女が強い世界で剣聖の息子   作:紺南

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第4話

冬が来る。

予感は肌に突き刺さる木枯らしが教えてくれた。

 

秋と分かるものはなかった。

わずかな紅葉を見たかと思うと、山々の深緑は一斉に落葉し、枯れ葉は辺り一面に絨毯のように敷き詰められた。

一面茶色の景色に足の踏み場はなく、一歩踏み込むと否応なしに乾いた音がする。

 

何の気なしに脚を振り上げ、枯れ葉を撒き散らす。

ふわりふわりと踊るように落下する葉。それとは別に、くしゃりと丸まっている葉はストンと真っ直ぐ落ちる。

瞬間、視界を埋め尽くさんばかりだった枯れ葉のカーテンは、数秒たたずに全て地面に戻って行った。

 

その様を見て、ふと思い立つ。

瞬きの間だけ宙に浮かぶこの葉っぱたちを、剣で斬る修行を。

瞬発力や空間把握能力を養えそうである。やってみる価値はありそうだ。

 

もう一度脚を振り上げて木の葉を舞わせる。

刀を抜き、目の前の物を全て斬る。その調子で振り向きながら斬ろうとしたら、既に木の葉は地面に落ちていた。

 

「むぅ……」

 

己の動きを省みるまでもなく、原因は一目瞭然だった。

振るのが遅い。それだけだ。

 

この速度では何十と言う葉を全て斬るには到底間に合わない。

加えて、不規則に舞う木の葉を斬るのに動きを予測しているものだから、コンマに満たないロスが生じている。猶予が数秒以下であることを考えると、それはあまりに致命的だった。

 

思ったより難しい。

やり遂げるには地力が足りない。しかし母上ならやれると言う確信があった。

ならば出来るようにならなくてはいけない。努力あるのみ。

 

もう一度脚を振り上げる。

集中する。どの修業の成果か、最近は極限まで集中すると時の流れが緩やかになるようになった。

修行が無駄ではなかった証拠だ。喜ばしいが、長所があれば短所もある成果だった。

 

時の流れは全ての物に平等に働きかける。宙に浮かぶ枯れ葉が停止しているのなら、当然のごとく自分も停止する。例外などない。

 

意識は既に木の葉を斬ったつもりでいる。だが実際はまだ抜刀途中だった。

意識が先走り身体は着いて来ていない。あまりにもどかしい。お預けを食らう犬はきっとこんな気分なのだろう。

 

主観では分からなかったが、剣速は常に最速を維持した。視界に収まる全ての木の葉を把握し、刀は最短を突き進む。

それでもなお足りない。目の前のことはいい。十分に対処できる。しかし死角はどうしようもない。

振り向かなければ分からない。だが目で見て脳で処理する時間がもったいない。そんなことをしている間に木の葉はゆっくり地面に吸い込まれていく。

諦め悪く地に落ちる直前の葉を一枚両断したが、落ちてから斬ったのかそれとも直前で斬れたのか、何とも判別付きにくかった。

 

まだ遅い。遅すぎる。

もっと速く剣を振るうにはどうしたらよいか。

身体能力は一朝一夕ではどうにもならない。地道な鍛錬を続けるしかないのは分かっている。

しかし、どれだけ鍛えたとしてもいずれ限界はやってくる。この世界では俺が思っているよりもずっと早くにやってくるだろう。

身体能力の差を覆すには他の何かが必要だ。母上の教えには反するが、地力ではなく全く別の武器を磨く必要がある。

 

例えば、条件反射で考える前に身体を動かせられれば、脳を介す必要はなくなる。その分だけ速く動ける。速く動くことだけを考えるのなら、それもありだ。

しかしそれは危険を伴う。突然目の前に人間が現れれば、一刀に切り伏せてしまう未来がありあり浮かぶ。

考えることは重要だ。思考を放棄してしまったら、取り返しのつかないミスを犯してしまうかもしれない。挽回のための策を練ることも出来やしない。

自分の中でスイッチを入れている間だけ身体が動くようにするとか、そう言うことはできないだろうか。

 

発想が催眠術の世界に足を踏み入れた。

地力のなさをカバーするには、俺には知識しかない。知恵と工夫で補うほかない。

出来ないことを出来るようにするには、どうしたらよいのだろうか。

 

考えても考えても答えには辿り着かない。

剣を振るよりも、最近はこうして考えることが増えた。

瞑想と言えるほど高尚なものではない。一歩も前進していないのだから。

 

この先どこに行けばいいのかわからなくて、足踏みしている。

手探りで恐る恐る、欠伸が出るぐらいの遅々たる歩みで進んでいる。

 

覚悟が足りないのかもしれない。

ここらで一つ、大きく踏み出しておくべきだろうか。

人生はゲームじゃない。一歩進んでしまったら後戻りは出来ない。どれだけ後悔に苛まれても、過去をやり直すことなどできやしない。

 

それを知っているから、慎重に一歩ずつ進んでいる。悪いことじゃないはずだ。

だが目指すものがあるのなら、何が何でも叶えたい目標があるのなら、時に慎重さをかなぐり捨て、一心不乱に駆け出すことも悪いことじゃない。

 

今がその時だろうか。

一心不乱に猪のように、ただただ成し遂げることだけを考えて。

そうするべきだと思う心の片隅で、まだ早いと思う自分がいる。

 

その道を選んでしまったら最後、あらゆる物が変わってしまう。

母上や父上との関係も、妹との関係も。何もかもすべてが。

躊躇する。居心地のいい今を壊したくなくて。この10年で築き上げたものを壊したくなくて。

そう思うのなら、自分の気持ちに蓋をして安穏とした一生を歩む。そんな人生もありだ。

 

迷う。迷って仕方がない。

何をしたいか。何を守りたいか。何を優先するか。

 

迷って迷って、結局答えを先延ばしにしてしまう。

まだ10歳。時間はある。先に延ばして何が悪い。

 

そう開き直りはするけれど、考える頭は止まってくれない。

まだ時間がある。次がある。今決めなくてもいい。

こんな気持ちではいつまでたっても決めることなどできない。わかっている。これは俺の弱さだ。

 

とは言っても、どれだけ煮詰めても結論には至らない。

短く息を吐く。頭を使い過ぎて頭痛がする。気分転換をしよう。

 

周りを見渡す。目に映るのは枯れ葉だけ。

枯れ葉と来たら、することは一つしか思い浮かばない。

火を焚こう。燃える焚き火を見ながら考えてみることにする。

火は神秘的な気分にさせてくれる。それで何か得られるものがあるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この地域には雪が降る。

積雪は膝ぐらいにはなるだろうか。

前世のことを思い出すと、これでもまだ降らない方だと思うが、車などの無いこの世界でそれだけ降ってしまえば、容易に村の外に出ることは出来なくなる。

雪が降るまでに収穫を終え、税を納め、十分な備蓄を用意して越冬する。

それがこの地域の冬の過ごし方だ。

 

冬は農閑期なのですることがない。それに伴って収入もなくなる。

だから本格的に冬が来る前に、東方に出稼ぎに向かう人間が多くいる。

大体は大人の女性が出稼ぎに行くが、まれに成人間際の子供も同行した。

女性が町に出稼ぎと言うと、ついついよろしくない稼ぎ方をしているのではと思ってしまうが、実際は酒を作ったり炭を焼いたり、あるいは土木工事だったりと真面に働いているそうだ。

なんなら東の方が稼ぎが良いという話も聞く。逆に冬は稼げないという人もいる。職や状況によりけりと言うことだ。

 

それに関連してか、本当に極々まれに、出稼ぎに向かったまま行方知れずになる人間がいる。

何らかの事件に巻き込まれたか、不慮の事故で死んでしまったか。蒸発と言う線もあり得る。

真偽定かではないが、実際そういうことも多々あって、俺が生まれる前にも一度あったそうだ。

話し合いの結果、残された夫と子供は村全体で面倒を見ることになり、子供は無事成人した。こんな小さな村だからこそ助け合わなくてはいけないが、よくそこまで面倒を見たものだ。心打たれる話だった。

 

そんな話を聞いてからと言うものの、冬の訪れと共に一路東へ向かう村人たちの背中には哀愁のようなものを感じずにはいられなかった。

冬は日照時間が短く気分が鬱屈としてしまうから、それが原因かもしれない。しかし出稼ぎに向かう人たちに思う所があるのは事実だった。

 

何を思うのか。よくよく考えてみれば、俺はこの村を出たことがない。

母上と父上はよく相乗りで町まで買い出しに行くが、俺は連れて行ってもらったことがない。

他人のデートを邪魔する趣味はないから今まで連れて行けと言わなかったが、俺ももう10歳だ。年が明ければ11歳になる。

経験は大抵の場合財産になる。一度出稼ぎに行くのもいい経験だろう。伸び悩んでいる今だからこそ、何らかの変化が必要だ。心機一転するのにいい機会かもしれない。

 

思い立ったが吉日。丁度居間にいた母上に直談判することにした。

 

「ダメだ」

 

返事はむげもない。取り付く島はなかった。

かと言って諦めるにはまだ早い。

座す母上の正面に座りながら、僅かな希望に縋って言葉を交わす。

 

「なぜでしょうか」

 

「わからないか」

 

「わかりません」

 

「ならば聞こう。年は?」

 

「10です」

 

「今まで労働の経験は?」

 

「家事労働しか」

 

「特技はなんだ」

 

「剣です」

 

「誰がそのような人間を雇う」

 

反論を思いつかず腕を組む。

自分の言葉を反芻した。

10歳。労働経験なし。剣技が得意。そして男。

出稼ぎに行くには、この世界の常識から多少外れているかもしれない。

 

「息子よ。お前は男だ。出稼ぎなど男が行くものではない。家にいろ」

 

「しかし母上」

 

「金の心配なら無用だ。こう見えて、家族を食わせるのに十分な額を稼いでいる」

 

我が家の家計事情は承知している。

母上は剣術指南で稼いでいる。剣聖の名声は絶大だ。その名だけで報酬は吊り上がる。

具体的な額は教えられていないが、何不自由なく一家が食べれるぐらいには貰っているらしい。

 

「母上。俺は金銭的な心配をしているのではありません」

 

「ではなぜそんなことを言う」

 

「町に行ってみたくて」

 

「連れて行ったことは……なかったか……」

 

「ありません」

 

今度は母上が腕を組む番だった。

目を瞑って思考に耽る。

 

「母上……」

 

今が攻め時。哀願してみる。

母上の眉がピクリと動き、ついにため息を吐いた。

諦めが混じっているように思う。微かに希望が繋がった。

 

「ダメだ」

 

だがやはりダメだった。

 

「町には人攫いもいる。お前なら容易く返り討ちにするだろうが、万が一があるだろう。出稼ぎはダメだ」

 

「……」

 

「町には機会を見て連れて行く。それで我慢しろ」

 

「……はい」

 

これ以上の譲歩は望めそうにない。こうと決めたら梃子でも動かないのが母上だ。

徹底抗戦の構えで俺も頑固モードに入るのも手か。

それをやったら最後、解決の糸口が見つからず泥沼に嵌るだけだろう。関係も悪化しそうだ。

 

退き時だろう。

母上が説得できないと父上を説得したところで意味がない。と言うか、この調子では恐らく父上の方が説得に骨が折れる。

前哨戦たる母上一人説得できなくては端から負け戦だ。

やむを得ずその場を辞す。玄関から外に出、裏手に向かって歩く。

 

得られたものはあった。しかし当初の目的は完遂できなかった。

町に連れていってくれると言うが、冬のうちは無理だろう。

心機一転が望めないのなら、今できる気分転換をするしかない。

馬小屋に向かう理由は、アニマルセラピーが目的である。

 

馬たちは俺が小屋に入るやいなや俺の方に首を回す。鼻を近づけ匂いを嗅いだ。

二頭いる馬の内、栗毛の馬を撫でて心を落ち着かせた。冬毛のおかげで夏とは違う撫で心地がする。

馬は鼻息荒くぶるぶる鳴いていたが、匂いを嗅いだ後はあまり俺の存在を気にしてはいないようだった。

代わりに隣の赤毛の馬がじっと俺を見つめている。撫でるよう催促している訳ではなく、ただじっと見つめている。馬の表情は分からないが無表情に見える。それがどことなく母上を思わせた。

 

無意識の内に腰の刀に触れていた。

全ての『太刀』を習得した折に与えられた刀。母上が剣聖になる前に使っていたもの。

10歳の俺にはまだ少し長いが、使っている内に手に馴染んできた。

 

この刀を与えられた時、一人前の剣士として認められたのだと思った。

真剣を佩びる意味とは、つまりそういうことなのだと。

だが実際は少し違った。母上は何かにつけて「お前は男なのだから」と口にする。

剣士である以前に男である。そして息子である。そう言う風に思っているのかもしれない。それは決して間違いではないが、そう言う構えで接せられるとやり辛さを感じる。

 

近頃、母上はめっきり俺に稽古をつけてくれなくなった。

もっぱら妹の方に集中している。今が大事な時期なのだと言う母上の言葉はよく理解できるから、文句も言えない。だがずっと続いていたしごきが途絶えたのは寂しく思う。

 

そう言った諸々に加え、出稼ぎの目論見が外れて気落ちする俺を嘲笑うかのように、馬小屋の隣でペット小屋が盛大に揺れた。存在を主張するようにゆさゆさ揺れる。

 

チラリと壁を見て無視する。そうしたら数秒経って今度はより長く揺れた。それは地震が来たのかと思うほどの揺れだった。

 

動揺した馬たちがいななき、俺は壁を蹴った。感情の制御が出来ていなかった分、壊れはしなかったが音はかなり響いた。

一瞬揺れが止まって、次の瞬間には一際大きくなって返ってくる。理解する。間違いなく喧嘩を売られていた。

 

「兄上……?」

 

小屋の壁越しに俺とペットがやり合っているのを、いつの間にかやってきていた妹が不思議そうに見ていた。

 

「何をされているのですか」

 

「いや。なにも」

 

「なぜ壁を蹴られていたのですか」

 

「この壁の向こうの奴は相変わらず懐いてくれないなと」

 

「その大蜥蜴は母上にしか懐きません」

 

「そうだったね。以前、父上を呑もうとしていたのを思い出した。殺意が湧く」

 

「即刻処分いたしましょう」

 

「出来ることなら、そうしたい」

 

乗り物として優秀すぎるせいで、易々処分できないのが難点だ。

斬っていいのならとっくに斬っている。それこそ真剣を握ったその日に。

 

腹立ちまぎれにもう一度だけ壁を蹴る。続いて妹も蹴った。俺より遠慮がなかった。溜まっているものがあるのかもしれない。

向こうは既に飽きたのか、壁が揺れることはなくなっていた。

 

「兄上。母上と何か言い争っていたようですが」

 

「争っていたわけじゃない」

 

「しかし母上がかなり気難しい顔をされていました」

 

「お前もだいぶ母上の表情が分かるようになったね」

 

「娘ですので」

 

頭を撫でてやる。

妹は気持ちよさそうに目を細めた。

 

「……それで、何を話されたのですか」

 

「出稼ぎに行きたいと言ったんだ。断られてしまったが」

 

「……出稼ぎ? なぜ?」

 

「なんとなく」

 

「なんとなく?」

 

やけに踏み込んでくる。

さて。どう答えたものか。

 

「得られるものがあるかなと思って。俺は町に行ったことがないから」

 

それ以上に大した理由はない。考えても思いつかなかった。所詮は単なる思い付きだ。

それでも強いて言うなら、伸び悩んで鬱屈している気分を変えたいというのが一番の理由になる。

けれど伸び悩んでいるなんて、妹に言えることじゃない。妹自身が伸び悩んでいるのなら尚更に。

 

栗毛の馬を撫でる俺の横で、妹も赤毛の馬を撫でる。

馬が気持ちよさそうに鼻を鳴らして、もっと撫でろと催促してくる。

俺も妹も喋らない。馬小屋は静寂に包まれていた。

 

馬を撫でていると欲求が募ってきた。

隣には妹もいる。これは一つやるしかないだろう。

 

「アキ」

 

「はい」

 

「馬に乗ろう」

 

「は……」

 

訝しむ妹をその場に置いて、父上を呼びに走る。

一声でやってきた父上が鞍をつけてくれて、馬に乗るのを手伝ってくれた。

 

「大丈夫かい?」

 

「平気です」

 

上背がないから自力で馬に乗ることはできないが、一度馬に乗ってしまえばこっちのものだ。

馬に乗れない父上が俺のことを羨ましそうに見ている。なんだか優越感を感じてしまう。

 

「アキ。おいで」

 

「はい」

 

相変わらず胡乱気な表情だが、呼び掛けには素直に応じてくれる。

差し伸べた手で妹を引き上げ、俺の前に座らせた。

妹は馬に乗り慣れていないので重心がフラフラと移動して危なっかしいが、後ろから腰に手を回してしっかり支える。

片手で手綱を操って回頭した。

 

「それでは少し散歩してきます」

 

「走らせちゃダメだよ。危ないからね」

 

「はい」

 

やはり羨ましそうな父上に見送られ家の敷地から外に出る。

草地から土を踏んだ途端、蹄が小気味よく鳴った。

歩くたびにパカパカとリズムよく鳴る足音には、リラックス効果があるのかもしれない。聞いているだけで気分が落ち着いてしまう。

 

「景色はどうだ」

 

「高いです」

 

「良い眺めだろう」

 

「はい。とても」

 

最初は緊張していた妹も段々慣れてきて、今は俺に体重をかけるぐらいには順応していた。

普段より二倍以上高い場所から見る景色は格別の感慨があるに違いない。

キョロキョロとひっきりなく周囲を見回す様に笑みがこぼれる。

 

村の住人が馬で闊歩する俺たちを遠巻きに眺めていた。

妹だけならともかく、俺がいるから声をかけようにも躊躇しているようだ。

こちらから話しかけてみて、妹の対人能力を向上させるにはいい機会かもしれない。

けれど折角楽しんでいるのに水を差す真似も控えたかった。

またの機会にしよう。

 

そんな事を考えて避けていたのだが、こういう時に限ってあっちからやってくる奇特な人がいる。

背筋がピンと伸びた初老の男性。動物の毛皮をベストのように加工して羽織っている。とても温かそう。

進路方向からやってきたその人は、俺たちの横で立ち止まった。

 

「なんだぁ。馬なんか乗りやがって。見せびらかしてんのか? 羨ましいねえ」

 

どことなく喧嘩腰なのはいつも通りなので特に気にしない。この村で数少ない、向こうから接してくる人だ。仲良くしよう。

 

「ごきげんようゲンさん。いい気分ですよ。ご一緒にいかがですか」

 

「馬鹿言いやがれ。落ちて骨でも折ったらどうすんだ。もう若くねえんだ」

 

ゲンさんはふんと鼻を鳴らし、妹をジロッと見た。

妹は頑なにゲンさんを見ようともせず、視線は真正面に固定されている。

 

「相っ変わらず愛想のねえ小娘だ。挨拶の一つもありゃあしねえ。これで人気者だってんだからわかんねえな」

 

「俺にも少し分けてほしいぐらいですね」

 

「お前は気色悪すぎるわ小僧」

 

相変わらず物事をはっきり言う人だ。

そのせいで俺と同様に距離を置かれている。

親近感を抱くのに十分な理由だった。

 

「今日はどちらへ?」

 

「散歩だ。用も何もない」

 

「山の様子はどうですか」

 

「変わらん。今年は冬眠するだろう。前みたいなことは起こらんよ」

 

「それは良かった」

 

「ああ。良かった。血まみれの餓鬼なんざみたくねえからよ」

 

言いたいことだけ言って、ゲンさんは通り過ぎて行ってしまった。

その背中を見送る。初老とは思えないがっしりした身体つきだった。猟師は身体が資本である。男と言えども見えない所で鍛えているんだろう。また一つ親近感を感じてしまった。

 

「ちまみれ……?」

 

妹が呟く。

 

「怪我をした人がいるのですか?」

 

「昔の話だ」

 

「……ひょっとして、それは兄上のことでは?」

 

「よくわかるな。けど過ぎたことだよ」

 

痛々しい経験はあまり思い出したくない。

会話を打ち切り、馬を歩かせ村を練り歩く。

訓練場にも行きたいが、馬を歩かせるには少し危ない。

そこまで道が整備されている訳じゃない。しかし頑張れば通れそうではある。

どうしようか悩む俺を余所に、妹は質問を浴びせ続けていた。

 

「兄上が怪我をされたのですか? いつですか?」

 

「ずっとずっと昔のことだよ。もう治った」

 

「平気なんですか? どうして怪我をしたのですか? 本当に大丈夫ですか?」

 

「平気。子供だったんだよ。なんでも出来ると思い込んでいたんだ」

 

「どういうことですか? なにをしたんですか?」

 

「木の棒を振っていたら(あやま)って怪我をしたんだ。本当にそれだけ」

 

それはそれで別の話ではあったが、事実ではあるのでそっちを言っておく。

齢10にして生傷絶えぬ人生である。

 

「それよりアキ。向こうに子供がいるね」

 

指さす方向に子供が5人いる。

男の子一人に女の子四人。肩身の狭そうな組み合わせだ。

 

「アキより年下かな。こっちを見てるね」

 

「……はい」

 

「乗りたそうにしてる。一声かけようと思うんだけどどうかな」

 

「無視して通り過ぎましょう」

 

「アキ……」

 

「構うことはありません。通り過ぎましょう」

 

「どうしてそんなに邪険にするんだ。子供が嫌いなのか?」

 

「大っ嫌いです」

 

「……」

 

そこまで言われると何と反応したらいいかわからない。

兄妹そろって友達一人いない現状、妹だけでも何とかしたいのだが、本人にその気がなければ難しい。

俺と言う反面教師が身近にいるのに、どうしてこうなってしまったのだろう。

 

「友達は大事だ。俺が言えたことじゃないけど、寂しい時だって一緒に居てくれるし、困ったことがあれば力になってもくれる。大切な関係だ」

 

「兄上。私は兄上と母上と父上がいれば寂しくありません」

 

腰に回していた腕をぎゅっと掴まれる。

それは離れないと言う意思表示のように思えた。

 

「俺はいつまでも一緒にはいられない。いつかは家を出る。母上にもそう言われている」

 

「なら、その時まで一緒に居てください。それだけで十分です」

 

「出来ればずっと一緒に居てやりたいけれど」

 

遠くに離れても、生きている限り繋がりがある。

会おうと思えばいつでも会える。生きるとはそういうことだ。

 

けれど人はいずれ死ぬ。

死んでしまったら最後、会うことはできない。

繋がりは断たれ、永遠の別れを余儀なくされる。記憶ですら少しずつ薄れていく。

人は二度死ぬと言う。物理的な死と、記憶からの死。その論で行くのなら、俺に限っては四度死ぬことになる。

それはもうどうしようもないことなのだ。

 

「アキ。いつかお前にも友達が出来たらいいなと思ってる」

 

「いりません」

 

「でも、本当に素晴らしいものなんだよ。いつか教えてやりたい」

 

頭の中に浮かぶ顔や名前。

それらは時と共に薄らぎ、死を迎えようとしている。

決して避け得ない。不可逆的な現象だ。

けれど、この先本当に彼らを忘れてしまったとしても、彼らと出会い、経験し、感じたことは一生心の中にあり続ける。それだけは忘れることはない。

 

経験は財産だ。財産は人の営みを豊かにしてくれる。

ああ、素晴らしきかな人生。

この素晴らしさをこの子にも伝えたい。

本人が何と言おうと、ゆっくり少しずつ。真心こめて。

人生とはかくも素晴らしきものなんだと知ってほしい。

 

少なからず俺の影響を受けているこの子に、色々なことを教えたい。

嬉しいこと、嫌なこと、楽しいこと、苦しいこと。甲乙つけず人生の全てを。

それが前世を持つ俺の務めだろう。

 

強情に頭を振る妹をぎゅっと抱きしめながら、そう心新たに決意した。


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