――失敗した。
ひしひしと押し寄せる後悔は、先ほどシオンを相手に繰り広げた醜態ではなく、今こうして花街まで来てしまったこと。それに対してだった。
先ほどまで火照っていた身体も秋風に吹かれてすっかり冷えている。
我に返るのに十分すぎる程度には凍えていた。着の身着のままこんなところまでやって来て、刀さえも宿に置いて来てしまった。不用心にも程がある。しまったと思ってももう遅い。後悔は先に立たない。
吹く風が肌寒く、自分で自分の身体を抱きしめる。すっかり冷たくなった指先に息を吹き当てた。
広い道の真ん中でそんなことをしていたからか、周囲を行き交う人の目が集まっていた。
集まる人を見ても、周囲の地形を見ても、花街と言うのは特殊な場所だった。
周囲は堀で囲まれており、行き来できるのは四方に作られている橋からのみ。
橋の前には門番と思しき人が立ち、入って来る人間に目を光らせていた。
門番が通り過ぎる人たちに声をかけることはなく、俺のこともチラリと見るだけで素通りさせたから、それほど厳しい管理体制ではなさそうだ。
ぱっと見て怪しい人だけ弾いているのだろう。しかしそうなると、俺なんかは特に怪しい人物に見えるはずだが通れてしまった。よくわからないが何かしらの基準があるのだろう。
中に入れば、街中に漂っていた物騒な気配はない。ここでは飢饉の影響は微塵も感じられない。まるで別世界のように感じる。
門前で焚かれている篝火の前を血色のいい人たちが通り過ぎていく。一歩踏み入っただけで空気が変わる。
不思議な気配があった。言葉にしにくい奇妙な雰囲気。大勢の大人が、女性たちが、何かを求めて
幅広い道の真ん中で立ち止まる。来る人行く人、皆が俺のことを見ている。
不思議と邪魔だという視線はなかった。むしろ好奇心が感じられた。俺ぐらいの年頃の子供がこんなところにいるのが珍しいのかもしれない。
好奇の視線を浴び続ける趣味はない。いつまでも立ち止まっていては埒が明かない。目的であるアザミの気配の元へ歩いて行く。
周囲の様子を探りながら歩く。
建物がある。二階建て、三階建て。同じような建物が軒を連ねている。
その入口付近には大抵人がいた。年配の女性がほとんど。仏頂面で通り過ぎる人々を眺めている。
行き交う人は女性ばかり。その内の一人が迷いのない足取りで建物に入っていく。
戸に遮られて中の様子は伺えない。複数の人の気配と、隙間から漏れる明かり。耳をすませば誰かの声が聞こえてくる。
心の中に
途中、通り過ぎようとした建物から俺よりも年上の男の子が姿を現した。
その男の子はひと回り以上年上の女性に抱き着きながら、媚びるような眼差しを向け、気持ち悪いぐらいの愛想を振りまいていた。
何をどうすれば女が喜ぶのか。それを熟知したような仕草で
そのままどこかに向かおうと歩き出した。どこに行くのかは想像もできない。
見てはいけないものを見てしまった。そう思って、足早に通り過ぎる。
ドクドクと高鳴る鼓動を抑えつけながら歩く。何も見ないように足元だけを見続ける。
おぞましい物を見た気分だった。不愉快で吐き気がする。俺の知っている常識はここでは通用しない。何度も何度も言い聞かせてきた。けれどもいざ目の当たりにすれば到底受け入れられそうにない。心の準備も出来ていなかった。ただ目を逸らし続けていたから。
花街とはこういう場所だった。知っていたはずだ。知識はあった。経験を照らし合わせれば、いくらでも想像できた。
自然と思う。父上もこういうところにいたのだろうか。あれと同じような仕草をしていたのだろうか。
心が悲鳴を上げる。考えるなと自分に言い聞かせる。嫌だと悲痛に訴えてくる。
何もかもから目を逸らして、今はとにかく人のいないところに行きたくて、アザミの気配を探ることをやめていた。近くに人がいることなんて気にしてもいなかった。近づいてくる気配なんて、全く気にも留めていなかった。
後ろから近付いてきた気配に肩を握られる。
そのまま強引に振り向かされた。
見たことのない人と目が合う。
俺より頭一つ以上背が高い。品定めするような目。本能が恐怖を訴える。
「――――いくら?」
「……え?」
「いくら?」
言葉少なくその人は問うてくる。
頭が働かず意図を掴めない。何の値段を聞いているのだろう。
沈黙が過ぎる。
「……どこの店の子?」
「店……えっと……」
「店じゃないの? 夜鷹?」
わからない。俺は首を振る。
その人は困ったように顔をしかめた。
「まあ、いいや。いくら?」
執拗に繰り返される問いかけ。ようやく頭が回って来た。この人が何を勘違いしているのかも理解した。
慌てて否定する。拒絶する。しなければならない。
「違う、違います。俺は違います」
「違うって。なんで。こんなところにいるのに」
怒ったような雰囲気が滲み出してきた。
身の危険を感じて、未だに肩を掴んだままの腕を引き剥がそうとする。
しかし腕は引き剥がせなくて、身をよじってもビクともしなくて、逆に手首を掴まれてしまった。
「じゃあ、いくら欲しい?」
「違います。本当に違う」
「いくら?」
目が合う。理性を感じない淀んだ目。恐怖を感じて訴える。
いらない。お金なんていらない。
言っても聞かないその人は少しずつ身体を寄せてくる。離れたくて抵抗する。
いくら抵抗したところで逆に引き寄せられるばかりだったが、突然その人が手を放す。尻もちを突いて痛みに呻いた。
顔を上げると、いつの間にそうなったのか、アザミが
「お客さぁん。うちの子に乱暴しちゃダメっすよぉ」
「……あ、いや。そんなつもりは……」
「えぇ? でも嫌がってるでしょぉ? ダメっすよぉ」
アザミは右腕で肩を組みながら、左手で腰の剣を撫でていた。
口調こそ軽く感じられたが、発せられる威圧感が肌を突き刺してくる。女性は硬直したようにその場に立ち竦んでいて、横目にアザミの腰の剣を凝視していた。
「もうこんなことしちゃダメっすよぉ? おわかりー?」
「は、はい……」
「じゃ、行ってよし」
アザミが女性を解放する。這う這うの体で逃げていく女性にアザミは笑顔で手を振っていた。
集まっていた視線もアザミが目を向ければあっという間に散っていった。
「……アザミさん」
「おう。さっきぶり。飯食った?」
……そう言えば食べてない。
そんなことを思って、けれど答える気にはなれなかった。言うべきはそんなことではないから。
「で、なんでこんなところにいんの?」
「……その」
「んー?」
未だに尻もち付いたままの俺に、アザミは目線を合わせようとしてか屈んで眺めてくる。
その愉快そうな顔は別れ際に見た顔と寸分違わない。この人は大体いつもこんな顔をしている。
「……アザミさんを追いかけてきました」
「追いかけて来ちゃったかあ。馬鹿だなあ」
はっはっはと笑ってアザミは立ち上がる。
「ここは子供が来るところじゃないぞ。それとも少年はもう大人だったかな?」
答えに窮して黙り込む。
意地悪な問いかけだった。先ほど見た娼夫の姿が思い浮かんで少し気分が悪くなった。
「ほら、立て。帰るから」
「でも……」
「少年いたら店にも入れないでしょー。ほら、早く立つ」
腕を引っ張られて立ち上がる。
周囲を見る。明かりに照らされる多くの建物。その中には無数の気配がある。気配だけで性別は分からない。けれどもその距離が異様に近いとなれば、何をしているかはすぐわかる。
ここは花街だ。そんなことは当たり前だ。
だけど、あの娼夫の態度。あれだけは当たり前じゃないと思いたい。ほんの少ししか見ていないあの仕草。その少しだけでも、父上のことが思い浮かぶ。
――――僕は、椛さんに買われただけなんだよ。
その言葉が脳裏にこびりついて離れない。