>AKATSUKIYAMIさま
あの女には自覚があるのかないのか――自覚があるならばあんな悪びれない態度など取れないだろうから、きっと無自覚に悪辣なのかもしれない。
人類が捨て去ったはずの姦淫によって人心を惑わし、世を混乱させる悪魔。イブの楽園追放をもたらした蛇。性に狂った堕落者を産み出す淫婦。愛という言葉に泥を塗る恐るべき煽動者。正しい信仰心を持つ者には受け入れがたい、もはや滅ぼすべき魔王そのもの。政界にもあの女を野放しにしている日本にきちんと指導すべきだと唱える者は多い。
「接触は失敗だ。全てな」
『嘘でしょ!? 交通事故でもダメだったの!?』
「警察を呼ばれた。嫌になるくらい冷静で全うな対処だった」
宮野明美との接触時には成功を収めた手段だが、あの女――カラメル半月を名乗る女には全く効果がなかったどころか、強請の当たり屋扱いを受け服の中に万札を突っ込まれる有り様だ。
長いため息を吐きながら頭を掻きむしる。国際通話の遠い声が今は鼓膜にちくちくと刺さってならない。
――アメリカをはじめ、先進国の多くが「性」ブームに荒れている。人類が捨てたはずの原罪の一つが、一人の日本人の姿をとって再び世に現れた。それは今や子作りの手段でしかないはずの性行為に快楽を求め、恥ずかしげもなく「セックスは愛だ」などと宣う。人を堕落させるための嘘に「愛」という言葉を使うなど信じがたくおぞましい所業だ。
だが、いくら彼女が悪魔のような存在だとしても「法律に定められた罪を犯していない」彼女を逮捕出来るはずがない。だからと言って命を狙うなど短絡的な解決はもっての他だし、むしろ彼女が死ねばそれはそれで信者共が騒いでブームが悪化しそうだ。
「もはや打つ手なしだな。今回で顔は割れた、もしまだあの女への接触を試みるというなら俺以外の誰かにさせてくれ」
『分かったわ……お疲れ様、シュウ』
五年ほど前のことだ。あの女は「子供を作るための作業」であるべき性行為をメイクラブと呼び、小規模なサークル活動程度の組織でしかなかったカウンターカルチャーグループ――ボヘミアニズムやヒッピーがそれにより爆発的に沸いた。そしてあの女の悪魔を模した化粧を真似たミュージシャンが間欠泉のように人気の階段を駆け上り、ひたすら猥語を叫ぶだけの音楽や男女のべったりとした性行為を喜ぶ音楽がラジオから流れるようになった。
あの女は人類を退行させ、堕落させ、人々の視界を遮ろうとしているのだ。およそ正常や正義とは程遠い。
悪貨は良貨を駆逐するという。
あの女の流した毒は既に、消し去ることが困難なほど広がっている。この膿を絞り出すことはもう不可能なのではないか……そんな諦めが肺を重く満たす。あの女は法律を知っていて、常識があり、一般人の振りが出来る淫毒の塊だ。生きているだけで世界の害であり、しかし殺せば死体から毒が広がる。
もうこんなにも毒が広がってしまった後では、もはや人類が以前の姿に戻れないことは明白だ。だが、だからと言ってあの女の毒を放置することもできない。何らかの手段を取らなければ――しかし、その「何らかの手段」がどのようなものであるべきか、きっとこの世の全員が分からずにいる。
ため息を吐いたが、コールタールは肺の奥深くに沈んだままだった。
カラメル半月という作家を知ったのは、大学二年の始めのことだった。流行に敏い学友が教室に持ち込んだ十数ページの薄いB5サイズの冊子には「性春―エロス―1・2」と書かれ、作者の名前だろうカラメル半月なる文字列もあった。
「なんだ、これ」
「今ネットで話題の同人! 頭おかしいくらいやばい列に並んで手に入れた戦利品!」
その場にいた友人連中で車座に机を囲み、今までに見たことも聞いたこともない情報の書かれた紙面を読んだ。とうてい本当のことだとは思えずオカルト本だろうと結論が出かけたが、実験好きの一人がこう言ったことで流れが変わった。
「実験してみようぜ。これを試したところで死ぬわけじゃなし、オカルトだったならオカルトだったってことで良いじゃん」
罰ゲームでゲテモノを食べるよりはマシだろう、と今晩それぞれ試すことになった。冊子を水平に広げて写真を撮った後、言い出しっぺが「明日感想言うし聞くからな!」とニンマリ笑んだのをみんなで小突き回した。
――試した結果はまあ、天国を見たと言おうか、新しい扉が開けたと言おうか。まるで宇宙に放り出されたような軽い酔いと解放感があった。こんなストレス解消法があるなんて想像だにしておらず、気付けば二度目の解放を得ていた。
どうしてこんなことを知ることができたのだろうか。何か偶然の出来事があって、自らの体で調べたのだろうか? 次の朝大学で会った学友たちは目を輝かせてカラメル半月の凄さを褒め、俺もそれに賛同した。
誰かが新刊を手に入れてくる度、そしてそれを読む度、興味が膨らんだ。
大学四年の夏だ。半月先生が同人誌をまとめた新書を出版したことで大いに話題になり、テレビ番組に出ると呟きを見て番組を録画予約した。が、なんと先生の顔にモザイクが、声にはボイスチェンジャーがかけられていた。やはりテレビでの顔出しは身バレするからかと意気消沈したがしかし、なんと先生自身がその処理に困惑していた。後で番組側は「風俗を乱す化粧をしていたから」と説明したが、呟きったーは「は?」「ふざけるな」と大荒れに荒れた。番組側が勝手なことをしなければ半月先生の顔を見られるはずだったと思うと、俺も呟きったーに「無能」と書き込んでいた。後から顔出しでテレビに出るようになったが、確かに悪魔的なメイクで公序良俗を乱しそうだったのが面白かった。
その、一度は会ってみたい、話してみたい相手――半月先生と、まさかハニトラ教育で会えるなんて。
かつてはハニトラ対策授業だったそうだが、数年前からはハニトラを逆に取り込みトラップを仕掛け返す授業になったのだとか。流石だ。
「性行為ってね、お互いの気持ちが正直に出るのよ。バスやタクシーの運転と一緒でね、車に乗せてる相手をただの荷物だと思っていたら運転は知らぬ間に荒くなるし、気を付けて運ぶべき相手だと思っていたら自然と優しくなる。ただ自分だけが気持ちよくなるために腰を振ってたら相手を傷つけるだけし、相手のことを思いやった行為には愛が宿るのよ」
性行為は子作りじゃない、愛を育む行為だ。メイクラブだ! という発言が流行語大賞になったのはつい二、三年前のことだ。「子作り」という表現に重圧を感じている夫婦は案外多いのだろう。
その「愛ある行為」を武器に出来る。そう半月先生に太鼓判を押された俺はヒロに自慢した。だが自慢して良い相手がヒロしかいないのが少し、同期たちの顔が思い出されて寂しかった。
――身に付けた技術は裏切らない。快調過ぎてむしろ怖くなるほど簡単に黒の組織に潜り込んだ俺は、昨晩聞き知った情報を飴のように舐める。
黒いニット帽に膝近くまで伸びる黒のロングヘア、目付きが悪い悪人顔の男が先生の車に当たり屋をした……なんて、面白い情報だ。この組織は先生に対して「触らぬ神に祟りなし」「とりあえず拝んでおけ」「死んだ時に起きるだろう世界の混乱の方が怖い」というスタンスだし、まだ末端の一人とはいえ「宮野明美の恋人」をそう簡単に捨て駒には出来ない。ならばどうして諸星大は先生に接触を図ったのか。
他の組織にも所属しているか……接触を図らねばならない個人的な理由があるか。どちらにせよ組織からすれば困ったネズミだ。
「ねえ、面白い話を聞きませんか」
薄暗いバーに現れた黒いロングヘアの男に、俺はそう囁いた。