まだ暦の上では秋であるこの季節。今年は特別寒くなり、おかげで飢饉に陥った。
いつ雪が降るとも知れず、夜の帳の中にありながら、吐いた息が立ち上っていくのがはっきり見える。
立ち昇った白い呼気を追って頭上を見上げればいくつもの星が瞬いていた。
東に行く道は川沿いにある。少し視線を外せば木々が生い茂っているが、それでも道の付近は十分に開けていて、水面に反射した星明りである程度は先が見通せる。
視線は通り、生き物の気配を感じ取れるなら、夜とは言え馬で行くことに然程の危険はない。俺一人なら突っ走っていた。しかしシオンとアザミはそうはせず、馬には乗るが歩いて向かうことになった。
シオンと言う高貴な身分の人と、そのお付きのアザミと言う白髪の女性。
知り合って数日。親しいかと問われると疑問符が浮かぶこの二人と東に向かっている。
元々は一人でこっそり行くつもりだった。途中でシオンに見つかってこうなっている。
その際に説教をされてわかったのだが、俺はすでにシオンのものになっているらしい。そして、シオンとしては俺に自由を与えるつもりはないとのこと。
何をするにしても許可が必要だと言っていた。明確な上下関係がある。奴隷と何が違うのかは分からない。
果たしてそれは普通のことなのか。
人権なんて言葉もなさそうなこの世界。男と女の役割がその力関係を含めてひっくり返ったこの社会で、普通なんてものに意味はないのかもしれない。
いっそのこと、普通なんて知ったことではないと開き直ってしまえば楽だけど、実際にこの世界で生きている身としてはそう簡単に割り切れるものではなく、さりとて馴染めない部分も多い。
今、俺はシオンと二人で同じ馬に乗っている。
時折、耳や顎、頬なんかを指が伝う。軽く触れる程度だがむず痒いのといきなり触られるからその度に驚いて身体が跳ねる。後ろから抱きしめられているから逃れようもない。都度都度文句は言っておく。
「あの」
「なに?」
「あんまり触らないでください」
「んー」
抗議と言うかお願いの類になる。ただし聞いてくれるとは限らない。
むしろ耳をずっと触って来るようになった。俺の反応に味を占めたのかもしれない。
「手慰みに丁度いいんだよね」
「ん……」
耳を撫でられて声が漏れる。
移動中、やることがないから触ってくるらしい。手癖が悪い。異性の身体に気軽に触れてくるのはあり得ないことだと思う。それともこれが普通なのだろうか。よくわからない。
「それにしても本当にちっさいな君は」
頭の上をポンポンと叩かれながらそんなことを言われた。
背が小さいと言われて喜ぶ趣味はない。下手をしたらコンプレックスになる。子供じゃあるまいしそこまでやわではないが。
「まだ11歳ですから」
「11歳ねえ……。実は誤魔化してたりしない? 本当に11?」
「してません。11です。これから大きくなりますよ」
と言うか、大きくなってくれないと困る。
170センチとは言わないけれど、平均程度には大きくなってほしい。この世界の平均がどの程度かは知らないが。
「あー、でもずっとこのままでもいいなあ」
「どうしてですか」
「愛玩動物みたいで可愛い」
愛玩動物とはつまり犬や猫みたいなペットのことだろうか。
まかり間違っても伴侶に抱く感想ではない。あるいは伴侶として見られていないのかもしれない。結局は俺の異常性に興味があるのだろう。別に悲しくもない。
「紫苑様ぁ?」
「なんだよ」
少し前を行くアザミが振り向きながら声をかけてくる。
応じるシオンの声はいささかぶっきらぼうだ。
「今更紫苑様の婚姻にどうこう言ったりはしないけど、すぐに手を出すのはやめろよ? 問題になるぞ。特にレンは。常識を疑われて変態扱いされるからな」
「わかってるよ。最低でも12歳になってからにする」
「……いや、12歳でもダメでしょ」
アザミの目が俺に向く。露骨なほどに不躾だった。採点されているような気分になる。
はっきりと不愉快な感覚に身を固くして、シオンの腕の力が強まった。
「努力はするよ……」
「なんで微妙に自信なさげなの? 変態なの?」
「君はレンを知らないからそう言えるんだ。一日一緒にいてみろ。くらくらしてくる」
「レン、こっちこい。そいつと一緒にいたらダメだ」
アザミが馬を寄せて手を伸ばしてきたのでこれ幸いとその手に縋った。
シオンと同じ馬に乗るよりもアザミの方がましな気がする。少なくとも引っ切り無しに身体を触られるようなことはなさそうだ。
しかしシオンは俺を放そうとせず、どうやってもその腕から抜け出せそうにないので諦める。
「その内君も理解するさ。あの
「いや、もう片鱗は見えてるけどさ……」
ほとんど面識のないアザミでさえそんなことを言う。そこまで酷いだろうか。多少の自覚はあるけれど。
好き勝手に言う二人の口ぶりに不満は募るが反論はしない。わざわざ言うほどのことでもなかった。
腰に回されていた腕に引き寄せられ、もともと密着していた身体がさらにくっつき暖かくなる。
ここまで密着しているなら意地を張るのも馬鹿らしいと、完全に身体を預けてしまう。そうするともう片方の腕が胸の辺りに回された。
多分これが一番密着するんだろうなとされるがままになる。お互いに厚着をしているから感触までは感じないがそれでも暖かい。暖を取るにはこれが一番なのを知っている。アキといつもこうしていたから。
「……これも片鱗なのか……?」
俺たちの様子を見ていたアザミがぼそっと呟いて前を向いた。
何を言っているかわからない。一体なんの片鱗なのか。箱庭と言うやつだろうか。
隣の町には歩いて半日ほどで着く。
夜半に村を出ているから、順調にいけば日が昇る前には着くだろう。
道中、話すこともないので自然と無言になる。
することがなければ考えてしまう。アキのこと、エンジュちゃんのこと、父上のこと。――――先代剣聖のこと。
始まりは先代の剣聖だった。
あれが全てを狂わせた。……いや、もっと前から破滅は始まっていたのかもしれない。
藤色の刀。つまりは色付きの刀。アキは白い刀を持っていた。母上は赤い刀を持っている。藤色の刀は見る者を魅了し、アキの刀は奪うのだと言う。では母上の刀はなんなのか。
そもそも同じものであるとは限らない。しかし特性は通じている。色は刀そのものではなく持ち手に依ると言う。
おかげでアキに渡した刀は俺の手に戻ってきて、その代わりにアキは先代剣聖の仕込み刀を持ち去った。
全てはアキの言葉だ。真実である保証はない。だが真実であったなら、母上の刀も何かしらの特性を有していることになる。
以前、母上の過去を聞いた時は何も言っていなかった。むしろなぜ赤くなるのか分からないと言っていた。あれは嘘だろうか。
母上に抱いた疑念。それは一瞬で否定される。
嘘をつける人ではない。11年の付き合いだ。きっと母上は何も知らないのだろう。
仮に特性があったとしても、母上が気付かないのであれば大したことはないとも言える。きっとそうだと自分に言い聞かす。
……それでも、一つだけ気になることがある。
赤と聞いて一番に連想するのは血の色だ。その感触も匂いも全てが容易に蘇る。
次に連想するのは自分の髪の色。俺の髪は赤が混じった黒だ。血は空気に触れると黒く変色する。あるいは静脈血も黒っぽい色をしているらしい。
母上の髪は黒色。父上は紺。アキは黒。家族の中で、なぜか俺だけこんな髪色をしている。先祖返りでもしたのだろうと思っていたが、母上の刀と何か関係があるのかもしれない。根拠などないし、もしかしたら違うかもしれない。どちらにせよ、今考えたところで答えなど出るはずもないけど、その可能性はある。頭の片隅に留めておくべきだ。
次に父上のことを考える。
――――僕は、椛さんに買われただけなんだよ。
否応なしに思い出す言葉。花屋の本当の意味。つまりが身請け。そう言うことだった。
母上とはまだそのことを話していない。話すべきだったのかもしれないが、アキのことを優先した。
戻ってきたら一度くらいは話しておかなくてはならないが、それを嫌だと思う自分がいた。
俺は父上のことを避けている。父上の秘密を知ったからではない。生まれた時からずっと避けている。父上と言う人間はこの世界を象徴していた。世界そのものに馴染めないのに、父上と仲良く出来るわけがない。だからゲンさんのことが好きだった。俺が知っている男性像そのものだったから。
父上との付き合いはあくまでも表面上の物に過ぎないのだろう。俺がこういう気持ちを抱いているのと同じように、父上も俺に対して思うところはあるはず。
それを承知の上で話をしようと思う。どんな形になるにせよ、話をしなければならない。区切りをつけなくては。これ以上はもう背負えないのだから。
死者を思う。死に行く者を思う。殺した者を思う。
エンジュちゃんのことを思うと今でも胸が引き裂かれそうになる。後悔してもしきれない。あの時、なぜもっとうまく出来なかったのか。こうなると分かっていたなら、こうなるかもしれないと少しでも思っていたなら……。
村長はもう後を追ったのだろうか。出来ることなら生きてほしいが、そう思うことすら罪に思えてくる。
全てを後悔する。自分のことなどどうでもよかった。どうせろくでもない命だ。蔑ろにするぐらいが丁度いい。
先代の剣聖は色付きの刀について何か知っていたのだろうか。そもそもどうして母上を殺そうとしたのだろうか。
教えてほしい。なんでもいい。誰でもいいから。アキを救いたい。殺したくない。……幸せになってほしい。
沈み込み、物思いにふけっていた。先々のことに思いを馳せているつもりだったが、いつの間にか過去に囚われていた。
鬱屈とした気分になる。周囲の状況など気にも留めず、自分の世界に閉じこもる。
不意に頬に痛みが走って我に返る。何かと思えば引っ張られていた。シオンの仕業だ。
「うりうり~」
「……」
「このこのぉ~」
「……なんですか」
右の頬を引っ張られる。
引っ張られると言うか
「暇つぶし」
「……痛いです」
「もっと痛くしてやる~」
「……本当に痛い」
そこまで言ってようやく放してくれた。
放された後もじんじんと熱を持っている。相当強くやられたらしい。
「人で遊ばないでください」
「遊んでないよ」
「遊んでるでしょう」
「遊んでないってば」
どう考えても遊んでいた。けれど白を切るならこれ以上追及しても意味がない。
そう思って会話を打ち切った直後、背中に体重を感じ、左耳にシオンの息遣いを感じる。
「――――君が泣きそうだったから」
ふとすれば風に紛れてしまうほどの小さな声。
一瞬幻聴かと思ったが違うらしい。どうやら気遣われた。気遣うにしても他に方法があっただろと思うし、そもそも泣きそうになってもいないが、人の優しさには感謝すべきだろう。それが例えいらぬ世話だったとしても。
「ありがとうございます」
何となく、腰に回されていたシオンの手に自分の手を重ねる。指と指を絡めて手を繋いだ。
シオンが今どんな顔をしているのかは分からない。同じように自分の顔も分からない。複雑な気持ちだった。何が本当で何が嘘なのか。それすら分からないでいた。
「お、見えた」
アザミの声。
町が見える。いつか見た町。しかし目指すはもっと東の町だ。ここはただの通過点。アキの痕跡を辿らなければならない。