梅原の情報によるとこの辺のはずなんだけど、見当たらないな。もう既に借りられてしまった後なのか? もっと早く来ていれば「美術基礎~ヌードから学ぶ絵画論~」は僕の手の中にあったはずだったのに、くそっ……悔やまれるな。
本棚を隅から隅まで見渡してから拳を自分の太ももに叩きつけた。ちょっと痛い。
落ち着け純一。学校の備品なんだ。待てば戻って来る……! 慌てずそのときを待てばいい。次こそは逃さない様にして置くのだ。
とはいえ、胸をときめかせて来たのもあって、空振りに終わったのはかなりテンションが下がる。ああ、今日はなんて日だ……。
ため息を付いて、本棚から離れる。目的の物がない以上ここにいる意味はない。さっさと教室に戻ろう。
読書スペースとして解放されている机の横を通り過ぎようとしたときだった。目の端に写る見覚えのあるシルエット。足を止めて、よく見る。
シャープペンシルを片手に頬杖を付く人物。彼女は鋭い目つきで手元を見つめている。まごう事無き塚原先輩だった。
そう認知してから数秒後。彼女はペンを置き、縦に伸びるストレッチ。その直後弓の様に上体を後ろに倒していく。
おおっ! あれは! なんてことだ! 塚原先輩の胸が! 胸が前に押し出されるようにして存在を強調している……!!!!
あんなことを淑女がしていいのか……! いい訳無い。そうじゃ無きゃ僕がこんなに興奮するわけないじゃないか! 早く止めに行かないと。
いや……でも、他に誰も見てないみたいだぞ。その証拠に他の人は興奮していない。だったら、もう少し見てても……。
だが、そんなゲスな思考は中断された。塚原先輩がこっちに気が付いたのだ。彼女はストレッチを止めると、小さく、控えめに手を振る。
ちょっと恥ずかしそうにしている所が余計に、男心をくすぐって、僕も手を振り返す。……何というか、浄化される。僕は何でこんな素敵な人に……考えるのは止めよう。紳士タイムはいつだって突然なのだ。変化は秋の空よりも激しい。それにあらがう事は難しい。とってもね。
そう思考に決着をつけて、彼女に近づいて声をかけた。
「こんにちは、塚原先輩。受験勉強ですか」
「うん、そう。丁度キリの良い所で終わったの。そしたら、橘君と目が合ったからさ、ちょっとびっくりしちゃった。いつから見てたの?」
「本当についさっきですよ。伸びを始めたぐらいから」
「そっか」
彼女はそう言ってほほ笑む。
「ところで今は時間大丈夫かな。良かったら休憩がてらお話をしたいんだけど……」
「大丈夫ですよ。僕も丁度、探し物が終わった所だったんです。空振りでしたけど」
「そうなんだ、残念だったね」
僕の探し物が空振りで良かった、なんて言って来そうな意地悪な顔だ。でも、微笑ましくもある。彼女が殆ど見せない顔を引き出せたことが嬉しかったのだ。自然と表情が緩む。
「隣、座ったら? 丁度空いてるし」
「あ、はい。じゃあ失礼しますね」
塚原先輩が自分の横の椅子を叩き、僕はそれに逆らうこと無く椅子を引く。でも流石にすぐ隣は恥ずかしかったから、ちょっとだけ距離を開けた。
ふと自然に置いてあったノートが目に入る。意外な事に自分が見た覚えのある公式が目に映った。
「あ、これ、丁度この間授業でやりました。復習ですか?」
「うん。たまにするようにしてるの。数学は特にはるか前にやった公式が、突然もう一度出てきたりするでしょ? それで」
「そういう時がありますよね、数学って。知らなくても解けないことはないけれど、知ってた方が格段に早く解けたりもして」
「そうそう。もしかして橘君は、数学得意?」
「他の教科に比べれば得意な部類ですよ。成績がいい方ではないんですけど、その中で数学だけはマシなんです」
「そうなんだ。なんか……意外だね」
「信用ならない、みたいな顔で見ないで下さいよ。僕にだって取り柄はあります」
「ふふっ、ごめんなさい」
彼女はそんな思ってもいないと分かるような謝罪を述べて見せた。でもそれで不快な感じはしない。これが美也だったら、怒鳴りつけてしまうかもしれない。なんだか不思議だった。
「それにしても、塚原先輩はすごいですね。部活に加えてこうやってちゃんと勉強もして、僕にはこなせる自信がありませんよ」
「そうかな? 部活はともかく、受験勉強は来年嫌でもやるようになるよ」
「そういうものですかね?」
「そういうものよ」
僕の言葉に先輩はそう相槌を打った。来年、か。僕も受験まで一年を切りそうになってきた。進路なんてまだこれと言って整理がついていない。来年の僕はどうしているんだろうか……。
そんな疑問に思考を巡らせ、答えが出ないまま、もう一つ疑問が浮かび上がった。
「そういえば、塚原先輩って進路はどうするんですか? 聞いた事、無かったですよね」
「私の進路? ……言ってなかったかな?」
「言われた覚えがないです」
「そうだったっけ。まあ、君ならいいかな」
彼女はそう前置きする。
「私、国立の医大目指してるの」
「え? じゃあ、お医者さんになるんですか?」
「そうだね。最終的にはそうなれたらいいなって思ってるよ」
「……すごいですね、塚原先輩は」
自分の中で再確認するように僕は言う。僕にしてはやけにか細い声だった
塚原先輩とは元から距離がある。彼女は水泳部の部長で、成績もよくて、好みはあるだろうけれど、僕からしたら間違いなく美人で……優れたところを挙げればきりがない。それに加えて、将来はお医者さん志望ときた。
最近は縮んできたと思っていた距離感がまた開いていってる。彼女を知る度にその感覚が強くなっていた。
塚原先輩が遠くに行ってしまうのが嫌だ。
願わくは自分の近くにいて欲しい。
そう思うけれど、それが許されるほど僕は優れた人間ではない。……どうしても身の程が違うと、感じてしまう。
「どうかしたの?」
「いえ、すいません。ちょっと、考え事をしてたんです」
「そっか。随分と考え込んでいたみたいだし……何か悩み事?」
「まあ、そう……ですね。ちょっと悩んでます」
そう言葉を返すと、塚原先輩はじっと僕の顔を見たあと、話を切り出して来た。
「良かったら話してみない? 話すことでいろいろと楽になったり、整理できたりするのよ」
「そんなに都合よくいきますかね」
「いくよ。ラバーダッキングって言ってね。物事が行き詰ったときに人形なんかにそのことを話してみたりすると、頭の中が整理されて、解決に導きやすくなるのよ。もともとは──」
塚原先輩はちょっとした雑学を述べていく。でもすぐにハッとしてそれを中断した。
「あ、ごめんなさい。無駄に話が長くなっちゃった。悪い癖だね。ともかく、自分の中の物を整理する意味でも、誰かに話すって行為は結構効果的なんだよ」
「そう、ですかね」
「うん。でっち上げていないから安心していいよ」
塚原先輩は僕へ微笑みかける。本当に気遣いができる人なんだよなぁ、としみじみ思う。こういう所が水泳部の部長を務めるにあたって評価されたのかもしれない。
後輩である美也や七咲が慕うのも納得がいく。
ただ一つ問題がある。それは内容が塚原本人も関わる内容だということだ。
「……気持ちはありがたいんですけど、勉強の邪魔になってしまうかもしれないですよ?」
「今は休憩中。構わないってこのぐらい。私としては君にそんな顔をさせたままおしゃべりをしたくない。……というのが本音なんだけど」
それを言われてしまうと弱い。どんな表情をしてるのか自分では分からないけれど、少なくとも笑顔にはなれていない。だから僕は、
「そう、ですね。じゃあ思い切って相談させて貰おうと思います」
話すことを選択してしまう。
でも正直に話すことはどうやってもできそうにない。さっきも言った通り彼女にも関連のある話なのだ。
だから、せめてもの抵抗として内容を濁しながら話すことにした。
「僕には、どうしても欲しいものがあります」
「それは、どんな?」
「ちょっとここでは、言いづらいです」
「そっか、ごめん。続けて」
そう促され、僕は話を続ける。
「でも、それを知れば知るほど、どうにも自分に似合ってないとか、相応しくないんじゃないかって思えてきちゃうんです」
「うん」
塚原先輩は頷く。彼女は事態の把握に神経を注いでいるようで、先輩自身の意見は含まれていない。そのことに気が付いてしまう。
もしかしたらさっき言っていたラバー……ラバー何だっけ? まあ、いいや。ラバー何とかを意識しているかもしれない。あれはぬいぐるみに話かけてる。どこまで言っても自己解決。それ故に先輩の意見を混ぜる事をしない。……のかもしれない。
確かめるために先輩に話を振ってみることにした。
「……そういう時、先輩だったらどうしますか」
「え、私? それを聞いたら私の意見になっちゃうじゃない。変なミスしても責任取れないよ?」
やっぱりそうだった。
その事に不満があった訳じゃない。塚原先輩が僕の事に真剣になってくれた結果だと言うことは理解しているから、それだけは絶対にあり得ない。
でもやっぱり──
・SELECT↑↓
●塚原先輩の意見も聞きたい。
●いや、自分で答えを出すべきだ。
塚原先輩の意見も聞きたい。自分だけで考えるのはもう限界だった。自己解決できる領域はとっくに通り過ぎている。そうでなかったならもっと楽しい気分であるはずなのだ。
「参考にまでに留めておくので教えてくださいよ。塚原先輩の考え」
「そうね……」
顎に手を添えて塚原先輩は考える。断られるかと思ったんだけど、こんなにすんなりと話してくれるとは思わなかった。意外だ。
そんな事を考えつつ彼女の言葉を待つ。
「私は基本的には背伸びはしない
「そ、そうですか……」
「あ、でも結局物にもよるかな」
「もの、ですか」
「うん。洋服とかだったら、自分にサイズが合わないとか、値段がちょっと手を出しにくいものだったとするでしょう。でも、季節が変わったらお店の物が変る。そうなったらもう二度と手にする機会がないかもしれないし……後悔するかも」
意見が行ったり来たりしてまとまっていない。その一感性のなさに僕はつい笑ってしまう。きっちりかっちりしてそうな塚原先輩がそんな風に言うギャップがちょっと、面白かったのだ。
「ちょっと、笑わないでよ」
「すいません。こらえきれなくて」
「もう、そんなこと言ってると相談に乗らないからね」
塚原先輩は不満有り気なため息を付く。本気で怒っている訳ではないんだろうけど、こういう風にムスッとしている先輩も悪くない。
大人びている先輩だからこそ、幼さを垣間見ると、可愛らしく感じてしまう。
「それは、困っちゃいますね。すいません」
「分かってくれるなら良いけど……」
「話を戻すけれど」と先輩が言葉を区切った。
「どうしても諦められないなら、それが似合うような、相応しい自分になれるように頑張るんじゃないかな」
相応しい自分になれるように頑張る。その言葉がやけにスッと胸の中に入ってきた。足りないものは、ある。だからこそ足していく。
これからの自分に必要な物がその言葉にはあったように思えた。
「ありがとうございます。参考になりました」
僕は立ち上がる。自分の中で一通り区切りがついたから、更に言えばこれ以上先輩から時間を奪いたくなかった。
「……もう行っちゃうの?」
「はい。用事も済みましたし、塚原先輩のおかげでいろいろとすっきりしたので」
「それは良かった。じゃあ、また今度だね」
「はい、また」
僕は軽く手を振って、図書室から去る。
先輩が名残惜しそうに、僕を見送ったのが何だか嬉しいかった。距離は縮まっている。見えなかったものが見える様になっただけだ。
塚原先輩のように、自分を高めていけばいつかは──
そうなれるように頑張ってみよう。