許された。ゆりこさんはとても寛大な女性のようだ。
それにしても…と思う。確かに、彼女の容姿に惹かれたのは間違いない。けれどそれ以上に気になったことがあった。
先程彼女は僕の名前を呼んだ。間違いなく、僕達は初対面のはずなのに…だ。僕が彼女に出会ったのは今朝見た夢の中でだけのはず。そして、その時から彼女は僕の名前を呼んでいた。
これは一体どういうことだ?もしかして、彼女も僕と同じ夢を見ていたのだろうか?
「少し違うけれど、概ね合っているわよ」
吃驚した。口に出していないのに…思考を読まれた?
「どうかしら?いい女には秘密が付き物なのよ」
「ははっ。それだとゆりこさんは秘密だらけになっちゃいますね」
「あら、私は口説かれているのかしら?」
「先に口説かれたのは僕の方ですけどね」
お互いに笑い合う。うん、どうやら彼女とは気が合うようだ。
何故か僕が見た夢の内容を彼女は知っているらしい。それは間違いない。
「でも…そうね。折角こうして会えたのだから、一つだけ何でも答えてあげる。私に関することならなんだっていいわよ?」
ゆりこさんは笑う。妖艶…という言葉が陳腐な程に、それは男を惑わす魔性の笑みだった。くっ!わかっていてもまずいぞこれは!今すぐにでも恋に落ちてしまいそうだ!
いやいや、取り乱している場合じゃないぞ。ここは冷静に、そう。折角ゆりこさんが素敵な提案をしてくれたのだ。よく考えよう。
質問…か。僕が気になること。
夢の中で僕をパートナーだと言った真意は?何処で僕のことを知ったのか?ゆりこさんの職業は?何処に住んでいるんだ?人の思考が読めるのか?
ダメだ、気になることが多すぎてまとまらない。このミステリアスな女性を前に、どんな質問をするのが正解なんだ?
ちらりと前を見ると、少し意地の悪そうな微笑を浮かべているゆりこさんがいる。そして、徐に手を上に伸ばし、「んん~」と伸びをした。
ぷるんっと大きく、二つの果実が揺れる。や、やっぱりでかい!
いつの間にか、僕の思考はそれ一色になってしまっていた。
「す、スリーサイズを教えて下さい!」
あぁ!馬鹿か僕は!初対面の女性に向かってなんて質問を…っ!
「上から88-56-91よ」
「へ?」
ゆりこさんは表情を崩すことなく、微笑みながら教えてくれた。
「聞かれたから答えたの。………貴方だから教えたのよ?」
あれ?でもちょっとだけ…頬が赤くなってる?か、可愛い!可愛いよゆりこさん!
「は、ははっ。それは光栄…です」
「でも少し呆れちゃうわね。普通、初対面の女性に向かってそんな質問をするかしら?」
「仰る通りです…申し訳ありません」
やっぱり呆れられてるじゃないか!ああ、やってしまった…。
「けど私に興味をもってくれたみたいで嬉しいわ」
そりゃこんな美人に興味が沸かない訳が無い。しかも、謎の接点があるのだから。
「本当にすみません。ゆりこさんの様な素敵な女性と話すのは初めてなもので…少し緊張してしまって」
「あら、またそんな嬉しいことを言ってくれるのね」
「ゆりこさんくらいの美人なら言われ慣れてそうですけどね」
「誰に言われたかが重要なのよ。貴方に言われたから嬉しいの」
そう言って、彼女はまた微笑む。
けれど一番の謎はそこだ。何故、彼女は僕なんかに興味をもってくれているのだろうか?
僕はただの高校生だ。特別頭が良い訳でもないし、自慢といえば少し運動が得意なことくらい。後自慢できることと言ったら手先の器用さくらいか?
しかも僕達を結び付けているのは…たった一度だけ見た夢の中での邂逅だけだ。それだってあやふやで不鮮明なもので…そもそも同じ夢を共有することなど可能なのだろうか?
考えれば考える程、僕が彼女に興味…好意を抱かれる理由がわからない。も、もしかして騙されているんじゃないか?
「違うわ。貴方は選ばれた存在なの。世界の行く末を担う、選ばれし御子。貴方の選択によって、この世界は形を変えていくわ」
……流石に意味がわからなかった。これは小粋な大人のジョークというやつなのだろうか?…けれど僕を見つめるゆりこさんの表情は…何時の間にか真剣なものに変わっている。それは何処か思い詰めた様な…悲壮感すら感じさせる表情だ。
「…それってどういう意味ですか?」
僕がそう聞くと、ゆりこははっとしたような表情に変わる。
「……ごめんなさい。私、どうかしてるわね。こんなこと、貴方に言うつもりはなかったのに……」
彼女は誤魔化すようにして首を横に振り、そして立ち上がる。
「でも、知っておいてもらった方が…良いのかもしないわね。何も知らされず、ただ巻き込まれるよりは…」
「ゆりこさん?」
「私は…貴方の選択の次第によっては一生を添い遂げるパートナーにもなるし、不倶戴天の敵にもなり得るわ」
ゆりこさんが…敵に?敵って何だよ…。
「貴方には私を選んで欲しい。けれど強制は出来ないの。貴方が自分で選ばなければ意味を持たないわ」
彼女は僕の横を通りすぎると、ちらりとこちらを振り返る。
「貴方が見て、聞いて、感じて、それから決断を下しなさい。神と共に千年王国を築き、メシアとして人を導くのか。混沌渦巻く世界で力を身に付け、悪魔との共存を望むのか。神か悪魔か。秩序か混沌か。全ては、貴方次第よ」
……彼女の言っていることは何一つとして理解することができない。しかし似たような話を、何処かで聞いたことが無かっただろうか?
……そうだ。夢の中で出会った石の壁だ。
―――ここを通りし汝を待ち受けるのは光と共に選ばれし民の『法と秩序』か、己が力を頼る者どもが相争う『自由と混沌』か―――
確かそんなことを言っていたはずだ。
そして今日届いたメール。伝承の悪魔の出現を示唆する、謎の人物からの警告。そしてそれに対抗する為の…悪魔召喚プログラム。
とてもあやふやで断片的な情報が、少しだけ線で繋がった気がした。
だからかはわからない。気付けば僕は、こんな質問をしてしまっていた。
「ゆりこさんは……どちらの世界が好きなんですか?」
「質問は一つだけって約束よね?」
そ、そうだった。変な質問をした所為で肝心なことが聞けないじゃないか!
いつの間にかゆりこさんとの距離は離れている。彼女は振り返ることもせず、カフェの出口に向かって歩き出していた。
だからこれは幻聴だったのかもしれない。小さな声で呟かれた、その言葉は。
―――私、神って奴が大嫌いなのよね
「お待たせパスカル。さ、帰ろうか」
『バウ!』
ゆりこさんがカフェを出て行った後、僕も程なくして店の外に出た。勿論、ちゃんとコーヒーの元は買ったぞ。
カフェの店長とは僕も母さんも顔馴染みだ。お遣いを頼まれたことを話したら代金は今度でいいと言われてしまった。なんだか申し訳ないけど手元に1万円が残ったことは喜ぶべきことだろう。
パスカルは僕が声を掛けると待っていましたとばかりに一鳴きし、身震いしながら立ちあがった。けれど彼女はその場を動こうとしない。何故かアーケード内にあるドラッグストアを睨みつけている。
「どうしたの?」
『グルルゥ…』
とうとう唸り声まで上げはじめた。こんなことは寝ぼけてパスカルを踏んでしまった時以来だ。誰かに踏まれちゃったのかな?
「あっ!ちょっと!何処に行くのさ!」
突然パスカルは走り始める。焦って追いかけようとしたところで…やっと周囲の異変に気付いた。幾人かの男女が、パスカルが走り去った方向から慌てた様に走ってきていたのだ。その表情は……そう、恐怖だ。何か恐ろしいものを目にし、逃げて来た様な…そんな印象だった。
―――きゃ~!
―――逃げろ!刺されるぞ!
「…へ?」
刺される?刺されるって何で?刃物か?殺人事件の次は刃物沙汰か!?……いや落ち着け僕。そんなことより今はパスカルのことだ。彼女が走っていったのは人が逃げてきた方向じゃないか!このままだとパスカルが危ない!
「一体どうしたっていうんだよ!!」
弾かれた様に相棒の後を追う。パスカルが走って行ったのは…ドラッグストアの裏路地に続く道だ。
「パスカル!!」
ドラッグストアの裏路地で彼女を見つけた。パスカルは此方を見向きもせず、正面を睨み続けている。
『バウ!バウ!」
彼女が威嚇している先には…一人の男がいた。
「俺に何か用か!?……近づくな!」
中年だろうか。帽子を被った怪しい男が、僕とパスカルを睨みつけながら大声で威嚇してきた。どうみても男は正常な状態には見えない。瞳孔は開き、顔からは大量の汗をかいている。
そして男の右手には…。
「ナイフ…」
先程の人達はこの男から逃げて来たのだろう。男の手には僕なんて一刺しで死んでしまうような…大型のナイフが握られていた。…冗談だろ?日本の…それも大都会なはずの東京で…本当にこんなことが…?いや…まさか…この男が殺人事件の犯人なのか?
余りの事態に気が動転し、それ以上口を開くことが出来なかった。湧き上がる恐怖で足が竦み、この場から逃げるという考えすら浮かばない。
「それ以上近くに来たら俺のナイフで…うっ…うえっ…うええええっ…ぐえぇぇ!!」
突然、男は胸を抑えて苦しみ始めた。こ、今度は何だ!?
僕がうろたえている間に事態は進行していく。男の体が…突如して現れた闇に呑まれてしまったのだ。その闇は深く、男の姿を一遍たりとも目にすることが出来ない。そして…。
『グェェェェ!!』
奇怪な叫び声と共に闇が晴れた。けれど僕の視界に先程の男は映らない。目にすることが出来たのは、いつの間にか僕を守るようにして前を陣取っているパスカルと……。
「……悪魔?」
そうとしか言い表せない、奇妙な人型の存在だけだった。紫色の肌に醜い容姿。まるで物語に出てくる小鬼の様な姿だ。口が顔の面積の半分程を占め、腹は水が溜まった様に膨れている。……人間じゃない。正に、それは悪魔と呼ばれるに相応しい存在だった。
「う…あ…」
怖い。気持ち悪い。理解できない。あんなもの、存在するはずがない…。僕はまだ、夢の続きを見ているんじゃないか?……そうだよ。だからゆりこさんは僕のことを知っていたんだ。夢でしか会ったことない僕のことを、彼女が知っている訳がないじゃないか。だからこれは全部…僕の夢なんだ…。
『バウ!!』
はっとした。思考を放棄した僕を叱咤したのは相棒の咆哮だった。…そうだ。僕だけの問題じゃない。ここにはパスカルがいる。ここに留まっていたら、彼女だって危険なんだ!
「パスカル!逃げるよ!」
兎に角、あいつから逃げなくちゃだめだ!立ち向かうなんてもっての他、素手でどうこうできる相手じゃない!
けれど僕達が行動するよりも早く、あの『悪魔』は動き出してしまった。
『キェェェェェ!!』
奇声を上げながら『悪魔』は僕達に向かって襲い掛かってくる。
「あ…」
だめだ。速い。逃げられない。このまま背を向ければ、僕達はあっけなくあの悪魔に殺されてしまう。それを本能的に感じ取ってしまった。
迫りくる『死』の予感が金縛りの様に僕を縛る。足はまるで地面に根付いてしまったかのように動かない。手は震え、上手く握ることすら叶わなかった。ははっ。交通事故にあう人も…こんな感じなのかな。
「パスカル…君だけでも逃げてくれ…」
結局、僕は諦めてしまった。せめてと、僕が襲われている間にパスカルだけでも逃げてくれることを祈り…目を瞑ってしまった時だ。
『バウ!!』
またも相棒の咆哮が聞こえた。反射的に瞼を開く。悪魔は先程の位置からあまり動いていない。……それもそのはず。悪魔は動けなかったのだ。何故か?それはパスカルが悪魔の足に噛みつき、文字通り足止めをしようと必死に奮闘していたからだ。
『グルゥゥゥゥゥ!!』
『キェェェェ!!」
反撃を想定していなかったのかもしれない。悪魔はパスカルを振り程こうと無茶苦茶に暴れ出す。パスカルはその度に振り回され、それでも決して諦めなかった。鋭い牙を突き立て、絶対に離すまいと唸り声を上げながら必死に抗っている。
彼女は一度だって喧嘩をしたことはない。ましてや、人を噛んだことだってないはずだ。見たことのない相棒の姿に、僕は動揺を隠せない。いや…まさか君は…僕を逃がそうと?
「パス…カル…だめ…だ…」
そんなことをしたら君が殺されてしまう。嫌だ。僕の家族なのに。母さんと僕とパスカルだけの…小さな家族なんだ。君が居なくなったら…僕達は…。
―――大丈夫さ。いざとなったら、僕が君を守るよ!―――
―――バウ!バウバウ!バウ!―――
……そうだ。さっき彼女にそう言ったばかりなのに…何をしているんだ僕はっ!
何とかしなきゃ。パスカルを死なせたくない。……そうだよ。……だったら…逃げられないのなら…もう破れかぶれでも…戦うしかないじゃないか!!
「……っ!?あれだ!」
一瞬の間で戦うことをを決意した僕は、悪魔とパスカルの後ろに何かが煌ているの目にした。ナイフだ。先程男が手に持っていた、大型のナイフ。
「あれなら!」
素手で戦うのはどう考えても無理だ。だけどあれだったら!
「パスカル!もう少しだけ持ち堪えてくれ!」
動ける。先程まではピクリとも動けなかったはず。相棒を死なせたくないという気持ちが、僕を助けようと命を賭けた相棒の姿が、臆病者の僕をつき動かしたのだ。
悪魔と格闘を続けるパスカルの脇を走り抜け、僕はナイフを回収する。刃物の扱い方なんて勿論わからない。これを使った所で効果があるのかもわからない。だけどそれでも…やるしかない!
「この化物が!」
ナイフ片手に、僕は躍りかかった。逆手に持ったナイフを渾身の力で振り抜く。せめて…せめて此方に注意だけでも引ければっ!
『キェェェェ!!』
パスカルに足を噛まれている悪魔は避けることも出来ない。僕の振るったナイフを何とか受けようとするも……意外なことが起きてしまった。
ナイフの扱いは素人で、ただの人間なはずの僕が振るったナイフは…あっさりと悪魔の腕を斬り落としてしまったのだ。
『ギェェェェェ!!」
「……あれ?」
拍子抜けだ。まるでバターを切ったように容易く切れてしまった。噴き出す血を避けるようにして一旦距離をとり、手にしたナイフを一瞥する。
こ、このナイフ切れ味良すぎじゃないか!?というか気持ち悪!血の色紫だし!
『バウ!!』
気を抜くなとばかりに相棒は吠える。彼女もいつの間にか僕の傍まで逃げてきていた。おかげあの気色の悪い血がかからずに済んだらしい。
パスカルの無事を喜びたいがそれは後だ。とりあえずこの悪魔をどうにかして……あれ?
「……逃げたのか?」
目の前に居たハズの悪魔は…忽然と姿を消していたのだ。残されたのはあの奇妙な血と、僕が斬り落とした腕だけ。どうやら僕がパスカルに目を移した隙に逃げてしまったようだ。……そっか。逃げたのか。……ということは…僕達は…?
「――っ!はぁぁぁぁぁぁ…」
大きなため息が零れる。無事に生き残れた安堵と極限の緊張状態から解放された反動で、意図せずに出てしまったのだ。
「助かったぁ……」
思わずしゃがみ込んでしまった。あぁ本当に良かった…。
「パスカルぅ~よかったよぉ。君のおかげだよぉ…本当にありがとぉ」
隣に居たもふもふに抱き着く。パスカルも気が抜けたのか、そのままぺたんと座り込んでしまった。あ!そうだよ!
「怪我とかしてないか!?」
漸くその可能性に気付けた僕はもふもふな相棒を弄っていく。…うん、どうやら大丈夫みたいだ。
「よかった。君も無事だね…」
『くぅ~ん』
パスカルも僕の無事を喜んでくれたのかもしれない。ぺろぺろと顔を舐め回された。うんうん、君は可愛いね!……いや、待ってよ。君さっきまであの化け物を噛んでただろ!
「汚っ!やめて!うわ!?臭っ!」
『バウ!!』
心外だとも言うようにパスカルは吠える。
「文句あるの!?…大体ね!君が勝手な行動をするから!」
『バウ!バウバウ!バウ!』
少しの間だけ、僕達はお互いを罵り合った。
✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻
「流石ね、ショウ。やっぱり、貴方は選ばれた存在なのね…」
私は、一人の少年とその飼い犬が『悪魔』と呼ばれる存在と対峙した一部始終を隠れて観察していた。勿論、本気で危険だと判断したら私が助けるつもりだったが、彼らは見事にその脅威を打ち払ったのだ。
彼らが対峙した悪魔は『幽鬼』に属する『ガキ』と呼ばれる低級の悪魔。私なら労せず倒してしまえるような矮小な悪魔だが、普通の人間であればそうはいかない。力も早さも耐久も、ただの人間の追従を許さない、そんな超常の生き物こそが『悪魔』と呼ばれる存在なのだから。
それをただの鉄で出来たナイフで…あまつさえ一太刀で腕を斬り落とし、撤退にまで追い込んだのは…他でもない。選ばれた存在である彼自身の『力』によるものだ。
そんな彼は今、共に窮地を乗り切ったはずの相棒と何故か言い争いをしていた。年頃の男の子らしく、可愛いらしくて好感が持ててしまう。
「でも……何故かしらね。嬉しいハズなのに…」
やはりショウこそが私の…そしてあのお方が探して求め来た人間なのだと、今回の一件で痛い程に理解することが出来た。彼を私達の陣営に引き入れることが出来れば、きっと私達の悲願は叶う。幾千幾万の時を超え、私自身何度も転生を繰り返した。それは正に、彼のような人間と出会う為だったはずだ。
その願いは叶い、彼は私に興味まで持ってくれた。まさかいきなりスリーサイズを聞かれるとは思いもしなかったが…結果だけを見れば正に絵にかいた様な状況だ。普通なら泣いて喜んでもいいはず。
だというのに…この虚無感は…一体何なのだろうか。
「ショウ……」
胸が痛い。彼のこれからを想うだけで胸が張り裂けそうになる。彼が望もうと望むまいと、もうじきその時は訪れるだろう。それを考えるだけで…どうしようもない程のやるせなさを感じてしまうのだ。
だって彼は…明らかに怯えていた。悪魔と対峙した時、彼の胸中にあったのは間違いなく…恐怖だ。私にはそれが手に取るようにわかってしまった。
当たり前のことだろう。今までの彼はただの人間で、普通であれば大人に守られるはずの…一人の少年にすぎないのだから。
何かの間違いであればよかったのにと、そう思ってしまう自分がいた。彼には平和に暮らしていて欲しいと、そう願ってしまう愚かな自分がいた。彼を戦いから遠ざけたいと思ってしまう、今までの自分を否定するような…そんな想いを抱く私自身がいたのだ。
「何を考えているのよ…私は…」
その甘えを振り払うかの様に首を振る。
そんなものは偽善だ。わかっている。何を想おうと私のすることは変わらない。彼を篭絡し、自分達の願いの為に利用する。それが私の使命なのだから。
悪魔と戦い、神々と戦い、そして同じ人間とも相争う。そんな闘争に彼を誘うのは他でもない、私だ。だから、そんな想いを抱く資格など…私にはない。
「だけどせめて…」
胸の前で手を組み、ただひたすらに彼の無事を願う。
せめてこうして祈ることだけは、許して欲しいと思う。彼が戦いの日々を無事に乗り越え、己が道を貫き通す、その時まで…。
「どうか、貴方に……の祝福を」
その願いを何に対して祈ったのか…それすらも私はわからなくなっていた。