唐突に逃げ出したアザミをアキと
束の間、足を止め深く息を吸い込む。追わねばならぬ、追わねばならぬと気ばかり逸る。その気持ちを抑えつけ、心が落ち着くのを待つ。こんな状態では足を引っ張るだけだと理性が訴えている。
元より、ゲンはアキほどの猪武者ではない。出来る限り理屈で以て行動し、理性で以て考えるよう努めている。
その理性が告げている。アザミに勝つのは容易ではないと。
必中だと思って放った矢のことごとくが防がれた。矢に限らず、死角からの攻撃にも平然と反応していた。あの反応速度は人間のそれとは到底思えない。
目以外の何かで反応している。耳だろうか。それだけではまだ説明がつかない。では獣がよく持ち合わせている六感か。
もしそうなら、その正体には心当たりがあった。ゲンはかつて剣聖である
聞いた当初は鼻で笑った。そんな物の存在を認めるのは狂人に違いない。椛は狂人かもしれないが、ゲンは狂人ではなかった。これまで感じたことのある気配は全て、目と耳で説明がつく。あるいは勘というのもあるかもしれない。しかし勘の大半は当てずっぽうだ。言ってしまえば気がするだけだ。不確かで曖昧で、気がするだけの第六感。それを大仰な言い方で気配と呼ぶ。そんなところだろうとゲンは思っていた。
その認識が改まったのは、この春のことだった。
数か月前の山狩りの際、狼たちを山ほど狩ったその記憶。あの時、狼たちは草木に隠れて襲い掛かって来た。一匹や二匹ならともかく、あまりに数が多すぎてゲンにはどうしようもなかった。
だと言うのに、剣聖である椛とその息子のレンは、それらの奇襲に苦も無く対応していた。あの時、明確に足を引っ張っていたのは誰あろうゲンであり、10かそこらの子供に守られる始末であった。
四方八方から襲い掛かって来る狼たちに、目や耳で対応するには手が足りなかった。目も耳も手もそれぞれ二つずつしかなく、考える頭に至っては一つしかない。
百匹そこらの狼に囲まれて、全ての方向から襲われたのでは打つ手はない。死を待つより他になかった。人間誰しもそうだろう。今ゲンが生きてこの場にいるのは、人間をやめたと思しき親子がいたからだ。
後で椛に聞いてみたところ、やはり気配を読んで対応していたと述べた。どんな戯言かと思う。冗談みたいな話だ。
それが出来るから剣聖なのだろう。人を超越している。さすがは剣聖と言えばそれで片が付く。レンに関しても、さすがは剣聖の息子と言うところだろうか。まったく笑えない話だった。
状況から見て、アザミが何らかの方法で死角からの攻撃を把握しているのは間違いない。
それを気配と仮定するなら、奇襲や不意打ちはほぼ通用しないことになる。策を講じて数に頼ったとしても、前例を鑑みれば効果的とは言い難い。
真正面からぶつかって打ち破るしか手はない。
前で戦う二人が鍵だ。しかし自分も含めて誰か一人でも欠けたらその時点で終わりである。厳しい戦いになる。手強い相手だ。あまりに手強い。
「おい小娘!」
考えてばかりもいられない。
ゲンは未だその場に残っていた杏に呼びかける。びくっと飛び上がった杏は上擦った声で答えた。
「な、なに!?」
「矢だ!」
「は? や……?」
「弓矢を持ってこい!」
矢が当たらないことは織り込んで射らなければならない。
どうせ当たらないのだから、牽制目的で射るしかないだろう。長期戦も視野に入れるべきだ。となると、矢の数が足りない。
「ありったけ持ってこい! 担げるだけ担いでこい!」
「な、なんで私がそんなこと!?」
「うるせえ! つべこべ言わずにやりやがれ!」
――――見ているだけなら、せめてそれぐらいは役に立て。
勢いに任せて飛び出かけたその言葉は、すんでのところで押し留めた。
この状況で余計な言葉は不要だ。悪感情など抱かせて押し問答に勤しむ暇はない。
絶対に持って来い、と未だに文句をいいたげな杏に念を押しゲンは走り出す。
どいつもこいつも生意気な餓鬼ばかりだなと、絶対に聞こえないように吐き捨てた。
走るアザミを追いかけ、疾走する二つの影。
鬼気迫る表情のアキと、その後ろを鬼灯が行く。
三人の距離は徐々に縮まっている。幸いなことに、アザミはそれほど足が速いわけではなかった。この調子ならもう間もなく追いつく。
戦いの再開を目の前にして、鬼灯はチラと背後を見る。そこにゲンの姿がないことを確かめた。
次は二人で打ちかかることになる。万全を期すためにも、憂いを払わなければならない。
「アキ」
「あ?」
呼びかけた声に対し、アキは振り向きもせず、怒りの籠った返答があった。
その怒気を目の当たりにし、流石の鬼灯も二の句を継ぐことを躊躇する。怖気づく己を叱咤して、用意していた言葉を放つ。
「落ち着け」
「……は?」
「落ち着け」
「……は?」
一応、気を遣っての助言のつもりだった。それがアキの怒りに油を注ぐ結果となったのは予想外に過ぎた。
今まではアザミにのみ向けられていたその怒りが、なぜか
戦いが始まって
出会った当初から今の今までずっと不機嫌なのは何となく分かっていた。それが事ここに及び不機嫌さが増している。
怒りっぽいにもほどがある。そもそも何をそんなに怒っている? 出会い頭、アザミにバカと言われたことと、まさかカオリの伝言にも怒っているのか?
一体どこに怒る要素があったのか。むしろ士気の上がった鬼灯には理解できず顔をしかめるばかりだ。
とにもかくにも、鬼灯はアキを落ち着かせなければいけなかった。
幸いなことにその余裕はある。アザミは足が遅い。アキにもギリギリ追いつけるぐらい。ならそれよりも足の速い
しかし一人追いついたところでどうしようもないだろう。アザミの腕はわかった。真面に当たれば勝てる要素は一つもない。よくよく身に染みて理解した。
力を合わせなければ各個撃破されることになる。攻撃するなら、連携してかからなければいけなかった。
「二人で一斉にかかるぞ。息を合わせろ」
「……」
鬼灯の指示に、アキは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
いつもなら即座に拒絶するところだ。邪魔するなと、聞き分けのない子供さながら吠えただろう。それを躊躇するだけ、アキもまた身に染みていた。
アザミの強さは、自分一人で太刀打ちできる次元にはない。少なくとも一つ上の強さだ。
それを理解して初心に返る。
自分の目的はアザミを倒すことではない。それはあくまで通過点。目的は食糧を手に入れること。……兄上のために。
そのことを思い出す程度にはアキは冷静で、その一方で心の片隅に赤く燃え滾る怒りが同居してもいた。相反する感情がアキの中でせめぎ合い、胸を掻きむしりたくなる衝動をこらえ、やっとのことで答えを出す。
「……わかった」
「なに?」
ぼそっと呟いた声はか細かった。
何か言ったかと鬼灯が聞き返すほどには。
「わかった!」
開き直ったアキが、これなら絶対に聞こえるだろと大口を開いた。
それを聞いた鬼灯が目を剥いて、アザミまでもが肩越しに振り向いた。
「やるなら、早く!」
「あ、ああ……」
まだ少し呆けている鬼灯が辛うじて答える。我に返ると同時に、分からんと口の中で呟く。
アキと言う少女のことが、今を以て半分も理解できていない。正確には思春期の子供のことが分からない。
この期に及んでその体たらく。連携など本当にできるのか全く不安だったが、この土壇場ではもう選択肢の余地はない。
覚悟を決めて、口を開く。
「好きに、行け」
少しの躊躇と僅かな開き直り。
それらが籠った言葉が、辺りの空気に融けて消える。
理解し、呑み込む僅かな間を挟んで、アキは突っ込んだ。間髪入れずに鬼灯も追随し、二人は瞬く間に距離を詰める。
瞬きの間に接近する二人に対し、アザミは背中に目がついているかのような反応を示した。
振り向きざま、見ることもなく横薙ぎに大剣を振るう。カウンターを兼ねた、近づけさせないための牽制の一振りだった。
「……っ」
まさかそこまで俊敏に反応してくるとは思っても見ず、虚を突かれた鬼灯はアザミの目論見通りに足を止めた。反して、アキは元からの背の低さに加え、沈みこむように大股で踏み込むことで間一髪避けた。それはアザミの行動を予期していたかのような動きだった。
風が頬を撫でる感触に目を細めつつ、アキはアザミの懐に潜りこみ、その無防備な腹を斬りつける。
「あっ!? この……!」
咄嗟に背後に跳んだアザミだったが、接近を許し過ぎたために躱しきれない。横一文字につけられた傷から鮮血が滴り落ちる。
……まず一撃。
ようやく与えた一撃。アキは確かな手ごたえを感じた。しかし勝負が決するほどでないことにも本能的に気が付いていた。
そのまま二斬、三斬と斬ろうとしたアキの耳に、獣のような唸り声が届く。
「こんな程度でっ」
直後、アキは腹を蹴られた。大剣ばかり注意していたアキの不意を打った形で、まるで無防備だったみぞおちにつま先が食い込み、口からごふっと空気が漏れる。
そのまま吹っ飛んだアキを鬼灯が受け止めた。追撃に備え、即座に回避行動を取った鬼灯だったが、予想は外れ、アザミは二人を見据えたまま立ち止まり、不適な笑みを浮かべている。
「こんな程度で、あたしは死なねえぞ」
言い捨て、路地裏へと消えた。
このまま大通りを走ってはすぐに追いつかれると言う判断だった。
入り組んだ細い道に入ってしまえば追っ手を撒く可能性も高まる。一度撒いてしまえばそのまま護衛対象の元に行くのも、アキ達に奇襲を仕掛けるのも思いのままだ。
反面、大剣を振るうには適していないと言うデメリットもあるが、それは長物を持つ鬼灯も同じことである。
鬼灯はアザミの行動をそのように読んだ。
そして刹那の間思案する。だが如何な道筋を辿ろうとも、ここで追わないと言う選択肢はなかった。むしろ積極的に追う必要がある。一度見失ってしまえばその後どうなるか分からない。あの怪力で奇襲をしかけられれば防ぐ手立てがない。その恐怖が鬼灯の思考を凝り固めた。
焦りに突き動かされるまま、鬼灯は腕の中で痛みに呻くアキに「立て」と言い放つ。アキは顔をしかめながらも気丈に立ち上がった。
先の腹への一撃が思いのほか効いている。たかだか蹴りではあるが、そもそもアキはまだ子供であり、アザミの化け物染みた膂力を考えれば、むしろ動けている方が驚きかもしれない。
例え内臓が弾けていたとしても驚かなかったろう。そうなっていないと言うことは、もしや手加減されているのか……いや、考えるのはよそう。
アキの痛みが和らぐのを待つ。
その間にゲンが合流した。状況を理解するため周囲の観察を始めたゲンは、まずはアキの様子を見て顔をしかめ、次に道に点々と付いた血痕を見つける。そしてアザミの姿がどこにもないのを確かめ、得心した顔をする。
「無茶したかこの小娘は」
「おかげで手傷を負わすことが出来た」
またぞろ説教でも始めそうな雰囲気を嗅ぎ取り、鬼灯が先手を打ってアキを擁護する。
ふんっと鼻を鳴らすゲンの目の前で、アキは得意そうな顔をしていた。鬼灯が尋ねる。
「平気か」
「何が」
無論、蹴られた腹についてだ。この期に及んで見栄を張るアキに鬼灯は苦笑し、こんな状況で笑えている自分を認識する。
「ここからは三人離れずに動く。奇襲を避ける」
「それでいいのか」
「構わない」
それでは追いつけないかもしれないが、それでいいのかとゲンは問い、鬼灯は最悪それでも構わないと答えた。
それら言外に含まれた意味合いをアキは理解できていない。使われた言葉を額面通りに受け取り、悠長なことを話しているとして済ませた。
追いつけないかもしれないと言う懸念はアキの中にはなかった。アキはまだアザミが近くにいることを知っていた。
「行くぞ」
鬼灯の宣言を受け、アキが路地裏に飛び込む。
少しは警戒しろ、とゲンがやきもきし、鬼灯と共に固唾をのみながら続く。
家と家の間に作られた細い道。馬は入れず、人が行き交うので精いっぱいの小さな道は、そこらかしこに桶やら棒やら材木やらが放置されており、ただ歩くだけでも苦労する。
そんな中、相も変わらず先頭を走るアキは小さな体躯でそれらをひょいひょいと躱しながら進み、続く鬼灯の方が障害物に難儀していた。
この道の細さでは槍を振るうのは難しいとして、穂先を前に向けたまま走り、もっぱら刺突でもって戦う心積もりだった。
道に点々と残されている血痕がアザミの行方を捜す手がかりとなり、まだ乾いてもいない血の色は、茶色の土の上でもよく映えた。
ひと気のない静かで薄暗い道は、どこかに潜むアザミへの恐怖心が相まって進むだけでも相当の胆力がいる。
中でも、三人の内で最も大きい緊張感を抱いているのは鬼灯だった。
それは土地勘の薄さが大きな要因となっている。鬼灯はこの町で過ごした経験がほとんどない。この道が一体どこへ続いているのか。おぼろげで頼りのない記憶しか持たない鬼灯にとっては、暗闇を手探りで進むような強いストレスを感じていた。今すぐにでもアザミが襲い掛かってくるかもしれないと思うと、ますます不安は大きくなる。
その調子で小道をしばらく行った先、血痕は曲がり角の向こうに消えていた。
その先は大きな道に続いていおり、今この瞬間においても微かに人の足音や話し声などが聞こえてくる。それが鬼灯の心に油断を生んだ。
無意識の内に安堵の息を吐き、自然と歩を速めた鬼灯は、なぜか立ち止まっていたアキを追い越した……その瞬間。
「なっ!?」
横から膝を蹴られる。まさかと言う思いで視線を向ければ、そこにいたのはやはりアキである。
そのまま倒れそうになったところを辛うじて踏ん張り、膝立ちになった鬼灯を「馬鹿野郎!」と今度は背後からゲンが押し倒す。
直後、頭上からバキバキと木が折れる音が轟き、パラパラと木片が降り注ぐ。
「ちぇっ」と舌打ちが一つ。聞き覚えのあるその声に背筋が凍り、押し倒された体勢のまま目だけで頭上を窺った。
大剣を振り切った姿勢のアザミに、アキが勇猛果敢に斬りかかっている。しかしこの狭い空間で上手く刀を振るうことが出来ていない。崩れ落ちた木材の中から無理やり大剣を引き抜いたアザミは、すぐさま逃げの一手を打つ。
間髪入れず、ゲンが起き上がり矢をつがえたが、すでにアザミは曲がり角の向こうに消えていた。
「ん……」
アキが路地の向こうと鬼灯とを交互に見ている。
誰がどう見ても追いかけるか迷っている素振りだ。それを察した鬼灯が慌てて声を上げた。
「行くなっ」
眉を八の字にして「不満だ」と内心を表すアキは、それでも鬼灯の指示に従いその場に留まった。
「早く」と急かすアキの声を聞きながら、鬼灯は斬られた塀と家の一部を見た。無残に叩き折られたそれらは、隣接する四方全ての家に被害を与えていた。塀は崩壊し家には大穴が開いている。幸いなことに住人は留守で巻き込まれた者はいないらしい。しかしすぐにでも補修しなければ家そのものが崩れかねない状況だった。
たった一振りで家をも破壊し得るこの腕力。分かっていたことだが、こんなものに奇襲されたら一溜まりもない。
「……なぜわかった?」
もしアキに蹴られていなければ、ゲンに転がされていなければ、
それを実感したからこその囁くような問いに、珍しくアキとゲンの声が重なった。
「あん?」
聞こえなかったか、もしくは要領を得なかったか。どちらかだと考えた鬼灯は言葉を重ねる。
「奴が塀の向こうにいたのが、なぜわかった」
「は?」
「わかるかバカ」
今一意味を理解し切れないアキと辛辣なゲン。そんなこと気にしている場合か? と言うのが二人の共通した思いである。
ゲンにとってはこんな状況は日常茶飯事だ。どこに獣が潜んでいるか分からない森の中では、常に神経を研ぎ澄ませなければならない。野生を侮ってはならない。ほんの少しの油断が命取りになる。
その経験があるからこそ、ゲンは反射的に身体を動かし、鬼灯を助けることが出来た。
しかし、ならばアキはどうだろうか。アキは最初から知っていた。そこにアザミがいることに。不意を打とうと影に潜んでいたことに。
ゲンと鬼灯が血痕を辿り視線を下げてアザミを追いかける中、アキだけは常に前を見ていた。
アキには分かっていた。理由までは分からない。理屈ではなく感覚で分かっている。説明しろと言われても答えることは出来ない。不確かで曖昧なのは間違いない。しかし、アキは確信していた。
「早く」
それが気配を読んでいると教えることの出来る者はこの場にはいない。
アキ自身よく分かっていないのだから、鬼灯の質問に答えられるはずがなかった。そもそも答えるつもりもない。
「早く」
淡々とした催促を受け、鬼灯がよろよろと立ち上がる。
剣聖の才能を受け継いだ子供。己など比べようもない才能。その片鱗に触れた。それに嫉妬や羨望、感慨などを抱いている暇はない。
とにかく今はアザミを追う。それだけを考えて、また走り出す。