女が強い世界で剣聖の息子   作:紺南

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第7話

先ほどから遠吠えがひっきりなしに聞こえてくる。

空に轟く咆哮はあちこちに反響しつつも、ゲンさんや母上の手にかかれば出所がどこなのか大まかに分かる。

そちらに向かいながら年貢の納め時だと意気込んではみたが、あっちも逐一移動しているらしく、中々距離が詰められなかった。

近くにいるのは間違いないが依然として姿一つ補足出来ていない。

 

「あの犬よく鳴きますね」

 

「ああ……そうだな」

 

答えながら釈然としない顔のゲンさん。

理由は母上が教えてくれた。

 

「これほど遠吠えが続くのは初めてだ。源。奴らのこれはどういう意図だ」

 

「わからん」

 

即答が返ってくる。

ゲンさんの長い猟師家業でも初めてのことらしい。

こうする間にもまた一つ遠吠えが響き渡った。

 

「ここまで頻発するのなら、何か目的がありそうですね」

 

「何かとは何だ」

 

「さすがに狼語は理解できませんので」

 

「狼語……」

 

引っかかるものがあったらしい。

口の中でその単語を繰り返す。

 

「源。狼はなぜ遠吠えをする」

 

「はぐれた仲間に群れの位置を伝えるためだ」

 

「そうか。……狐狼は言葉を話せるのか?」

 

「は?」

 

「狐狼は言語を扱うのか?」

 

「知るかそんなもん。俺だって犬語はさっぱりわかんねえよ」

 

「そうか」

 

突然母上がその場に立ち止まった。

俺たちも慌てて急停止する。

 

「どうした!?」

 

「これ以上は無駄だ」

 

「はあ!?」

 

ゲンさんの問いに、母上は信じがたい言葉を返した。

聞きようによっては諦めると言っているようにも思える。

だが母上がそんなことを言うはずがないことは、俺もゲンさんも嫌と言うほど理解していた。

 

「源。最後に一つ教えろ。奴らの視力は?」

 

「そりゃあ……人よりうんと良いんじゃねえか?」

 

「正確に教えろ」

 

「ええい、こんな時にんな細けえことを……あー、確か3~4倍って聞いたことがある!」

 

「3~4倍か……」

 

母上が目を細めて遠くを見据えた。

そこから一向に動こうとしないので困惑する。この後どうするつもりなのかまるで分からなかった。

森の奥が騒めいているような感覚にとらわれ、内心の焦りを紛らわしつつ隣のゲンさんに聞く。

 

「物知りですね」

 

「猟師だからな。獲物のことはよく知っとる」

 

「それにしても博識だと思いますが」

 

「……ま、昔の杵柄だ。おい! 奴ら10町先の匂いを嗅ぎ取るぞ!」

 

あまり詮索されたくなかったようだ。

母上に追加の助言を与えて、落ち着きなく周囲を見回した。

獣の臭いが濃くなっている。風下や風上は関係ない。全方位から臭って来た。

 

「聞け。囲まれている」

 

「知ってます」

 

「恐らく、先ほどから連続している遠吠えで私たちの位置を伝達している。私たちをここまで誘き出す目論見もあったかもしれん」

 

「え……ほんと?」

 

思いもしなかった可能性に、思わず口調が砕けた。

母上が物珍しそうに見てくる。

こほんと咳払いする横でゲンさんが声を荒げた。

 

「んなわけあるかっ! 寝言は寝て言いやがれ!」

 

「だが囲まれているのは事実だ。奴らは包囲網を敷き少しずつ狭めている。間もなく全方位から同時にやってくる」

 

「っ……! ……だからってなあ! 狼がそんな軍みてえな統率力もってたまるか!! そんな賢い連中じゃねえ! 俺が一番よく知ってる!!」

 

「『狐憑き』が現れた可能性がある」

 

その一言で直前までの勢いが完全になくなった。

パクパクと口を開け閉めし、発すべき言葉は何も出てこない。

明らかに狼狽えていた。視線が俺と母上の間を泳ぐ。

 

「……本気か?」

 

「わからん。だが私はそう思う」

 

「……」

 

なんだか緊迫してきた。

この会話に割り込んでいいものなのか。

俺が知っている狐憑きは精神病だが、聞く限りそんなニュアンスではない。違う意味合いがあるように聞こえる。

 

「狐憑きとは?」

 

「後で教える。今は対処が先だ」

 

「対処法はどのように?」

 

「群れの全滅よりも長を殺すことを優先する。あれの正体が何であれ、生き延びさせるのは危険だ」

 

「嗅覚と視覚で先んじて我々の接近を察知すると思いますが」

 

「ならば近づかずに斬るまで」

 

「……よしんば、長が『三の太刀』の届く距離にいるとして、居場所に見当はついているのですか?」

 

「今から探す。故に、することは一つだ。この場で狼共の群れを迎え撃つ。そして見つけ次第群れの長を殺す」

 

「囲まれていますが」

 

「だからなんだ」

 

迎撃よりも包囲網を一点突破する方がどう考えても楽です。

そんな言葉が口を衝いて出かけたが、母上にとってはこの場で群れのボスを探す方が重要らしい。

『狐憑き』に対する認識の差だろうか。ゲンさんからも目立った反対はない。こちらは諦めてるだけな気もするが。

 

「レン。私は長を探すことに専念する。お前は自分の身と源を守ることだけを考えろ」

 

「それは……」

 

はいとは言えなかった。

自分の命だけなら気楽なものだ。死のうが死ぬまいが、それは自分の責任で決めたことなのだから。だが他人の命を背負うとなると話は違う。他人の命に責任は持てない。もしものことがあった時、償うことなど出来ようはずがない。

 

「……なあ、せめて見晴らしの良い所にしねえか。ここで迎え撃つのはあんまりに不利だぜ。射線が通らなきゃ矢も刺さらん」

 

「この近くに見晴らしのいい場所はない。移動してる最中に追いつかれるだろう。ならばここで迎え撃つ方がましだ。覚悟を決めろ。自分の身を守れ」

 

周囲に目を配れば、木や茂みや岩が目につく。

足元は多少傾斜になっていて、攻撃にしても回避にしても、この地形では苦戦は必至だ。

 

遮蔽物の多いこんな場所では弓矢は本来の威力の半分も発揮できまい。

一匹や二匹迎撃出来たところで、後から後から際限なくやって来る群れに対応しきれなくなるだろう。

だからこそ母上は俺に守れと言っているのだろうが、やはり自信がない。

 

「レン。出来るか出来ないか、それだけを答えろ」

 

「出来るか出来ないかわかりません」

 

「誰がそのような中途半端な答えを求めた。お前は己の力量も把握できない愚か者か」

 

「母上。人命がかかっているのに、安易に請け負うことはできません。命はそれほど安くない」

 

「お前なら出来る。私が請け負おう」

 

「根拠は?」

 

「宙を舞う枯れ葉と地を這う狼。どちらが容易か、比べるべくもない」

 

あんな手探りな修行を見られていたことに恥ずかしさがこみ上げる。傍から見た構図は一人遊びに熱中する子供以外の何者でもなかっただろう。

だが、情けなさと同じだけ嬉しさもあった。ここ半年ばかり稽古を付けてくれなくなり寂しく思っていたが、きちんと見てくれていたのだ。

なんだかそれだけでやる気が起きる。我ながら単純である。

 

「わかりました。やります」

 

「やるかやらないかではない。出来るか出来ないかだ」

 

「出来ます」

 

「取り消しはきかんぞ」

 

「男に二言はありません」

 

「よくぞ言った。それでこそ――――」

 

言葉が途切れる。

母上は茂みの影から跳び出してきた狼を切り捨てていた。

居合いで斬り捨てられた狐狼は、横に一刀両断された。生々しい音ともに血がばら撒かれ、分断された身体がごく僅かな差で地に落ちる。

 

「来るぞ」

 

母上の言葉と、一際大きな遠吠えが開戦の号砲となった。

足音と息遣いがあちらこちらから聞こえてきて、負けじとばかりゲンさんが吠える。

 

「おい小僧! 本当に大丈夫なんだろうな!?」

 

「ご安心ください。お茶の子さいさいなので」

 

冗談めかして緊張をほぐす。自分自身への叱咤の意味合いもあった。

最早後には引けない。守ると言ったのだから、何が何でも守る。それだけだ。

 

刀を抜いた直後、構える暇なく左右の茂みから同時に出てきた。

一閃薙ぎ払って一掃する。それを一顧だにすることなく次に備える。

木々や茂みに隠れて見えないが、少なくとも10匹以上はいるようだ。

絶えず移動して襲い掛かる隙を探っているに違いない。

 

ゲンさんは茂みの向こうへ次々矢を射っている。

キャンと甲高い断末魔が絶え間なく聞こえた。姿が見えずとも捕捉できている。見習わねば。

 

母上は細かく移動しながらも、襲い掛かってくる狐狼を切り伏せている。その間、視線は遠くを見続けていた。余裕ありそうだ。あっちは気にしなくていいな。

 

「矢が足らんな。こりゃあしんどいぞっ……!」

 

張り上げられた声に頷きで返す。返答する余裕がない。次から次へと狼共は襲い掛かってきている。

 

確か矢筒には20本から30本ほど入っていた。

しかしどれだけ斬っても射っても、茂みの向こうの轟きは陰りを見せない。

数十匹ですらまだ足りないか。だとすると百匹。それ以上。矢はまるで足りない。

 

100匹と言う正確な数を認識すると同時に、自分の呼吸が乱れていることに気が付いた。

今まで休みなく動き続けている。斬った数は10を超えている。

だが狼共のラッシュが止まらない。一匹斬った瞬間にはもう一匹が跳びかかってくる。

こんな調子では満足に呼吸も出来ない。身体が悲鳴を上げ始めた。

 

段々と動きが鈍くなり、集中力が散漫になる。

踏ん張る足が重く感じられる。僅かな傾斜が毒のようにじわじわと効いてきていた。

 

いよいよもって捌き切れなくなる。

いっそ全部俺に向かってきてくれれば身体は勝手に動くのに、群れの半分はゲンさんを狙っている。

俺を狙う物とゲンさんを狙う物。二種類の動きを常に把握しながら戦うのは、思った以上に集中力と体力を必要とする。修行不足を痛感した。

 

僅かな気の緩みから、何匹か斬撃をすり抜けゲンさんに噛みつこうと迫った。

振り向いた先で、ゲンさんは手に持った矢で直接狼の脳天を突いていた。小ぶりなナイフで残りの狼を牽制したところを、俺が後ろから斬り捨てる。

 

瞬間的な危機は脱した。だが今ので更に追い込まれた。

一つ誤ればそこから雪崩を打って瓦解する。動揺した隙を狙いすまされる。

 

ゲンさんの背後から、狐狼が一匹忍び寄っていた。

俺は正面の大群に気を取られていたため気づけず、ゲンさんは窮地を脱したことで無意識に気が緩んでいた。

ゲンさんの右腕に噛みつかれた時にはもう遅かった。

ぐしゅりと牙が食い込む音と共に鮮血が噴き出すのを間近で見る。背筋が凍った。

 

――――しまった。

 

声を出す時すら惜しい。即座に斬る。

狼は絶命し口を放したが、傷口から垂れる血は軽傷のそれではない。

ゲンさんは脂汗を流し、奥歯を食いしばって膝をつく。

こうしている間にも、狐狼の襲撃は続いている。応急処置はおろか心配する余裕すらない。

 

斬っても斬っても後から後から湧いて出る。

押されている。動揺を鎮められない。この数を一人では対処しきれない。

母上の方にも襲い掛かっているが、数はこちらの方が多い。

弱った人間を仕留めてしまおうと、今やほとんどがゲンさんを狙っていた。血の匂いが誘き寄せている可能性もある。

 

全ての方向から気配がする。

いつどこから跳び出してくるのかまるでわからない。

既にギリギリだ。見てから対処したのでは遠からず間に合わなくなる。ゲンさんを守れない。

 

焦りが行動を雑にする。

迷いと動揺が思考に空白を生んだ。

対応できたはずの一匹が意識の隙間を掻い潜る。

 

追いかけようとしたが追いかけられない。

その一匹を支援するように、狼共の猛攻が勢いを増した。

 

「ぐあぁ!?」

 

背後で悲鳴。

まずいまずいまずい。

どこを噛まれた? 腕か足か? 一先ず致命傷ではないのか?

 

どこを噛まれていようが、痛みで抵抗は封じられているはず。群がられればあっという間に噛みちぎられる。

残酷な未来が頭に浮かぶ。助けなければいけない。なのに助ける余裕がない。目の前のことで手いっぱいだ。

 

考えろ考えろ考えろ。

何か手はあるか。目の前の物を処理しつつ背後に手を回せればいい。たったそれだけのことだ。

 

元々遅かった時の流れがさらに遅くなり、考える時間だけが与えられた。

身体は動かずとも、次の行動を決める猶予がまだ残っている。

 

ありったけの知恵を絞る。

一つだけ、この状況を打破する手があった。

禁忌ではある。使ってはならないと母上に念を押されてすらいる。

けれど命を一つ守れるのなら、何も惜しむものなどない。

事ここに及んでは、躊躇する理由など何一つなかった。

 

「六の太刀――――」

 

続く言葉と同時に全てを薙ぎ払うつもりでいた。

持てる力を振り絞り、一気に押し返す心づもりだった。

 

だが技の発動の直前、突風が吹き抜ける。

竜巻が発生したかのような強風に、思わず腕で顔を庇った。

 

それが狼共を前にして明確な隙であることに気づき、慌てて刀を構え直す。

しかし来るはずの狼が来ない。足音も息遣いも聞こえない。未だ気配は無数にあると言うのに。

狼たちにとってもこの強風は予想外のものだったらしい。俺たちを囲む狼は唸りつつも一様に硬直していた。姿勢を低く、嵐が過ぎるのを待つ様に微動だにしない。

 

何が起こったのかまるで分らないが、いつの間にか母上が目の前に立っている。

この人が何かをした。それだけは分かった。

 

「母上……」

 

「落ち着け」

 

短い言葉だった。

だが心の奥にストンと落ちた。

上がっていた息を落ち着かせ、束の間安息が訪れる。

 

「それを使うまでもない。レン。お前は私の息子だ。この程度の試練、造作もないはずだ」

 

「……」

 

「今まで培った経験。磨いた技。全てがお前の味方だ。焦る必要はない。あの修行は無駄ではない」

 

「……はい」

 

「お前が無理なら私がやろう。だがそうすれば『狐憑き』には逃げられる。だからもう一度だけ聞く。この狐狼の群れはお前に任せたい。……出来るか?」

 

「はい」

 

気取らず答えた。

最初のように良い返事ではなかっただろう。

胸の内からは気負いも焦りも動揺も消え、さながら凪いだ水面のように穏やかになっている。

母上は元居た立ち位置に戻り、俺はゲンさんのすぐ側に寄る。

 

「おい小僧」

 

「なんでしょう」

 

「椛がなんかやったようだが、撤退か?」

 

「いいえ。このまま最後まで行きます」

 

「言っとくが、俺は死ぬ気ねえぞ」

 

「はい。殺す気も見捨てる気もありません。どうぞ安心して、右腕と左足の止血をしてください。後は全部俺がやります」

 

母上が群れのボス探しに戻ったことで、狼たちは一度上がった警戒レベルを一気に下げた。

動く気配は心なしか直前よりも血気盛んの様な気がした。

あと一歩のところで邪魔が入った。今度こそは、と言う気迫が感じられる。

 

こうして改めて見るとやっぱり数が多い。

けど、まあどうにでもなるか。そんな気がしてきた。

 

短く息を吸い、短く吐いて、意識を集中する。

精神が肉体の殻を破り世界へ浸透する感覚。

焦らずゆっくり、穏やかに。成るがままに全てを受け入れて。

 

潜り込むほどに感覚が研ぎ澄まされていく。

奴らの息遣い、足音、体勢に至るまで手に取るようにわかった。

生きているのなら必ず痕跡が残る。ただそこに在るだけの枯れ葉に比べて、何と分かりやすい。

 

長いこと心を占めていた焦りや不安、恐怖が消えていく。目の前のことだけに集中できた。

今まで知らず知らず余計な力が入っていた。肩ひじ張って生きてきた。ここまで楽になるのはいつぶりだろうか。

 

今度は深く息を吸い、吐き出すと同時に脱力する。必要なのは斬るのに必要な最小限の力だけ。それ以上の力はいらない。

幸いにして俺の刀は鈍らではない。母上に授かった刀は名のある刀ではないけれど、間違いなく名刀だった。込める力は僅かでいい。

 

――――いける。

 

数匹斬って確認する。

次を確認する余裕も、息をする余裕もある。これなら群れが100匹だろうが1000匹だろうが関係ない。

 

時に斬り、時に五の太刀で受け流した。

背後から迫る狼に、受け流した狼をぶつける。

殺生一辺倒では限界がある。柔軟さが必要だ。

殺すことよりも利用する方が効果的なら、そうしない手はない。前世の地雷なんかがその典型だろう。

殺し合いにおいては最後に立っていた者が勝者なのだ。そこに至る過程など、こだわった所で誰が評価してくれる?

 

一匹殺すごとに動きは滑らかになっていく。最適化された行動が余裕を広げていく。世界に融け込んだ精神はより深くまで潜り込んだ。

段々と自分がどこで何をしているのか分からなくなる。もしかしたら呼吸すら忘れているかもしれない。

取りあえず足元だけ気を付けなくては。血や死骸に足を取られたら立て直すのが面倒だ。余計な労力がかかる。

 

そんな事を考えながら斬り続けている。本当に余裕だった。

今までにないほど集中している。いつの間にか、狼たちの動きを完全に把握していたほどに。

次にどこから来るのか、あと何匹いるのか、奴らの感情まで手に取るようにわかる。

 

群れは数を減らしていく。最初の頃の威勢は既に消え失せている。内心逃げ出したくて仕方ない様だ。

それでも向かってくる理由は、未だに響く遠吠えに違いない。

この群れのボスは相当な恐怖政治を敷いたらしい。そのくせ自分は安全な場所から口だけ出している。

どうせ群れが壊滅したなら自分だけ逃げだすのだろう。気に入らない。どこにいる?

 

意識をさらに遠くへ広げる。戦いの趨勢は決した。残っているのはギリギリ10匹いるかどうか。この程度の群れで俺を出し抜くのは不可能だ。

あとは『狐憑き』とか言うやたら賢い群れのボスだけ。母上が探しているが、余程難儀しているらしく、今に至るまで見つかっていない。なら手を貸した方が良いだろう。

 

また一つ遠吠えが響き渡る。今度の咆哮は少し元気をなくしていた。手駒が全滅しかけているのにショックを受けているようだ。

今ので方向は分かった。母上の言う通り、逃げられたらとんでもないことになる。この統率力は脅威だ。恐らく周辺の群れを全て吸収してこの規模に膨らませたのだろう。時間を与えれば、また同じことが繰り返される。何としてもこの場で仕留めなければ。

 

危機感を募らせた矢先、母上の呟きが耳朶に触れる。

 

「見つけた」

 

精神が飛んでいた分、理解が遅れ脳裏で何度も反芻する。

見つけた……見つけた?

 

見つけてしまったのか。丁度探そうとしていた所なのに。

惜しいな。もう少しだった。もっと色々試したかった。

 

「レン。残り全てお前に任す」

 

「任されました」

 

なら仕上げだ。

木を一本切り倒し、臆病風に吹かれ固まっていた一団に落とす。

散った瞬間を狙い一匹ずつ首を斬り落とした。

 

守勢から突然攻勢に移ったわけだが、生き残り共はこれを好機と捉えたようだ。

束の間がら空きになったゲンさんに殺到する。この期に及んで、未だそれにこだわる意味がよく分からない。

当然、こうなることは読んでいた訳だから、特段慌てることなく納刀し、三の太刀で一網打尽にした

罠にかけて丸ごと殺すのは気分が良い。調子に乗って、射線上の木を何本か切り倒してしまった。

 

倒木については置いておき、これで狐狼の生き残りは数匹を残すのみ。その数匹もとっくに逃げ出している。勝てないと悟ったようだ。遅すぎるが、命を救ったのだから間に合いはした。賢いな。

 

一方、倒木で舞い上がった土煙の中、母上は一度刀を鞘に戻し居合の構えを取っていた。

完全な無防備だが、母上なら仮に取りこぼしたのが向かったとしても問題なく処理しただろう。

 

その視線の先には遥か遠く、切り立った崖がある。

木々の枝葉が邪魔をして見づらいことこの上ない。

群れのボスを探していたはずだが、まさかあそこにいる……?

 

いくらなんでも三の太刀じゃ届かないだろうと母上の行動を注視した。

母上は居合の構えのままで、ただし今までに見たことがないほど力を溜めている。

原理不明の威圧感がその身体から発散し空気が震えた。どこに隠れていたのか、鳥たちが一斉に飛び立った。

 

「ふっ」と短く息を吐く。抜かれた刀は音を置き去りにした。

わずかに遅れて小さな衝撃波が発生し、三度土埃が舞う。

斬撃はおろか太刀筋すら見えなかった。遥か遠く、群れのボスに命中したかどうかも分からない。

 

威圧感が雲散し、母上が緩慢に振り向いたことで全てを察することが出来た。

 

「……終わりですか?」

 

「ああ」

 

おざなりな仕草で、崖を指さした。

 

「あそこで見ていた。大した目と鼻だ。だが、もう殺した」

 

生き残りを探して油断なく周囲を探る母上は、自身の言葉を少しも疑っていない。この目で見たのだと言わんばかりだ。多分本当に見たのだろうけど、だとしたらこの人はどんな目をしているのか。

俺がどれだけ目を凝らしても、あそこに生き物がいるかなんてまるでわからないのに。

 

「ほとんど片付けたようだな。木を倒したのは驚いたが」

 

「興が乗りすぎました。反省しています」

 

「ほんの数本なら気にする必要はあるまい。むしろ、この規模の群れを相手によくやった」

 

上がりすぎたテンションは既に落ち着いている。だから、褒められても素直に喜べない。

ゲンさんに怪我を負わせてしまった。最初から出せる力を出し切れていれば、誰も傷つくことなく終わっていたはず。

当のゲンさんは巾着袋からいくつか瓶を取り出して、中身を傷口に振りかけていた。手と足にある痛々しい傷跡に思わず目を逸らした。

後悔が身を苛む。自分の未熟さが忌々しい。もっと力が欲しい。そう思う。

 

「……」

 

「あまり気にするな」

 

と、言われても。

 

「止血は済み、消毒もしている。見たところそれほど重症ではない」

 

あの瓶の中身は消毒液か。やけにカラフルだから毒か何かと疑った。

消毒液なんてよく持ってきていたものだ。巾着袋の中には包帯もあるようだった。

 

「完璧ではなかったかもしれんが、それでもよくやった。さすがは私の息子だ。誇りに思う」

 

「……はい」

 

肩を叩かれ労をねぎらわれる。それで肩の荷が下りた気分になり、緊張の糸がプッツリ切れた。疲れと倦怠感が一気に押し寄せた。

 

いつの間にか刀を握る手が震えていた。手も刀も血潮に塗れ、生臭い臭いを醸し出している。

俺もゲンさんも返り血や土ぼこりであちこち汚れていた。だがそれ以上に、周囲の惨状には言葉も出ない。

 

死骸は見えるだけで山と積まれている。倒木に押しつぶされて内臓が飛び出している物もある。見えていないだけで、茂みの中にはこれと同じぐらいいるのだろう。数える気などしないが、本当に100匹近くいたようだ。

 

切り倒した木を眺める。遅すぎるが、今更ながらに気がついた。

木や茂みに遮られ視界が悪かったのなら、手近な木だけでも切り倒して無理やりにでも開けさせれば良かったと。

切り倒した木は障害物として利用できただろう。俺と母上なら三の太刀を使い、少しもかからずに出来たはず。

もしそうしていたのなら、例え俺が力を出し切れなくともゲンさんは怪我をせず、もっとスムーズに群れを掃討出来ていたかもしれない。

 

終わった後にたらればを考えた所で意味などないが、今回のこれは反省すべき点だ。

腕力ばかりが力ではない。不利な状況を覆す知恵、工夫。それもまた力なのだ。

分かっていたはずなのに、いざ実戦が訪れたら腕力ばかりに頼ってしまった。

次は絶対に忘れない。そう心に誓った。

 

「おい椛。俺のこと忘れてねえだろうな」

 

「忘れるはずがない」

 

「本当かよ。……『狐憑き』とやらはやったのか」

 

「ああ、やった。お前も治療は終えたのか」

 

「止血から包帯までキッチリな。そこの坊主が化け物みたいに片っ端から切り伏せてたおかげだ」

 

「レンはよくやってくれた。だが、お前には怪我をさせてしまったな。すまない」

 

「いんや、この怪我は俺が気抜いちまったせいだ。この程度で済んで良かった。なにせこんだけ居たんだからな」

 

手に空の瓶を持つゲンさんは周囲の惨劇を指して肩をすくめる。

母上は足元の死骸を足で転がせて尋ねた。

 

「こいつらの毛皮は売れるのか?」

 

「ああ売れる。中々良い値がつくぞ。これだけあればしばらく働かないで済むぐらいにはな」

 

「お前の怪我は私の不明が招いたことだ。毛皮は全て譲る。その金で養生しろ」

 

「まあ取り分は後で相談だ。どうせそんなに多くは持って帰れねえだろ」

 

俺は疲労困憊。ゲンさんは手足を怪我し、五体満足は母上だけだ。

だが帰り道に襲撃される危険がある以上、戦力である母上に荷物を持たせることはできない。

そのことを考えると、やはりほとんど持って帰ることは出来ない。

これだけやって報酬は無しである。なんと割に合わない仕事だろうか。

 

「取りあえず持てる分だけ剥ぎ取って、後は諦めようや。欲なんざ出すもんじゃねえ。身を滅ぼすだけだ。なあ?」

 

「……そうだな」

 

「私がやろう」と母上がナイフを取り出したのを、ゲンさんは「そりゃ当然」と頷いた。

母上の背後からゲンさんがこうしろああしろと、解体方法について事細かに指示を出す。

俺も手伝おうとしたのだが、小休止を命じられ、黙ってその様子を眺めることになった。

 

「ゲンさん」

 

「あん?」

 

「大事ないですか?」

 

「ねえよ」

 

ゲンさんはぶっきらぼうにそう言う。

その様子は本当に元気そうではあったが、血のにじむ包帯が痛々しい。

気にするなと母上に言われ、ゲンさんも態度でそう示してくれるが、簡単に割り切れるものではなかった。

戦闘中の自分の動きを振り返ってみても、反省点は数多く見つかった。

それを思うとどうしても苦々しいものがこみ上げる。もっと上手くできたはずなのに。

 

そんな俺を見てどう思ったか。母上からもう一つフォローが入った。

 

「レン。源は医学の知識がある。本人が大事ないと言うからには間違いない。信用してやれ」

 

「医学?」

 

初耳だった。

杵柄って、もしかしてそれか。

俺は医療関係はてんで疎いが、広範な知識が求められるのは知っている。

それが本当なら、さぞかし勉強したに違いない。

 

「医者にでもなりたかったんですか」

 

「昔の話だ。おい椛、余計なことベラベラ話すんじゃねえ」

 

「許せ」

 

「許さねえよ」

 

仲、良いな。

親と子どころか祖父と孫ぐらい年が離れてるのに、年の差を感じさせない。

そう思ってみれば、この二人の関係も甚だ謎だ。母上に至っては敬語を使ってないし。

 

短く息を吐いて空を見上げる。

いつの間にか太陽は天頂を過ぎ、傾くばかりとなっていた。

この後すぐ山を下りるから、母上が握ったおにぎりは食べれそうにない。

折角不器用が不器用なりに握ってくれたのに。残念で仕方がない。

 

『狐憑き』とか言う群れのボスも、本当に殺せたかどうか確認にも行けない。

そう言えば、『狐憑き』についても聞かなきゃいけないが、それはまた今度でいいや。

今はとにかく守れたことを甘受しよう。

 

もう一度短く息を吐き、騒がしく解体を進める二人を眺める。

頭の中で、自分の動きを反省し続けながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

山狩りから数日が過ぎた。

あの日、毛皮を抱えて帰還した頃にはすっかり日が暮れていた。

無傷の母上に肩を借り、手足一本ずつ包帯を巻いているゲンさんと小汚くなった俺。

何も聞かされていなかった妹が、そんな俺たちを見て取り乱していた。とんでもない取り乱しようだった。命のやり取りを終えた直後だったので、その可愛らしさに癒されると同時に煩わしく思ってしまった。兄失格である。

俺は汚れただけで怪我はしていなかったので、その日は夕飯は食べず風呂に入ったらすぐに寝た。そのせいで、妹は翌朝まで取り乱したままだった。

 

剥ぎ取った毛皮はなめしている最中なのでまだ売れていない。

今回の山狩りで唯一の怪我人であるゲンさんは養生している。後遺症が残る様な傷ではないが、しばらく狩りには出られない。日々の生活にも難儀していると聞く。

父上が気を利かせてゲンさんの分の昼食を作ったので、今はそれを届けに行く途中である。

 

村の外れにあるゲンさん宅の扉を叩く。

安普請な作りのようで、叩いた音は軽く響いた。

 

しばらく待って返事がなかったので殴るように叩き続けた。

拳が痛くなるぐらい叩いて、ようやく扉の向こうからしわがれ声で応答があった。

 

「んだぁ?」

 

「おはようございます。もう昼ですよ。いつまで寝てるんですか」

 

「小僧か……何の用だ」

 

「お昼ご飯です」

 

「はあ?」

 

俺の手の包みを訝し気に見るゲンさんに、「父からです」と告げる。

ぽりぽり頭を掻きながら、どことなく申し訳なさそうな気配がにじみ出ている。

 

「あの人か……申し訳ねえな」

 

「純粋な好意ですので。遠慮して受け取らないとかないので」

 

「わかってる」

 

素直に受け取ったゲンさんは中身をちらと確認した。

 

「よろしく言っといてくれ」

 

「大喜びしていたと伝えておきます」

 

「好きにしろや」

 

話は終わりと扉を閉められかけたところで、無理やり身体を突っ込む。

 

「なんだぁ? まだなんかあるのか」

 

「お話があります」

 

「話?」

 

「『狐憑き』について」

 

「……椛に聞けば良いじゃねえか」

 

「聞いたんですが、ゲンさんの方が詳しいと逃げられまして」

 

「あの女……」

 

諦観交じりにため息を吐き、「まあ入れ」と家に上げてもらう。

 

家の中はごちゃごちゃしていた。

すり鉢とすりこぎ棒が無造作に放置してあり、近くには空の瓶が数本置いてある。

部屋の端には大量の木が山と積まれていた。あれは多分矢を作るのに使うんだろう。

壁には何本かの縄と何かの生き物の毛皮がかかっている。そこに猟師らしさを感じた。

 

足を引きずるゲンさんは敷きっぱなしの布団の上で胡坐を組み、俺は対面するように正座した。

昼食の包みを置いたところで切り出される。

 

「どこまで知っとるんだ。『狐憑き』のことは」

 

「何も知りません」

 

ゲンさんは何をどう言ったものかと必死に言葉を探している。

左右に揺れ惑うその目をじっと凝視した。

 

「あー。『狐憑き』っつうのはだ……。有り体に言うと民間伝承で語られる俗信のことだ」

 

「俗信?」

 

「昔からの文化や習慣、与太話なんかを口伝えで伝承しとるんだ。『狐憑き』も与太話の一つだな」

 

「与太ですか」

 

「この間のあれが本当に『狐憑き』だとは思っとらん。そもそもただの迷信のはずだ」

 

あの狼の群れを見てそう言い切れるということは、何か根拠でもあるのか。

それとも頑固なだけなのか。多分後者だな。

 

「では、『狐憑き』とは具体的にどのようなものなのですか?」

 

「普通の個体とは毛色の違う、様変わりな奴のことだ。そう言うのを纏めて『狐憑き』って言う」

 

「様変わりとは?」

 

「図体が頭抜けてでかいとか、他の奴らよりアホ程賢いとか。色々伝わっとるが、数があって全部はわからん。中には眉唾もんだろって伝承もある」

 

ゲンさんは一切信じていないようだが、前世の知識と照らし合わせれば、恐らく突然変異のことだろうと見当がつく。

この世界ではまだ突然変異について上手く説明できないから、『狐憑き』と言う言葉で誤魔化しているようだ。

ならば言葉自体に大した意味はないとも言える。しかし何故狐憑きなのか。前世の狐憑きを知っている身としては今一つ腑に落ちなかった。

 

「唯一共通しとるのは『狐憑き』は突然現れて、大抵の場合人に危害を加えるってことよ。年寄りほど忌み嫌っとる」

 

「昔、なんかあったんですかね」

 

「さあな。記録なんて残ってないからな」

 

「狐狼だとか狐猿とか、名前に狐がついている動物は何か関係がありますか?」

 

「それもわからん」

 

「わからんことばっかりじゃないですか」

 

「口伝ってのはそういうもんだ。前の戦争で文献は散逸しとるし、文化は断絶しとるしで、この程度でも調べるのは骨が折れた」

 

「そんな状態でよく調べられましたね。苦労したでしょう」

 

「こちとら猟師だぞ。生死に直結しとるんだ。そりゃあ調べるわ」

 

全くその通りだ。

俺だってある日突然化け物に遭遇する可能性があるのなら、必死こいて調べるだろう。

 

「ありがとうございます。大体分かりました」

 

「わかったのならとっとと帰れ」

 

「その前にもう一つだけ教えていただけますか」

 

「……なんだ」

 

「人の『狐憑き』が現れたことはありますか」

 

「知らねえな。帰れ」

 

もう一度礼を言い、最後は追い出されるようにしてお暇した。

 

家に戻る途中、村を横断する形になったので、隅々まで目を巡らせてみた。

昼時、農家のほとんどが昼休憩に移っていて人の気配は少ない。

ゆったり歩きながら、たった今ゲンさんから聞いた話を反芻し、この前遭遇した狐狼は果たして本当に『狐憑き』だったのかと疑問に思う。

もし本当にあれが『狐憑き』だったとしても、そもそも定義がよく分からないから判断しようもない。

群れの規模や統率力から言って、異常性は抜群だったから、やっぱり『狐憑き』で良いと思うが。

 

どれだけ悩んだところで所詮は過ぎたことである。あんなのとは滅多に出くわすまい。

今一番気になるのは、物の怪と狐でなんか違いはあるのかと言うこと。

物の怪が憑りついていると罵られたことのある身としては、それが一番気になった。

 


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