東京の某所、裏通りに構えられた居酒屋。大通りから離れてはいるものの、知る人ぞ知る名店である。
その店のカウンター席に一人座る男、神田正輝。ぴしっとしたワイシャツにスラックスを身につけている彼は、駅前の予備校に国語の講師として勤めている。仕事終わりにしばしばこの店に飲みに来るのだ。
彼が大学生の頃から通い続けているこの居酒屋は、壮年の夫婦が経営していて、価格のお手頃さと夫婦の人当たりの良さから、すっかり彼は馴染みの客となっていた。
大学の頃の友人や仕事先の同僚と来ることもあるが、彼は一人で酒を嗜む時間も好きだった。しかし、そんな彼にも一か月ほど前に飲み友達ができた。
「隣、いいかしら」
どこか奥深さを感じさせる、美しい声。その声に少しドキリとしながらも「どうぞ」と返す。
声の主は軽いお礼の言葉とともに彼の隣の席へと腰を下ろし、店の主人に日本酒を注文した。
紫色のゴスロリチックなドレスに、不思議なフリルのついた帽子と長く伸びる透き通るような金髪。その深みある声にふさわしい美貌は、穏やかな笑みを浮かべていた。
この美女こそが正輝に最近できた飲み友達、八雲紫である。
「いい夜ね」
「そうですか? 東京の夜なんて騒がしいことこの上ないですよ」
正輝の返しに、紫はやれやれと肩をすくめる。
「こういう時は素直に『そうですね』とか返せばいいのよ。そんなだからその歳になっても結婚できないのよ?」
「うぐ……」
正輝はもう二十五歳になる。周りは結婚したり恋人ができたりという話題が増えてきているのだが、仕事一筋の正輝にとってはとんと縁のない話であった。
「べ、別にここ最近は晩婚化が進んでるからいいですよ」
だから、虚しい強がりをするのである。
「——それに、紫さんのような美人な飲み友達がいれば今の所は満足ですから」
この言葉は本当だった。こんな美人の隣で飲めるのだから、彼にとっては嬉しい限りなのだ。
そんな彼の言葉に、紫は微笑みを浮かべる。
「ありがとう。今の言葉なら少しはモテそうね」
「さいですか」
これと言って表情を変えず、正輝は焼き鳥を一切れ口に放り込む。甘辛いタレと鶏肉のじわりとした肉汁が程よく混ざり合い、旨味で口が満たされる。
そのまま皿から一串焼き鳥を取って、皿を自分と紫のちょうど真ん中に移動させると、
「どうぞ」
と、勧めた。
正輝の隣で日本酒をちびちびやっていた紫は、にこりとしてから一串持ち上げて口に運んだ。
ゴスロリ調の格好をした金髪美女が焼き鳥を頬張るというのはなかなかにシュールな光景だが、不思議と違和感はなく、むしろ絵になっていた。
「ん、やっぱりこれおいしいわね……」
しんみりと感想を漏らした。
「そうでしょう。僕が大学の頃からこの味は変わってないんです」
正輝がまるで自分のことのように言うと、紫はうなずいて、
「この味は変わらずに残って欲しいわね。——幻想郷も……」
「げん、何ですって?」
正輝が聞き返すと、紫は綺麗になった竹串を振って、
「こっちの話よ。気にしないで」
と言った。
そういうことならと、正輝も深くは尋ねようとしなかった。
◆◆◆
「——ふぅ、美味しかったわ」
一時間ほど飲み続けた二人は、会計を済ませ店の外にいた。
この辺りは裏道なので、人通りはほとんどないが、大通りの喧騒はここまで聞こえてくる。
そこそこのアルコールが入った正輝は、温かさと軽い酩酊感を覚えているが、紫の方は顔が赤くなることもなくただ満足げな笑みを浮かべているだけだ。
「前から思ってましたけど、お酒強いですね」
「そうでもないわよ。私の知り合いにはいつでもお酒が出てくる瓢箪持ってるのもいるし」
「それ、大丈夫なんですか……?」
「本人曰く、シラフでいた頃の記憶は遥か昔だそうよ」
「マジですか……」
軽く引き笑いを浮かべる正輝。そんな恐ろしい酒豪がいるのなら、一度お目にかかりたいものだ。
「それじゃ、私は行くわね」
「送っていきましょうか?」
正輝が提案するも、紫は首を横に振った。
「すぐそこだから大丈夫よ。それよりも、私があなたを送った方がいいのではなくて?」
「これでも僕は男ですよ。まだそんなに酔ってないし」
「そう、それならいいわ。じゃあ、またね」
「お気をつけて」
「ふふ、あなたもね」
そう残して、紫は駅の方へと歩いていった。
「——さてと、帰るか」
裏通りは街灯も人通りも少なく、少しばかり寂しさも感じられる。
閑静な住宅街を歩く正輝を、銀白色の月が幽雅に見下ろしていた。
◆◆◆
正輝は住宅街の中にあるマンションに住んでいる。そしてその自宅の玄関の前で、彼は絶句していた。
「はぁい、さっきぶりね」
優雅に手を振るのは、飲み友達の美女。
「どうも、さっきぶりです」
あまりにも自然な挨拶に、正輝もつい応じてしまった。
「——って、いやいや。なんでいるんですか? ていうか僕の家教えましたっけ?」
「いつだったかあなたが酔い潰れた時、ここまで運んだのは誰だと思って?」
「あれ、紫さんが運んでくださったんですか」
二か月ほど前、珍しく正輝はべろっべろに酔っ払って、翌朝玄関前に倒れていたことがあった。どう帰ったか記憶がなかったのだが、まさか紫が運んでくれていたとは。
「それは……その……大変ご迷惑をおかけしました」
今更ながら、深々と頭を下げる。こんな美女に失態を晒してしまったことと、一社会人としてのだらしなさの羞恥心に襲われる。
そんな正輝を見て、紫はくすくすと笑いながら「顔をあげてくださいな」と声をかけた。
そして、その妖艶な笑みをさらに深めてそれに、と付け加える。
「あの夜は楽しかったですわ。あなたったら普段からは考えられないほど積極的で……」
「はあ!?」
目を剥く正輝。
そんな彼に紫は言葉を重ねる。
「嫌がる私をこんな場所で無理やりっ」
「え、あ……はっ……こんな場所って……僕はっ……外で……?」
女性経験皆無の自分が、酒に酔ってとはいえ付き合ってもいない女性に手を出すような積極性を持ち合わせていたとは。正輝の脳内はパニック状態。
しかも嫌がる婦女子相手に迫るなど、酒に酔いつぶれるどころの問題ではない。
正輝は混乱しながらも即座に土下座した。
「申し訳ありませんでしたっ」
次の言葉が出てこない。女性を最悪な方法で傷つけてしまったという罪の意識が正輝をぎりぎりと締め上げる。
土下座の姿勢のまま、たっぷり一分は経っただろうか。
ふと頭上から押し殺したような声が聞こえ、正輝は恐る恐る顔を上げた。
すると、壁に手をついた紫が顔を真っ赤にして、肩を震わせながら忍笑いしていた。
そんな彼女を見て、正輝は全てを察した。
◆◆◆
「ごめんなさい。あそこまで劇的な反応するとは思わなくって……まさか、玄関前で……くふっ……全力の土下座……くくっ……」
正輝の家に上がってからもずっとこんな調子である。
「…………」
正輝はじっとりとした目を紫に向ける。
「あの、紫さん?」
「あっはははははははは!! ……はあはあ……ごめん、なさい。ツボに入ってしまって……くふふふふっ……」
「性格悪いですよ。異性に耐性のない男をそうやって」
目元の涙を拭って、紫は手を合わせた。
「ごめんなさい。ホント、悪いことしたとは思ってるのよ?」
むすっとした表情を崩さない正輝。
紫はどこからともなく一升瓶を取り出したテーブルの上に置いた。
「ほら、美味しいお酒も持ってきましたから、二次会と洒落込みましょうよ」
「どっから出したんですかその瓶……ま、いいです。えーっと、おちょこはどこにやったかなぁ……」
キッチンの棚の奥から使ってないおちょこを取り出した辺りで、正輝は気づく。
「ツマミ、うちにないですけど。買ってきます?」
「結構です。もうありますわ」
見れば、一升瓶の横にいつのまにかツマミの袋がある。
「どっから出したんですか、本当に……」
「まあまあ、細かいところは気になさらずに。ほら、座って」
「はいはい」
正輝が紫の対面に座る。
「あら、隣に座ってくださらないの?」
「まだからかうつもりですか?」
「からかうだなんてとんでもない。ただ隣に座って欲しいだけですわ」
「ほんっと、この人は……」
ここで動かないというのも何かに負けたような気がして癪だ。正輝は腰を浮かせて、紫の隣に移動する。
「ふふっ、ゆかりん嬉しい」
「ゆかりんって何ですか、ゆかりんって……」
平静を装ってはいるものの、正輝の内心は決して穏やかなものではなかった。何せ、横を向けばすぐ美女の横顔があるのだ。心中穏やかでいられるはずがない。
「どうしたの、ぼーっとして。ほら乾杯しましょ」
「何に乾杯するんです?」
「私たちの親睦の深まりに」
「先ほどの一件で飲み友達やめることも検討し始めたところですが?」
ちょっとした仕返しのつもりで言ってみる。
すると紫は少し寂しそうな表情をした。
「…………本当に?」
放たれた言葉はどこか弱々しい。
予想外の反応に、正輝は戸惑った。
「い、いえ。冗談ですが」
「そう」
それ以上は何も言わずに、紫はおちょこを傾ける。その表情から彼女の内心を読むことはできないが、しかし。
(ちょっと、可愛かったな)
初めて見た彼女の顔に、正輝の鼓動が少しだけ速くなった気がした。
なんだか妙にやりにくい。正輝は今になって緊張を覚えた。よくよく考えれば、夜遅くに美女と自宅で二人きりなのである。それを改めて認識すると……。
(いや、落ち着け。紫さんはあくまで飲み友達なんだから、変に意識しちゃだめだ……)
自分に言い聞かせるも、そう思えば思うほど、意識してしまう。
「ねぇ、正輝」
「は、はいっ」
少しだけ声が裏返ってしまう自分が情けない。
「さっきの話だけど」
「友達の件ですか? 大丈夫ですよ。別に紫さんを嫌いになったりしませんから」
「じゃあ、好き……?」
「〜〜!? ゴフッ、けほっ、けほっ」
むせた。
明らかにお酒とは関係ないところで体温が上がっていくのを正輝ははっきりと自覚する。
「っあー、えーと、ですね……」
紫はじっと正輝を見つめてくる。彼女の頰は明らかに紅潮している。妙に色っぽい。視線をそらせない。
しどろもどろに正輝は口を開く。
「紫さんは、その……一緒に飲んでても落ち着きますし、話してても疲れないというか、心地いいというか——」
「ごまかさないで」
言葉を遮り、紫は正輝に抱きつき、押し倒した。
ところが正輝の背中に硬い床の感触は訪れなかった。代わりにふわっとした布団の感覚。
「えっ、ここ寝室? あれ、居間にいたはずじゃ……紫さんこれどうなって——んむっ」
唇に柔らかな感触。すぐ目の前に紫の顔。ワンテンポ遅れて何をされているのか理解する。
すぐに紫の顔は離れた。時間にしてわずか数秒のことだったが、正輝には一分にも、一時間にも感じられた。
「あ、あの、紫さん……?」
どうして、という疑問の意思を込めて彼女の名を呼ぶ。
それには答えず、紫は正輝の耳元に顔を寄せる。
「————」
◆◆◆
朝。窓から差し込む光で正輝は目を覚ました。
全身が重い。
昨日のアレは彼からすれば夢のようにすら思えることである。というか、すぐ真横に彼女がいなければ夢だと結論づけたに違いない。
「これはどうするのが正解なのか……」
「正解なんてないわよ」
「起きてたんですか」
どんな顔をして彼女を見ればいいのか、分からない。
「あなたにその気がなければ今のままで構わないし、その気になってくれるのなら私は嬉しいけどね。……ただ、あなたとお酒が飲めなくなるのは寂しいわ」
「そうですか」
正輝は自分の気持ちがはっきりとしない。でも紫とこれきりで会えなくなるというのが嫌だ。それだけははっきりしている。
「考える時間をいただけますか」
結局こんな玉虫色の答えしかできない自分に心底呆れる。
紫は気分を害した様子もなく、微笑んだ。
「好きなだけ考えなさいな。時間はたっぷりあるのだから」
「すみません」
「いいのよ。それよりお腹が空いたわ。朝ご飯、いただいてもいいかしら?」
「はいはい。今から作りますから、待っててくださいね」
紫さんのお話でした。
展開やら描写やらもっとできることはあった気がしますが、作者の限界です。許してください。
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