仙は来るたびに知り合いを増やした。どういう手管を使っているのか。そういうことが得意な奴だった。
いつの間にか、番頭や常連客、他の従業員とは私以上に懇意になっていた。
たまに番頭と徹夜で酒を飲み交わし、朝一で風呂に入り、私に背中を流させて帰って行くこともあったぐらいだ。一体何なのやら。
その間、仙は私が選ぶのを待っていたようだ。
西に行くのか剣を習うのか。私は答えを出さないままずるずると引き延ばし、気が付けば春を迎えようとしていた。
さすがにこれ以上は、と言う時期になってようやく選んだ。西に行くことにした。
『え、西?』
思った以上に仙は驚いた。
てっきり剣を習う方を選ぶと思っていたのだろう。
私自身、そうしたいと思う気持ちの方が強かったが、それを素直に認められなかった。
一度決めたことを翻意するのは格好悪いと言う見栄だ。
子供と言うのは得てしてそういう物だろう。格好つけることの意味を勘違いしている。外聞を取り繕っても中身が伴っていなくては意味がない。いや、場合によっては外聞などどうでもいいのかもしれない。そのことに気づくのに随分とかかってしまった。遅すぎた。……お前にはいらぬ説教か。
とにかく西に行くことにした。
雪の代わりに雨が降り、積もった雪も融け始めていた。
早いところでは故郷に帰る者も出始めていた。番頭に私もそろそろ行くと伝え、別れの日がやって来る。
挨拶もほどほどに荷物を持って店を出た。深い仲になった者はいないから、あっさりしたものだ。
もしかしたら、仙が店の前で私を待ち伏せているのを知っていたのかもしれない。
『自分の気持ちに素直になれない子には説教よ』
その頃、出会って半年と経っていなかったが、奴には私の心が透けて見えていたようだ。
決闘を申し込まれ、受けて立った。私が勝てば西へ行く。仙が勝てば言う通りにする。
その条件で刀をとった。
結果は奴の勝ちだ。
勝負にもならなかった。鍔迫り合いもしていない。
私が抜こうとした時には仙は抜き終わり、喉元に突き付けていた。
そこそこ腕は立つのだろうと思っていたが、まさかあそこまでとは。
私と奴の間には壁があった。一生越えられない大きな壁だ。何度生まれ変わっても追いつくは叶いそうにない。
『私の勝ちだけど、選ばせてあげる。来るか行くか、あなたの意思で選びなさい』
刀を鞘にしまいながら仙はそう言った。
負けた身空で贅沢な話だったが、私には再び選択肢が与えられた。
見栄も誇りもへし折られた直後だったから、余計な感情を抜きにして考えられた。
私に必要だったのは切っ掛けだ。誰かに背中を押して欲しかった。本当にしたいことをしたいとも言えない、どうしようもない人間だ。仙などよりよほど迷惑な人間だろう。
私は選んだ。
すったもんだあったが、西には行かずに仙と共に行くことにした。
そのことを口にした時、胸に溜まっていたわだかまりが一気になくなった気がした。
自分に素直になったのだから当然だな。
『自分で選んだのだから、後悔しちゃだめよ』
仙にはしつこく念を押された。
自分自身をも偽る人間は信用されなくて当然だ。だが翻意する気はなかった。本心から望んでいた。仙の先生とやらに弟子入りすることを。
先生の住処はほど近かった。
湯屋から歩いて10分ほどだ。街の中心部から少し外れた場所に、大きな道場があった。
『なんだい、どんなのが来るかと思えば、まだまだひよっこだねえ』
前もって話は通していたらしい。出会った瞬間、その人は私に向けてそう言った。
剣の師匠だと言うその人は東の人間ではなかった。
黄色い髪は西の人間の証だ。だと言うのに東の服を着て胸元を肌蹴させている。サラシが見えた。全体的にあまり似合っていなかった。
ひよっこだと言われていい気分はしない。当時の私は見栄っ張りで傲慢だった。だが正しい評価だっただろう。
私は自分で思っている以上に未熟で青臭かった。すぐにそれが分かった。
『一応腕を見させてもらおうかね。どこからでもかかってきな』
抜く素振りも見せないその人に、何の遠慮もなく斬りかかる。心の中で嘗めてかかっていただけに、容易く躱されたのは驚いた。
そして腹を蹴られた。吐き気と共に膝をついた。
その人は無防備な私の後頭部に手を置き、ぐりぐりと力を込める。
『この程度かい?』
侮辱されたと思った。怒りでカッと熱くなり、吐き気など忘れて立ち上がった。
渾身の斬りかかりはまたもや容易く躱された。何度繰り返しても躱される。そのたびに蹴られた。全く相手にならない。
立てなくなるまで蹴られ、その人は汗一つ掻かずに私を見下ろす。
私の動きに良いところなど何もなかった。何一つ見せられたとは思わない。幸運なことに、お眼鏡にはかなったようだ。
『……ま、いいや。じゃあ最後だ。あと一回かかってきな』
苦心して立ち上がる。
やれやれと肩をすくめるその人に、嫌々ながら斬りかかった。
『遅いねえ……遅い遅い』
緩慢すぎる私に向け、初めて刀が抜かれた。
速すぎる振り下ろしを前に反応もできずに立ち尽くした。
『私の弟子になるのなら、その程度の腕で刀持ってちゃいけないねえ』
何かが床を転がる音がした。
視線を下に向けると、半ばで切断された刀がある。
斬鉄と言う言葉があるが、つまりはそれだ。
それまでは刀で刀を斬る芸当などお伽噺に近しいと思っていた。
仮に出来るとするなら伝説の英雄か、はたまた人外の怪物か。どちらにせよ人間離れした芸当だ。そんなものを見せられ、もう一度立ち向かう気には到底なれない。
次元が違う。勝てる勝てないなどと言葉にするのもおこがましい。
一生かけて足下にも及ばないだろう。それほど実力差は歴然としていた。
野盗を数人返り討ちにした程度で誇らしくしていた自分がどれほど滑稽なことだったか。
呆然とする私に向けて、仙は言った。
『ね? 剣聖って凄いでしょう?』
まったく寝耳に水だが、見せつけられたものを考えれば疑いの余地はない。
剣聖になるなんて、冗談でも二度と口にする気にはならなかった。
晴れて剣聖に認められ弟子となり、仙にとっては妹弟子となった。
仙は喜んでいた。それまでは仙が末弟子だったが、私が弟子になったことで序列が一つ上がった。弄る相手が出来たことが嬉しかったらしい。
弟子は他にも数人いた。全て西の人間だったが、どれこれも癖の強い人たちだった。
剣聖を神のごとく崇拝している人がいれば、不真面目で男遊びばかりする人もいた。
剣聖自身が酒好きだったから、その辺りの規律は緩かった。たまに巻き込まれて花街……に、連れていかれた。
……花街は知っているのか? 知っているのか……どこで知った? ……まあ、いい。
話を戻す。
どちらの姉弟子も強かった。実力では2番と3番だろう。私は1番下だ。そして、1番強かったのは仙だった。
当時ですでに剣聖と伍する実力だった。弟子たちの中で唯一三の太刀が使えた。他の弟子は皆使えなかったと言うのに。
剣聖と仙。どちらが上か確かめるためには、命を懸けてやり合わなければいけなかっただろう。傍目にはそれほど拮抗しているように思えた。
将来は仙が剣聖になるのだろうと思っていた。
姉弟子たちも、恐らくは剣聖本人もそう思っていたはずだ。
その未来を疑わなかった。
こうして私ごときが剣聖を名乗る日が来るとは夢にも思わなかった。
思い描いていた未来が夢と終わったのは、私が16のころだ。
その日、師が珍しいものを手に入れてきた。黒刀と言う刀身の黒い刀だ。
直接的な関係はないが、あれが全ての始まりだったと思う。
色のついた刀。そんな不思議な物がこの世界にはある。その中でも取り分けて摩訶不思議な力が宿った刀を、海の向こうでは妖刀と呼ぶらしい。
当時は知らなかった。
人は知らないことの方が多い。もし知っていれば、あんなことにはならなかっただろうか。
時々考える。私の人生は後悔が多い。今更何を言っても過去のことだが。考えるのは勝手だろう。
「あら珍しい」
それを一目見た瞬間、仙が驚きに口を開く。
仙以外に集まった弟子たちも、それに目を奪われていた。
視線の先。剣聖の手元には一本の刀が置かれ、皆がそれを見に集まっていた。
切っ先から根元まで、吸い込まれそうな漆黒に染まった刀は、見る者を魅了する美しさがあった。
あれは刀だろうか。
でも黒いぞ。
食いもんじゃねえか。
そんなわけないだろ黙っていろ。
なんだやんのか。
ああやってやる。
好き勝手に言い散らかす弟子たち。
それを遥かに凌ぐ大声が剣聖の口から迸る。
「さすが! わかるかい、セン!」
「もちろんよ。東の生まれですもの。良い刀には目がないわ」
「私もだよ! 西の生まれだけどね!」
上機嫌に高笑う剣聖と、うふふと上品に笑う仙が対照的になっている。
椛の師にして先代の剣聖は収集家であった。興味が引かれる物があれば何でも集めた。
一見ガラクタにしか見えなくても、その時の気分で購入し、後になってどうしてこんなものを買ったんだと首を傾げることが多々あった。
熱しやすく冷めやすい剣聖であったが、そんな彼女が十数年興味をひかれ続けているものがある。
それが刀だ。刀のこととなれば見境がない。珍しい刀の噂を聞けばすっ飛んでいく。
自室に並ぶコレクションの数々は壮観であったが、いい加減片付けろと弟子が苦言を呈するほど雑然としてもいた。
今宵、大事そうに小脇に抱えて持って帰ってきた黒刀は、雑然とした室内を更に飾り付ける新しいコレクションである。
「師よ。これはどこで手に入れたのですか」
「鍛刀地って言ったかね。これ以外にもたくさん刀があってねえ。目が滑って仕方がなかった。全部奪ってくればよかったよ」
言っている内容はともかく、剣聖の瞳は子供のように輝いていた。
剣聖にとって、そこはさながら宝部屋の様な光景だったらしい。
椛にしてみれば鍛刀地と言う地名の方に心惹かれた。東生まれであるが、今まで一度も聞いたことのない名である。
頭の中にぼんやりとした地図が浮かぶ。訪れた所も多い。
しかし皆目見当が付かなかった。刀を打つなら水が豊富なところだろう。それでいて材料が手に入りやすければなおいいか。
交通の要所且つ水も豊富。ある程度場所は絞れるが、決定的な物はない。
「珍しい刀がたくさんあるって言うから苦労して見つけたはいいが、収穫はこれだけさ。苦労に見合うかはちょっと怪しいねえ」
「例の探し物はありませんでしたか」
「なかったよ。色のついた刀は」
剣聖にはずっと探している物がある。
刀身に色が付いた刀だ。いわく、藤色とか。
そんな刀、椛は見たことがない。そもそも色の付いた刀と言う時点で疑わしい。
刀と言えば鋼色。物によって微妙な違いはあるかもしれないが、おおよそ同じ色として括れる程度の差でしかない。
藤色なんて奇抜な刀、実在するなら噂ぐらいは耳にしてよさそうだ。だが東の地を放浪していた間、椛は一度も耳にしたことはない。
「本当にそんなものがあるんですか」
「あるともさ。この目でしかと見たんだ。あんたも一度見たらわかる。あんなもの、一度見たら忘れられない。戦争の真っただ中で、瞼の裏に血の色が焼き付いていようが関係なくね」
椛の疑わし気な眼差しなど物ともせず、剣聖は断言した。
そこまで言われては、これ以上疑問を呈するのは憚られる。そもそもないと断言できるものでもない。こうして黒い刀はあったのだ。全く毛色の違う色ではあるが、あると言うのならあるのかもしれない。
剣聖はこれからも探し続けるだろうし、いつか本当に見られるかもしれない。
そのようにして、椛が自分の中で一先ず納得し、黒い刀を手に入れた記念と称して宴会が行われた。
浴びるように酒を飲み交わし、近隣の家々に突撃して宴会仲間を増やす迷惑行為に走ってから、数日後のことである。
宴会の騒ぎに乗じて忽然と姿を消していた仙がひょっこり戻って来た。
皆が朝食を食べ終わり、鍛錬に励んだ身体が温まってきた頃である。
今までどこに行っていたのかと尋ねる姉弟子を無視し、仙は古びた鞘袋を掲げて言った。
「藤色の刀を見つけてきたわ」
思いもよらぬ言葉に皆が口を閉じた。
滅多なことでは驚かない姉弟子でさえも仙を見つめて言葉をなくす。
その中で唯一平静を保っていた剣聖が、皆の気持ちを代弁して尋ねた。
「セン」
「なに? 先生」
「今なんて言った?」
「藤色の刀を見つけたわ」
「それは本当かい?」
「本当よ」
次の瞬間、弟子たちが我に返り口々に質問を浴びせかけた。
仙は困った顔をして、「落ち着いて」と皆を宥めてから話を続ける。
「風の噂を耳にして、嘘か真かと行ってみたら真だったのよ。譲ってくれって言ったら、二つ返事で了承してくれたわ。さすがは先生。剣聖の名前は伊達じゃないわね」
淡々と事情を説明していく仙は微笑んでいる。ただしいつもと違ってその笑みには影があった。
何か隠しているような気がした。椛は何となくそう思う。
剣聖も同じ気持ちを抱いたのか、しばし仙を無言で見つめた。
無言の圧力を受け、視線を逸らす仙には何かがある。その手は無意識の内に鞘袋を撫でている。
しばらく見つめて言葉はなかった。
何も言うつもりがないのなら今は聞くまい。
剣聖は話を進める方を選んだ。
「それで、持ち主は?」
「ただのお婆ちゃん。偶々手に入れたと言っていたわ」
「戦争には?」
「出てないって」
「そうか」
当てが外れた、と剣聖は落胆する。
世にも珍しいあの刀を探せば、自ずとあの剣士に会えると思っていたが……。
まあ、いい。別の方法を探そう。
瞬時に切り替え、「よしっそれでは!」と目の前の宝物に食いつきに行く。
「藤色の刀って言ったね? それがそうかい?」
「ええ。これが――――」
慎重な手つきで布から取り出された刀は、鞘袋同様古びていた。
鞘はボロボロで柄糸は擦り減っている。よほど古い刀だと一見して分かる。
「――――藤色の刀」
皆の視線が集中する中、仙は手の中のそれを一拍見つめ、剣聖に差し出した。
「欲しかったのでしょう? あげるわ」
「弟子に恵まれるほど落ちぶれちゃいないよ」
年長者には意地がある。本心を押し隠す剣聖。視線は絶えず刀に向けられているので隠せていない。
欲しくて仕方がないくせに、と仙は苦笑した。
「あげるわ。私の物ではないもの」
「じゃあ誰のものなんだい」
「さあ? きっと刀が選ぶのではなくて?」
怪訝な視線を集め、意に介さず「さ、先生」と促した。
剣聖は何度か躊躇する素振りを見せ、結局は刀を受け取った。
長年の間積み重ねた執着心と、実物かどうかこの目で確かめたいと言う欲望は押し殺せなかった。
刀から目を離さないまま言う。
「そのお婆ちゃんとやらに、礼を言いに行く必要があるね」
「……そうね」
仙はまたもや視線を逸らした。答えには一瞬の間があった。
一連の行動を怪しんだ椛が仙を見て、その視線に気づいた仙が椛を見返す。
微笑みの奥に隠された感情の正体は依然として分からない。
剣聖が大声を発し、視線が外れる。
「よし、お前たちよく見ておきな! これが藤色の刀だよ!」
弟子たちに見せびらかすようにして、胸の前で刀が抜かれていった。
少しずつ見えてきた刀身は、何度も何度も剣聖が言っていた通りの藤色だった。
道場に差し込む日光を反射させ、妖しいほど輝いて見える。
弟子たちはその光景を噛り付いて見ていた。
目が離せない。強烈に魅せられている。
弟子たちも、椛も。剣聖でさえ例外ではなかった。
やがて抜き放たれた刀は、金属の擦れる音を一度だけ奏でた。
露わになった刀身に傷はなく、鏡のような刀身が周囲を映し出す。
剣聖も、弟子たちも、微動だにせず刀を見つめた。
段々と意識が遠のいていく。視界が狭まり暗がりへと落ちていく。だが視線は外さない。
何がどうなったのか考える暇もないまま、椛の記憶はそこで一度途切れた。