アキの成長を目の当たりにし、母上との確執が日に日に増していることを実感した、その晩のことである。
「ご飯だよー」
夕日が差し込む室内に高めの調子が響く。
それが誰かは姿を見ずとも分かっていたが、その口から発された言葉が予想外に過ぎた。
痛みも忘れてむくりと起き上がる。戸の方に目を向けながら聞いた。
「……父上が持って来たんですか?」
「そうだよー」
膳を抱える父上は俺の驚きなど気にも留めずに頷いた。
ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべながら、布団の側に腰を下ろす。
それを見る俺の頭には、困惑と疑問が浮かんでいた。――――アキはどうしたのか。
今まで一度も欠かしたことのない食事係を今日に限って欠かしたとなれば、想像は悪い方向に転がっていく。
もしや初潮の影響で調子を崩しでもしたか。
前世だとそれが原因で体調不良に陥る人も多かったと聞く。アキが体調を崩したとしても何ら不思議ではない。
不安と焦りでやきもきする気持ちを抑え、じっと父上の説明を待ってみるも、なぜか父上は何も言ってくれない。
それどころか、思いのほか熱かったらしいお碗に悪戦苦闘する姿を見せ、俺の混乱を増長させる。
「あちっ! ……あっついよ!?」
心の大部分を占める不安とは裏腹に、耳たぶに触れる仕草が妙な懐かしさを抱かせた。
それと同時に、その態度にわざとらしさを感じた。何も言うつもりはないのだと察してしまう。
結果、不安と怒りがないまぜになった感情を抱く。声を大にすることも考えたが、与えられることでしか情報を得られないわけではない。
父上がそのつもりなら、と家の中の気配を探ってみると、アキの気配は母上と共にあった。一つの部屋に二人っきり。
その気配の昂り方から元気なことが分かる。何やら怒っているらしい。両者に動きはなく、恐らく対峙して睨みあっていると思われる。
俺の見えないところですら、そんな感じで元気にやっている。
心配した分だけ呆れた気持ちになる。その気持ちが素直に顔に出た。
俺の顔を見て父上も何かを察したらしく、途端に落ち着かない素振りを見せ始める。
「アキと母上は何をしているんですか?」
「えー……お話し中、かな?」
「何の?」
「……何のだろうね」
歯切れが悪く、嘘が下手だ。隠したいことがあると、その態度が雄弁に語っている。
一体全体何がどうなっているのか。分からないことを分からないまま放っておくと碌なことがない。だから父上の気持ちを慮ることなく、直截に訊ねる。
「隠し事ですか?」
「ん!? あ、え、あの……その……。と、とりあえず、それは置いといて……」
「なぜ置く」
「お、置いといて! 今日から僕がレンの面倒を見るよ!」
質問をはぐらかし、力こぶを作るように腕をぐっと曲げて見せる父上だが、当然のことながらその気合は空回っている。愛想笑いが空虚に響いた。
「なぜに」
「ほら……アキに任せっきりっていうのも……悪いかなって……」
「いまさらでは」
「いや、うん、まあ。その通りなんだけど……でも、ほら、あの、あれで」
「あれとは」
「……あれって言うのは………………あれだよ」
この上なくしどろもどろな癖に、肝心なところだけはきっちりはぐらかすので性質が悪い。隠し事がばれているのは承知の上で押し通そうとしている。
そんなことをされると、こちらとしても徹底抗戦以外に術がない。母上で培った場数は伊達ではないが、果たして父上に通用するのか。
やってみなくては分からない。手始めに威圧してみる。
「……あ?」
「ひっ……」
そのたった一語で、父上は過剰に怯えて後退った。
若干及び腰になっているところを好機と見て追撃する。
「説明を」
「せ、説明? 必要かなぁ……!?」
「は?」
「ご、ごめんねそっか必要か……。えっと、あれっていうのは、つまり……。……ごめん、やっぱ言えない……」
「あぁ?」
「そ、そんなに怒らなくてもいいでしょ!?」
泣きそうな顔でヒステリック気味に抗弁される。
個人的にはこの程度怒ってる内に入らないが、これほど怯えられるならやらない方がいいかもしれない。しかし、そうなると母上で積んだノウハウは何も役に立たないことになる。まあ、そんなもの役に立たない方がいいか。
威圧的な雰囲気を引っ込めていつもの調子に戻す。
「別に怒ってませんよ」
「……本当?」
「本当」
「じゃあ、よかった」
安堵の戸息を吐きながら、父上はにっこりと笑顔を浮かべた。
こちらとしては攻め手を一つ失ったわけだから、何も良いことなどないわけだが。
「で、何がどうなってるんですか」
「食べよっか」
「おーい」
予想通り、俺の言葉はすげなく無視され、代わりとばかりに蓮華を口元に突き出される。
こんなもの食えるかと拒否することも考えたが、それをしたら面倒くさいことになるのが目に見えたので、素直に口を開けた。
「おいしい?」
「普通」
「えー?」
「普通」
この状況で作り手の矜持など知ったことではなく、ただただ普通と連呼する。
欲しい物があるなら等価交換が世の常だろう。今俺が欲しいのは情報だ。
咀嚼しながら何か気が散るなと思ったら、いつの間にやらあの二人がステゴロで喧嘩を始めていた。荒ぶりながら動き回る気配を意識の隅に留め置きつつ、父上の顔を凝視する。
途端、挙動不審になった父上に「で?」と再三尋ねたところで、「あはは」と誤魔化されるだけだった。
やっぱり面倒だなと嘆息し、とりあえず向こうの二人をどうにかしてもらうことにする。
「喧嘩してますよ」
「え?」
「アキと母上が殴り合ってます」
「……ウソぉ」
「ほんとぉ」
語尾を伸ばす口調は馬鹿っぽく思える。
真似しておきながらそういう感想を抱いた。
ちなみに、言ってる間に勝負はついていた。
当たり前のごとく母上が勝ったわけだが、アキもそれなりに善戦したらしい。多分俺が母上と素手で勝負したら1秒もたずに組み伏せられるので、そこは素直に凄いと思う。俺は素手での戦い方を教わっていないので、当たり前と言えば当たり前なのだけれど。
「ちょっと見てくるね」
「お好きに」
二人の様子を見に行った父上を見送って、俺は一人で食事を進める。
蓮華を持つ手は震えている。食べづらいことこの上なかった。それでも痛みに目を瞑れば問題なく食べられるほどには進歩した。
決して良くなっているわけではないが、もう随分と慣れた。人間とは慣れる生き物だ。一人で生活出来るようになるまで慣れることが、現時点での目標である。
明りの確保しづらいこの世界で、日が落ちてすることと言えば、ただ眠るだけである。
一応蝋燭などはあるらしいが、高価な上に火事が怖いからあまり使いたくはない。
月明かり照らす夜空は相も変わらず綺麗であるが、家の中からだとその美しさは十分に味わえない。かと言って月見に洒落込むことが許される体でもない。
やっぱり寝るしかない。布団が二つ並べて敷かれている光景を見ながら、正面に正座している人に目を向ける。
「……」
「……」
会話はなかった。
先ほどまでとは打って変わり、妙な緊張感が漂っている。
食うに続いて寝るのも父上と一緒らしい。それは別にいいのだが――――アキのことを考えるとそうあっさり頷いて良いものか悩むけど――――この空気は一体どうしたことだろうか。
そもそも何が理由でこんな空気になっているのか。思うに、父上と枕を並べることそれ自体が原因ではなかろうか。
俺は5歳の時にはすでに一人寝で、かつ一人部屋だった。その理由についてまでは知らないが、剣を習い始めた時期と合致するので、母上なりの理屈があったのだと思う。
剣を習い始めたのに端を発し、俺と父上の関係は一般的な親子関係と比べて乖離しているのは想像に難くない。
今までそれで何やかんややって来たのに、今更普通の親子よろしく同じ部屋で眠れと言われても、そもそも普通とはなんぞやと言う疑問が湧いて出る。
一通り難しく考えた後ならば、いつも通りで良いのだと開き直れはするけれど、父上にそれと同じものを求めるのは難しかったようだ。
口元を引き締めて緊張している様は二十半ばの男性とは思えない。あわあわと狼狽える様子に可愛らしさはあれども格好良さはない。
そもそもこの世界の男たちは俺の価値観では女々しい人が多い。
心なしか顔も童顔ばかりな気がするし、男の見た目でやたらと女々しい言動をするので、そういうところがちょっと苦手だったりする。
それを考えるとゲンさんは素晴らしい。
あの態度と言動は前世で言う頑固爺そのものだ。あの人と話しているとちょっと面倒に感じることもあるのだが、それ以上に寂しい心が慰められる。そこはかとない異物っぽさが俺に似ている。似た者同士は引かれ合うと言うことだろう。
その論で言うと、俺と父上の間には文化や価値観の相違がそびえ立っていて、そのせいで若干の壁を感じる。
一応は仲良くしているが、それも表面上のことでしかなくて、お互いに心の中までは見せていない。
この11年間、その関係に不自由は感じたことはない。父上がどう思っているかはともかく、俺に不都合はなかったから、これ幸いと放置していた。正直これ以上仲良くなる気はなかったし、関係を進展させたいと思ったこともなかった。
それなのに、突然このような形で距離を縮められてしまい、対応に困っている。どんな顔をすればいいのか。そもそも何を求められているのか。まあ、いつも通りでいいだろうと思ってはいるのだが。
「寝ましょう」
「うん」
布団に入って天井を見つめる。
いつも飲んでいる薬は、今日は飲まずに懐に隠し持った。
静謐な暗闇は、正体の知れぬ鳴き声を運んでくる。
ぼんやりと何を見るでもなく天井を見つめ、時の流れに身を任せた。
横になっているのに一向に眠くならない。自分の身体に意識を向けると、途端に鈍痛を自覚させられるから、どうでもいい事を考えて時間を潰す。アキと母上は上手くやっているだろうか。
隣の布団からは息遣いが感じられた。寝息ではない。起きている。いつまでも緊張感がほぐれないのは、父上が寝る気配もないからだ。
寝る気がないのなら、そろそろ何か言って来るかなと予期して、その予感通りに声がかかる。
「起きてる?」
「……はい」
あえて返事を遅らせた。
待ってましたと言わんばかりの即答は、父上を変に身構えさせやしないかと危ぶんだ。余計な心配だと言う気もしたが、最早そう言うのが癖になっている。特に、父上を相手にするときは。
「ごめんね」
「はあ」
どれに対する謝罪なのか。素直に考えればこの状況に対する以外にないが、思いつかないだけで他にもまだありそうな気がする。
「説明してくれるんですか?」
「うん……。アキとお母さんを仲直りさせないといけないから」
「仲直り?」
仲が悪いのは知っている。
さっきも喧嘩していた。仲直りさせたいと言う気持ちも分かる。しかし……。
「つまり、その場を作ったと?」
「うん」
「本当に?」
「……うん」
そう言うなら、とりあえず信じることにした。
疑わしかったし実際疑ってもいたけど、何も追及せず、「ふうん」と相槌だけ打っておいて、次の言葉を待つ。
「……それとね」
「何です?」
「もう一つだけ、謝りたかったんだ。ごめんね。邪魔しちゃって」
「……何のことですか」
「あの時のことだよ」
阿吽の呼吸と言うわけではないが、言外に込められた意味はきちんと理解した。
いつの間にやら指折り数えたくなるぐらい過ぎたなあと、時の速さに半分驚き、もう半分で呆れながら言葉を返す。
「今更ですね」
「……うん。色々あったから」
確かに色々あった。
俺なんかは一度死んだらしいし。そのせいで一時期関係がぎくしゃくしていたが、それは時間が解決してくれた。
それがあったからこその今なのだろう。俺にとっては今更でしかないけれど。
「謝るんですか」
「うん」
「父上が謝るなら、俺も謝るのが筋なんでしょうけど、謝りたくないです」
「えー?」
くすくすと忍び笑いが聞こえる。
「別に謝らなくていいけど」と寛大な言葉を吐いた後で、
「レンが謝るところは見てみたい」
「……なんですかそれ」
「あんまり見たことないから」
そう言われると俺が謝らない奴みたいに聞こえてくる。だが実際はそれなりに謝っているはずだ。
考えても思い出せないぐらい少ないし、謝った時はどうでもいいことで謝っていると思うけど。
「ごめんね。命がけで戦ってるときに、邪魔しちゃって」
「はあ」
「判断力も、全然ないし」
「別に、そんなのは」
「怖がりで、何もできなくて、アキだけ連れて逃げちゃって――――」
そこまで聞いて、ようやく返事が求められていないことに気づいた。
衝動的な言葉が後から後から出てきている。懺悔の言葉が。
「助けられなくて、力がなくて、足引っ張って、怪我させて……」
声が震えている。段々と湿っぽくなっていく。
ついに鼻をすする音が聞こえて、ああ、泣くのかと思った。
「本当に、ごめんね」
「……」
返す言葉が見つからない。
何を言えば泣き止んでもらえるのか。どうすればいいのか。
何一つとしてわからずじまいで、選びたくもない沈黙を選んでしまう。
自罰的な気持ちが時間の感覚を麻痺させ、長い時が過ぎたように錯覚する。
ただただ、暗闇を切り裂く嗚咽に耳を傾けていた。
「……」
「……落ち着きました?」
嗚咽が聞こえなくなった頃に、ようやく口を衝いて出たのはそんな言葉。
そこら辺に転がっているような、どうでもいい言葉。
いざと言う時に役に立たない口などいらない。脳も同じだ。だから必死で考える。良い感じの慰めの言葉を。
「――――別に」
けれど、浮かんでくるのは自分に都合のいい言葉ばかり。これを言うのかと自分自身に問いかけて、これしかないのだと諦める。
「別に、いいですよ」
訥々とその言葉を紡いでいく。
「あの時は、お互い余裕なかったし、俺も声を荒げちゃったのは申し訳なく思いますけど、でも今更ですよ全部」
「……」
「個々によって、出来ること出来ないことあるのは当然でしょう。出来る人が、出来るときに、出来ることをやればいい。だから、俺はあの時、アキを助けるよう父上に頼んだ。父上はちょっと戸惑ったけど、きちんとやってくれた。おかげで、アキは生きてる。俺も、ちょっと色々あったけど、生きてる。それでいいと思うんですよね」
父上は何も言わなかった。
何を考えているのかは分からない。分からなくていいと思う。分かりたいとも思わない。
だから、俺は言葉を続ける。
「今日までずっと溜め込んでたんでしょうし、泣きたい気持ちを分からないでもないので、まだ謝りたいって言うなら聞きますよ。気の済むまで謝って、気の済むまで泣いて、それで全部終わりにしましょう」
聞いてる方も結構辛いので、日を跨ぐのはごめんです、と言葉を締める。
そこまで聞いてなお、父上は何も言わなかった。
長い沈黙は実際に長かった。
時間の感覚は正常に働いていたはずだ。
さては寝たかと疑るほど長い時間父上は喋らず、やっと口を開いたかと思えば、その声音は幾分皮肉っぽかった。
「本当に、子供らしくないなあ……」
「……逆に聞きますけど、子供らしかったことありますか」
「……どうだったかな」
起き上がる気配がする。
目だけで横を見れば、布団の上で正座する父上の姿があった。
「最後にこれだけ言わせてほしい」
「なんでしょう」
「次は、逃げないから」
声に宿る真剣味に、覚悟の度合いを推し量る。
瞬間、言いたい言葉が山ほど浮かんだ。それは全て否定の言葉だった。
開きかけた口を閉じ、ぐっとこらえて目を瞑る。心の中で建前を繕うのに苦労した。
「そうですか」
「うん」
歓迎しない。もし次があるならその時も逃げてほしい。
戦いの場で弱い人間は足手まといにしかならない。
つらつらと並べた否定の言葉を吟味すしていた最中、ふと気づく。
弱い人間と言うなら、今の俺がまさしくそれだ。
もしアキか母上か、または他の誰かが俺を守るために戦っているとして、俺は素直に逃げるだろうか。
目の前に手をかざして考える。
小さくて細い、頼りない手が暗闇に浮かんでいる。
目を瞑って見ないようにしていたものを、突き付けられた気分だった。
「……まだ、分からない」
「え?」
「なんでもないです」
零れた独り言を誤魔化して、再び目を瞑る。
逃げるかどうかは、その時になってみないと分からない。
今のところはそう結論付けたが、それが先送りでもなんでもなく、ただの逃げなのは分かり切っていた。
もしかしたら、俺と父上は似た者同士なのかもしれない。
そんな考えが脳裏をよぎり、ふっと嘲笑が零れ出た。