夏になってもセミの声が聞こえない。
暑い季節の風物詩は、いざいなくなると何とも寂しい物である。
かつては日がな一日鳴き続け、鬱陶しく思っていたとしてもだ。
長い年月の間に踏み固められた土の上、野を這う虫が視界の隅に消えていく。
この場所に人は近づかない。俺だけの空間で一人立ちすくむ。風に吹かれて、ざわりと木々が葉を鳴らした。
真っ青な空に入道雲がモクモクと盛り上がる。
青い木々が生い茂る山々は泰然とどこまでも広がっている。
今まで、生まれてからずっとこの景色を見て途方もない時間を過ごした。だが待てども待てども蝉しぐれは聞こえない。この世界にセミはいないのだと気づくのに時間はかからなかった。
「どうした。何が見える」
炎天下の中、じっと遠くを見つめる息子をどう思ったか、いつの間にかやってきた母は俺の横に立ち、視線を辿って訊ねてくる。
「なにも見えません」
「そうか」
ずっと遠くの空で、黒い点が行き過ぎる。
あれはなんだろう。鳥か。あるいは害獣か。
しばらく二人で遠くを見つめた。
目を細めた母が不意に言葉を発する。
「見えないことはない。結局は、どのように捉えるかだ」
「は……」
「目が見えるならば、見えるはずだ」
禅問答の様なそれに、言っている意味を少し考える。
「それは、意識しろということでしょうか」
「意識せずとも見えている。あるがままを受け入れよ」
「……」
「難しいことではない。普段お前が見てる世界は、お前が作り上げた世界だ。我執を捨てろ」
「はい」
どこが難しくないのか。誰が何と言おうとそれはよっぽど難しい。
「外に出て、帰らないから心配した。探してみれば、こんなところで遠くを見ている。丁度いい。刀はもっているな。構えろ」
早口に言い切って刀を構える母は、切っ先を俺に向けている。これを正眼の構えという。
母上の言う所の「心配した」と「構えろ」がどう繋がるのか分かりづらいが、帰りが遅くなった罰ってところだろうか。
夏は日が暮れるのが遅いから、時計がなければすぐに時間の感覚を見失ってしまう。
「母上」
「構えろ」
「……」
梃子でも動かぬ風情の母はこの世界で最も頑固である。
こうなったなら一つ修行をつけてもらうとしよう。
同じように構える俺に、母は言う。
「いつでもこい」
「では、行きます」
一息で距離を詰め、上段から斬りかかる。
母はスッと横に避け、俺が振り下ろした隙を狙い刀を振った。
首を切ろうと迫る刀を一瞬受け止めようかと迷ったが、考え直してその場にしゃがんで躱すことにした。
頭上で刀が風を切る。
それで攻防が一巡したので、一旦距離をとって仕切り直した。
「回避が一瞬遅れたな」
「お見通しで」
「何を考えた」
「受けようかと」
「横着するな」
「しゃがんで躱すのとどちらがましですか」
「躱しながら足を狙え」
「それも躱されたのなら、上から斬りかかられます」
「足を狙った一撃で、最低でも体勢を崩させろ。攻勢に移させるな」
「簡単に言う」
「簡単だ。今度はこちらから行く」
瞬きの間に母は眼前に居た。
顔面を狙った突きに殺意を感じる。たかだか突き一つに必要以上に反応してしまった。
大げさに横に躱したことで、母は容易に次の攻撃に繋げてしまった。
返す刀で迫る刃。躱す余裕がない。今度こそ受けるしかない。
刀を刀で受け止め、甲高い音とぎちぎちと金属の擦れる音がする。
「受けたか」
「受けました」
「愚か者」
母の刀には特徴的な刀紋が走っている。
幾重にも重なる赤い波模様。初めて見たときより、その赤は濃くなっている気がする。いずれ赤刀になるのかもしれない。
「刀で受けるなと何度言えばわかる」
「そう仰られましても」
「本来このような薄い刃で受け止めれるものではないぞ」
鍔迫り合いは火花が散るほどになった。
一層力を加える母上は般若の形相で睨みつけてくる。
身長や体格で、何もかも勝ってる人との力比べは死ぬほどきつい。
「母上」
「なんだ」
「そろそろ。降参しても?」
「余裕がある内に諦めるな」
「余裕など……」
「口応えはいい」
ついに母の力を受け止めきれなくなり、力づくで押し出された。
ズザザッと土ぼこりを巻き起こしながら、足で線を描かされる。
吐息が感じられる距離から一転離れたが、母は追いかけてくる気配はない。
いつの間にか刀が鞘にしまわれ、中腰に抜刀の構えをとっている。
「三の太刀――――」
あ、それは。
「『
抜刀した刃から斬撃が飛ぶ。
それ自体は不可視の攻撃である。刀の軌道から類推するしかない。
飛距離は使い手に依存するが、母のこれは少なくとも10メートル以上は飛ぶ。
技を使ったのなら手加減無用だ。ほんの一瞬の躊躇が命取りになる。
精神は長く生きているが、この身はまだ10歳だ。死ぬには早すぎる。
浅く息を吸い目の前の攻撃に集中する。
上段に掲げた剣を素早く振り下ろし、飛ぶ斬撃を斬り裂いた。
「……今のは、一の太刀か」
母は一連の流れを睥睨していた。
師ではなく母親の顔で、額に皺を寄せている。
「いえ。特に意識はしていませんが」
「そうか。頬が切れているぞ」
擦ってみれば、手の甲に血がついている。
痛みはない。傷はそれほど深くない。薄皮一枚分相殺できていなかった。
「今日はここまでだ」
「ありがとうございました」
「礼の必要はない」
取り付く島もなく、一人でさっさと家に帰る母の背中を追う。
いつの間にか日は暮れ始めて空は橙色染まっている。
日に照らされ長く伸びた影は、のっぺらぼうのような不気味さでどこまでもついてくる。
眼前の林は薄暗い。とりあえずはそこまで、のっぺらぼうは伴をするのだろう。
「いくつになった」
「10になります」
帰り道すがら木々に囲まれた場所で、母はふと疑問に思ったと言う風情で訊ねてくる。
「そうか。まだ10か」
「もう10です」
「妹は8つになる」
「早いものです」
母は、今度は頷いた。
「剣を始めさせてもう一年になる」
「いかがですか」
「筋が良い」
言っている最中も無表情に変わりはない。
それは剣聖としての顔であり、その評価は私情を交えない正当な物なのだろう。
「いずれ、私を超えていくかもしれん」
「楽しみですね」
「ああ。だが、先のことは先にならねば分からないことも多い。道に迷わせぬよう、気を引き締めるとしよう」
言ってる間に林を抜けた。
舗装もされていない砂利道を歩く俺たちは、時折すれ違う人と挨拶を交わす。
田んぼと畑。見える家は木で出来ている。先ほどまでいた訓練場は隔絶されている。そこと村とを繋ぐ道は木が植えられていて、村人は余程のことがない限り近づくことは決してない。
たまに三の太刀が飛ぶことを考えると英断と言わざるを得ない。
「比べて、お前は少しおかしい」
息子に言うセリフかそれは。
等々、言いたいことは多々あったが、我慢して聞く。
「なにがでしょう」
「たかだか10そこらで、私と正面から斬りあえるのは異常に過ぎる。しかも男の分際でだ」
「剣聖の息子です。才能は母親譲りです。斬り合えるのはある意味当然ではないかと。そこに性別はこの際関係ないでしょう」
母は頭を振った。残念至極という様子だった。
「三の太刀を斬る程の才能だ。実に惜しい。お前が女であれば家を継がせた」
「家督に関しては、俺は口を挟みません。ご随意になさってください」
「そうしよう。ところで、お前は料理は出来るのか」
「急に何ですか」
「この前、指南しに行った家で子供自慢を聞かされたのだ。娘は才色兼備。息子は婉娩聴従と言う話だ。こんな話を聞かされては受けて立つしかない。娘の話なら私も張り合えたが、いざ息子で張り合おうとすると、どうにも噛みあわない。挙句の果てにはお前の将来を心配された」
「何と言ったのです」
「日がな一日剣を振るい、一つ教えれば10を学び、訓練でどれだけ痛めつけられても決して挫けることのない自慢の息子と言った」
「母上。男は普通剣を振るいはしません」
「忘れていた。お前の様な華奢な小童が私と伍するものだから、道を行く男共を知らず過度に見ていた」
「母上。俺が特別おかしいのです。どうか父上をそのように扱うことだけはないように」
「あれは元々花屋だ。花を愛でるのが似合う男をどうしてそのように見れるだろうか」
「父上に限った事ではありません」
「軟弱者どもが」
「母上……」
「冗談だ」
母はニコリともせず口だけで言う。
これでは本心がどうなのか表情で窺い知ることが出来ない。
「男は普通、料理をし、洗濯をし、子守をすると言う。女が外で金を稼ぐ間、家を守るのが男の仕事だ。考えればお前の父であり私の夫もそうしていた。だが、お前は一日剣を振るっている。家を継がせないなら、お前は将来どこかの家に婿に行く。そのままではいけないと、やたら名前の長いご婦人に注意されてしまった」
「母上。それはもしやお貴族の方では」
どうだったかなと嘯く。
「貴族の家に婿に行けるなら家事能力を気にする必要はないが、お前にそう言う話は来ていない。来たとしても政略結婚などとふざけた内容ならばその場で切り伏せている」
「恋愛結婚を推奨なさるのですね」
「お前の父と私は大恋愛だった。お前にもぜひそうなってほしい」
「母上が一方的に熱を上げたと伺っています」
「毎日通い詰めた。苦労して口説き落とした。剣聖ともあろうものがだ。分かるか。色恋に身分は関係ないのだ」
「羨ましい話です。しかしまことに残念ですが、俺に熱を上げてくれる女の子は今のところいません」
「村の女どもは何をしている」
「母上。一日剣を振るい続け、大の大人と鍔競り合う男を怖く思わぬ女子はいないのです」
「ますます惜しい。女であったなら、今頃5~6人は熱を挙げていただろうに」
それは何とも羨ましい話だ。
しかし生まれ変わってなおモテないとは。もはや魂に刻まれた呪いの様な気がしてきた。
「お前の将来のことを考えると、家事全般をこなせるようになるのが望ましいと結論した。今日から父に家事を習え」
「言いたいことは分かりました。しかし母上。それでは剣の修行がおろそかになります」
「ならん。両立しろ」
「母上。時間は有限なのです。どれだけ頑張った所で一日剣を振るっていては出来ることは限られます」
「本気で刀を振れば短縮される。空いた時間で花婿修行をしろ」
「そんなことをすれば、一の太刀や三の太刀で訓練場が荒れます」
「一の太刀はともかく三の太刀は出すな。なぜ出る」
たまに勝手に出る。
何やらコツがありそうだ。
「しかし母上」
「言い訳は聞かん。両立しろ」
「いえ、そうではなく」
「なんだ」
「父上にはこのことを伝えましたか」
「まだだ。これから伝える」
「母上。私はもう料理は出来ますよ」
ぴたりとその場に立ち止まる母上。
胡乱気な顔で見てくる。
「そんな馬鹿な」
「たまに母上も私の料理を食べています」
「ありえない。私があいつの味を間違えるはずがない」
「母上の好みは把握しております」
「まさか……」
異論を唱えようとして押し黙る。
ここで押し問答しても意味はない。事の真偽は父上に聞けばいいのだ。
「では、それ以外を学べ」
「炊事洗濯掃除。おおよそ学び終えています」
「いつの間に……」
「母上が冬に巻く赤いマフラーは、俺が編みました」
「あれは既製品ではないのか」
「妹の黒いものは父上が」
「なぜ逆にしない」
「妹が可愛いのは父上も同じです」
キッと剣聖の表情で前を向いた母上は、ズンズンと足音を荒立てつつ歩き始めた。それはついには駆け足となり、父の待つ家へと急ぎ帰った。
少しの問答の末に、父は母のために新しくマフラーを編むこととなり、俺も妹のために新しく編むこととなった。
しかしマフラーは二本もいらないだろうと言うことで、俺は靴下を編むことにした。
それを聞いた父上も「靴下にしようか」と提案したが、母上はマフラーを編んでほしいと頑として譲らなかった。
その本心は無表情の影に隠れ、窺い知ることは出来なかったが、冬になり日替わりでマフラーを巻く母を見て、何とも微笑ましく思ったものだった。
短編です。
その内続き書くかも。