少女は帰り、レンは眠った。だと言うのにトカゲは依然元気である。
何とかして小屋に戻さなければならない。難しいことは分かる。とても元気だ。押そうが引こうが梃でも動こうとしない。しかし何とかしてやらねばならない。それが自分に与えられた仕事である。
アキは腕をまくって気合を入れた。さあやるぞとトカゲを睨んだ。トカゲは無感情にアキ見つめ返す。シューっと突き出された舌が私を嘲っている気がする。そうアキは思った。
――――当然のこと、一仕事終えるまでに紆余曲折あった。
トカゲの住まう小屋は馬小屋の隣にある。そこまで連れて行くだけでも相当の苦労だった。
最終的に力に頼ったアキはトカゲを押し込めた後、力づくで戸を押し閉めた。そうしてようやく平穏が訪れる。乱れた息を整えるため大きく息を吸い込んだ。
服が乱れているのはそれだけ大変だったからだ。
襟を咥えられ天高く放り投げられたり、頭から丸飲もうとしたり、隙あらばレンの眠る部屋に突貫しようとしたり。
色々あったが、努力叶ってトカゲを小屋に押し込むことが出来た。
はあと息を吐く。もうダメ疲れた。
弱音が零れる。戸にもたれかかってズルズルと脱力する。
気を抜いたその瞬間を見計らったように、ドンっと戸に巨体のぶつかる音がした。
衝撃で跳ね起き、ついに壊す気かクソトカゲ、と戸を押さえつけにかかる。
戸の向こうでトカゲが蠢く気配がする。藁の上をカサカサと歩き回る音。シューっと空気の抜ける音。
その音を聞くとアキの背中をぞぞっと怖気が走り、無意識に手は木刀を探ってしまう。
しかし木刀は部屋に置いて来た。兄に殺すなと厳命された以上、間違って殺してしまわないよう配慮した結果である。果たしてそれが間違いだったのか。この状況を鑑みれば間違いだったのだろう。
戸が壊されたら今度こそおしまいだ。食べられる。どうしよう……。
悲観するぐらいには、かなりの危機が訪れていた。
トカゲの本意がどうだろうと、その巨体で手加減なく接してくるのなら、人の身体など容易く壊れる。
すでにアキは何度か壊れかけた。その経験が警鐘を鳴らす。逃げろ、と。
ついに戸から手を離し、少しずつ後ずさったアキは、しかし続く衝撃が来ないことに気づいた。
恐る恐る戸に近づき耳を澄ます。先ほどあれだけ聞こえた音が聞こえない。小屋の中は静かだ。
唾を飲み込み、額に掻いた汗を拭う。どっと疲れが押し寄せた。
トカゲと相対する以上、ある程度の疲労は致し方ない物ではあるが、今日のそれはいつもより大きく酷い。
それもこれもあいつのせいだ。全部、あいつのせいだ。
喉元にせり上がった物を噛み殺し、もう一度唾を飲む。
胸の奥で渦巻く感情はいったん捨て置き、次のことを考えた。まだやらなければいけないことがある。餌やりが途中だ。
馬に餌をやらなければ。大分遅れてしまった。腹を空かせているだろう。それを済ませれば、一先ず家事手伝いは終わりである。
前もって用意してあった飼い葉を腕一杯抱え込む。
量が多くて前が見えない。けれど何となく歩けた。えっちらおっちら馬小屋に向かう。
アキの姿を見て捉え、栗毛の馬は尻尾を高速で回し始めた。そのあまりの回しっぷりに、隣にいた黒馬はぎょっと驚いた。尻尾の回転に合わせて黒馬の首も回っている。
飼い葉を置きつつ、その光景を見たアキはくすりと微笑んだ。
ささくれだった心が癒えていく。馬と言うのは思いのほか可愛い。感情豊かで人に懐く。表情は分からずとも仕草で考えていることが分かる。母上とは大違い。
ああ、可愛い……。
最近のアキは可愛いものに目がない。
それはストレスが溜まっているせいもあるし、別の理由もある。
とにかく可愛いものを見るとたまらなくなる。抱きしめて頬ずりしたいぐらいに。
疼く身体を抑えじっと馬たちを見ていたアキは、はっと我に返って仕事を思い出す。餌をやりに来たのだ。
両方の馬に飼い葉を与える。少量の果物もやった。
勢いよくがっつく栗毛と上品に頬張る黒馬。ペットは飼い主に似ると言う。だとするなら、この違いは育ちの違いだろう。この黒馬の飼い主はよほど高貴な身分に違いない。
レンが思ったのと同じことを、異なる経緯を経てアキも思う。
異なる二頭の様子をいつまでも見ていたかったアキだったが、生憎のこと時間は有限である。気を抜くと瞬く間に日が沈む。
最後にそれぞれ一度ずつ撫で、急ぎ家に戻る。木刀を腰に差して臨戦態勢になった。
家事の次は鍛錬と相場が決まっている。兄から受け継がれしルーチンである。
さあ、鍛錬だ。鍛錬だ。鍛錬だ。
心の中で三回唱えて気合を入れる。
しかしいつもと違ってしっくりこない。理由は分かっている。あの少女のせいだ。
その顔を思い出すとまたムカムカしてきた。
アニマルセラピーは応急処置でしかない。その可愛さのおかげで一時忘れることが出来るが、すぐに思い出す。そうなったら元の木阿弥である。
苛立つ心を持て余しながら、アキは気配を忍ばせてそっと母の部屋を覗き込む。そには当然椛がいる。
椛は胡坐を組んで沈思黙考に耽っていた。その足元には手紙があり、何か文字が書かれているが、アキはそれに興味がなかった。
重要なのは母が動こうとしないことである。その理由まではアキのあずかり知るところではない。
椛がこうして黙念としているのは、当然手紙の内容が理由であった。先方と交わし合う手紙の量は、今やあちらから届くことの方が多くなっている。
多い時で週に一度、家に遣いがやって来る。返事など待たずに次々送ってくるのだ。
私が送るのを待て、と件の遣いに苦言を呈しても、「いやぁ。なんか面白がってますよ」とけんもほろろであった。
提示された条件に悩む椛。その間にも早く早くと催促の手紙が溜まっていく。
急かされている。一刻も早くと言って来ているが、向こうの考えが読めず躊躇した。考えなくてはならない。人の人生を左右する重大な決断だ。考えて考えて、決断しなければならない。
そんな母の迷いと悩みなど知ったことではないアキは、動かない母をひとしきり眺めた後、これ幸いとばかり一人で訓練場へと向かった。
訓練場にひと気はない。他に誰も居ない空間にただ一人。
思春期を迎えたアキにとって、自分以外の気配がない場所と言うのは心休まる空間だった。
父の小言が気に障り、母の物言いたげな視線が煩わしい。
村人たちの兄を心配する言葉などはアキの神経を逆なでた。
他人の目のないこの場所では、何をするにしたって自由である。何でもできる。好きなことを。自由に。
アキは木刀を握りしめ手頃な木へ近づいていく。
身体から漂う暴力的な気配を行動で表すように、その幹を打ち付けた。
重苦しい音が鳴り響いた。
衝撃は枝葉まで伝わり、葉が擦れ合う音と共にヒラリヒラリと落ち葉が舞った。
微かに痺れる手を無視してもう一度木を叩く。
身に染みている型はある。しかしそれでも乱雑な所作は隠しきれない。
二度目の打ち付けは手が痺れていた分だけ威力が落ちた。音も軽くなっている。それに構うことなく木刀を振り上げ、何度も何度も木を打ち続ける。
やがて手の感覚がなくなった頃、アキは木刀を取り落とし、ようやく木を打つのをやめた。
ぽたぽたと汗が地面に染みていく。肩で息をしながら瞑目する。
感覚のない腕にあるのは痺れのみ。脳髄に突き刺さるような痺れが、アキの頭を明瞭にしていた。
自分のことを考える。近頃怒りっぽくなった。色々なことが癪に障る。些細なことから大きなことまで。感情に振り回されている自覚はあったが、だからと言ってどうすることも出来ない。
胸の内に渦巻いていた感情も、今ので発散し切れたわけではない。未だ燻っているものがある。
無性に身体を動かしたい。何かに当たり散らしたい。暴れて暴れて暴れまわりたい。
手は動かず木刀は握れない。すでに喉元までこみ上げている感情を御することは出来ず、アキは大口を開け力一杯叫んだ。
「ああぁっ――――!!」
なぜこんなに苛立つのか。
原因は明快だ。あの少女。
アキは言ったのだ。もう来るなと。次来たら殴るとも言った。
なのに性懲りもなくまた来た。それもアキの面前で。嘲笑うように。
思い通りにならないことがアキにとっては不愉快だった。傲慢とも言える考えだが、事実それで気を損ねている。
どこに手抜かりがあったのか。もっと激しく言えばよかったのか。暴力に訴え、罵詈雑言の限りを尽くせばあいつはここに来なかったのか。
アキは考える。思い出すのは数日前。洗濯物を干していた時のことだ。
その日は久しぶりによく晴れた。
晴れたからには洗濯が捗る。アキは自分の寝間着や下着を手で洗い、洗い終わったものを物干し竿にかけていた。
竹で出来た竿は衣服がかけられると重みに耐えかね湾曲する。ぐにゃりと曲がった竿は見るからに頼りない。折れてしまいそうな気もする。けれど見た目ほど脆くない。経験でそれを知っているアキは乱雑に干していく。
自分の着るものだから、適当に扱ってもいいと思っていた。これが他人の衣服なら丁寧に扱うのだが、所詮は自分の物である。最悪半渇きで、変な臭いがしていようとどうでもよかった。
適当に干された衣服たちは、適当に干されたなりの格好で日に照らされている。
アキはそれらを眺め、まあこんなものだろうと踵を返す。さあ、桶を戻して鍛錬だ。
一仕事終えた直後、達成感から意気揚々と歩を進めるアキだったが、歩いている最中ふと視線を感じて立ち止まる。
誰かに見られていると言う感覚が確かにあった。つい数か月前までは分からなかっただろう人の気配や視線でも、今なら薄々察知できるようになっていた。
頭を回して周囲を見回す。それらしき人影はない。
気のせいかと踵を返す。しかし首筋にチリチリとした感触が付いて回り、やっぱり誰かいると再び周囲を探った。
一度見回した時には分からなかったが、二度三度と視線を巡らしてようやく分かった。やけに小さいのが物陰に隠れてアキを盗み見ている。
それを見つけた瞬間、アキの身体に威圧感が纏う。手は木刀にかけられ、いつでも抜けるよう油断なく構えた。
「誰だ」
鋭く言い放つ声には警戒心が滲んでいた。
これら過剰ともいえるほどの態度の理由は、先代の剣聖に斬られたことに起因する。油断したところを背中から斬られた。辛うじて命は救ったが、だからこそ他人への当たりは一層強くなった。
特に見ず知らずの人間への警戒心は、もはや敵愾心と言って良いほど膨れ上がっている。さらに今回は盗み見られてもいる。アキは短慮で直情的な気質そのまま、殺すことすら視野に入れた。例えそれが自分より小さな子供であったとしても。
「出てこい」
「……」
少女が姿を現した。
見るからに子供である。年のころは7~8歳と言ったところか。
黒いおかっぱ頭の少女は、アキの威圧感に当てられて酷く怯えていた。
アキは少女の怯えた様子など気にも留めず、冷静に観察する。
武器の類は持っていないように見えた。しかし懐に隠しているかもしれないから油断はできない。
両手で握りしめている花は、レンの枕元に置いてある花と一緒だ。
アキは眉をひそめる。それを見た少女は殊更に縮こまった。
「何の用?」
「……」
アキの言葉には先ほどまでの敵愾心は消えている。しかしそれでもなお警戒心は滲んでいた。ぶっきらぼうな物言いは、アキ本来の口調であった。
少女はアキの問いかけに対し沈黙し、手の中の花とアキの顔を交互に見た。言いたいことはあるようだが、その口は呼吸を繰り返すだけで言葉が紡がれることはない。
少女の煮え切らない態度にアキは苛立つ。聞くべきことを聞いているのだから、少女は当然答えるべきである。盗み見ている理由とここに来た用件。その二つを答えるだけでいい。簡単なことだ。だと言うのに何を悠長にしているのか。
「……」
「……」
沈黙が場を支配する。
アキの苛立ちは怒気となって少女に伝わった。
身の危険を感じ始めた少女は何か言わなければと焦る。しかし頭は真っ白になって言うべき言葉が出て来ない。
「ぁの……ぉ……」
「は?」
「ひぅ!?」
あまりにか細く要領を得ない言葉に、アキはそのように聞き返す。
当然のことそこに労わりや優しさなどない。それが余計に少女を委縮させる。
「ぉ、ぉ……」
「お? なに?」
「ぉに……おにい……」
「おにい?」
ノロノロと喋る少女にアキは我慢の限界を迎えそうだった。
もう放って帰ろうか。そう思ったとき、聞き捨てならない言葉が少女の口から飛び出した。
「おにいさんに、謝りたくて……」
「は?」
何を言っているのだとアキは少女を凝視する。
今や少女は俯いて、喋ることだけに集中している。
「私のせいで、怪我しちゃったから……」
「――――」
すうっと血の気が引いていく。
頭の中を占めていた苛立ちや煩わしさが一瞬にして消え、真っ白になる。
「……なに? なんて言った?」
「あの……その……」
言い渋る少女に詰め寄って、肩を掴んで詰問する。
「怪我? 兄上が? いつ? なんで?」
鬼気迫る勢いだった。
身体を揺さぶられる少女は涙目になっている。
怯える少女への気遣いなど微塵も見せないアキに対し、少女は答えることを余儀なくされる。
恐怖に支配された中での受け答えである。アキの鬼気迫る勢いと相まって、半狂乱に近い会話が二人の間で交わされた。
「わ、私が邪魔して……! お兄さんが怪我しちゃって!」
「邪魔って何のこと? 怪我って何の怪我? いつ?」
「前、戦ってたとき……春ぐらい」
「あの婆が襲って来た時のことか?」
「ばばあ……? わ、わかんない!」
「わかれよ!」
相次ぐ質問で混乱に陥った少女を、アキは鬼の形相で睨み付ける。
少女は生きた心地がしなかった。殺されてもおかしくない。そんな雰囲気が漂っている。
「お前が兄上を邪魔して、それでどうなった? 兄上は怪我したの? 傷を負ったの?」
もはや少女に言葉を発する余裕はなく、ただただ頷くのみ。
そこまで追い詰めたのはアキ自身だ。それは分かっている。だがあと一つだけ聞かなくてはいけなかった。
「どれぐらいの傷だった?」
「……」
「答えろ」
「……血が、いっぱい……」
それを言うのが精いっぱいで、後はハラハラと涙を流す少女をアキは無表情で見つめる。
その手に握られた黄色い花は見舞いの品だろう。分かっていて聞いた。
「その花は?」
「……」
「花は?」
「……謝りたくて」
「必要ない」
でも、と取り縋る少女を拒絶しアキは背中を向けた。これ以上お前とは話さないと態度で示した。
その無碍ともいえる態度を前に、少女は頬を濡らしながらも退くことはしなかった。
「……会いたい」
「帰れ」
「ちゃんと謝りたい」
「帰れ」
「一度でいいから」
「帰れ!」
アキは声を荒げる。
振り向いた顔は鬼の様相。ただし見た目ほどの威圧感はない。それは自分自身への罪悪感のせいであった。
「兄上はお前と会わない! 怪我が治らなくて大変なのに! また死んじゃうかもしれないのに! お前なんかと会わない! 帰れ!」
そこまで言ってなお少女は帰ろうとしない。
木刀を手に取り、切っ先を少女に突き付けて唸る。
「帰らないと殴る。また来ても殴る。二度と来るな二度と近づくな。兄上はお前とは会わない。絶対に」
目前に迫った身の危険を前にして、ようやく少女は踵を返す。
全力で逃げ去る背中を見届け、アキは木刀を地面に叩きつけた。
行き場のない怒りが彼女の内に満ちていた。
「……っ」
それを向けるべきはどこなのか。
今のアキにはそんなことも分からず、怒りに震えながらその場に立ち尽くした。
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描写不足を痛感し、早く次の展開に向かうべくすっ飛ばしていた部分を、今話と次話で書かせていただきます。
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