鷺沢文香と彼女に連なる人たちのある夏のひととき。※主要人物にアイドル以外(文香ちゃんの叔父さん)も登場します。

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潮風、栞、古書の匂い

 

 雨の海岸に立ち尽くす瀬名詩織(せなしおり)をその少し後ろの方の砂浜から見ていた鷺沢文香(さぎさわふみか)は、傘を差していないのにも関わらず身体が濡れていないことを不思議だとは思わなかった。

 雨はかなり強いらしく、海のそこかしこに無数の粒が飛び込み波紋ができるのが見える。詩織よりも後方にいる文香にはなぜかそれが見えていて、自分のいる場所から見えるであろう本来のアングルからの光景のほかに斜め上空から海岸を見下ろすようなアングルからの眺めも見ることができた。そこには砂浜が映っていたが自分の姿は見えなかった。このふたつの場所の光景が、どちらも自分の目が映し出しているものだとすれば自身の姿が見えないのは当たり前だと文香は納得した。

 ふたつの光景は、ひとつの視界のなかでそれぞれ画面を分割して見えているようなものではなく、ドラマや映画みたく画面が切り替わって交互にそれらを映すように見えていたわけでもなく、文香の咄嗟の語彙力では的確な言い方は浮かんでこなかった。

 詩織は、つばの広い麦わら帽子を被って豪雨の中を海のほうに体を向けて佇んでいる。その姿に憂いや寂しさといった湿った情趣を文香は感じない。海が好きな詩織のことだから、きっと今のこの荒天の海というものの風情を楽しんでいるのだろうと思った。そう思いながら、次には軽くてふわふわした感覚に身を包まれているような感じがしはじめ、そこですべてが途切れ文香は目を覚ました。

 

 顔を上げるとそこに砂浜や海や詩織が見えないことはわかっていたが、覚醒しきる前の脳が捉えた本棚の側面や、そこから僅かに顔というか背表紙を覗かせている本の群れには文香は少し面食らい不意を突かれた気持ちになった。

「お目覚めかい。なにも疲れているときにまで手伝いに来なくてもいいんだよ」

 物腰の柔らかそうな声を聞いて文香は突っ伏していた年季の入った木造りのレジカウンターから身を起こす。完全に目が覚め、かすかに照れているような、ばつの悪い顔で声のした方を見ると、彼女の叔父が『大航海文庫 作者順あ~』と表記された仕切り板が挟まれた棚の一帯をホコリ取りではたいていた。

「いえ、疲れているわけではないのですが、いつの間にか……」

 申し訳なさがないわけではないが特に取り繕う様子もなく、姿勢を正して叔父に向き直ると(てら)いのない言葉で文香はそう答えた。

 

 悪くない立地に建つとはいえ、目まぐるしく変わっていく街並みから置いてけぼりを食らったかのように、鷺沢文香の叔父が営む古書店はひっそりと佇んでいる。

 (つや)を失った木造建築が醸し出す慈味な装い。店内には所狭しと並ぶ古今東西、和洋折衷の、特に文学作品に店主の趣向がありありと(うかが)える古書群。それらに惹かれて時折まばらに訪れるお客たち……。叔父の古書店にはいつでも『もうひとつの時間』とでもいうような、ゆっくりとした重みのある時間が流れていて、文香にとってその重さは心地の良いものだった。今では少しだけ店内の様相が変わり、文香の新譜の宣伝やイベントの告知のためのポスターがささやかながら貼られたり、あまつさえ店主自らがそれらを配布したりすることがあるようになってからもここの時間は変わらない。

 日常とも僅かに違う時間──本を読むと読まないとに関わらず、古書店で過ごす時間は文香を未明の中に取り残すようにそっと漂わせ、揺らし、やがてほんの束の間、埋没させていく……。

 

   *

 

 物々しい雰囲気を若干19歳にして身に纏う我が姪が『今をときめく』などという歯の浮くような言葉によって彩られる日々を送る存在になろうとは誰が想像できただろうか。もはや時期によっては店でよりもテレビやラジオでその姿と声を見聞きすることの方がずっと多い。にも関わらず、彼女はここに来れば過去の自身の姿と寸分(たが)わず重なっていくように相変わらず本を読み、雑事をこなし、時には大学の課題にも取り組みながらいつ来るとも知れない客を消極的な態度で待っている……。

 そんなことを考えながら文香を見ていた叔父は、彼女の傍らに置かれていた本の存在に気がついた。

「なにを読んでいたんだ」

 叔父の言葉の意味を理解するまで文香は眠る直前まで読んでいた本のことを忘れていた。しかし栞を挟んで閉じて置いてあるあたり夢へと向かいつつあった意識の中でも本に対する敬虔(けいけん)で丁重な姿勢はしっかり貫かれていたようで、それを確認すると文香の口角は僅かに小さく上がった。

「ランボーの詩集です。次の仕事で使うので、改めて読み返していました」

「仕事でランボー……『小説百景』、かな?」

「ええ。『地獄の季節』を扱うので…………っ……ぁ、へあぁぁ……!」

「んっ、ど、ど、どうした!?」

 平静そのものの調子で喋っていたと思いきや、いきなり大きく口を開けて小さな奇声を漏らす文香に面食らった叔父は手に持っていたホコリ取りを思わず落とした。そんな自分の反応をまるで漫画だと思い、それから自分の漫画のような反応を漫画のようだと思うところまでが、文章を伴う創作物の描写のようだと深い思索の中に入りかけた己の思考に苦笑しそうになったが、先の文香の様子に苦笑よりも困惑が勝った。

「ふ、文香……?」

 叔父は遠慮がちに文香に声をかけた。遠慮がちな声を出すほどの心配をしていたわけではないが、平素通りに声をかけるほど警戒心を持っていないわけでもなかった。

「いえ……あの、言ってしまいました。親族とはいえ、部外の方に、番組の内部の情報を……」

「あっ、ああ、なんだ、そうか、そうだな。別に喋ったりしないから気にするな……まあ今度スタッフの方に一言ちゃんと詫びておきなさい。そうか、次の『小説百景』はランボーか……」

「あっ、いえ、次回というわけでは……」

「そうか、“撮り溜め”ってやつか」

『小説百景』とは某放送局が毎週金曜日の夜に放送している5分ほどの短いテレビ番組で、内容は期間ごとに変わる番組パーソナリティーの映像をバックに、様々な小説や詩の一編(または一片)をパーソナリティーがナレーションで読み上げる──といった非常に地味な番組だ。番組に流れる映像は淡々としていて、パーソナリティーが街を歩く姿や公園の木陰でのんびり佇んでいる姿や、時には風景やその場にいた動物がクローズアップされる回もある。強い訴求力を用いずに、短く、散漫、散文的に作品を紹介することで文学への水先案内人役を静謐(せいひつ)に務めようとする面のある一方で、最近はパーソナリティーにアイドルを起用することも多く、視聴者には、とりとめのない素朴なイメージ映像を通してアイドルのビジュアルプロモーションを行う場として番組を捉える向きもある。文香は6~7月に番組を担当した二宮飛鳥(にのみやあすか)の後を引き継いで8~9月のパーソナリティーを担当している。

 

「そうだ、まだお礼を言ってなかったね。リクエストに応えてくれてありがとう」

「『中国行きのスロウ・ボート』、ですね。いえ……」

『小説百景』の制作スタッフは、取り上げる作品や文中の読み上げる箇所の選定について、基本的にパーソナリティーを務めるタレントに一任している。

 番組のパーソナリティーを担当することになった際、初の打ち合わせの席で文香は珍しく取り上げる作品について積極的にいくつか打診をしたら、全部がふたつ返事であっさり通りそうになったので作品の選定についてはその場ではいったん保留とし、後日改めて提案することにして、文香にとって本とアルバイト代、これらふたつの生きる(かて)を与えてくれ、かつ番組の視聴者でもあった叔父への礼にと、彼に取り上げてほしい作品を訊ねた。

 そうして彼の挙げた村上春樹の処女短編集に収められた表題作『中国行きのスロウ・ボート』は、文香の番組パーソナリティー担当初回に取り上げられたのだった。

「村上春樹を挙げたのは、少々意外でした」

 先の叔父からの礼の言葉を受けて、こそばゆさにうつむきかげんのまま文香が独り言を呟くように言った。

「うん、やはり村上春樹は間口が広い。だが彼の作品の中では真っ先に挙がるようなタイトルでもない……そんなところを狙ってみた。後になって、鷺沢文香はミーハーだと言われやしないかと思いもしたが……」

「……ふふっ、そんなことを気にかけていたのですか」

 文香はそう言ってから、

「言いたい人には、言わせておけばいいんです」

 姪を思う叔父の心配を、優しく一笑に付した。やれやれ、本のこととなるとこの子はときどき甘さがなくなる。これがアイドルとして活動していくなかで爆弾とならなければいいが……。しかし火の点いた文香はいったいどんなことを言うのだろう? 見てみたくないと言えば嘘になる。そう考える叔父であった。

「そういえば、文香の前の、二宮飛鳥さん。彼女の最後の回もよかった」

「あっ──はい、例の……そうですね」

 文香は少し目を泳がせながら言い淀んだが、叔父の言葉には同意した。

 

   *

 

 駅前の広場で二宮飛鳥とすれ違った学生服の少年が手に持っていた飲み終わったらしきコーラの空き缶を軽く真上に放り投げて空中に浮かせ、腰と同じあたりの高さにまで落下してきたところで思い切り右足で蹴り飛ばした。

 空き缶は5、6mほど先にあったアルミ缶用のくずかごに見事に飛び込んだ。それにはしゃぐ少年を気にも留めずに飛鳥はその場を離れていく。

 駅を離れて飛鳥は繁華な街並みを歩く。煩雑に交錯する人という人の中をどこか軽やかな足取りで通りすぎていく。

 手を繋いで歩く男女、タピオカミルクティーやブルーベリークリームチーズクレープなどを片手に談笑する女子高生、足を止めて聴く者がおらずとも一心に奏で歌うストリートミュージシャン、勧誘活動に熱心に励む新興宗教の信者たち、往来でよく通る声で立て板に水の語りを展開している、なにやら動画を撮影しているらしき青年の集団。

 それらすべてを受け入れるこの街の風景に溶け込むように飛鳥も柔和な表情を見せながら歩き、交差点に差しかかる。

 赤信号で立ち止まる人々の中で彼女も歩みを止め、目の前をじっと見る。

 世界を肯定するような、寄り添うような、穏やかで嘘偽りのない微笑を浮かべて飛鳥は()()()()()()を見つめ、言った──

 

  空は青いか、海は広いか、夢はあるか、

  友はいるか、誰かに恋してるか、

  ポケットの金で満足か、

  そーか、

  じゃあ、さっさと死ね

 

『ビートたけし詩集 僕は馬鹿になった。』から『オーイ』より引用)

 

 ──BGMにアメリカのバンド、ザ・ドアーズの楽曲『ヒアシンスの家』がかかり、画面にはスタッフロールが流れはじめた。

 

   *

 

「いやー、あれはカッコよかったよねぇ」

「……それに、大胆なアプローチでした」

 気の抜けた叔父の声にどこか及び腰の文香の声が追従(ついじゅう)する。

 文香のその様子の示すとおり、飛鳥が最後に番組を担当した回はネットでも話題になり、大手SNS上では彼女、番組、紹介された作品、著者、それらの名が一挙にトレンドとして短い時間ではあるがランキングの上位を占め、番組の(くだん)の部分は二宮飛鳥という偶像を一定以上認知・寵愛する者の間でも物議を醸した。

「あの顔というか、目つきがよかったよね。(はす)に構えて緊張感を煽るんじゃなく、柔らかい雰囲気を醸成していった中でアレを言うという……」

「おかげで翌週から番組を(にな)うのが、少々不安でした」

 うつむいた視線で控えめに言った文香の口の端が僅かに上がっているのを叔父は見逃さなかった。文香以外のアイドルに詳しくない叔父でも、二宮飛鳥が姪とよく共演したり同じユニットで歌を歌っていることは知っている。目の前の少女の伏し目がちの薄笑いは仲間への賛辞の表れであることを齢四十(よわいしじゅう)の文学青年はすぐに察した。

「彼女、まだ中学生だったっけか。いやぁ、あんな振る舞いをしてたら同年代からさぞかしモテるだろう?」

 叔父の出し抜けのこの発言に文香が目を見開くと、横長から縦長の楕円形になった瞳が愛嬌よく正面を据えた。

「年齢で判別したことはありませんが……飛鳥さんを応援する方たちは、男女の隔たりなく沢山いますよ」

「だろうねぇ。自分の中学時代にあんな子がいたら、ぼくだって憧れちゃうよ。今度会ったらカッコよかったって言っておいてくれ」

「彼女に……惹かれましたか?」

 叔父が文香のさりげない所作に気づくように、姪もまた、高揚とまではいかなくとも途中からにわかに弾みだした彼の語調を聴き逃さなかった。

「うん、そうかもね。ぼくだって少年時代はあんな風に生きてみたいと思ったことがなかったわけじゃない……やっぱり、若いってのはいいよ。今のぼくには自分がそうだった頃なんて忘れて、若いってだけですべてが順調なように思えてしまう」

「……そういうものなのですか」

 叔父の言葉を図りかねる文香にはそれくらいしか言えることがない。叔父は老いを意識した自らの発言の薄ら寒さと、それにうやうやしく返答した文香の妙なおかしさに苦笑した。笑うことで、若さへの自覚が薄れていっても老いへの意識が自覚的になるわけではないことを彼は発見した。

「先程の言葉、飛鳥さんに伝えておきます。明後日に打ち合わせで彼女に会いますから」

「そうなのか。なんの打ち合わせだい」

「ええ、あっ…………それは、言えません」

 はたと気づいた顔でそう言ってから文香は口を結んだ。

「同じ失敗はしない。うん、お利口さんだ」 

「……いったい、どの視点からの口振りですか」

「姪と話す叔父の視点」

「……」

 少しだけ意地の悪い叔父の視線を極めて微かなむくれ顔で返すと、文香は詩集を簡素なデザインのハンドバッグにそそくさとしまった。それは文香がアイドルの世界へ飛び込む前から使っている、落ち着いたというよりは地味な色合いのバッグだった。

「似合うとは思うけど、まだ使ってたのか、それ」

「最近は、華美な装いにも関心がないわけではありませんが、愛着ある物を手離す理由にはなり得ません。それに……古色蒼然の(おもむき)というものには、やはり憧れがありますから」

 文香はしみじみそう言うと辺りを見回してから静かに立ち上がった。

「今日はこの辺で」

「ああ、お疲れ様。もっとも、眠ってたら留守番にはならないがね」

「すみません」

「いいよいいよ、今に始まったことじゃない」

「…………もう」

 先程よりも気持ち大きく頬を膨らませ、それからすぐに素知らぬ顔の叔父へ向けて小さく笑うと、文香は出入口脇の傘立てから日傘を持ち出し数歩前に出てから傘を開くと振り返り、「では」と一言短く挨拶して帰っていった。

 

(あの子がアイドル、か)

 出入口で見送りながら叔父は声もなく独り()ちた。大通りに通じる道のすぐ近くにも関わらず人影は文香ひとつきりで、刺すような陽光を遮る日傘が彼女の影を深くしていて遠くからでも大きく見えた。

「いろんな世界を見てもらいたいもんだ」

 去りゆく後ろ姿を見て叔父は今度は声を漏らした。その声音(こわね)の予期せぬ落ち着きぶりは、彼に感傷と微笑をもたらした。




つづく(予定ではある)

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