「町に行く。支度をしろ」
朝食の折、魚の切れ身を頬張ろうとした時、母上がそんなことを言った。
既に朝食を食べ終えて、いつもより長めに食休みしていると思ったらこれである。
言うこと成すこといつだって突然すぎて、何を言われようと慌てることはなくなってきた。
それにしたって、本題の前に世間話の一つや二つ織り交ぜても罰は当たるまいに。
取りあえず、口に運びかけていた切れ身を咀嚼して考える時間を作る。
隣で妹がリスのように頬を膨らませているのはいつものことで、父上がどことなく元気がないのが気にかかっていた。
それに関係することだろうか。しかし関係性が見えない。
頭の中でどれだけ反芻しても、母上の言葉を聞き間違いとは思えなかったので、茶で流し込んでから聞き直す。
「なんと仰いました?」
「町に行く。支度をしろ」
同じことを繰り返される。
聞き間違いではない。この人は突然何を言うのだと、まじまじ母上を見つめる。
母上は自分の言葉が通じていないことに不安を感じているようだった。
微妙に歯車がかみ合わず、食卓に変な空気が漂い、アキが俺と母上を交互に見る。
この空気に耐え切れぬというように父上が微かな笑い声を溢した。
「……町に行きたいのではなかったのか?」
「――――あ……」
ようやく思い出した。
昨年の秋。機を見て町に連れて行くと母上と約束していたのだった。
あの時の本意は出稼ぎに行くことだったから、それがダメだった時点でそれ以外のことは綺麗さっぱり忘れていた。
「また随分唐突ですね」
「昨日まで降っていた雨が止んだだろう」
前々から機を探っていたらしい。
冬が明けて、そろそろ連れて行くかと思っていた所で雨が降り出し、一向に止まないので延期に延期を重ねていた。
今日になってようやく晴れたので、じゃあ行くかと当日の朝に言い出したわけだ。
「何はともあれ、約束を守っていただいてありがとうございます。それとこれとはまるで関係はありませんが、母上は報連相と言う物をご存知ですか?」
「知らん。なんだそれは」
「ご存じないなら結構です」
と、言うわけで。
町に行くことになった。
「おはようございます。お怪我の具合はいかがですか?」
「普通に暮らす分には問題ねえよ」
朝食を終えてすぐ、ゲンさんの家へ足を運んだ。
戸を叩いてもなんのいらえもなく、お出かけだろうかと辺りを探してみたところ、家の真後ろから人の気配を感じた。
そこには弓の弦を張り変えていたゲンさんがいて、俺の顔を見てしかめっ面になり、あからさまに嫌そうな気配を滲ませた。
「それは何よりです。今度弓の扱い方教えてください」
「断る」
「そう意地悪仰らずに」
「他を当たれ」
手元を見つめながらの返答は取り付く島がなかった。
しかし押せば行けそうな手ごたえを感じる。
「ではまた折を見てお願いします」
「何度頼んでも無駄だぞ。それより一体何の用だ。厄介ごとなら断る」
「厄介ごとではありませんのでご安心ください」
「頼み事もなるたけ聞きたくねえな」
「そこをなんとか」
「……まあ、言ってみろ。聞くだけ聞いてやる」
やっぱり強く押せば行けるなこれ。
「これから母上と妹と一緒に近くの町に出向くのですが、その間父上が一人になりますので、何かあればよろしくお願いしますとお頼みしに来たのです」
「……餓鬼の言うことじゃねえな。椛の言伝か? 礼儀も糞もねえ。頼みごとなら本人に出直させろ」
「母上は関係なく、俺が勝手に心配しているだけなので、俺個人のお願いです」
「ああ……わかったわかった。気にかけておいてやる」
「ありがとうございます」
これで用件は済んだ。
しかし折角聞き入れてくれたというのに、手持無沙汰なのが悔やまれた。
次来るときは猿を一匹手土産にするとしよう。またぞろ数も増えているようだし。
「それではゲンさん。今日一日良い日となりますよう――――」
「ちょっと待て」
別れのあいさつの途中で、ゲンさんは弓をその場に置き家に入ってしまう。
何事かと首を傾げつつ、待てと言われたのでその場に留まる。何か用事を思い出したのかもしれない。
それから少しも経たず、ゲンさんは手に毛皮を持って現れた。
ぶっきらぼうに手渡してくる。
「なんですかこれ」
「着ていけ」
拡げてみると、それは上着だった。何かしらの毛皮で作られている。
この世界では珍しいことに襟もとにフードが縫い付けられ、パーカーのようになっていた。
「町に行くんだろう。それ着て顔隠しておけ」
「大きいんですけど」
「それでもだ」
上着はゲンさんが自前で羽織るために作られていて、俺にはサイズが合わない。
袖は腕を完全に隠してしまうし、裾は腰下まである。
ここまでぶかぶかだと、見栄えはさぞかし悪いだろう。
「埃っぽさの中にそこはかとない獣臭さが」
「獣くせえのは当たり前だろ。埃っぽいのはしばらく着てなかったからだ。何か文句あるか?」
「あります」
「うるせえ」
力づくで無理矢理フードを被せられる。
視界が上半分閉ざされてしまった。目深にもほどがある。
「見えにくいし大きいし動きにくいし……」
「ごちゃごちゃうるせえぞ! とっとと行って来い!」
尻を蹴られる勢いでしっしっと追い払われ、その場を後にした。
やはり毛皮の上着はお世辞にも着心地が良いとは言えなかったが、着ろと言うからには何かしらの理由があるのだろう。
家に戻ると、庭で母上が馬に鞍を載せ旅支度を進めていた。
俺が不格好になっていることに気づき訊ねてくる。
「それはどうした」
「ゲンさんに着て行けと渡されました」
「源に? ふむ……」
右から左から矯めつ眇めつ眺められ、フードの上からぽんと手を置かれる。
「着ておけ」とゲンさんと同じことを言って、鞍に向き直った。
「なぜこれを着る必要があるのか、理由がお分かりですか?」
「念のためだ」
きちんと鞍が付けられているか確認しながらの返答。
思い当たる節があるらしい。
「俺が男だからでしょうか? 刀を佩びているとまずいですか?」
「それもあるだろうが……」
言葉に詰まり、苦々しい顔になる。
その様子を見て察するものがあった。
「先に謝っておく。町に行けば嫌な思いをするかもしれん」
「理由は何となく分かりました。それ以上は結構です」
「すまん」
「母上が謝る必要はありませんよ。そもそも町に行きたいと言い出したのは俺ではないですか」
「それでもだ」
頑固な母上を見つつ、自分の髪を摘まんでみる。
まあ……仕方のないことだろう。
「アキも連れて行くのですか?」
「あんな顔をされたのでは連れて行く他あるまい。お前の言う通り不公平にもなる」
膨れっ面が目に浮かぶ。
こちらを見る瞳は悲し気な色を湛えていた。
確かに、あんな顔をされては……。
「適当な理由を付けて、行くのを止めるのもありですね」
「逃げるのか」
「滅相もない。戦略的撤退です」
「どこで覚えてくるのだ。そんな言葉を」
もし本当にここで逃げたとしても、早いか遅いかの違いでしかないから、いずれは行くことになるのだろう。
それにしたって、まさか町一つ訪れるだけで洗礼の可能性があるとは夢にも思わなかった。
ただ単純に俺の考えが足りなかっただけだが、この先のことを思うと少し気が重くなる。
それからほどなくして、馬二頭共に鞍を載せ終わり旅支度が済んだ。
「アキ。もう行くぞ」
「はい!」
家の中に声をかけると、元気の良いいらえがある。
町に行けるということで、テンション高めの妹が駆け足でやってきた。
俺とぶつかりそうになり急ブレーキで止まる。俺が羽織っている毛皮を見て首をかしげた。
「兄上? その上着はなんですか?」
「ゲンさんが着て行けと仰ったので着ている」
「げん……? ああ……。あの人……」
好意どころか興味もないという調子だ。
他人に対する態度が日に日に露骨になっている。
反省を促すためにも、デコピンを一発食らわすことにした。
「くらえ」
「むっ!?」
小生意気なことに、アキは当たる直前で反応し、仰け反って威力を殺してしまう。
不意を打ったというのに半ば以上対応されたのには、してやられた気分になった。
「……兄上?」
「母上。アキと一緒に乗って下さい。俺は一人で乗ります」
「そうか。ではまずはお前から乗せよう」
こっちに来いと腕を広げる母上に首を振る。
その横で妹がじとっと睨んでいたのが理由と言うわけではない。
「その必要はありません」
「む……ではどうする? 一人で乗れるのか?」
「恐らくは」
「無視しないでください兄上」
馬を見据え、目測を立てる。
俺もここ数か月で少しは背が伸びた。そろそろ一人で乗れる気がする。
母上に見守られ、妹に睨まれる中で鞍を掴む。
腕の力だけで身体を持ち上げて、ゆっくり少しずつ上って行く。
宙に浮いた足が地を求めてパタパタと揺れた。
馬に乗ろうと四苦八苦する姿は傍から見たら滑稽かもしれないが、今は他人の評価よりも結果を追い求めたい。
どれだけ些細なことであっても、俺にとっては大きな一歩なのだ。
歯を食いしばって騎座に胸まで乗せられたなら、あとは下半身を持ち上げるだけ。
思いっきり足を振って、遠心力を頼りにし、一息に持ち上げる。
何とか上り切った頃には息も絶え絶えで汗を掻いていた。
しかしどれだけ疲労困憊であっても、今まで出来なかったことが出来たのは感無量である。
「おお……」とアキが感心してくれる。反対に母上は無反応だった。
「なんとか、乗れました……」
「そうか」
成果を報告しても素っ気ない母上は、アキを脇の下から持ち上げて馬に乗せた。
すぐに自分も馬に跨り、その背中にアキがひしっと掴まる。
「行くぞ」
号令と共に蹄を鳴らして赤毛の馬が歩き始める。
俺の乗る栗毛の馬も、赤毛の後を追いかけたいとそわそわしていた。
その催促に応じる前に、汗を拭い息を整える。
そうして二人の後に続こうとした刹那、背中に視線を感じた。
振り向くと、父上が縁側から俺のことを見ていた。
「父上? どうかされましたか」
「……」
馬を繰って近くまで寄る。
父上は何かを言いかけて半端に口を開くが、結局何も言わなかった。
何を言いたいかは聞くまでもなくおおよそ察していたので、わざわざ言葉を待つ必要はなかった。
「父上。ご心配には及びません」
何を言うべきか。考えながら口を開く。
「町に行って罵詈雑言浴びせられようとも、別に捻くれたりはしませんので」
「……レンはいい子だからね。そんなことは最初から心配してないよ」
その点を信用してくれているのは素直にうれしい。
では、もう少し踏み込んだ話をしてみよう。
「そもそも性別とか血なんてものは、然程重要ではありません」
「……レンは独特な考え方をしているね。でも、普通の人はそう思ってはくれないんだ」
「普通の定義がよく分かりませんが、俺の人生においては全然重要ではないのです」
「でも、社会では――――」
「社会がどうであろうと、それは俺の知った事ではありません」
この世界のありようについて言いたいようだったが、そんなことは百も承知しているので、先に俺の考えを述べることにした。
「誰に何を言われようとも、どんなことがあろうとも、俺は自分の考えを曲げません。胸を張って前を向いて生きて行きます。尊敬する両親と可愛い妹がいるのですから、下ばかり向いては顔も見れないではありませんか」
今思っていることを素直な気持ちで告げた。
父上は目を伏せて消え入りそうな声で呟いた。
「……ありがとう」
「いいえ。お土産を楽しみにしていてください」
「うん。いってらっしゃい。気を付けて」
「はい。行ってまいります」
顔を上げ小さく手を振る父上に、俺も小さく手を振り返して馬を回した。
母上たちは先に行ってしまっている。急がないと。
そう思いながら家の敷地から出たところ、ほんの少し先で二人は待ってくれていた。
「兄上ー!」
アキが大きく手を振って呼んでいる。
手綱を繰り、速足で二人に追いつく。
「何をしていた?」
「少し話を」
「そうか」
母上の馬が歩き始める。
一歩進むたび妹が僅かに上下に揺れた。
俺もその後に着いて行く。
――――生まれて初めての、小さな旅が始まった。
東に向かう道は川沿いに伸びている。
河川には茶色に染まった水が勢いよく流れていた。
昨日までの大雨で水位の上がった川の水は、近づくことすら躊躇する程だったが、土堤が食い止めているおかげで氾濫の兆しはない。
手綱を握りしめながら川の流れを見ていると、大きな流木が水の底から顔を出し、くるりと一回転してまた底に沈んでいく。
たったそれだけのことで、荒く激しい濁流の脅威を嫌と言うほど知ることが出来た。
同じものを見ていたらしいアキが、前方で母上に尋ねていた。
「母上。この川はどこまで続いているのですか?」
母上は少し悩む素振りを見せ、背中越しに答える。
「町を過ぎ、海まで続いていたはずだ」
眼前を流れる川は10メートル以上の幅がある。これでも十分大きいが、下れば下るほど幅は広がり、水量は増加するだろう。
海に着くころには巨大な河川となっているに違いない。
「……海とは何でしょうか?」
母上の背中に掴まりながら、アキが新たな質問を投げかけた。
その内容に少し驚いたが、俺と同じくアキも村から出たことはないのだった。
「海か……。海は、大きな水の塊だ」
「そこの川と同じようなものですか?」
「いや、これよりも遥かに大きく、見渡す限り広がっている。そして底知れぬ深さだ」
母上の説明は正鵠を得ている。もし俺が誰かに聞かれたとしても、似たような説明をしていただろう。
だが、一度も海を見たことがない人間にどのような説明をしたところで、海を正しく理解させるのは難しい。
「大きくて……広くて……深い……」
例に漏れず、今一理解できず首をかしげる妹に「その内見せてやろう」と母上は優しい声音で告げていた。
二人のやり取りを聞きながら、俺は前世の光景を思い出す。
太陽に照らされ宝石のように輝く水面。
白く泡立つ波が海岸を打ちつけ、砂浜に跡を残し、水平線の向こうまで、どこまでも続く雄大な大海原。
一体全体どれだけ言葉を尽くせば、あれだけの物を想像できるだろうか。
言い表すことなど到底不可能と思える神秘さと、人など容易く呑み込んでしまう恐ろしさを兼ね合わせた生命の源。
やはり、直接目にしなければ何一つ理解できないと思う。
その点ではアキが羨ましい。初めて海を見たときのことなんて俺は覚えていない。
どんな感想を抱いたのだろう。あの大海原を初めて目にした時の俺は。
「兄上は海を知っているのですか?」
その問いに、思いに耽っていた意識が戻ってくる。
はっと気が付けば、前方の妹が俺を振り返っていた。
「いや……。実物を見たことはない」
「では、今の母上の説明で理解できましたか?」
「見渡す限り水たまりなんだろう? それは言葉通りなんじゃないか?」
「……私には、分かりません」
言い捨てて、ぷいっと前に向き直ってしまう。
その様子は少しいじけているように見えた。
自分一人だけ理解できていないことが癪に障ったのかもしれない。
機嫌を直してもらうのに、何かしらのフォローが必要だと思うが、この状況では俺が何を言っても火に油を注ぐだけな気がする。ならば、役に立つかは微妙なところではあるが、母上にお任せしようと思う。
「アキ。分からないことを気に病む必要はない。どのような人間とて、知らないことの方が多いのだ。どれだけの想像力を働かせたとしても、想像の域を出ることはない。自分の目で見なければ、真に理解したとは到底言えない。海とはそれほどに埒外な物なのだ」
「……でも、兄上は理解しています」
「そこのそれは存在その物が異常だ。本当にそっくりそのまま想像できているやもしれぬし、まるで別の物を想像しているかもしれん。もしくは、妹の前で格好つけているだけの可能性もある」
珍しく的を射たことを言っていると思ったら、なぜか俺に火の粉が飛んできた。
やたら粘性の強い火の粉が俺の心をジュクジュク焼いている。
「兄上は嘘を言っている様子ではありませんでした。故に、きちんと理解されています。そっくりそのまま同じものを思い描いているはずです」
「……お前がそう言うのなら、理解できていることにしよう。もしかしたら、海を知らぬと嘯いているだけなのかもしれん」
二人が言葉を交わすごとに、俺の評価が可笑しな方向にグングン上がっている。
ここまで変な方向に向かわれては、流石に口を挟まずにはいられなかった。
「海なんて見たことありませんし知りませんよ。一体どこにあるんですかそれは」
「ずっと遠くにあるが、川を辿ればいずれ着く。少し目を離した隙に、海まで行ったことがないと言い切れるだろうか?」
どんな思考を経れば、そんな疑問が浮かぶのか。
前世ですら川を辿って海まで行ったことなどない。考えるだに面倒くさい。どれだけの重労働だそれは。
だと言うのに、母上は「どうだ?」と言葉で尋ね、アキに至っては振り返り「どうなの?」と目で問うてきた。勘弁してほしい。
「言ってることが滅茶苦茶だと言う自覚はありますか?」
「滅茶苦茶な人間を理解しようとするならば、己の思考も滅茶苦茶にしなければなるまい。これはその結果だ」
これほど辛辣な言葉の数々は久しぶりだ。
移動中じゃなかったら、是が非でも稽古をお願いしていた。今なら一矢報いれる気がする。
それにしても、俺が海を知っていることに気づいている辺り、ある程度俺を理解出来ているのが凄い。
前世持ちなんて狐憑き以上に奇奇怪怪な代物だろうに、よくここまで理解出来たものだ。
理解する過程の四苦八苦ぶりが容易に想像できるせいで、何を言われたところで怒りはあまり湧いてこなかった。全て笑い話で済んでしまう。
「舟なら数日で着くでしょうか?」
「舟でも10日近くかかる。帰り道を考えれば、30日でもまだ足りん」
「ならどうあがいても無理でしょう。それとも、母上は俺から30日以上目を離した経験がおありですか?」
「お前から目を離したことなど一寸足りとてない。故に、これはただの与太話だ」
与太話ならもっと冗談めかしてほしい。
いつも通りの平坦な口調では、真面目に言っているのかと勘違いしてしまう。
「アキ。このように母上は稀に冗談を仰る。あまり真に受けないように」
「これからは兄上の言葉だけを信じます」
「いや、俺も嘘ぐらいは言うから」
「兄上は嘘をつきません」
この信頼感は一体何なのだろうか。たった今俺に向けたあの猜疑心はどこへやった。
俺の人生なんて存在その物が嘘みたいなものだから、信頼するだけ損なのに。
それでなくとも、この盲目的な信頼は早めに矯正した方が良いだろう。
「妹よ。長らく隠していたことを告白しよう。実は俺は一度死んでいるんだ」
「それは嘘です」
「……と言うことは、俺はたった今嘘をついたことになるね」
「兄上は嘘をつきません」
「アキ……」
何を言っても己の主張を曲げようとしない。
負けを認めねば負けではないとでも言うつもりか?
母上譲りの頑固さを前面に押し出されるだけでもお手上げなのに、おかしな話法まで身につけないでほしい。
「レン」
「……なんでしょうか?」
今度はなんだと若干うんざりしながら返事をする。
一体何を言うつもりだと訝しんでいたら、案の定碌でもないことを言い始めた。
「本当に死んだことはないのか?」
「母上は親不孝をお望みなのですか?」
「……冗談だ」
進路方向を見続けているため母上の表情が分からない。
だが絶対に無表情だ。確信を持って言える。一連の会話の最中、表情は一ミリたりとて動いていないに違いない。
はぁとため息を吐く。
たったこれだけの会話で酷く疲れてしまった。意味の分からない疲労感だった。
話している内に妹の機嫌が少し上向いてくれたから、まるで意味がないわけでもなかったけれど。
こうしている間にまた胸にこみ上げてきた物を大きく吐き出す。
その瞬間、がくっと馬が揺れた。
いつの間にか、道は土手を外れて開けた平野へと出ていた。
「じきに着く」
その言葉を受け、遠くを見る。
道のずっと先に小さく町が見える。この世界で初めて見る町だった。
あの町で、俺はどんな経験をするだろうか。
期待と不安とが入り混じった気持ちを胸に抱き、町に向けて馬を歩かせる。