――ドクン、ドクンと世界の鼓動する音が一定速度で刻まれていた。
その世界を構成する肉塊が、鼓動のリズムに合わせるように脈動する。
生物の体内。
そんな表現が相応しい其処は、一種の魔力炉だった。
赤黒い肉塊と共に世界が脈動するたび、天文学的な量の魔力が産出されて、何処かへと循環していく。
マグネタイトの海に沈んでいると錯覚するほどの濃密な魔力。
地球上の全ての魔力を一か所に集中させたと説明されても信じられそうな其処は、魔界の奥深くに存在していた。
どのような超常存在でも一切の制約を受けずに活動できそうな、悪魔にとっての超一等地であるその場所には、当然のように支配者がいる。
数千年前からアザセルと名乗り、人間にもそう呼称されている強大な悪魔は、その支配者に呼ばれて肉の廊下を黒いマントを靡かせて歩いていた。
堂々たる立ち振る舞いの外見からは分かり辛いが、その実アザゼルはこれ以上ないほど緊張していた。
意識は研ぎ澄まされ感覚は鋭敏に。発散される気配はまるで戦闘時かのように刺々しい。
原因はアザゼルが向かう先を見れば、勘の鋭い者からは一目瞭然だった。
アザゼルの目的地、その場所から放たれる圧倒的な存在感。
魔界の中でも上から数えた方が早い実力者のアザゼルを軽く捻れるような者が発している気配だった。
無風の廊下に地吹雪でも発生しているかのように背筋が冷え、一歩足を進める度に気圧される。
ただそこに“居る”というだけでアザゼルの本能は警鐘を上げ、ここは死地と錯覚してしまう。
どんなにイカれた悪魔でもここに長居をしたいとは思わないだろう。よしんば思って実行したとしても、精神に異常を来すに決まっている。
最上級悪魔ともいえるアザゼルですらそうなのだ。
悪魔にとっては超一等地といえる其処は、支配者のせいで無人の世界と化していた。
やがて廊下の先に切れ目が見え、その更に先には巨大な空洞が広がっていた。
その空間へと迷いなくアザゼルは地から足を離して浮かんでいく。
漂う魔力の濃さが増し、それに比例するように感じる威圧感も増大する。
後ろで肉の廊下が独りでに閉ざされた。
空洞の上方は悪魔の視力をもってしても天井は見えず、下も同様に底が見えない。横幅も閉塞感など感じない程に広い。
そんな超常的な空間をホールだとでも強調するかように、舞台のようなものが宙に浮いている。
其処から放たれる気配に圧倒されながらも、意を決してアザゼルは舞台へと降り立った。
中心には二つの人影があった。
一際目につくのがこの圧倒的な存在感の持ち主である安楽椅子に腰かけた金髪の女性だ。
まるで邪神に仕えているかのような悍ましい色彩の修道服を身に纏い、不気味な微笑を湛えているその女の名前は、サリエラ・ザストーアといった。
――ある日突然、この魔界にやって来た人間だ。
決して多いとは言えなかったが、それでも当時それなりの数がいた最上級悪魔達を一掃した化け物でもある。
とはいえ、それ自体はアザゼルにとってのマイナスではない。忌々しい競争相手が減ったのはむしろ喜ばしいことだ。
問題はそんな化け物がアザゼルの上に君臨してしまったという事実。
ついでに言えばその人間は、悪魔はもちろん、何があったのか人間にすら深い憎悪を抱いている狂人でもある。
その背後にはもう一つの人影、従者のように佇む喪服の女がいた。
最上級悪魔にも数えられるくせにいつの間にやらサリエラに媚を売って、真っ先に己の安全を確保した気に食わない輩である。
「ご足労掛けましたね。ようこそいらっしゃいました、アザゼル」
地面に降り立ったアザゼルへ向けられた、サリエラからの労わりの言葉。
口調や仕草は丁寧で、おっとりとした容姿も相まって、一見まともそうに見えるかもしれない。
だが騙されてはいけない。そんな穏やかな調子で問題を起こした悪魔を粛清してしまうようなイカレた奴が、サリエラという人間なのだから。
まあ奴の狂人染みた昏い双眼と目を合わせれば、勘違いなど悪寒と共に一瞬で晴れるだろうが。
合わさった視線から伝わる狂気と威圧感に、アザゼルの中の気弱な部分が跪いて許しを請いたい気分にさせるが、プライドにかけて絶対に拒絶する。
「ふん。それで要件とはなんだ」
飽く迄対等な関係だと主張するように、アザゼルはサリエラの事など物ともしていないと気丈に振る舞う。
その性急な言葉には、さっさとここから離れたいという切実な願いもあった。
アザゼルの不敬な言動に喪服の女から苛立ったような気配が伝わってくるが、従者という役割に徹しているのか主の許可なく口を挟んだりはしてこない。
喪服の女は戒告の許可を求めるかのように背後から視線を送るが、当のサリエラは気にした風もなく、たおやかに答える。
「人間界の侵攻の件についてです」
半ば予想していた言葉を聞いて、アザエルは内心で思いっきり顔を顰めた。
人間界への侵攻とはサリエラが魔界のトップに君臨してから暫くして、頃合いを見てアザゼルが提案した計画である。
アザゼルが自分の為に立案した計画は、拍子抜けするほど簡単に受諾された。しかし……。
「ああ、遂に決心がついたか? お前の号令があれば人類など即座に奴隷化できるだろう」
「いいえ、残念ながら今回はそのお話ではありません」
ふふふ、と穏やかに、捉え方によっては馬鹿にしたようにサリエラは微笑んだ。
手を上げれば殺されるのは自分である。怒りに胸が焼かれながらも、アザゼルは身を震わせながらもどうにか堪えた。
そう、アザゼルの計画は、サリエラからの露骨な妨害にあっていた。
アザゼルにはアザゼルの目的があったように、サリエラにはサリエラの目的があったようである。
今から思えばアザゼルは利用されただけだった。
彼が立案した計画で実行されたのは『人間界に侵攻する』ということぐらいか。後は殆どサリエラによって改変されていた。
計画通りにいけばアザゼルが地球を支配していただけに、本人としてもそのまま通るとは夢にも思っていなかったが、意義があるなら逆らって死ねと言わんばかりの過酷な対応は予想外だった。
この時のアザゼルは、サリエラに外面で騙された者の一人であった。
「一二月二五日は何の日か、ご存知ですか?」
「人間界の事情など知るか」
「そうですか……。では、ナイア。あなたは知っていますか?」
くだらない話をするなと言わんばかりにアザゼルに一刀両断されたサリエラは、若干しょんぼりとしながらも後ろの喪服の女に振り返り、期待するように問うた。
「確か……メシア降臨の記念日でしたでしょうか。なんでもメシア教徒を中心にして盛大に祭りを行い祝うとか」
ナイアと呼ばれた喪服の女は、それだけをどうにか絞り出した。
過去に主であるサリエラが詳しく語っていた記憶があったが、馴染みの薄い風習は良く理解できず、その時の主の言葉の大多数は忘却の彼方へと追いやられていた。
しかしなんとか及第点は貰えたらしい。
サリエラは笑顔で頷くと、アザゼルに向き直り話を再開した。
「その記念すべき日に、悪魔の侵攻を再開させます」
「……詳細は?」
驚愕しながらもそれは表に出さず、アザゼルは静かに聞き返す。
それに本格侵攻の可能性は先程否定された為、それほど大した規模でもないのだろう。
しかし中級悪魔が一〇〇体もいれば、一息とまではいかないまでも人間界を制圧するには十分すぎる。
侵攻と銘打つ以上はあまりにもしょっぱい戦力ではないだろうと、期待せずにはいられなかった。
「世界の一〇〇万都市にそれぞれ一体、中級悪魔を放ちます。貴方にはその悪魔の選別をして頂きたいのですが……」
こ、これは……。いや、喜ぶには早い。もう少し確認しなければ。
アザゼルは動揺しながらも口を開く。
「必要な数は?」
「そうですね……五〇〇もあれば十分かと」
「! いいのか? そうなれば人類は確実に滅ぶぞ」
今まで邪魔し続けていたお前がどんな心境の変化だと、思わずそんなことを聞いたアザゼルに対し、サリエラは不気味なほどに笑顔だった。
「ええ、構いません」
「ほう……だがそんな手段ではとても効率的とは言えんな。俺に任せれば――」
その先の言葉は出てこなかった。
殺気を向けられた訳ではない。サリエラと視線が合わさっただけ。されどそれだけのことで、アザゼルの言葉は遮られた。
「その侵攻が順当に行ってしまうようであれば、人間界にはもう興味はありません。地球はあなたの好きにしてくださって結構です」
そのサリエラの言葉に、アザゼルは耳を疑った。次いで言い間違えを疑う。
いつも通りのサリエラの微笑と、その背後で慌てた様子のナイア。それを見て、アザゼルは漸く聞き間違えでも言い間違えでもなかったのだと確信できた。
「地球を俺の物にしていいと。その言葉に二言は無いな?」
「ええ。ただし侵攻直後はしばらく様子を見させてもらいます。権限を委譲するのはその後です」
やけに気前のいいサリエラを不気味に思いながらも、アザゼルは欲を出した。
貰えるものなら早く貰いたい、と。
「しばらくとは三日ほどでいいのか? 確か“しばらく”という概念はそのぐらいの期間だったと記憶しているが」
“しばらくは数分だ”と強弁しようかも一瞬考えたが、流石に命は惜しい為に自重した。
「分かりました。では侵攻後、七二時間以内に派遣した中級悪魔が人間に斃されることがなければ、そのように」
怖くなるほど望外の条件である。アザゼルは考えるまでも無く頷いた。
「しかし、どうやって人間に斃されたと判断する? 同士討ちの方が可能性としては高いだろう」
「参加する全ての悪魔に私の力を少量注ぎます。敗れればその力の行方で判断できるでしょう。……不正を疑うようなら貴方も一緒にやりませんか?」
「……ああ、そうさせてもらおう」
内心ではやりたくないと思いつつも、アザゼルは了承した。
一つ一つは大したことは無いが、それが五〇〇となると結構な魔力の消費であるからだ。
その上、ここから産出される規格外の魔力を支配しているサリエラと、一等地とはいえここより遥かに劣る生産地しか所持していないアザゼルでは魔力の価値も違ってくる。
かといって魔力の無心は出来ない。プライドの問題もあるが、それ以上に現実的な問題が存在する。
魔力を供給する際に必ずと言っていいほど提示される契約を結んでしまうと、供給側に受給側は物理的に逆らえなくなってしまうのだ。
サリエラが人間界にばら撒いている悪魔召喚プログラムとやらと原理は同じである。
確かに魔力の供給を求め、サリエラに下ればナイアのような形で生き延びることはできるだろう。
しかしそのデメリットは、下剋上を虎視眈々と狙い、それに芽が出始めていたアザゼルにとっては甘受できるものではなかった。
「要件は終わりか?」
「ええ。では、アザゼル。派遣する悪魔の選別は任せましたよ?」
安楽椅子に座ったサリエラが、手を翻すと何らかの魔法を発動した。
それは今取り決めた内容の遵守を強制させる、契約の魔法である。
ほんの数秒で二人を縛るだけの膨大な魔力をいとも容易く籠め終わり、後はアザゼルの返答があれば正式に契約が結ばれるという段階にまでなっていた。
本来ならば、二人の様な力を持った悪魔を強制できる契約は、こんなインスタントに用意できる代物ではない。
そんな規格外の力を見せつけたサリエラは、常と変らぬ微笑を湛えながら静かにアザゼルの返事を待っていた。
「……任された」
一分ほど後。変な契約が盛り込まれていない事を何度も何度も確認して、アザゼルは漸く了承の言葉を口にした。
その言葉に反応して、疑似的な契約書に籠められていた魔力が二人の体に溶け込むように包み込んだ。その魔力は平時は全く違和感を感じさせないが、契約を違反した際には苦痛を齎す非常に頑丈な鎖へと変貌するのだ。
「契約、成立ですね。……ふふ。クリスマスが楽しみです。これほどまでに待ち遠しい気持ちになったのは、私が幼子だった頃以来でしょうか」
ふふふ、と珍しく恍惚とした様子を見せるサリエラに面喰いながらも、狂人に構っている暇などないアザゼルは無言で舞台から飛び立った。
アザゼルは、サリエラの不可解な行動の先にある目的を、敢えて聞かなかった。
どうせ本心は口にしないと思い込んでいた事もあるが、仮に本当の事を教えられたとしても、こんな意味不明な過程を経てから達成できるような目的である。
きっとそれは、過程と同じく目的も意味不明なものだろう。きっとアザゼルには嘘としか思えないに違いない。
目的など聞かされても考えが乱されるだけ。狂人の思考など捨て置くのが正解なのだ。
その真意などは考えず、生まれた隙に罠だけを警戒して食いつけばいい。
遠ざかる浮遊した舞台を背に、アザゼルは思考を巡らせていた。