その日、剣聖の住まう屋敷に一人の老婆が訪れた。
年のせいで曲がった腰にしわくちゃの手を置いて、小さな歩幅で懸命に歩いている。頭には頭巾を被り、真っ白な頭髪を覆っていた。
この老婆は見た目相応の年齢であり、この村では最高齢でもあった。
親しみやすい気さくな性格故か、彼女の元にはよく相談事が持ちかけられる。過去の経験や知識を元に親身になってやっている内に、気が付けば村長と呼ばれるようになっていた。
村長というと、村の代表と言って過言ない。
本人にその気はなく、出来ることなら辞退したくて仕方がなかったが、周りの人間がそれを許さない。「剣聖がいるのに……」と愚痴を零したのは一度や二度ではない。
今の剣聖は先代の剣聖と違い、人との交流に積極的ではない。試しに「村長にならないか」と持ちかけてみて、冗談ではないと一蹴されたこともある。血筋から言っても、剣聖が村長になってくれれば誰からも文句はないのだが、本人が嫌だと言うなら仕方がない。他の誰かがやるしかなかった。
そんな理由で村長になった彼女が、この日剣聖の元に訪れた理由は語るまでもなく、降り積もった雪のためである。
秋口にさしかかろうかと言うこの時期に冬を思わせるほどの外気となり、とどめとばかりに雪が降ったことで農作物は全滅した。
そのことによって、村人たちの間に暗雲が立ち込めたのは言うまでもない。
彼女を含めたこの村の老人たちはこの状況を打破するべく集い、頭を働かせた。
伊達に人より長く生きてはいない。読み書き出来る人間すら数少ないこの世界では、経験と言うものは何より大切な財産である。
今までだって飢饉は起きたのだ。それを乗り越えて今がある。かつては戦争だって生き残った。今更飢饉程度で狼狽えるほど未熟者ではない。
経験豊富な老骨が5人集まっての話し合いは短い時間で済んだ。
皆まで語るべくもなく、何をすべきかは明々白々だった。
先ず、村の若い者に周囲の村々へ様子を見に行かせた。望みは薄いが、食糧に余裕があるかの確認である。もし余裕があるのなら、少し分けてもらえないか願うことになるだろう。こう言う時は助け合う決まりだ。
それと同時に食糧の買い出しも指示する。村全体が越冬できるほどの食糧とは言わずとも、足しになるぐらいは買えるかもしれない。
もちろん、それすら望みが薄いことは分かっていたが。
剣聖の家へと向かいながら、彼女は考えに耽っていた。
他に手段はないものか。何か忘れていることがありはしないか。
すっかり老いた頭で考える。こんなに頭を働かせるのは久しぶりだ。すっかり平和になったものだと、どうでもいい思考に寄り道した。
やがて戸の前に立った老婆は考えを打ち切った。残っていることは何もないと結論付ける。
長い人生だったと回顧に浸る余裕があった。良いことも悪いこともたくさんあった。
一口に良い人生だったとはとても言えないが、子宝に恵まれ、運のいいことに玄孫の顔まで見れた。思い残すことは何もない。
心を満たす充足感。彼女は頷き戸を叩く。
いらえはすぐにあった。剣聖の夫。西の男の声だ。
顔を見せたその男を、老婆は真っ直ぐ見ながら一言告げる。
「剣聖様は御在宅でしょうか」
雪が降った降ったと喜ぶのは子供ばかり。
村中の子供たちが一晩の内に積もった雪景色に歓喜し、取る物も取りあえず、外に出て遊びほうけた。
その様子をアキは鍛錬場への道すがら、またはその帰り道に横目で見ていた。
その目の温度は、視線の先の子供と同類とするにはいささか冷め切っている。
アキは何も村中に漂う危機感に気づいているわけではない。そこまで頭が切れるわけではなかった。
ただ単純に見下しているのだ。この程度の雪ではしゃぎ回って馬鹿みたい、と。
そう言うアキ自身も、寝ぼけ眼に広がった銀世界にテンションが上がってしまい、着の身着のまま兄の元へと爆走しているのだが、そんな記憶は既に遠い彼方である。
銀世界への魅力に憑りつかれたのは朝も早い時間のことで、現在は正午に達しようかと言う時間帯。
最近、己のことを棚に上げることを覚えたアキは、鍛錬場で一人木刀を振った帰り道だ。
今日は雪が降ったこともあり、風邪を引くかも知れないからと母や兄に止められたにも関わらず、勝手な判断で鍛錬場へと繰り出していた。
それは母への反発心が半分、強くなりたいと焦る気持ちが半分の独断専行だった。
当然のこと、母と兄はアキが勝手に鍛錬場に赴いたのに気づいている。知らぬは父ばかりだ。
母は「仕方ない奴だ」と諦め、諫める気などまるでない。代わりに兄の方は「もっと強く説教しなければ」と考えている。
母の説教は涙が枯れ身が震えるほど恐ろしいが、兄の説教はまるで怖くないと言うのがアキの感想である。
と言うのも、この数か月でアキの中で上下関係が変化してしまった。
かつては兄が上で自分が下と言う図式だったのに対し、兄が怪我をしてからはそれが入れ替わった。
今となってはレンに戦う力はなく、自分が庇護しなければならないと強く思っている。そして、守られる側が守る側より上の立場なはずがない。
そう言う単純明快な論理がアキの心に根付いてしまった。
母が諦めている以上、アキの暴走が止まることはない。
暴走列車のブレーキは己の役割を放棄し、燃料である兄は常に満タン。乗客である父のことはまるで意に介していない。
それが今のアキを取り巻く状況であった。
はしゃぎ回る子供たちの横を過ぎ、一路家へと向かうアキ。
昼に近づくにつれ気温は上がり、雪は段々と水っぽくなっている。
上手く歩かねば転んでしまうだろう。実際、走り回る子供たちは何度も転びその衣服は汚れていた。
私はそんな無様なことにはならない!と自信満々に歩くアキの前を、老人が一人歩いている。
腰の曲がった老人の歩みは遅々としている。追い抜くのは簡単だが、近づけば大体声をかけられる。それは煩わしい。
――――どいつもこいつも本当に……。
少し思い出しただけで、胸の奥に溜まった黒い感情が一部表に出てきてしまった。
どうでもいいことで話しかけないでほしい。元気かと問われて答える義理があるのか。お兄ちゃんの具合はどうだって、なんでお前にそれを話さなきゃならない。
ふつふつと湧き出す感情を無理やり飲み下して歩くペースを上げる。
声をかけられる前に追い抜くつもりだった。
波打つ感情そのままに、いつも以上の速度で駆けていく。
足元の雪のことなどすっかり忘れていた。雪の上では地面を強く蹴れば蹴るほど、歩幅を大きくすればするほど転びやすくなる。
そんな走り方をしていて、ずるりと足をとられた時には、体勢を立て直す術などない。
運の悪いことにすぐ横には田んぼがあった。
尻もちをつき、雪のせいで更に滑って、そのまま田んぼに落ちてしまう。
水の跳ね散る音が周囲に届き、田んぼの反対側にいた大人が「なんだなんだ」とアキを見た。
すっかり濡れてしまったアキは、無言のままざばりと立ち上がり田んぼを出る。水の滴る前髪を煩わし気に掻き上げた。
それから、周囲の目などまるで気にせず、帯を解いて上着の水を絞る。
風が吹いてぶるりと身体を震わせはしたものの、だからと言って濡れてしまった服を再び着る意味はなく、そのまま手に持って歩いた。傍から見ればトボトボと。本人にしてみれば幾分頭が冷えて妙な気分になっていた。
向けられる幾多の視線には大人の目と子供の目がある。その中には槐の目もあったのだが、アキは終ぞ気づかない。ただ歩くのみである。
先行く老人の背中を見つめる。
背中と言っても腰が曲がっているので見づらいことこの上ない。年の割に恰幅が良いせいか、年寄りがよく被る頭巾が毛ほども似合っていない。
見れば見るほど、その違和感がアキの頭に付いて回った。
どこへ行くのか道の先を目で追うと、そこには自分の家がある。どうやらこの老人は母に用があるらしい。
母上に客とは珍しい。村の住人はアキにばかり近寄って来るくせに、その他の家族は忌避する。今まで家に訪れた人間は、アキの覚えている限り源を除けばほとんどいない。
どんな用があるのかと少し考えてさっぱりわからなかった。どうでもいいかと考えることを放棄した。
老人が家の戸を叩くのを尻目に、アキは迂回して縁側から家に入る。レンの部屋の正面から帰宅したアキは、自分を呼ぶ声を聞き自然と頬を綻ばせた。
「アキ? 帰ったのか?」
「はい。帰りました」
レンの声に答え、手に持っていた上着をぽいっと捨てる。そこの部屋には火鉢があるから、一先ずそれで暖まろうと足を向けた。
当初、真剣な面持ちで布団の上で身体を起こしていたレンは、アキの格好を見て面を食らった顔になる。まさか服を脱いでいるとは思わなかった。
「え、上着は?」
「濡れたので捨てました」
火ばさみで炭を弄りながら答える。
「捨てた……」
「そこに捨てました」
慄いた様子のレンに、アキは背中越しに廊下を指さした。
一転レンは呆れ顔になり「とりあえず着替えて」とため息交じりに言う。
「風邪ひいちゃうから」
「はい」
口ではそう答えながら、アキは火鉢の前から動こうとしない。
じとりと見つめるレンの視線に構うことなく、じっくり温まっている。
「アキ?」
「今着替えます」
そう答えはしたものの、中々その気にならない。
どうせすぐにでも父上が来て――――。
そこまで考え、ふと気づく。そう言えば今は客が来ている。
廊下を覗き、誰も来る気配がないことを確認した。
ここ最近、兄妹水入らずを邪魔してくる両親がいつまでもやってこない。
さてはあの老人にかかりきっているのか。これは良い機会だ。アキはそう思い、着替えなど二の次でレンに抱き着きに行った。
「兄上!」
「え」
ぴょんと跳んで、ぎゅっと抱きしめる。
こうするのは久しぶりだ。一緒に寝ることも許されない今となっては貴重な時間である。
さて、このまま兄上に跨って……いや、この間みたいに兄上に上に乗ってもらった方が……。
当たり前のように過剰なスキンシップに至ろうとするアキの腕の中で、レンが悲鳴を上げる。
「ちょっ濡れてる!」
「あ」
濡れた衣服を押し付けられたレンは、脆弱な力でアキを突き放す。アキも抗わなかった。
代わりに濡れているズボンを脱ごうとして、それにより我慢の限界に達したレンが「着替えろ!」と怒声を浴びせかける。
珍しく有無を言わさぬ威圧感を醸すレンを前にして、さしものアキと言えども反抗する気にはなれなかった。
返事もままならないまま、駆け足でその場を後にした。
着替えるために自室へと歩を進めるアキ。その胸では鼓動が早鐘を打っていた。
先ほど受けたレンの怒声には、今まで感じたことがないほどの怒気が込められていた。
かなり本気で怒らせたらしい。失敗した、とアキは中々落ち着かない鼓動に苦慮している。
兄上の所に戻るのは少し時間をおこうかな、と悪知恵を働かせるほどである。ちょっと時間をおいたら怒りも冷めてくれるかな、と。
痛む胸を抑えながら客間の前を通る。
中から話し声が漏れ聞こえていた。聞き覚えのある声は母上のものだ。もう一つに覚えはないが、先ほどの老人の声だろう。
自然と足音を殺す。抜き足差し足で通り過ぎようとする。
しかし、聞こうとしたわけではないが聞こえてしまった話し声に、アキは思わず足を止めた。
『わ――――し――――』
『そ――――か』
『こ――――ほ――――』
『……そうか』
足を止めてしまったのは、最後に聞こえた母の言葉のせいだった。
その声は一見いつも通りの声音だったが、声の端に酷く悲し気な気配が漂っていて、アキは足を止めずにはいられなかった。
『他に方法があると言うのなら、喜んで伺います』
『……いや、思いつかない』
『そうですか』
二人の会話にはこれまで感じたことのない緊迫感があった。決して他人事ではないと本能で理解してしまう。
戸に耳を当て、中の会話を盗み聞きする。いつの間にか鼓動は落ち着いていた。
『剣聖様には領主様に取り次いでもらいたい。期待してはいませんが一応必要でしょう』
『あいつは前の大馬鹿者とは違う。期待しておけ』
『だといいのですが』
一体何の話をしているのか分からない。
聞き逃した最初の部分に答えがあったのだろうが、もっと早くに聞き耳を立てておけばと後悔する。盗み聞きに対する罪悪感は全くと言っていいほどない。
『それで……大変言い難いのですが』
老人の声音がわずかに変わる。今までの飄々とした口調に緊張感が宿り始めた。ついに本題に入るらしい。
ごくりと唾を飲んで戸に耳を押し付ける。
『私どもは老いぼれです。若者に比べれば食も細く、微々たるものでしかない。……惨いようですが他にも犠牲は必要です』
『それで』
椛の答えは早かった。
その早さは予想していたと言うようだった。この先の流れは、彼女たちにとっては既定路線なのだろう。分からないのは、聞き耳を立てているアキだけだ。
『男がいい。男なら何人死のうが一人残っていれば致命的ではない。女は一度に一人しか生めませんが、男は種をばら撒ける』
『それで』
『大人ではなく子供でしょう。男であっても大人ならまだ役に立つ。子供と比べれば』
再び鼓動が早鐘を打ち始める。死と言う単語が出てきた辺りで、アキは二人が何について話しているのか察しが付いた。しかし本能が理解を拒んでいる。聞きたくないと心が悲鳴を上げた。
『全て殺す必要はない。しかし残すのは強い子供だけです。弱い者は殺さねば』
『……』
母の声は聞こえなかった。今どんな顔をしているのか。それだけが気になった。
『剣聖様。今、この村の子供たちは皆健康体です。あなたのご子息を除けば』
懇願するような声がする。
噛みしめているはずなのに、歯が震えてガチガチと音がした。怒りと恐怖が押し寄せる。目の前がチカチカと発光した。
『もっとも弱い者から殺さねば。こんな時だからこそ、特別扱いは許されない。どうか、どうかお許しを。村が一丸となってこの窮地を乗り越えるためにも、どうか』
続く言葉を予想した。耳をふさいで聞かないでいることも出来たが、それが出来るほどアキは弱くない。聞く前には引き手に手をかけていた。
『どうか、ご子息を殺すことをお許しください』
戸を開ける。
渾身の力を込めたはずだが、戸は半分しか開かなかった。
すうっと音もなく戸が開き、室内の様子が露わになる。
部屋には二人しかいなかった。母と老婆が二人だけ。
下座に座る老婆が開いた戸に気づいて振り向く。上座の母はアキを一顧だにしなかった。
対するアキは手足が震え、立っているのもやっとである。
乾いた喉から絞り出し、震える唇を開いて言葉を紡ぐ。皮肉なことに、声だけは震えていなかった。
「どういうことですか」
気丈な声とは裏腹に、その顔は真っ青だ。それは怒りのためか、あるいは恐怖か。アキ自身にもわからない。
驚愕に染まった老人と、驚く素振りもなくいつも通りの母の顔を見ながら、アキはひたすらに答えを待った。
「入れ」と母が言うまで、その場に立ち尽くしていた。