七の太刀と言うのを、俺は寡聞にして知らない。
母上に教えられたのは六の太刀までだ。その母上にしてもオリジナルの技はほとんど持っていないと言う。
だから、それを聞いた時は何かの冗談かと思った。ババアが五の太刀を使い、母上の顔見知りらしきことを踏まえても、易々と信じることは出来ず、ただただ技が繰り出されるのを見ていた。
刀が振り下ろされたその瞬間、突風が頬を撫でる。
それはたった一振りだった。
たかだか振り下ろされただけなのに、途端に風が吹き荒れて目を開けていられなくなった。ふとすれば吹き飛ばされそうな気すらした。
踏ん張りながらも刀を構える。必死に目を開ける。
本能が警鐘を鳴らす。命を奪わんとする何かが迫っていると。
何をしてくるのか、皆目見当がつかない状況で、それでも対処するべく身構える。
だと言うのに、辛うじて開いている目には何も映らない。見えるのは刀を振り下ろしたババア一人だけ。
警鐘は治まらず、しかし危険を察知することはできない。視界でも気配でもない、第六感だけがそれを捉えていた。
中段に構える刀に何かが当たる。
気のせいかと思う程度の小さな手ごたえ。それでも、確かに何かが当たった。目に見えないそれは刀を響かせ、空気を振るわせる。
なんだ?
手の中で震える刀を疑問に思う。
それに目を向けた矢先、何の前触れもなく頬に切り傷が生まれた。
斬られたことを理解するよりも早く、腕、脚、顔、胴と次々斬られていく。
小さな切り傷は、それでも血を滲ませて痛みを伴った。一筋頬を垂れる感触。
それは風に紛れてやって来ていた。
目に見えない攻撃に成すすべなく、ただただ傷つけられる。最初小さかった切り傷は段々と大きくなっていった。
足元の小石が地面と一緒に斬られるのが目の端に映る。地についた切れ込みは、刀で切ったような跡だった。そのおかげで、一先ず斬撃の大きさには見当がついた。
五の太刀をがむしゃらに振るう。
知覚できない斬撃を受け流すのは、暗闇の中手探りで道を探るようなものだった。何とか受け流した斬撃は全体の一部でしかない。その倍以上の数が俺の身体を切り刻んでいる。
そうなってしまったら、もはや身体で受け止めるしかない。背後には子供がいる。躱す選択肢はない。
そして、五の太刀の隙間を縫うように襲ってきたひときわ大きな斬撃。
それは俺の身体を大きく切り裂いた。右肩から左の脇腹まで、袈裟で斬られたような傷が出来る。
痛みはなかった。代わりに身体から力が抜けた。
点々と散った血を見ながら膝をつく。
太陽が忽然と姿を消したようにして、目の前は真っ暗になる。
意識を失った。
「お願いします! どうか、どうか……!!」
微睡んだ意識に突き刺すような悲鳴が聞こえる。
その声の必死さは命乞いの様に思えた。
半分寝ぼけたまま指を動かし、全身を激痛が走る。一気に目が覚めた。
うっすら目を開けてみると自分の膝が見えた。
土の上に膝をついて座っている。俯いているおかげで自分の身体がよく見えた。服は血で赤く染まっていた。
記憶を辿ると、こうなるまでの経緯が鮮明に蘇る。
あの斬撃を受けて死んだと思ったのに、しつこくまだ生きているらしい。
一度死んだら、無意識で生に執着するようになるのだろうか。分からないが、実際まだ生きている。ひょっとして、一生分の幸運を使い果たしたのかもしれないとも思った。
何にせよ、生きているのなら、すべきことをしなければいけない。周囲の気配を探って状況の把握に努めた。
「どうか娘だけは……!!」
女性の懇願は、自分ではなく子供に対してだった。
合間合間に挟み込まれる子供の声は、複数人いるようだ。
この女性はずっと遠くにいた親か。俺が気を失っている間にここまでやって来たらしい。
気を失ったと言っても、それはほんの一瞬だったはず。
もし長いこと意識を失っていたのなら、ババアはとっくに俺の首を斬っていただろう。
だがまだ斬られていない。ババアの気配は七の太刀を繰り出した場所からほとんど動いていなかった。
「あぁ……」
ババアの声はしわがれている。老人らしい声の中に妙な威圧感があった。
「ひっ」と小さな悲鳴の後で、「エンジュっ!」と呼ぶ親。
抱き合う気配。この二人の他に四人の子供が俺のすぐ背後にいる。みんな怯えている。
ゆっくりと近づいてくるババアの足音が少しずつ大きくなり、背後の気配は緊張に包まれる。
恐怖心や絶望感と言った負の感情で空気が澱む。
立ち上がりたかったが、身体は言うことを聞いてくれない。金縛りにあったかのように動いてくれない。
このままではまずいと焦燥感に駆られる俺のすぐ目の前で、ババアが立ち止まった。
後頭部に視線を感じる。心臓が早鐘を打つ。
一瞬の沈黙が何時間にも感じた。
「お行きなさい」
「え……」
「お行きなさい」
俺にとっても、親にとっても、それは予想外の言葉だった。
よく聞くと、その声には微かに疲れが滲んでいる。
ついさっきまで殺し合った相手には、似つかわしくない声音だ。
「私の邪魔をしないのなら、斬りゃあせん」
滲んだ疲労感を取り繕ろうとしたらしい。声の威圧感が少し増した。
だが喉の奥の震えは誤魔化しきれていない。
疲れか、それとも達成感か。どちらにせよ、俺との死闘が負担になっていたことに間違いはない。
戦っている最中感じていたほどには、力の差はないのかもしれない。
次の瞬間にも首を刎ねられてもおかしくない状況で、そんなことを考えるのは場違いかもしれない。
けれど、殺し合っている相手のことを知りたいと思うのは、当然のことだとも思う。
何も無差別に殺そうとしてるわけじゃない。誰でもいいはずがない。ただ、このババアはアキを殺そうとした。父上も殺そうとしている。だから、その前に殺さなければいけないだけだ。
「最後だよ。お行きなさい」
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
最後通牒を含んだ三度目。それでようやく女性は立ち上がった。礼を重ねて、子供を立ち上がらせる。
「行くよ」そう言う女性の声は安堵に満ち、だが僅かに緊張と焦りが残っていた。この場から離れない限りは、絶対に安全とは言えない。
「まってお母さん」
エンジュと呼ばれた女の子は、殺されかけた直後だと言うのに気丈な声で他の子供たちに呼びかけた。
「みんな、立って」
その一言で、澱んでいた空気が一変する。
子供たちが動く気配。それに紛れて親子の会話が聞こえた。
「あの人も起こさないと」
「ダメ、早く来なさい! 関わってはダメ」
「でも死んじゃうよ」
「エンジュッ!」
駄々をこねる子供に手を焼いている。早く去らねばならないのに、押し問答をしてしまっている。
その様子を黙って見ていたババアが溜息を吐いた。
「最後って言ったよね……邪魔しないならとも言ったじゃないか……。そんなに死にたいなら、しょうがないかねえ……」
萎んでいた威圧感が急速に膨れ上がる。
何かしらの手段で脅そうとしたのか、あるいは見せしめに殺そうとしたのか。
子供たちの悲鳴が聞こえて、女性は平謝りする。その声は泣きそうだった。
「行きますから、すぐに行きますから……!」
ババアが一歩子供たちに近づく。
その時ばかりは、ババアの注意は俺から外れていた。
背後の子供たちと親。そちらに集中するばかりで、俺が生きている可能性を考慮していない。
刀を握る手に力を込める。
やはり激痛が走ったが、この期に及んでそんなものは関係ない。今立ち上がらず、いつ立てと言うのか。
こんな状態では真面に戦えないとか、これ以上は本当に死ぬとか、思い浮かんだ言い訳はたくさんあった。
それらを全て放棄して、後のことは考えず、とりあえず無理をすることにした。
「おい、やめろよ」
「……は?」
顔を上げれば、呆気にとられた表情がすぐ間近にある。
一拍目が合う。見れば見るほど隙だらけ。
斬れと言う衝動に突き動かされて、ようやく身体が動いた。
「ちぃっ……!!」
完全に虚を突いた攻撃を、ババアは見事な反射神経で瞬時に後ずさって躱す。
ここまでしてダメなのかと一瞬落胆し、直後刃先に手応えを感じる。
ババアの肩口から小さく血飛沫が舞うのが見えた。
初めて真面に与えた有効打だ。それが不意打ちと言うのは何とも情けない話ではあるが。
ババアとの距離が離れた。
この隙に刀を杖にして立ち上がる。
たったこれだけのことで鋭い痛みに襲われている。
何をしても痛い。立っても、動いても、息をしても痛い。
全身が軋んでいる。寿命間近の古びた機械のように。
それでも出来る限り表に出さないようにして、ババアと相対する。
あらん限り、足に力を込めて仁王立ちした。真面に立てない姿など見せられない。
幸いなことにババアは混乱していた。
疑問と焦りと恐怖が浮かぶその顔には胸がすく。
ぶっ殺したはずの人間が立ち上がったのだから、そう言う顔にもなろう。
見応えのある感傷もそこそこにして、今の内に出来ることをしておかなくてはいけない。
「……おい、後ろの奴ら」
背後の六人に声をかけるも返事がない。
気配は微動だにせずそこにあるので、見るまでもなくいるはずなのだが。
「聞いてるのか?」
「あ……え……」
肩越しに振り返ると、親と思しき女性と目があった。
見覚えのある顔だ。子供たち五人も、いつか川で遊んでいた聞かん坊たちで間違いない。
「逃げろ」
言うべきことを言って正面に向き直る。
「二度と近づくな。終わるまで家に籠っていろ」
ここまで言っても、やはり返事がない。
再び肩越しに振り返る。
親の胸に抱かれた子供と目が合った。その頬には七の太刀でついたと思しき切り傷がある。
「全員連れて行け。娘だけじゃなく」
「……はい」
「早く行け」
そのように念を押しておく。
人数比が1:5とは言え、大人なのだから子供を連れて帰るぐらいはしてほしい。
もしまた誰か来ようものなら、その時はもう命の保証はない。守る前に俺が死ぬ。
のろのろと動く気配。
何が起こっているのか状況を理解できていない。取りあえず言われた通りにしておこうと言う気配。
一刻を争う状況でそれは悠長にもほどがあったが、特段怒りは湧かなかった。
今こうしている間にも、胸の傷からは血が流れて血の気が引きまくっている。そのおかげで頭は冷静だった。
頭が冷めている分、刀を握りしめる手と地面を踏ん張る足すら冷たく、感覚はあいまいだ。通う血がないようにも思える。
視界は平衡感覚を失い、眩暈と耳鳴りが酷い。吐き気と同時に喉まで何かがこみ上げている。口の中は苦い鉄の味がした。
七の太刀で受けたダメージは、即死こそ免れたものの深刻だった。
特に、最後の斬撃は三の太刀が直撃したのと同じ。
どれだけ考えても、生きている理由がわからない。
それはババアも同じらしく、俺を睨むその表情には依然恐怖が色濃くある。
斬っても死なない男。怪綺談になってもおかしくない。
「なんで生きてる……。あんた、なんかやったのかい……?」
「……」
ババアの問いかけには無言を貫く。
考えても分からないことを直接聞く姿勢は全く理に適っているが、生憎と聞く相手は殺し合う敵だ。
素直に教えるはずもない。そもそも俺にもよく分からない。こっちこそ聞きたい。へっぴり腰がまた何かミスでもしたのかと。
攻めるのに二の足を踏むババアを見ながら、今俺に何が出来るかを考える。
辛うじて生きているとはいえ、死にかけていることに間違いはなく、試しに斬りかかれば何をする暇もなく首を斬られるだろう。
かと言って、それを受け入れられるはずもない。俺が背負っているのは俺の命だけではない。
ならば何をしよう。何をすればいいのだろう。
残されている手札はある。とっとと使っておくべきだった手札がまだ残っている。
もっと早くに使うべきだったと後悔している。使わずに残していた理由は、ただ単に使いたくなかったと言うお粗末なものだった。
命を捨ててババアを殺すと決めたのに、覚悟が足りなかった。
ババアの消極的な姿勢に僅かな希望を持った。それに縋って、もしかしたらと未来を思い浮かべていた。
運が良ければ死なずに、後遺症すらも残さずに、ババアを倒せるかもしれない。
そんな未来を。
甘かった。
切るべき手札を切らず、可能性の低い希望に夢を見て、七の太刀とやらで死にかけた。
死ななかったのは運が良かっただけだ。
もし死んでいたのなら、アキは死に、父上は死に、俺は無駄死にだった。
殺し合うのは初めてで、人を斬るのも初めてだ。
心の持ちようも、手札の切り方も、腹の探り合いも、何もかもが未熟で幼稚。
あらゆる面で格上相手に、正面から戦ったところで到底敵うはずはない。
それでも戦うのなら、全力で立ち向かわなければいけなかったのに、後のことを考えて手札を出し渋り、結果未来は暗闇の中に消えた。
大馬鹿野郎と言わざるを得ない。
いつからか勘違いしていた。一度死んで、新しい人生を歩み始めたんだから、俺はきっと特別なんだろうと。
女が強い世界で、男の癖に強いから、俺って奴は凄いんだと心の奥底で思い込んでいた。
全然すごくない。
全然強くない。
全く、特別じゃない。
このざまを見ろ。死にかけてるじゃないか。
ずっとずっとずっと、弱いままだ。
何度人生やり直したって、所詮俺はそうなんだ。
必要な時にすべきことが出来ない。何一つ守れない。
前世も、今世も、今この瞬間も。
だから、せめて最期ぐらいは、全力で守り抜きたい。
後のことなんて考えずに、今この瞬間に持てる力の全て出し切る。
未来も命も、俺の持てる物全てを賭けて大切な人の未来を守る。
覚悟は決まった。
もうぶれるな。最後まで真っ直ぐ突き進め。
「――――窮鼠猫を噛むって知ってるか?」
「……なんだって?」
「追い詰めすぎるのは厳禁って意味だ」
刀を目の高さで水平に構える。
「六の太刀」
その言葉を聞き、ババアの眼が見開かれた。
俺がこれから何をするか、理解したババアは即座に距離を詰めてくる。
だが遅い。
「『夜叉』」
瞬間、世界は変わった。