「聞きたいことがある」
近づいてくる母上が口を開いた。その目は俺たちを捉えている。
アキを見て、俺を見て、またアキを見た。
「それはなんだ」
それとは何を指すのか。
間違いなく、アキの持つ白い刀を指していた。
いつになく険しい視線の母上は睨むようにアキを見る。
アキは顔の前に掲げた刀を左右に振って小馬鹿にするような仕草を見せた。
「見ての通り、刀です。白いのは私が握っているからですが」
「それは師が使っていたものだ。なぜお前が持っている」
「転がっていたのを使っているだけです。返せと言うならお返しします」
アキの口調が変わっている。元に戻っているように聞こえた。それはアキ自身が話しているのか、それとも演じているだけなのか。俺の目から見ても判断はつかない。
母上はまっすぐアキに向かって歩いている。その速度は緩やかだ。だが近づくにつれ視線の険しさは増していた。
色付きの刀。その恐ろしさは身をもって知っている。最悪の事態を想像しているのだろう。
「ご心配なく。母上の知っている刀とこれは違います。実を言うと、色によって異なるのですよ。もっと言うなら持ち手によってですが」
ぴたりと母上は立ち止った。一定の距離を保っている。遠すぎず近すぎず、突然襲われたとしても対応でき、逆に一息で近づくことの出来る距離感。
「アキ」
「はい」
母上の呼びかけにアキは応じる。
愉快そうな声音だった。母上が次に何を言うのか期待している。そんな気配を感じる。
「何をした」
「何のことですか?」
「皆倒れていた」
一瞬、理解が及ばずにその言葉を反芻する。
皆とは誰か。倒れていたとはどういうことか。
ここに来る直前、食事をしようと集まっていた皆の姿を思い出す。まさかと言う思いで言葉が漏れる。
「まさか……食事に……」
呟きを拾ってこちらを振り向いたアキがこれ見よがしに肩をすくめる。
どこか他人行儀に思える仕草。罪の意識など微塵も感じない。絶句して言葉が続かない。
「はい。私が食事に毒を盛りました。単なる痺れ薬なので、直によくなるはずです」
「そうか」
相槌を打ち、無言で続きを促す母上に対し、アキは苦笑を浮かべる。
「それで、そんなことをした理由と、一つお願いがあるのですが」
「言え」
「兄上を私にください」
母上が沈黙する。
視線はまっすぐアキに向けられている。そこに感情の類は見受けられない。動揺一つしていないのはさすがと言うべきなのか。
「私には兄上が必要です。幸せにしますのでどうか――――」
黙り込む母上に対し、アキが懇願する様子を見せた。声色には必死さが滲んでいる。
それを遮って、母上は問い質す。
「お前たちは血が繋がっている。兄妹で子を成すのは憚られることだ。子を設けず暮らすつもりか」
「子のことは考えていません。邪魔になりそうな気がしますし、そもそも出来るとも限らない。それ以前に兄妹が駄目と言うのも理解していますが、本能を抑えられないのです。男と女です。身体が求めるのはしようがないじゃないですか。私は兄上が好きなのです。愛しているのです。どうしようもなく、狂おしいほど、そうせざるを得ないほどに愛しているのです。このまま黙って見ていては他の誰かの物になってしまう。それは耐えられない。邪魔立てする者に毒を盛るぐらいはします。そうして兄上を攫うつもりでした。あなたが帰ってこなければそうしていたでしょう」
「狂っている」
「はい。生まれた時から」
母上の視線が俺に向く。
俺はフラフラとよろけながら立ち上がり、皆の気配を確認していた。家にはきちんと全員分の気配がある。その中に知らない気配が一つあって、あちこち動き回っている。
「レン」
「はい」
「無事か」
「……はい」
俺の返事に頷く母上を見ながら、すべきことを考える。
毒を盛られたと言う皆のことを思う。父上やゲンさん、シオンにツムギちゃんとコズエちゃん。
「母上、みんなは……」
「心配はない」
「しかし」
「ここにいろ」
俺が次にしようとしていることを見透かして、母上は釘を打ってきた。
アキが俺に振り返る。視線が交差してニコリと笑顔を浮かべた。
「別に殺しはしないですよ。殺したとしても、あのシオンとかいう女狐だけです。それ以外は殺す意味ないですから」
意味がないから殺さない。そんな言葉を妹の口から聞きたくはなかった。
見たくないものから目を逸らし俯く俺を置いて会話は続いた。
「一つ聞く」
「なんでしょう」
「お前はレンの幸せを望んでいるか」
「はい」
「他の誰よりも幸せにしたいと思うか」
「もちろんです」
「例え自分が不幸になったとしても、レンの幸せを望むか」
アキはすぐに答えようとしたが、その意味を理解して口をつぐんだ。
「己よりもレンの幸せを優先する。そうであるならば、お前のすべきことは一つだ」
「……」
「諦めろ」
アキの拳に力が籠められるのを見た。
「レンは婿に出す。そこで幸せになるかは分からない。だがこの家に残すわけにはいかない。そしてお前と共にあるより幸福だと信じる」
一息分の間。
アキは反応しない。それを見てから母上は続けた。
「お前にはレンの代わりを見つけてやる。その男と別の幸せを探せ」
その言葉を咀嚼し切るだけの時間が流れ、アキの口から「ふっ」と息が零れた。
「ふふっ、ふふふっ」
零れた息は笑みへと続き、俯く顔を両手で覆う身体は強張って震えている。
「兄上が……? 他の女と……? あの女狐と?」
顔を覆っていた両手が下がり、己の身体を抱きしめる。
荒い呼吸を繰り返している。苦しそうな嗚咽が零れた。
「他の男? 男? 他? それは? ……ああ、それは――――」
固唾を飲んで見守った。
ぴたりと嗚咽が止む。俯き、折れ曲がっていた姿勢が元に戻る。
「やっぱり耐えられません」
その声音に直前までの苦悶の名残りは見受けられない。
「選べと言っているのではない。そうしろと言っている。全ては決まったことだ。私が決めた」
「兄上のいない人生に価値はありません。それでは濁った水の中で無理やり生かされる魚のようではありませんか。私は兄上がいて初めて息が吸えるのです」
「……しばらく見ない内に気取ったことを言うようになった。誰の受け売りだ」
「誰でもなく、私の言葉です」
じっとアキを見つめる視線に怪訝そうな気配が滲む。
アキと言う子は9歳の女の子で、まだ子供で、我儘で怒りっぽくて。母上が知っているアキはそう言う子だった。
今のアキは母上の知っているアキとは乖離している。何かが違う。人格なのか知識なのか記憶なのか。奪ったと言う先の言葉を信じるなら、もはや全てが違うのだろう。
「……母上、アキの様子がおかしいんです。東で何かあったみたいで……詳しく話を聞く必要があります」
「そうか」
母上の目が俺に向く。その視線が俺の身体を上から下まで行き来した。
「……お前にも聞かなくてはいけないことがあるが、先にこちらを済ませよう」
そう言って、母上は一歩踏み込んだ。その一歩分だけアキは下がる。
「母上、話をしましょう。きっと理解してくれると思います。だって兄上には幸せになってほしいでしょう?」
「ああ。話はあとでする。その前に仕置きだ。食事に毒を盛ったのは許されることではない」
「ああ、それ……。いえ、その件に関してはあたし……いや、私がやったこと、と言うか違う、私、あたし……ああ、もうめんどくせえな」
口調が乱暴なものに変化し、めんどくせえと頭を掻くその仕草。
俺が手も足も出なかったあの人格。
「この剣聖がどんなもんか知らんが、あたしがやるしかないか」
「何を言っている」
「気にすんな。――――いくぞ」
まずいと思い、声を上げた「母上!」と。
二人の距離は近かった。近すぎた。先手を取ろうとして、アキの様子が急変したために立ち止まってしまった母上に対して、アキはあっという間に肉薄する。
すでに刀を抜いているアキ。これから抜く母上。先手はアキが取り、受けに回った母上は即座に刀を抜いて対処するだろう。一度や二度鍔迫り合いをしてから攻勢をかけようとするはず。
しかし受けては駄目だ。躱さなくては。あの膂力は人間のそれではない。
「受けるな!」と声を上げる。その声が届いたのか、あるいは母上の勘が優れていたのか、アキの刀を回避する。
振り下ろされた刀が風圧で砂埃を舞わせた。俺のいるところまで風が届いた。
「なるほど」
母上の呟きが聞こえた。
すでに刀を抜いた母上が攻勢を仕掛ける。首を狙った遠慮のない一撃を、アキは返す刃で跳ね返す。
致命的な隙が出来た。一瞬そう見えたが、いつの間にか鞘を抜いていた母上は刀を跳ね返されると同時に胴を打っていた。衝撃でアキが一歩二歩とたたらを踏んでいる内に体勢を整える。
「くそっ、やっぱ剣聖か」
忌々し気に呟くアキ。母上は無言で刀を構えている。
「あー……改めて聞くが話し合うつもりはあるか? 剣聖さん」
「ああ、聞きたいことが増えた」
「……お?」
「仕置きを終えてからじっくり聞く」
母上が打ちかかる。
頭上、天高く掲げられた刃が脳天目がけて振りかぶられた。
アキは受け、次の攻撃を受け、その次の攻撃も受けた。
四度目の攻撃を受けた後、僅かな隙を突いて反撃を仕掛け、母上の五の太刀によって受け流される。そうしてまた攻守が入れ替わった。
割合として、母上が三、四度攻撃し、その間にアキは一度反撃すると言う攻防になった。反撃の全ては五の太刀でいなされる。そうなれば母上はまた攻め手に回った。
三対一の攻撃頻度。当然だが攻める回数が多いほど形勢は有利になる。先ほど、あれほど圧倒的に俺に競り勝ったあの状態のアキが、なぜ母上には劣勢を強いられているのか。直接この目で見てもその理由がわからない。
「こんちくしょうがっ!」
アキが吠えた。
相打ち覚悟、到底あり得ない体勢からの無理な攻めを仕掛ける。
それを予想だにしていなかったらしい母上は攻め手を止めた。頬にかすり傷を受けながら一度距離を取る。
「……まあ、戦い方はわかった。勝ち方も。わかったけど、この身体じゃこれ以上は無理だな」
「アキ」
「だから、あたしはちげえよ。あたしはアキじゃない。信じられるかは知らねえけど」
肩で息をしながらアキは言葉をこぼす。空を見上げて「どうしてこうなるかなあ」と呟いた。
「なあ、剣聖さん。あたしを殺せるか?」
「何を言っている」
「自分の子供を殺せるかって聞いてる」
「殺す理由がない」
またそれかとアキは呟く。
困った顔をしている。けれど嬉しそうにも見えた。
アキの視線が母上を外れて俺に向く。言葉はなく口だけが動いた。――――さようなら。
次の瞬間、アキは踵を返した。藪の中に姿を消してしまう。
迷うことなく母上はその背中を追った。俺も二人を追いかけて走り出す。
道なき道を走る。頼りになるのは気配だけ。それも少しずつ離れている。
先ほどの頭突きのせいだろう。眩暈がして上手く走れていない。
藪で視界が塞がれていてどこに何があるのか分からなかった。気配が分かると言っても植物や地形までは分からない。何度も転びそうになりながら懸命に足を動かす。
気配は離れていく。
アキも母上もどこかに行ってしまう。力の差。性別の差。生まれ持った物の違い。
どこまでも立ちふさがるそれら。歯を食いしばりながら走り、ぬかるみに足をとられて転ぶ。
心の中でアキの名前を呼んだ。
どこへ行くのか。着の身着のままで、一体どうするつもりなのか。まだ聞きたいことがある。何も話せていない。
気配を読む限り、母上ですら追いつけていない。それどころか離されている。
あの化け物染みた膂力が走力に繋がっていた。
転んだ時に痛めたらしい足を引きずりながら進む。
立ち止まるわけにはいかなかった。何も話さないまま消えようとする妹を見過ごすわけにはいかない。けれども理性は言う。諦めろと。目を背けて進む。
去っていく気配。もうじき追えなくなる。そうなる直前、母上の気配が止まる。
構わず歩き続ける。歩いた先に母上がいた。
「アキは?」
母上は答えない。
俺を見て横抱きに抱え上げた。
アキの気配はとうの昔に辿れていない。離れすぎた。俺のわかる範囲にアキはいない。
「家に戻る」
母上はただそれだけを言う。
俺はアキの消えた先を見つめた。
「……アキ」
いらえはない。
静けさが返って来る。