それから、仙は頻繁に椛の前に現れた。
現れる度にこれ見よがしに木札を抱えているものだから、椛のこめかみには青筋が立つ。
ぶん殴ってやろうかとも思ったが、曲がりなりにも客であるからぞんざいには扱えない。常に目を光らせている番頭が邪魔だった。
番台の上から目を光らせている番頭は齢60ほどの老婆である。夫に先立たれて一人で店を切り盛りしている。
年の割に見た目は若く、背筋はピンと伸び、テキパキと働く姿に衰えは感じない。
この店は戦前から営んでいるため常連客が多い。湯屋と言えば売春宿を兼ねている場合が多いのだが、ここに限ってはその方面に手を伸ばしていなかった。
椛に与えられた仕事は用心棒と雑務。ついでとばかりに客の背中も流す。
番頭に言わせてみれば「こんな簡単なことで金が貰えるのは幸せ者」とのことだ。
椛も内心同意していた。しかし仙が現れて考えを改めた。簡単なはずの仕事が、仙が関わるばかりに気苦労が増えて仕方がないからだ。
椛が頑張って髪を洗っている間、仙の舌は淀みなく回り続けた。
天気の話から始まり、朝食の感想や姉弟子とやらへの軽い愚痴。しまいには止めどない世間話。
こいつは喋らないと死ぬのかと思いながら、椛は雑に受け応える。
そもそも応える必要もないのだが、応えずとも仙は勝手に話し続けた。
どれだけ無視しようとも耳障りな声が聞こえ続けるのだから、椛にとってはたまったものじゃない。
喋るな。黙ってろ。知るか。私に聞くな。動くな。口を閉じろ。
自然と乱暴な言葉が飛び出していく。
互いに会話とも言えぬ一方通行のやり取りを繰り返した。
当初こそそんなものだったが、月日を重ねるごとに徐々に距離は近づいていった。
口数も段々と増えていき、普通に会話を交わせるようになったのは、出会って数か月が過ぎた頃。
その頃には冬も終わりが近づき、僅かにだが春の兆しが見え始めていた。
それまで毎日のように湯屋に訪れていた仙は当然のようにその日も訪れる。
いつものごとく番頭に多めに金を渡して椛を呼んだ。
呼ばれた椛ももはや慣れたもので、仙の顔を見ても嫌な顔はしない。目を細めて長い髪を睨み付けるだけである。
「ねえ、椛」
「なんだ」
背中を擦る椛に、仙は肩越しに声をかけた。
椛の返事はぶっきらぼうだったが、返事すらしてくれなかった頃に比べれば随分とましになった。背中を擦る力加減もちょっと痛いぐらいに進歩している。
「最近、この辺りは人攫いが多いらしいわよ」
「知っている」
「あなたも気を付けた方がいいと思うわ」
「私がそんな軟弱者に見えるのか」
「言ってみただけよ」
「本当か?」
問いただすような口調は自信の裏返しだ。
剣の腕には自信がある。ここで用心棒をしているのだってこの腕を買われたからだ。仕事が見つからずにむしゃくしゃしていた時、横柄な輩と喧嘩をしてぶちのめしたのは記憶に新しい。
「ちょっと探ってみたのだけど、攫われているのは子供ばかりね」
「いつものことだ」
聞くところによれば、子供はその界隈では人気商品らしい。
子供を育てるのは面倒だし手間もかかるが、攫ってしまえば元手はかからない。
力が弱く判断力もないから躾けるのは簡単だ。売る場合もどのような用途でも使いやすいので色々なところが欲しがる。と客同士の会話を小耳にはさんだ。
「最近は男女関係なく隙あらば攫われてるみたいよ」
「だから、いつものことだろう」
「真昼間から大胆不敵に攫っていく愚か者がいるのよ。噂になってるわ。ちょっと引っかからない?」
ひっくり返した風呂桶に座りながら、仙は膝に肘をついて思案顔になる。
その目は遠くを見つめて焦点がぼやけ、心ここにあらずと言う風だった。
「あまり深入りすると死ぬぞ」
そう言いながら、擦り終わった背中に湯をぶっかけ、二度三度と景気よく背中を叩く。
「私が死ぬと言うの?」
「死なない人間などいない」
「……言われてみればその通りね」
人が攫われるなんてことは、この町ではよくあることだ。
攫われた子供たちがどうなったかなんて誰も知らない――――いや、本音を言うなら察しは付いている。けれど知らないふりをしている。
探しても見つからない子供は手の届かないところに行ってしまった。
そうなると自分たちではどうにもならないから、半ば諦めているのだ。
住人達の共通認識として、犯人は西の人間だ。それはほぼ間違いないだろう。
西の奴らは東を下賤な民だと思っている。どれほど残虐な行いだろうと心が痛むことはない。行き過ぎた輩に至っては家畜も同然だと公言して憚らない。
攫われた先は性奴隷か。あるいは別の欲望のはけ口か。確かなのは惨たらしい未来だけだ。
誰もが気づいている。しかし大っぴらに言う者はいない。
言ったところで無駄だ。官憲は動かない。むしろ殺される可能性がある。役人は領主の手下だ。領主はそういうことを平然とする。自衛のために作られた自警団はすぐに弾圧された。
この町が腐っているのは明々白々たる事実であるが、住人は耐えるしかない。嵐が過ぎるのを我慢する以外に術がない。
これでも昔よりましになった。数少ない老人たちはそう言って若者を諫めている。ここの番頭もその一人だ。
「でも、気になるじゃない。貧民街なんて真面に調査もされないだろうし、もしかしたらとんでもないことになってるかも」
「私の知ったことではない」
冷酷な言い方に仙はチラと肩越しに振り返り、つまらなそうな顔で正面へと向き直った。
「椛は流浪人だものね。雪が融けたら西に行くの?」
「そのつもりだ」
「行かない方がいいと思うけど」
「……」
開きかけた口を閉じ、椛は無言を貫く。
ほんの少し前なら、お前に指図されるいわれはないと突っぱねていただろう。
だが今は心情が変化した。仙の言うことにも一理あると思うぐらいには。
冬の間、ほんの短い期間西都で暮らしてみて、見えたものがある。
知識で知るのと実際に目にするのとでは認識に差があった。なにせ東に西の人間はほとんどいない。この西都を除いては。
西に行ったところで差別されるのは分かっていた。それでも行こうと思った。殴ってくる人間がいるなら殴り返してやればいいと思っていた。
だが、迫害され袋叩きにされて殺されるとなると話は別だ。いくら腕に自信があっても、多勢に無勢ではやられるしかない。
そんなところに進んで赴く人間がいるなら、それは相当の変態だ。自分には一生かかっても理解できまい。
「……だが、行くところもないしな」
ぼそりと呟いた声は誰にも聞かすつもりはなかった。
だが仙には聞こえていた。地獄耳だ。
「行くところねえ……」
背中を反らせて椛を見ながら、仙は思案気に呟いた。
「ご実家は?」
「あそこは行くところでなければ帰るところでもない」
家族とは縁を切った。二度と顔を見たくない。
その気持ちは変わらないし、これからも変わることはないと思う。
ただ、それはそれとして椛にはやることがなかった。
自由な日々を謳歌して、明日のことなど考えず日銭を稼ぐ。
十年先はおろか一年先すら考えたことがない。
結婚して、子供を作って、幸せに暮らす、などと一般論を自分に重ねて見ても、どこかしっくり来なかった。
「やりたいことはないの?」
「ない」
「剣は? あなたそこそこ腕はいいでしょう」
「……そこそこ?」
その言い方が癪に障った。
椛はまだ成人もしていない若者ではあるが、野盗相手に何度か実戦は積んでいる。
数人からなる群れを相手に1人で対峙して苦戦したことはない。これのどこがそこそこだ、と内心鼻を高くする。
「剣か……」
内心の自負はともかく少し考えてみる。
そもそも私に特技はあっただろうか。答えは否だ。剣を除いては何も思いつかない。
手先は不器用で、人と接するのも苦手。職人にはなれまい。弟子入りすら難しそうだ。商人になったとしても、無駄に敵を増やして破滅する未来しか浮かばない。
仙の言う通り、剣の道を極めるのが一番いいかもしれない。
性に合っているし、旅を続けるなら目的があった方がいい。武者修行と言えば格好が付く。いっそのこと剣聖を目指してみるのも面白い。
「……剣聖にでもなってみるか」
「え?」
半分本気で半分冗談。
何も真剣に言っているわけではない。無意識に漏れ出た呟きに、しかし仙が過敏に反応した。
勢いよく振り向いて、ポカンとした表情で椛を見つめる。
「剣聖? 本気?」
「……少しだけだ」
「ちょっとは本気なの? どれくらい? これくらい?」
親指と人差し指で一寸にも満たない隙間を作られる。
その小ささは明らかに馬鹿にしている。椛は意趣返しに髪を引っ張った。
「いたぁいっ!!?」
「私が剣聖を目指すのがそんなにおかしいか」
いつつ、と頭を抑える仙を睨む。
その剣呑な雰囲気に、仙はついっと視線を逸らした。
「……おかしいかは、一先ずおいておきましょう。今いくつ?」
「13……いや14だ」
「剣はお祖母ちゃんに教わっただけかしら?」
「そうだ」
うーんと考え込んでしまった。
心ここにあらぬまま、「とりあえず、早く髪洗って」と片手間に指図され、椛はまた髪の毛を引っ張ろうかと大いに迷う。
番頭の視線を感じてすんでのところで留まった。遊んでいると思われては困る。手早く洗ってしまうことにした。
長すぎる髪を一束一束毛先から丁寧に洗っていく。
その間仙はずっと考え込み、久しぶりに口を開いた時には、洗髪にも終わりが見えていた。
「――――今の剣聖は剣聖になる前、15で戦場に出て功績を上げたそうよ」
「だからなんだ」
普通ならもう少し驚く所を、椛に関しては不愛想にそう言うだけだった。
まったく感じ入ることはない、と言う態を横目に流し見て、仙は言葉を変える。
「それこそ物心ついた時から修行していたそうだから、今から目指すならよっぽど努力しなきゃ無理ね」
「そうか」
そちらの方が椛にとっては分かりやすい。
剣聖と椛の違いは大きい。お前には無理だと遠回しに告げたとも考えられる。
まあそうだろうなと椛は軽く受け止めた。
何も本気で言ったわけではない。ただ目標があった方が捗ると言うだけだ。
そもそも剣聖は西の仕組みなわけで、東生まれの人間がなれるはずもない。国王が許さないだろう。拝んだことすらない王だが、東を憎んでいるのは誰もが知っている。
それを思えば、あまりに馬鹿馬鹿しい目標だった。我ながら笑ってしまう。
「終わったぞ」
髪を洗い終えた椛は最後に余った湯を頭から被せた。
仙は額に張り付いた前髪をかき上げ、椛に向かって人差し指を立てる。
「一つ提案なのだけど」と湯を滴らせながら言った。
「本気で強くなりたいなら、紹介してあげてもいいわよ」
「何の話だ」
「私の先生に紹介してあげるわ。あなたのこと」
言われたことの意味を一拍考えた。
そう言えば、こいつは初めて会った時刀を差していた。
当初は飾りにしか見えなかったが、接してみると分かる物がある。特に体のつくりなどは見飽きるほど見てきた。
なるほど。確かにこの身体は――――そんなことを思いつつ、椛の口からは嫌味が飛び出した。
「学者にでも習っているのか?」
「剣術よ」
「冗談だろう。こんな髪で」
「ご不満かしら?」
仙の瞳に不穏な輝きが宿った。
他人を揶揄う時は際限なく揶揄うくせに、自分が揶揄われるとなると沸点が低い。
こういう顔をされると、竜の逆鱗に触れてしまったような気分になる。
「不満は、ない」
仙の腕は見た目以上に筋肉があった。
握ってみると弾力で押し返される。鍛えられていると分かる腕だ。
「……考えておこう」
「あら好感触」
予想外、と笑顔を浮かべて距離を詰めてくる仙を、椛は鬱陶しく思って押し戻す。
剣術を習うなど考えたこともなかった。
だが今の会話に思うところがある。気がつけば14だ。後一年で成人。いつの間にか多少の分別はつくようになり、将来のことを考えなければ、と思うようになっていた。
いつまでも放浪しているわけにもいかない。
手に職をつける必要がある。剣術家の門徒となれば、食い扶持ぐらいは稼げるだろうか。
そんなことを考えながら、椛は仙に「さっさと帰れ」と無下に言うのだった。