下手をすれば明日食べることにも難儀するこの世界で、ペットを飼う余裕があると言うのは、贅の極みを尽くしていると言えるのではないだろうか。
縁側に座りながらそんなことを思う。寒いので毛布を羽織って、ここからでは見えないペット小屋の方を注視する。
突然そんなことを思った理由と言うのは、アキが今ペットの世話をしているからだ。
ペットの内訳は、赤毛と栗毛の馬が一頭ずつとあとトカゲ。
馬に関してはどちらの馬も中々に可愛くて、正直かなり気に入っているのだが、現在赤毛の方は留守にしている。
と言うのも、東で動乱の気配を察した母上が西に向かった際、強行軍でかなり無理をさせたらしく、出先で休養を取らせているとのこと。
よっぽど酷使させたのか、もう夏も中ほどだと言うのに未だ帰ってこない。
心配して母上に様子を聞けば、死ぬかもしれんと冗談みたいなことを真顔で述べた。聞いてるこっちとしては冗談ではない。
言葉に困りつつ、意を決して「冗談ですよね」と尋ねたら首を傾げられた。やっぱり冗談ではない。
赤毛の容体に関してはそれ以上聞けなかった。これ以上重い話題はごめんだった。
六の太刀の後遺症から始まり、母上の過去など重い出来事が短期間に重なって、追及するだけの気力が残っていない。不甲斐ない限りだ。
それでもって、瀕死の赤毛に代わって帰り道の供になったのは、普通の馬と比べ一回りほど大きな黒馬だった。
一般的に全身が真黒な馬と言うのは白馬に次いで珍しいらしく、この大きさなら間違いなく名馬と言えるそうだ。
そう言われてみればどことなく気品が感じらないこともない。
チラッとしか見ていないので断言はできないが、とりあえずなんだか凄いやつらしい。そんなのを一体どこから借りてきたのやら。
三匹目のトカゲに至っては、相も変わらず手に負えない。
俺の代わりに餌やり担当となったアキが苦労している。ストレスが溜まって小石を蹴っ飛ばす姿を度々見ている。
結構な頻度で目撃するが、気持ちは分かるので注意はしていない。というか似た様なことは俺もやったので出来なかった。そんなことで気が晴れるなら、いくらでもやったらいい。近ごろ、溜まったストレスが俺に向けられている気がするので、真面目にそう思っている。
我が家のペットはそれで全部だ。他には家畜も飼っていない。
ペットと聞いて、一般的に想像するような猫や犬などは、そもそも見たことがないのでこの世界にいるかもわからない。
代わりにスライムみたいな粘体動物は見たことがある。動物と言うよりは虫だが。
小さな虫たちが群れを作り、粘液を分泌して自らの身を守っているらしい。
触ると逃げようとして動くから、アキがよく突っついて遊んでいた。
娯楽の少ないこの世界で、その虫は子供たちにとっては体のいい遊び道具となっている。
正直、俺は虫はあまり触りたくない。なんならアキにも触ってほしくない。なんかばっちい。
前世の幼いころなどは、その辺を飛んでいるトンボを八つ裂きにしたこともあったが、今思うとかわいそうなことをした。
今では触ることも忌避するぐらいだから、これは成長と呼ぶのか退化と呼ぶのか、判断に困るところだ。
経験から言って、世界が変わっても人の本質はあまり変わらない。
この世界でも子供は命と言うものに鈍感だ。あまり考えず、本能と好奇心で行動する。
危険だと注意して、やめなさいと叱ったところで、あまり聞いてはくれない。
そもそも、子供の自由は極力阻害したくはない。かつては自分も通った道だ。思い返せば、それと知らず危険なことはたくさんしてきた。
危険には近づいてほしくないけれど、あまり過保護なのも成長を妨げるように思う。
子供を信じてただ見守るか。心配だからこそ口酸っぱく注意するか。
我が両親はそのどちらかだ。どちらがどちらかはわざわざ言う必要はないだろう。
その二人の言動を観察し、俺はその中間で行くと決めた。
だから、子供が冒険するなら先んじて危険を排除しておくし、それが出来ないなら危険が及ばないように常に見張っておく。そして危険が近づいたなら如何なる方法であろうとも排除する。
川遊びに興じる子供たちを毎年のように見守っていたのがそれだ。
自然の驚異は排除できない。どれだけ科学が発展したところで、それだけは不可能だ。ならば自衛するしかない。しかし子供に自衛は難しいから、大人が見守ってやる。
俺は大人だ。一応は。そういう自負がある。
だから毎年見守っていた。子供が死んだと聞くのは寝覚めが悪い。運が悪ければ、小さな怪我が原因で死に至ることもある。
だが、もうそれも出来ない。
来年からどうしようかなと思いながら、村中に響き渡るアキの怒号に耳を傾ける。
「とまれぇっ!!?」
縁側に座る俺の耳にその声が届く。
アキの声だなあとぼんやり思う。毛布を羽織っているのに肌寒いこの陽気に、元気がいいのは良いことだ。
「とまれって言ってるのにぃ!?」
焦りに満ちた声は、聞きようによっては楽しそうにも思える。
しかし本人にしたらたまったものではないのだろう。あっちこっち振り回されているのが目に浮かんでくる。
「ダメダメダメダメ! そっちダメ! ダメだって!? ダメって言ってるのにぃ!!」
本気で焦ると語彙がなくなるのは人間の性だろうか。それともアキ本人の特徴か。
俺はどうだったかなと思い返せば、浮かび上がるのは六の太刀を使った時の戦い。少なくとも言葉は汚かった。追い詰められた時こそ人間の本性が現れるとするなら、俺の本性はあれと言うことになる。考えものだ。
「もうやだぁ……! いやぁ……!」
ついに声音に泣きが入った。
アキが泣くところはもう随分と見ていない。ここ最近は、父上に叱られる時でさえ仏頂面を維持する余裕があった。
林の中を駆け回り、よく転んでは泣いていた頃が懐かしい。
かくれんぼで俺を見つけられなくて、大声で探し回り、見つけた時には悔しさと安堵で怒りつつも涙目だった。
今のアキはその時に近いようだ。反抗期と思春期がミックスされ、頑張って背伸びするアキも可愛いが、昔ながらの子供っぽいアキも可愛いものだ。どんな姿も愛おしい。
家の角の向こうから、ドスドスと何かの足音が近づいてくる。アキの悲鳴も近づいてくる。
こちらに来るようだ。来ないでほしい。割かし本気でそう思う。
「とまってぇ……」
情けない懇願と共に、それは姿を現した。
四つ足で地面を駆け、全身に刺々しい鱗を持つ大きなトカゲ。
その全長は、目測で2~3メートルぐらい。高さは子供と同じか少し低い。人を2人乗せて走り回れるほど力が強く、馬以上に長距離を移動できる持久力を持つ。
長距離を移動するなら打ってつけの生き物だ。
聞いた話では人に懐くことはなくむしろ人を襲うらしい。そして、暑いところに住んでいるため寒さに弱いとのこと。
しかしこちらに猛スピードで向かってくる様子からは、弱っているようには見えない。
冬になるとラッセル車ばりに雪の中を移動するので、多分こいつに弱点はないのだろう。
「とまれ。この、とまれっ」
首にしがみつくアキが必死にトカゲを止めようとするものの、トカゲはまるで意に介さない。
ただ振り回されるだけの妹が不憫で仕方がない。言うことは聞かないし、物理的にも停止させる手段のない暴走列車だ。関わりたい人間などいないだろう。
真っ直ぐにこちらに向かってくるトカゲは、つぶらな瞳で俺を凝視していた。
猛烈な勢いでやって来るものだから、そのまま激突するかと身を竦めたが、幸いなことにトカゲはブレーキを踏んで急停止する。その反動でアキが吹っ飛び、地面をゴロゴロと転がっていった。
悲鳴が迸り、うめき声が聞こえて鼻をすする音がした。その後、気丈にもむくりと起き上がったアキは、その目に最大級の憎しみを込めてトカゲを睨む。
「殺す」
母上に負けず劣らずの殺気が放たれている。
立派なものだが、果たしてこれは成長と呼べるだろうか。
「アキ、おいで」
声をかけると、アキは忌々し気な顔のままゆっくりと歩み寄ってくる。
その視線は常にトカゲに向けられている。
「あれ殺していいですか?」
「ダメだよ」
「兄上」
「ダメ」
ぷくっと頬を膨らませて抗議する姿が可愛くて仕方がなかった。
服に土埃がこびりついているので、払うように言っておく。
アキは素直に言うことを聞いて、全身を手で払っていた。
「あのトカゲ……」
「何かあった?」
「人がせっかくご飯持っていったら急に暴れ出して外出ようとして。言うこと聞かないし止めたくても止めれないし、引き摺られるし吹っ飛ばされるし……」
最悪なひと時を経験したようだ。かわいそうに。
俺の時はたまに齧られかけ、たまに圧し掛かられそうになった。
齧られたら死ぬし、圧し掛かられても死ぬ。だからこいつに飯を持っていく時は、一日で一番気が張っていた。
アキはぷんすか怒りながら、俺のすぐ隣に腰を下ろした。
俺が羽織っていた毛布を半分奪っていく。
一つの毛布を共有して密着する俺たちを、トカゲはじっと見ていた。
ロボットのような無機質な瞳。たまにチロッと舌を出し、どことなくカクカクした動きで顔を寄せてくる。
その鼻頭をアキが軽く打った。
「あっち行け。しっしっ」
「……」
打たれたことに反応するでもなく、トカゲはただアキに視線を移す。
瞳孔の細長い目に感情の類は見られなかったが、どういう訳か、アキは喧嘩を売られていると判断したらしい。「……殺そうか」そう低く呟いた。
このトカゲと相性のいい奴なんてそうそういないだろうが、だからと言って自慢の妹が殺すと呟いているのを見ると少し引いてしまう。
それだけストレスが溜まっているのかもしれない。もしそうならどうにか解消させてやりたいが、方法が思いつかない。今や一緒に遊んでやることも出来ない身だ。やれることは少ない。
考え事をしながら、無意識にトカゲを撫でようと腕を伸ばした俺を、アキは鋭い声音で咎めた。
「食われます」
「いや、さすがに……」
「こいつは食います。ぱくっと持ってかれます。殺した方がいいと思います」
「ダメ」
そうは言いつつ、そこまで断言されると撫でたくはなくなる。
下ろした腕の代わりに、トカゲのことをよく観察してみた。
「……」
「……うーん」
感情の読めない瞳は爬虫類ならではだ。
爬虫類だから言葉を喋るわけはないし、愛情表現の類も見受けられない。
母上が近くにいるときは大人しいが、それ以外の家族には聞き分けがない。そもそもこちらの指示を理解しているのかも怪しい。母上を怖がっているだけの可能性が一番高い。
実際、食いちぎられるかはともかく、噛まれかけたことは多々あった。それがこいつなりのスキンシップなのか、あるいは捕食目的なのかは分からない。
じっと見つめていると、トカゲも俺を見つめ返してくる。
まれに突き出すように舌を出し、時折長い時間舌を出していると思ったら、二股に分かれた舌先が左右自由に動いている。
そうして見つめ合っている内に、トカゲはまた俺に顔を近づけようとして、アキに打たれて押し戻される。それで一瞬アキの方を見たが、すぐに俺に視線を戻した。
威嚇する妹と無感情のトカゲに囲まれて、轟っと吹く風が肌寒い。
息を吸い込むと喉の奥が痛かった。風邪をひいては大変だ。
部屋に戻ろうとして腰を上げかけたところ体勢を崩した俺を、咄嗟にアキが支えてくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
どこか誇らしげなアキは、「兄上は私がいないとダメですね」と上機嫌に嘯いた。
否定の言葉は出て来ない。全くその通りだった。もう夏も折り返しだと言うのに、相も変わらずこんな調子だ。
「ちゃんと薬飲んでください。飲んだふりしても、私の目は誤魔化せませんよ。瓶の中身確認しますから」
「今日はちゃんと飲むよ」
「兄上はたった一口飲めばそれで済むんだから、いいじゃないですか。私は全部飲まなきゃいけなかったのに」
話をしながら部屋に戻ろうとした俺たちの背後で、唐突にシューと空気の抜ける音がした。
何の音だろうと肩越しに振り返ると、トカゲが敷地の外を見ながらその音を出している。
視線の先には子供がいた。見覚えのある女の子だ。
女の子は俺が見ていることに気が付くと、まごまごした様子でゆっくり近づいてくる。
距離が近づくにつれ、トカゲの発する音も大きくなった。
トカゲから発せられる妙な緊迫感に最悪の事態が予想される。もしかしなくても食べるつもりだ。あの見るからにいたいけそうな子供を。
そんなことはさせてなるものかと、アキに指示する。
「アキ、そいつ抑えておいて」
「えー……」
「もし襲っちゃったら困るだろ」
「……べつに」
「お願い」
渋々と、アキはトカゲの背中に乗った。
首のあたりに抱き着いて、いざと言う時に備えている。果たしてそれが備えになっているのかは、先ほどの光景を思い出す限り怪しいところではあった。
「こんにちは」
「こ、こ、こんにちはっ!」
近づいて来た女の子に挨拶すれば、女の子は声を裏返し、つっかえながらも答えてくれた。
頬は赤く染まり、定まらない視線はひっきりなく周囲に向けられている。とりわけ、すぐ側にいるトカゲとその背に乗るアキを気にしているようだった。
無感情な瞳で自らを凝視する巨大トカゲと、目を細めて不機嫌そうに睨みつけているアキのコンビは、俺から見ても中々の怖さだ。少し離れてもらった方がよかったかもしれない。
「あ、あの……」
「なに?」
この女の子は、よく川で遊んでいるグループの一人だ。男一人に女が四人のバランスの悪いグループだった。
今はこの女の子一人で、胸に当てた両手の中に何かを持っているらしい。
どんな用件でここに来たのか。それを聞こうと口を開きかけ、その前に女の子は両手を差し出してくる。
「こ、これをっ!」
女の子の手には一輪の花が握られていた。
俺の枕元に置いてある
「……これが?」
「お兄さんに……っお礼と……その、謝りたくて! 助けてくれてありがとうっ!」
覚えていないわけではなかったが、考えないようにしていた。
この子は戦いの邪魔になった女の子だ。そのせいで死にかけた。本人に悪気があったわけではないだろうし、俺は生きている。何より子供だから、今更何も言うつもりはなかった。
まさか向こうからやって来るとは思いもしなかったが。
「そう……ありがとう」
「そ、それと、あの……ご、ごめんなさい。邪魔しちゃって……怪我したって聞いて……ごめんなさい……」
まごつきながら必死に謝る姿は子供らしくて可愛かった。
花は貰ったし、謝罪も聞いた。誠意も感じられる。これ以上はもう十分だ。
「うん、分かった。じゃあ、ちょっとこっちに来てくれる?」
「は、はい」
手の届く所まで近づいて来た女の子の頭に手を乗せて、優しく撫でる。
それで一際頬を染め上げた女の子は、上目遣いで俺を見上げる。
「お名前は?」
「え、
「エンジュちゃん。お花ありがとう。それから謝罪も。俺は君を許します。だからもう謝らなくて大丈夫」
「ぅ……でも……」
「ちゃんとお母さんの言うことを聞いて、危ないことはしないように。約束できる?」
「で、できます……します……」
「じゃあ大丈夫。あんまりお母さんを困らせちゃダメだよ?」
「はい……」
「よし。いい子だね」
撫でていた手をどけて女の子に微笑みかける。
顔どころか耳まで真っ赤になった女の子は、何か言おうと口を開きかけ、アキが地面に降り立った音に身体を飛び上がらせた。
「もういいでしょう、兄上。早く部屋に戻ってください。……お前も、どっか行け」
不機嫌に低語するアキに睨まれ、真っ赤な顔を一転青くし、エンジュちゃんは脱兎のごとく逃げ出した。
姿が見えなくなる直前に振り返っていたが、すぐに踵を返してどこかに行ってしまう。
「アキ……」
「……何か?」
とぼけたような態度に憮然とする。
「折角お前に友達が出来るかもしれないって思ったのに……なんで追い返すんだ」
「友達なんていらない。……それに、あいつは……」
ギリっと奥歯を噛みしめたアキは、出しかけた言葉を呑み込んだ。
何も言わないまま俺の背後に回り込み、背中から腕を通して部屋に引き摺り込む。
荒っぽい手つきで布団に寝かせられ、俺の手から奪い取った花を、元々生けてあった花瓶に差し込んだ。
二輪の黄色い花弁が、小瓶の中で慎ましく同居し合っている様は、ほのぼのとした気持ちにさせてくれる。
「さあ、飲んでください」
「いや、自分で飲めるから」
口元に差し出された薬を固辞する。
だが、アキは俺の言葉など聞かなかったように繰り返した。
「今、飲んでください」
「……自分で飲める」
「飲んで」
不機嫌な妹に強要されるまま口に含んだ。
相も変わらない苦みに咽そうになる。けれど効果は劇的だ。
段々と意識が遠のく感覚は最早慣れたものだった。
きちんと薬を飲んだことを確認したアキがふうっと息をつく。
瞑目して自分を落ち着かせているらしい。
再び目を開けた時には、直前までの不機嫌さは鳴りを潜めていた。
「おやすみなさい、兄上」
その言葉に答えようとして、しかしちゃんと答えられたか自信がない。
曖昧な感覚の中では記憶もあやふやになる。何が夢で何が現実か分からない。
次に起きるのは数時間後だ。
それまで、外で何が起ころうと目が覚めることはない。それが一番怖いことだ。