女が強い世界で剣聖の息子   作:紺南

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第34話

記憶を呼び起こすのにかかった時間はほんの一瞬だった。その一瞬で怒りは何倍にも膨れ上がった。

元より耐え難かった衝動が一際増し、感情の迸るままに叫ぶ。叫び過ぎて喉が枯れるほど叫んだ。

 

最後には力尽き、萎んでいったその声は、到底自分のものとは思えないしわがれ声となっていた。

醜い声が耳朶を打ち、自分を客観視する余裕が生まれ、ただ叫ぶことの虚しさを思い知る。

 

膝に手を当て深呼吸を繰り返した。いつの間にか手の感覚は戻りつつあった。

木刀を振り回し大声を張り上げたことで、膨れ上がっていた苛立ちは発散した。一先ずはこんなところでいいだろう。幾分すっきりした頭でそう思う。

 

目を上げれば、滅多打ちにした木は樹皮が剥げて、蜂蜜色の中身が見えている。

よもやこれで枯れることはないだろうが、好き勝手に当たり散らした結果を目の当たりにし、少しだけ罪悪感を感じないこともない。

私、何してるんだろう。アキはそう思う。

 

(えんじゅ)と名乗ったあの子供に苛立ちを感じる。

あいつが兄をあそこまで追い詰めたのだと頭に血が上る。

しかし頭を冷やしてよく考えてみれば、あの年の子供に憎々しいほどの怒りをぶつけることの、なんと愚かなことか。

 

自分が7つだったころ、一体どれほどの子供だったと言うのか。決して誇れるようなものではなかっただろう。愚かで、無知で、人の手を煩わしてばかりだったに違いない。

 

思い返すに二年前、丁度木刀を握り始めたばかりであった。

村中の人間が、アキは剣を学ぶだろうと思っていたし、期待してもいた。形だけ見ればアキはその期待に応えたことになる。

しかし、アキの本意に人の期待に応えたいと言う殊勝な心掛けはまるでなく、剣を学び始めた理由は、兄がやっていたからの一言に尽きる。

 

幼いころより毎日のように遊んでくれた兄である。

その兄が、いつの頃からか剣を習い出したことで、遊ぶ時間は減ってしまった。

暇を持て余したアキは草むらに隠れて、母にしごかれる兄を見ていた。

 

その時の光景は今でも瞼の裏に焼き付いている。

子供心に母の鍛錬は虐めのように見えた。少なくとも、年端もいかない子供に対する行いではない。

情け容赦なく打ち付けるのは勿論のこと、動けなくなるまで基礎鍛錬を繰り返し、満身創痍で倒れた兄に対し、この程度で動けなくなるのなら諦めろと言い放った。

傍で聞いていただけのアキでさえ、泣きたくなるような辛辣な言葉の数々であった。

 

しかし、どれだけ厳しい言葉を浴びせられようと、剣を捨てるよう諭されたところで、レンは何度でも立ち上がった。決して諦めない不屈の姿勢と立ち上がり続ける背中が、今なおアキの中で強く印象に残っている。

 

だからこそ自分も剣を握った。自分もそうなるべきだと子供ながらに思った。

それが理由である。母が剣聖だと言うのは、当時の自分にはどうでもよいことだった。その言葉の意味すら理解していなかっただろう。

無知蒙昧極まれりである。実際に叩きのめされるまで、剣聖の恐ろしさを微塵も理解していなかったのだから。

 

今より幼いころの自分を思い返し、子供とはかくして愚かな生き物だと言い聞かす。あの少女に怒りを向ける意味などどこにもない。

頭では理解している。しかしやはり感情が言うことを聞かない。あの顔を思い出すとどうしようもなくムカムカしてしまう。

どうしてだろうか。初対面の印象が最悪だったからか。それともこちらの言うことを聞かず、あまつさえ自分の目の前でレンに会いに来たからだろうか。

 

理由は分からない。けれどむかつくのだ。どうしようもなく。

思考の海に沈みこんだアキは、答えの出ない問いにかかずらうことを止め、鍛錬に戻ろうとした。

足元に落ちていた木刀を拾い上げ顔を上げる。

 

そこで、いつの間にか背後に忍んでいた気配にようやく気がついた。

振り向いた先、声をかけもせず甲斐なく突っ立っていたのは、今しがた思い浮かべていた剣聖その人である。

 

「……」

 

「……ふむ」

 

目があった二人は言葉を交わすことはなく、かと言って朗らかな雰囲気に包まれるでもなく、妙な空気の元で見つめ合う。

相変わらず、椛は何かを言いたげな面持ちであった。しかし何を言うでもなく、複雑な色を堪えた瞳でアキを見ている。

 

アキは言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ、と不機嫌に眉を顰めた。

その感情の機微を正しく理解しながらも、やはり椛は口を開かない。

こんなことで時間を無駄にするつもりはない。舌打ちしそうになるのを抑え、アキの方から訊ねた。

 

「……何か」

 

「随分大きな声を出していたな」

 

待っていたとばかりの即答。

アキの心は不愉快な気持ちで満たされた。

 

「それが何か」

 

「何かあったのか」

 

「何も」

 

アキの答えは短い。そして本心は隠した。

椛はそれが嘘であることに当然気づいている。

 

近頃は気配で子供たちの動向を監視している。その監視網は、その気になれば村全体に及ぶほど大きなものだった。

気配と言うのは目で見るのと同じぐらい様々なことが分かる。特に感情の揺れ具合は気配の揺れと言う形で表れる。

暗闇の中で不意を打たれることが多かった椛は、特にその方面において一日の長があった。

 

槐が家に来たことには誰よりも早く気づいていた。それに二人が対応したことも勿論知っている。

その辺りからアキの気配が乱れ始めた。機嫌を損ねることがあったのだろうと見当はつく。

予想外だったのは、レンがそれについて何もしなかったことだ。椛が人の気配を読み取れるように、レンも同じことが出来る。てっきりアキが不機嫌になったことに気づいて、何かしらご機嫌取りをすると思っていたが、読みが外れた。

 

しなかったのか。出来なかったのか。気づかなかったのか。

前者二つならまだいい。面倒くさいことは母に丸投げたと言うだけのこと。しかしこれが後者だと言うのなら、考える必要がある。

それほどレンは弱っている。すぐ近くにいる妹の気配すら読み取れないほどに。

 

手紙の内容が頭をよぎる。突き付けられた選択肢。

やむを得ないかもしれない。心の天秤は過去の発言を撤回する方に傾き始めていた。

 

「母上。そんなことよりも、やるならとっとやりましょう。やる気がないのなら、どっか行ってください」

 

「ああ……。では、やるか……」

 

木刀を肩に担ぎ、獰猛な気配を漂わせるアキ。血気盛んな肉食獣を思わせる。

そこに過去の自分を見た気がして、椛はたまらず閉口した。

 

祖母を憎み、母を嫌い、家を飛び出した若かりし日の自分も、こんな雰囲気を漂わせていたのだろうか。

家を飛び出したが最後一度も戻ることはなく、結局、死に目に会うこともしなかった。

 

一方的に嫌うばかりで、一度たりとて話す機会を作ろうとしなかった。

きちんと話しておくべきだった。それをしなかったから、今こうして悔やんでいる。

 

かつての自分は思春期の一言で片づけるには行き過ぎた。

結婚し、子をなして、家庭を持った今だからこそ思う。

20年前の自分も10年前の自分もさして変わらぬ。成人すれば立派な大人だと思っていたが、成人した自分は大人には程遠かった。

きっと、アキもそうなのだろう。伊達に血は引いていない。すでに似通った点は多々見られる。大人になるには時間がかかる。そんな気がする。

 

出来ることなら、アキを自分と同じ方向に向かわせたくはない。

しかし過去のことがあるからこそ、強くは言えない。いずれアキが家を飛び出す時が来るとして、おそらく自分はそれを止めないだろう。

それで失ったものがあれば得たものもある。今となっては剣聖の肩書しか残っていないが、その経験を否定することはできない。

 

どうしたものか……。

子育ては悩んでばかりだ。正解と言うものが果たして存在するのかさえ疑わしい。

親として一番に願うのは子供の幸せだ。親ならば誰もがそれを願うだろう。

しかし自分は剣聖でもある。剣聖であることに半生をかけてきた。だからこそレンは死にかけたのだ。

 

突進してきたアキに足を引っかけて転ばせながら、椛は己の役割と成すべきことを見つめ直す。

剣聖としての自分。親としての自分。剣を取るか。子供を取るか。両方は取れない。それはもう骨の髄まで思い知った。

ならばこそ、選択肢は一つしかない。腹をくくる時が来たのだ。

 

椛は決心した。手紙に書かれていた条件をすべて飲むことを。それは自ずと前言を撤回することにも繋がる。

 

――――思いのほか早い別れになるだろう。

 

椛はきたる未来を予感しながら、勇猛果敢に突撃を繰り返す愛娘に木刀を叩きつけるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

夕暮れ。

日は沈みかけ、すでに太陽は半分隠れている。橙色と藍色の二色のコントラストで彩られた空は、この後すぐにでも暗闇に包まれることだろう。

 

この日、いつも以上に鍛錬に熱の入った椛は、向かってくるアキをこれでもかと痛めつけた。

ぐうの音も出ないほどコテンパンにやられたアキは、心が挫けそうになるたびに草葉から覗いた兄の背中を思い出し、奮起して立ち上がった。

 

その様に感心したのか、はたまた興が乗ったか。

ならば容赦はせんと言わんばかりだった剣聖は、最後まできっちり手を抜かず、計6度アキを気絶させたところで鍛錬は終わりとなった。

 

ズタボロの布きれのごとき有様だったアキは、最後の意地でもって背負われることを拒否し、木刀を杖代わりにしながら何とか帰路についている最中である。

あちこち擦り傷を負っているのはいつものことで、道中すれ違った村人たちもさして気にする様子はない。

 

覚束ない足取りで家に向かうアキは、何度か声をかけられたがすべて無視した。まれに兄の容体を尋ねるものもいたが、一睨みすれば大抵黙る。その間にとっととその場を後にした。

 

その調子で家まで戻り、玄関を素通りして縁側へと向かう。

縁側から入った時、すぐ目の前にはレンの眠る部屋がある。それを目当てに縁側を上がり、最後は転げるように帰宅した。

 

靴は土の上に脱ぎ散らかされたままだが気にする余裕はない。酷使された筋肉が悲鳴を上げている。立とうとして立つことは出来ず、仕方なく床を這って進んだ。

戸を開け部屋に入るだけでも一苦労。どうにかこうにか這い進み、布団の側まで行くことが出来た。

 

すやすやと寝息が聞こえ、息を吸い込むたびに布団は上下していた。

それを確認してほっと息をつき、最後の力を振り絞って起き上がる。

 

布団の上の寝顔をじっと見つめる。起きている時よりも、こうして寝ている時の方が以前との差異がはっきりする。

怪我をして以降、すっかりやせ細ったレンがそこにいる。

 

忸怩たる思いに駆られるアキだったが、この数か月のレンの生活を思えば仕方のないことであった。

日がな一日寝て過ごす毎日で、怪我のせいで運動もほとんど出来ず、一日の食事は三食から二食に減った。その二食にしたって、アキが一食で平らげる量よりも少ない。

自ずと体重は落ち筋肉は衰えた。ぎゅっと抱きしめれば折れてしまいそうなほど体は小さくなってしまった。

かつての溌剌(はつらつ)とした雰囲気は消え去り、代わりに儚げで繊細な印象が顕著になっていく。それ故にいずれ消えてしまうのではないかと不安に駆られる。

 

今のレンを見るたびに、アキはとある人物を思い出さざるを得なかった。少し前に東へ行った時に出会った、カオリと言う女性のことだ。

アキはその女性が嫌いだった。怖かったと言ってもいい。人生で初めて、ただ見ただけで本能的な恐怖を覚えた人物であった。

当時はそこまでの感情を抱く理由は分からなかったが、今ならわかる気がする。

カオリは、死に近すぎたのだ。

 

彼女から放たれる死の気配をアキは敏感に感じ取っていた。

迫りくる死に抗いもせず、半ば諦め、そして受け入れていた。死に恐れを抱かず逆に寄り添って、戯れにレンを誘うような真似までした。

 

その独特な雰囲気は、死を間近に控えた人間特有のものだったのかもしれない。

今やそれと同じものがレンから感じられる。いや、もしかしたら、以前から微かに感じていたのかもしれない。だからこそ、レンとカオリを近づけたくなかった。

 

今、その雰囲気は色濃くなってレンに纏わりついている。ならば、レンは死ぬのだろうか。あの夜のように。

 

「……いやだ」

 

生気のない真っ白な顔と石のように冷たい肌。あの夜のことが思い出され、無意識に拒絶の声が口を衝いて出た。それは誰に聞かれることもなく、虚空へと消えていく。

 

考えたくはない。しかし考えてしまう。

今度は足手まといにならない。守ると誓った。

しかし、アキが鍛錬に励む陰で、レンは日に日に衰弱している。

焦燥感に駆られ、より一層強さを求めたところで、レンを治療する術はアキの手にはない。

このままでは守れない。今度こそ死んでしまう。幾度となく諦観が頭をよぎり、そのたびに振り払って、馬鹿の一つ覚えで鍛錬に励む。

 

月日が経つにつれ、先々のことが鮮明に見えるに従って、アキの気持ちは悲しみの渦に包まれていく。逃げようのない渦の中で悶え苦しんだ。

 

身体を動かしているときが一番楽だった。務めを果たしている間は何も考えずに済む。

だが一度現実に立ち戻れば、目を離した隙にレンが死んでしまってはいないかと不安に押し潰されそうになる。

 

アキは、朧げにではあるが、周囲の気配を読めるようになっていた。

そのおかげで目で見ずともレンの無事を直感で理解できる。だが、最早何となくの次元では満足できなかった。

直接この目で見て、手で触れて初めて安堵できる。そうでなくては思考は悲観に包まれ、最悪の可能性を考え続け、切りのない恐怖に襲われる。居ても立っても居られない。

 

今もこうして目で安否を確認し、頬に触れることで一息つけた。

束の間心に安寧が訪れ、次に待っているのは新たな恐怖である。

 

「兄上……私は、どうしたら……」

 

たった一言の弱音がその口から漏れ出ていく。

その弱さはレンが眠っている時にしか見せていない。レンが起きている短い時間は、出来る限り明るい雰囲気を保とうと努力しているが、その実、とめどない無力感と悲壮感が今この瞬間もその身を苛んでいる。

 

もしもこの苦しみに耐えかねてレンに縋りつくことがあれば、抑え込んでいた感情は堰を切ったように溢れ出すだろう。

そうなったが最後、自分は完全に無力になってしまう。吐き出される弱音と共に守る力は失われる。

弱さなどいらない。ただ強くあればいい。そう、兄のように。

 

己の在り方を見つめ直す。幼いころの情景を思い浮かべれば造作もないことだ。一時立ち直ることだって出来る。

しかし現実は何も変わらない。どれほど強大な力があっても、今のアキにレンは救えない。

 

巨大な壁がある。

レンを救う手立てはその壁の向こうにあるが、アキにはただ見ていることしかできない。

 

アキは考える。守るために必要な『何か』を求め、暗闇に溺れて考え込む。

闇の先に答えを求めて、深く深く思考の海に沈みこんだ。

しかし暗闇を掻き分ける手は空を切るばかり。だからと言って、自分にできることは何もないと、それを認めることは絶対に出来ない。

 

どこまでも深く闇に潜り込んで、アキは求め続ける。

それがどのような結末をもたらすかは、まだ誰にもわからない。


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