【未完・移行予定】 紅魔の崩壊記 〜the Oldest sister of Scarlet Devil 作:平熱クラブ
ターニングポイントです
「あ、
私は、フィル姉さまをやっと見つけることが出来た。地下のフロアはかなり広い為、探しているうちに少しばかり時間がかかってしまった。
「………
「ううん、お姉さまを探してただけ。別にお姉さまに何か用があったワケでもないけど」
そう言いながら、私は本を読んでいるお姉さまの向かい側に座った。こちらを気にせず本を読みふける姉の様子を、組み合わせた両手の甲で顎杖をつきながら眺めてみる。
改めて見ると、お姉さまはやはり普通の吸血鬼とは違う。
私の姉、フィルシア・スカーレット。
悪魔という名称がもっとも似合わないその姿は、全体的に鮮やかな白が一際目立ち、神秘とでも呼ぶべき魅力を十分に感じさせる。
私のように水色が混ざることなく、透き通った銀色の髪。一点の妖しさも感じさせない緑を反射する瞳。そして、白鳥のような純白の輝きを見せる翼。
蔑称のつもりではないが、お姉さまにはやはり『天使』という言葉が似合っていた。
………本人が嫌がりそうなので、実際にその名で呼んだことはないが。
「何の本を読んでるの?」
ページをめくっていた手をピタリと止め、お姉さまはこちらに目を合わせてきた。
「吸血鬼………何か狂気について手掛かりがあれば、と思ってな……」
「あ………」
初めはちょっと驚いた。
いつも淋しそうに一人の時を過ごしてたお姉さまが、フランを気にかけるようになったなんて。
それと同時に、私はそのことを嬉しく思っていた。
思えば、こうして私と自然に会話をしていること自体が大きな進歩なのだ。
以前は、ずっと一人で部屋に引きこもったまま身内との距離を置いていた。私は愚か、両親にさえ会おうとしなかった。偶に顔を合わせることはあっても直ぐに目を逸らしてその場を去ってしまうのが、私の姉だった。
姉妹、そして家族の間に生まれた溝は深まるばかり。その溝が埋まる気配はない。そこで、私達の思いが交錯することなどなかった。
そんな姉の──義理の妹となったフランの為に解決の術を探そうとする姉の姿を見れたことが嬉しかったのだ。
「だが、即座に解決出来る方法は見つからない………方法はあるにしても、それは父上達のと同じ手段しかない」
「やっぱり………フランには地下牢にいてもらうしかないってことか……」
『幽閉』という言葉は、口に出来なかった。
いや、『したくなかった』というべきか。
ただ過酷なだけの時間から、やっと解放されたばかりだというのにまだ自由が認められない。私は、そんな理不尽な現実を受け入れられなかった。
だから、私は反対の声を上げたのだ。
だが、お母さま達が示唆する危険の存在は理性では分かっていた。
これまでにフランが背負ってきた壮絶な過去。
狂気に潜む死の危険。
この二つの事実が、私の思考を迷宮へと
分かっている。
だが、私は未だに納得していない。
呼吸をするのが当たり前なのと同様、フランにとっては拷問を受けるのが当たり前だった。
肉を削がれ、日の光で焼かれ、身体中に膨れ上がった痣を作られ………
生まれた時からそんな日々をずっと過ごしてきた挙句の果てが、自由の無い幽閉という残酷な運命。
人間も悪魔もない。
何の罪もない幼い子供に背負わせるには、あまりに残酷な現実だった。
「本当にどうにもならないのかしら………」
「……精神の回復を待つしかないだろうな。私が調べた限りでも、それが一番妥当な方法だろう」
「………」
「狂気について分かったのは、それが精神的な病の一種だということ。恐らく、フランが抱えこんでいるのは多重人格障害、あるいは解離性同一性障害と呼ばれるものだ。見られる症例としては、頭痛や肉体的苦痛を訴え自傷行為を繰り返す等。複数の人格が存在するが、人格間で記憶の共有は少ない。小児期に受けた強い肉体的・性的虐待を受けた結果として、心理パターンの一つである自己防衛から異なった人格を形成し、ストレスを低減させる──」
そこまで説明すると、お姉さまはパタンと本を閉じた。
「狂気というのは攻撃的な人格が宿った状態のことを指していると言っていい。多重人格とは言ったが、いまのフランは素の人格と攻撃的な人格の二つが潜む状態だ。精神が安定すれば、攻撃的な人格は消え、素の人格だけが残る」
「そう………」
狂気の問題を解決するには、トラウマという内的要因と周囲に危害が及ぶという問題をクリアしなければならない。急激な環境の変化ということもあり、まずは精神的余裕を持たせることが急がれる。
その為には、一人でいる時間を与えることが効果的だ。下手に接触して、彼女の精神を刺激するのは得策ではない。
フランが負っていた怪我に治癒術などを施さなかったのは、それが理由だ。外部からの作用に、狂気がどのような反応を起こすか分からなかったからだという。
つまり、お母さま達が取ろうとしている手段は最も適切な判断だということになる。
だが……それを聞いても尚、私の心はまだ揺れていた。
「お姉さまは………
「他に解決の手段が無い以上はな………」
お姉さまはコホンと咳き込みながら、閉じた本を机に置いた。
「だが、私としてもフランが苦しまない方法を探したい。身内が苦しむのはもう、見たくないからな……」
「お姉さま………」
「私は、お前に謝らねばならない………すまなかった………」
そう言いながら、お姉さまは目を閉じて静かに頭を下げる。その光景に、胸を殴られたような痛みが走った。
「どうして謝るの……?」
「………お前を苦しめていたからだ。覚えているのだろう? 私が蔑ろにしてしまっていたこと……」
「……それは、お姉さまのせいなんかじゃない………」
一呼吸置いてから、私は答えた。
ぼんやりとだが、幼少期の記憶は残っている。
お姉さまを初めて見たときに抱いたのは、「白くて綺麗」という印象だった。
お母さま達にしても客人(だったと思う)にしても、吸血鬼は夜闇のような黒というイメージを抱いていた為に、彼らと比べて一際異質な姉が珍しかったのだろう。
あの真っ白な翼に惹かれたのか、私はよく抱きついていた。もふもふとした、あの柔らかさは今でも覚えている。
………出来ることなら、またやってみたい。
とにかく、幼き頃の私にとってお姉さまは強く興味を惹かれる存在だった。ありきたりな吸血鬼のような姿ではなく、周りとは違った特別な姿で生まれてきた彼女が羨ましいとさえ思っていた。
だが、記憶の中のお姉さまはいつも孤独だった。
微笑んだ顔など、いまのいままで一度も見たことがない。ほとんど無表情だったというべきか。
しかし、その無表情から染み出す疎外感は隠せていなかった。
あの何かを疎むような目は、いまでも覚えている。だが、実際は違う。
彼女は
いつも近づく度に、私を拒否するような目を向けていた。しかし、それもやはり違った。
彼女は
最近は滅多に訪れることはないのだが、昔はよく客人がこの館を訪れていた。大方、私の出生を祝うことを目的とした催しがあったのだろう。
その客人達が訪れる度に、姉はいつも怯えた目をしていた。
当時の私は今よりずっと幼かった為に、正確な月日は覚えていない。
だが、客がいた部屋から逃がれるように……脚を引きずるようによろけながら自分の部屋へ向かっていた姉の姿を覚えている。
何を思ったのか、私はそれを追いかけた。
普段は几帳面なはずの姉が、ドアを閉めることさえ忘れていた。私がそのドアの隙間を覗いてみると、こちらに背を向けたまましゃがみ込む姉の姿が映る。
その様子を眺めながらゆっくりと距離を縮めてみるも、私に気づく気配はない。
徐々に近づいていくうちに、何かを必死に腕に巻いていたのが分かった。何故だか呼吸が乱れており、肩を大きく上下させる様子が見て取れる。
一歩、二歩と小さい歩幅で少しずつ距離を縮めていき、そのまま手が届く距離まで詰め寄った時だった。
私は「何をしてるの?」と聞いた。
私の声が響いた瞬間、お姉さまは酷く驚きながら咄嗟に腕を背に隠した。
『……ッハァ……ハァ………何故ここに……』
荒れる息を整え、眉間にキツく
『何をしてるの?』
もう一度同じ質問をしてみる。
そのまま私は返答を待った。
しかし彼女は何も言わない。無言で互いを見据える中、姉が息を切らす音だけが部屋に流れていく。
そして、お姉さまは私を無視するように何も言わないまま部屋の外へと出ていった。
『何か聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか』
なんとなく、私はそんな気分になった。
そんな中、一人取り残された部屋で私が見つけたのは、乱雑に引き千切られた包帯の切れ端。
その真っ白な布地は赤茶色の染みが広がっており、床に僅かに出来た同色の水溜まりから、その色を吸い上げていた。
当時の私は、それが何なのか……お姉さまが其処で何をしていたのか分からなかった。
だが、いまになって思い返してみれば分かる。
彼女は左手首から先を、包帯で包みこませていた時期があった。
左手を包んだ真っ白な包帯は、いつも手首の辺りが紅く滲んでおり、彼女はいつもその手を隠すように生活していた。
お姉さまは、あの客人達に手首を斬り落とされたのだ。
姉は切断された手を包帯で縛ってくっ付けることで、その断面を癒着させようとしていた。吸血鬼の治癒力ならば、それも不可能ではない。
その包帯には角ばった部分があったので、恐らく板に巻き付ける形で固定していたのだろう。
何故、お姉さまはこんな過酷な仕打ちを受けていたのか。
思い当たる理由は1つしかない。
悪魔と大きくかけ離れた、天使を彷彿とさせるあの姿だ。客人の吸血鬼には、お姉さまがただ異端の存在にしか見えなかったのだろう。悪魔にとって、最も忌避すべき姿が其処にあったのだから。
それに比べて、私は吸血鬼として何ら変哲のない姿を生まれ持った。そして私は、あの客人達から虐げられたことなど無く、やたらと持て
つまり、私とフィル姉さまは正反対の境遇にあったのだ。
「お姉さまは何も悪くない………」
「…………」
頭を下げる姉を前にして、私はそれだけ言うのが精一杯だった。
何か罪を犯したわけでも禁忌に触れたわけでもない。だが、そんなものなど関係ないと言わんばかりに、お姉さまはただ暴力に跪かされるという理不尽な現実をその目に突きつけられていた。
その横で私がそんな事実を知ることもなく、ただのうのうと日々を送っていたとあらば、私に憎悪を向けるのは仕方がないことだった。
いや、寧ろ当然だった。
何故なら、彼女には
私達は決して償い切れない罪を犯した。
どれだけ理屈を並べようが、お姉さまの生涯を狂わせたのは私達なのだ──
そこまで考えた時、ある疑問が脳裏をよぎった。
「お姉さまは………吸血鬼の歴史をどれくらい知ってるの?」
「…………?」
勿論、全てではないが私は吸血鬼の歴史は大方学んできた。その為、正直その内容に興味はない。
私が知りたかったのは、フィル姉さまが歴史について
「急にどうした……」
「いいから、知ってる範囲で教えて」
「………大雑把にしか話せないが」
「それでも構わない」
「………分かった」
半ば無理矢理話をもっていったが、お姉さまの意識をずらすことには成功した。何処から話そうか悩む素ぶりを見せる姉の言葉を私は待った。
「取り敢えず、簡単に話そう。まず、スカーレット家は代々
彼女の声に頷く素ぶりを見せ、続きを話すように促す。それに応えるように、お姉さまは再び口を開いた。
「父上達の代になった頃、皇家では継承者争いが起きた。この時、スカーレット家は継承者候補の一人についたが、その継承者が気に食わなかった
「…………」
……違う。
………やはり違った。
お姉さまは、お母さま達から正確な歴史を教わっていない。
戦が起こり、それに敗れた吸血鬼が魔界から追放されるという話の流れ自体は合っているのだが、スカーレット家が蜂起した肝心の理由が違ったのだ。
そもそも継承者争いなど起こっていない。
スカーレット家は、
『嘆きの揺り籠』と呼ばれたあの事件も………
流刑とは、単に皇に反逆した罪で下されただけの裁きではないのだ。
「それで………反逆者達は流刑だけで済んだの……?」
「いや………この世界へと流された結果、吸血鬼は日の下で動くことが出来なくなった。追放される間際、皇に刃向かった吸血鬼は呪いをかけられたのだ。そして、その呪いは血を引く私達にもかかっている……」
「…………」
──この点は、特に事実と相違は無いか……
当然、流刑だけで済まなかったのは知っている。
いまのところ、お姉さまが教わった部分に偽りがあるのは、蜂起した理由くらいか………
吸血鬼の弱点が日光とされる理由は、コレだ。
本来の吸血鬼……魔界にいる吸血鬼は、このような弱点は持たない。人間の間では、吸血鬼は日光に弱いとされる考えが主流であるが、一部の人間はそれを否定する。
吸血鬼の弱点に関する議論は、人間の歴史の中で幾度となく繰り広げられてきた。それはいまでも続いているようで、宗派によって支持する考えが異なるという形にあるようだ。
コレは恐らく、魔界側の吸血鬼と流刑に処された吸血鬼の特徴が混同された為だろう。前者に日光は効かないが、後者には脅威となる。
それらのイメージが混ざり合って受け継がれた結果、
──そこまで思慮を巡らせた時だった。
「レミリア………」
「……?」
「父上達は確かに戦いに破れ、その権威も今や失墜したも同然だ………だが、スカーレット家の誇りだけは忘れるな………」
「………は?」
姉の声に私は耳を疑った。
何故、そんな言葉が姉の口から出るのか………
「お前は知らないだろうが、私達には伯父がいてな………奴はよく語っていたよ、スカーレット家の歴史を」
「…………」
「アイツの語るスカーレット家の話に、私はすっかり魅了されてしまったもんだ。強く………そして、勇ましい父上達の姿に私は憧れていた。私もそんな風になりたいと願った」
いつも固い表情の姉が、少し悲し気な……それでいて、和らいだ顔でいることに少し驚いた。
しかし、私が最も驚いているのはそこではない。
………彼女は立ち上がると、ドアの方へと向かい、歩きながら語り始めた。
「だが、こんな身体で生まれてきた私だ。私に威厳を取り戻せるとは思えない。現に、私は自分の力で抗おうとすることさえ出来なかった………だが、お前は違う」
お姉さまはドアノブに手を掛け、扉を押し開けた。
「お前は私と違って、立派な吸血鬼だ。私なんかでは成せないことも、お前なら出来る。その手で運命を変えることだって………真にスカーレットの威厳を取り戻せるのは、お前だけだ。だから………」
──違う……
「スカーレット家の誇り………絶対に忘れるな」
ほんの僅かの間、この空間に響いたフィル姉さまの声は、やがてドアの閉まる音にかき消された。
──違う……
私はお姉さまの声を、ひたすら否定し続けた。
──違う………
その一方で、私は確信したことがあった。
お姉さまに、
私や家族と距離を置いていたのは、そのことを覚えているからだと思っていた。薄々気付いてはいたのだが、こうして言葉を交わしてみた結果、その予想は確かなものへと変わった。
記憶が無いのは、ある意味では幸いだったと言うべきだろうか。
だが、それで我々の罪が消えるわけではない。
真実を知っていながら、それを隠し続ける私も同罪だ。
しかし、お姉さまに伝えることはなく、私は自分の感情を優先し続けてきた。
そして、いまも………
「…………」
…………怖いのだ。
この事実を知ったとき、彼女がどうなるか………
それを知れば、彼女はきっと自分達の前から姿を消してしまうだろう。
そして、それが今生の別れとなるのは必然だった。
だが、あの人はこの世でたった一人の姉なのだ。
その姉との別れを簡単に受け入れられるはずがない。
これまでは溝を超えられず、気持ちを通じ合わせることが出来ないでいた。だが、フランが来てから変わり始めた。
ようやく溝が埋まり始めたというのに、別れたくなんかない。
もっと一緒にいたい。
もっと言葉を交わしたい。
私だけではない。フランにとっても、お姉さまは必要な存在のはずなのだ………
「フラン………」
あの時………お姉さまがフランを受け入れられたのは、かつての自分の姿を重ねたからだろう。
あの客人達から虐げられてきた自分の姿を……
お姉さまは、どれだけ痛めつけられようが決してお母さま達に言おうとはしなかった。例え、手首を斬り落とされようと彼女はそれを隠し続けた。
お姉さまがいつも長袖の服だけを着用し、スカートの下にまでズボンを履いていたのは、身体の痣を隠す為だったと思う。
私が服の上から腕に触れただけで痛がる素振りを見せたことがあったのだが、その理由はそういうことなのだろう。
お姉さまは自分の負った傷を隠すことに必死だった。
そして、私もその事実を知りながら口に出すことはなかった。この件に関しても、私は自分の感情を優先させたのだ。
必死に傷を隠そうとする事実を口外すれば、どうなるか………ただでさえ深い溝を築く姉が、更に私と距離を置くのではないかと思うと口に出せなかった。
傷を隠すのに、どういった意図があったのかは分からない。だが、姉は自分から助けを求めることが出来ないのだということだけは分かった。
お姉さまの過去を明かすことも、彼女の隠そうとする傷を明らかにすることも私には出来ない。
だからこそ、私はお姉さまを守らねばならないのだ。
私自身幼かったとはいえ、ただ痛みに怯え続ける姉を救うことが出来なかった。
…………私はもう、そんな光景は見たくない。
この先、お姉さまがそうした目に遭うことがあれば、何としてでも救い出してみせると私は誓った。
それが、スカーレット家の者として私に出来るかもしれない唯一の償いなのだから………
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □
「本当に連れて行くの………?」
「何度もそう言ったでしょう………コレは私達の為でもフランの為でもあるのです」
不安気に問い掛けるレミリアに、母上は疲れのこもった声でそう答えた。
「そうか………」
「フィル、残念だが………フランには地下牢にいてもらうしかない」
「…………」
私が溜息混じりに呟いた声に、父上は言葉を覆い被せる。
私達は、フランの身柄を地下牢に送り届ける最中だった。
──地下牢
私やレミリアも地下に監禁されている身ではあるが、一定の自由は認められており、" 牢 " のように身柄を著しく制限されているワケではない。
だが、フランはこれから私達以上に拘束された生活を送らねばならない。
「幽閉」以外に、狂気を解決する術を見つけられなかったことに関して私は少なからず自責の念を覚えていた。
狂気の性質上、コレが事実上の最善策であることは認知出来ても、心の何処かでは納得しきれていなかったのだ。
──すまない………
薄暗い廊下をひたすら進み、地下のフロアよりもさらに下へ続く階段を降りていく。レミリアと母上達との会話を最後に、誰一人として喋らなかった。
その間、異質とも言えるほどの静けさが聴覚を支配していた。
そのまま無言で歩んでいるうちに、とある一室のドアの前に着いた。
大した理由があったワケではないが、私はこの部屋を訪れたことがある。仕切りを跨いで実質二部屋分の広さがあり、内装自体は特に変わりのない部屋だった。
それと対照的に、異質さを際立たせるのはこの鋼鉄のドアだ。
見た目からして、圧倒的な硬度を誇っているのが分かる。私では愚か、父上が全力でぶち当たっても破けないのではないだろうか。
ソッと手を触れてみると、その手の平から鋼鉄特有の冷たさと硬さが神経を通して伝わってくる。
これなら、仮にフランの狂気が暴走しても簡単に壊れることはないだろう。
視界の隅を、大きな影が占める。
見上げてみると、父上がドアに手をかざす様子がそこにあった。
彼の手が紅く光ったかと思うと、そのドアに同じ光の魔法陣が浮かび上がる。所々、私には読めない式句が刻印されており、妖しく輝いていた。
そのドアの灰色と、血のように紅い魔法陣の光が色彩のギャップを生み出し、視覚に強烈に訴えかけてくる。
その光の強さに、思わず私は目を細めた。
「………解錠」
父上がそう唱えると、鋼鉄の扉は鼓膜に響く程の重々しい音を響かせながらゆっくりと開いていく。
何かの怪物が大きく口を開いて待ち受けるように、ドアの奥の暗闇が少しずつ姿を見せ始めていた。
それが目に入ったのか、母上の腕の中にいたフランが怖気付く様子を見せる。母上の服をギュッと握り締め、僅かに身体が震えていた。
「ッ………」
その光景に胸が痛くなる。
耐え難い苦痛の日々を生き抜いた挙句の果てがコレだ。納得出来るはずがなかった。
もし、他に狂気を解決出来る方法を見つけられていれば、目の前の光景は無くて済んだのだろうか。
そうした
父上が部屋の中に入り、指を鳴らす。
すると、暗闇の中に照明が浮かび上がり、部屋全体を照らし始めた。先程のような暗闇は、既に面影がない。
部屋の中には、大人1人が寝れる大きさのベッドやテーブル、沢山の人形やぬいぐるみが置かれてあった。
父上達が、フランの為に備えていたようだ。
「さあ、フラン。こっちに」
父上の声を合図に、フランを
「………フラン、良い子だから降りてください」
「…………」
母上はそう言ったが、当の本人は嫌がる様子を見せた。意地でも離すものかと、握る手に更に力がこもる。
「フラン」
母上が再度呼び掛けるも、フランはそれに応える様子を見せない。母上は一つ溜息を
「大丈夫。貴女の狂気が消えれば、また一緒に過ごせますから。ほんの少しの間です。毎日、この部屋に必ず来ますから。どうか、我慢してください」
半ば、無理矢理フランを引き剥がして床に立たせる。フランは既に表情を歪ませており、目の縁に溜まった水滴が光っていた。
「またね」
最後にフランの頭を撫でると、母上は振り向くことなくドアの方へと戻っていく。
その様子を、フランはただ眺めるだけだった。
いや、眺めるしか出来なかったのだ。
本当はその背を追いかけたくても、追いかけてはいけないというブレーキが幼心にかかっているのだろう。
──本当に、これしかなかったのだろうか……
「フラン!!」
突如、レミリアが酷く狼狽した様子でフランに駆け寄り、屈んだ体勢でその背に手を回して身体全体で抱き締めた。
当のフランにとっても予想外だったようで、目をパチクリと瞬かせる。
「毎日、会いに来るわ………そして、いつか………絶対、一緒に過ごしましょう………」
語尾に近づくにつれて、声音が弱々しくなっていた。しゃくり上げる声に連れて、両肩が上下に震える。
部屋には、彼女の咽び泣く声だけが響いていた。
「レミリア………」
私はただ、その光景を眺めるだけだった。
私は自分の出来ることは最大限やったとは思う。
この2日間、就寝の時間も全て、狂気についての文献を漁ることに費やした。だが、その結果に納得しているかどうかは全くの別問題だ。
どうすれば、フランが苦しまずに解決出来るのか。
レミリアの泣く声が、胸に鋭く刺さる。
自分の拳を握る手に、力が強くこもる。
私はもう、レミリアやフランのあんな表情はもう見たくない。
私はまた、狂気を解決する方法を探そうと決意した。
「必ず、見つけ出してやるからな……」
最後に、フランの顔を一目見ようとした時だった。
私は強い違和感を感じ取った。
レミリアが抱き締めるフランの目には、一切の光が宿っていない。さらに、真っ黒な瞳孔が大きく開いていおり、虚空をただボーッと眺めているだけだった。
まるで生気が感じられない、言うなれば死人のような目をしていた。
──アレは……
その瞳を見ていると、一筋もの光が差さない深淵を覗き込んでいるようで、或いはその深淵がこちらを覗き込んでいるようで──
背筋には、冷たい何かがゆっくりと流れていく。
僅かに開いた口から鋭い牙が見えたとき、私の感じた違和感は嫌な予感へと変わり、そして危険の確信へと変わった。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □
「レミリアァァァァァァァァッ!!!!!」
私は叫び声を上げてその場から大きく跳び上がり、レミリアを蹴り飛ばしてフランから引き剥がす。
レミリアの悲鳴、蹴り飛ばした音、左脚に感じた反動………それらが虚空に消えないうちに、首が一気に絞まる感覚に襲われた。
「グッ………!!」
フランは宙に浮きながら、私の首を絞め上げていた。ぼやけつつある視界に映るフランの紅い目は、どす黒く染まり、大きく開いた瞳孔がこちらを覗きこむ。
──やはり……狂気に………!
私の予感は、最悪の形で的中した。
周囲から怒号や悲鳴が響き渡ったが、最早何を言っているかは分からない。
というのも、既に私の意識が薄れてきていたからだ。
ほんの2歳の子供がなんという馬鹿力だろうか。爪が皮にキツく食い込み、気管が締めつけられる。
更にはミシミシと首の骨が軋む音が、ハッキリと耳に届いていた。
息が出来ない……
首が折れ……
頭に死の文字がよぎった瞬間、身体が一瞬の浮遊感に襲われる。フランが私を放り投げたことに気付いたのは、後頭部と背中に凄まじい衝撃が走った後だった。
「がふッ………」
壁に叩きつけられた反動が一瞬で全身に広がる。
そして瞬く間も無く、何かが急速にこみ上げてくる感覚が喉を走り、意思に反して紅い液体を吐き出してしまった。
吐き出した血で胸元のスカーフやカッターシャツが紅く染まり、肌が生温かく濡れていく感覚が浸透する。
壁に背を持たれたまま、重力に任せて身体がずり下がっていくが、最早自分で立ち上がる力は残っていなかった。
しかし、事態はそれでは終わらない。
「ッ………!!」
視界が影で覆い尽くされたかと思えば、喉に刃物が刺さったような鋭い痛みが走り、声にならない声が漏れる。
フランが鋭利な牙を首に食い込ませていたのだ。
その事実に冷や汗が流れ、背中にゾワリとした感覚が走る。
「ぁッ………ぁッ……」
ミチミチ………と自分の喉から聴こえる嫌な音が、肉が限界まで引き伸ばされている事実を訴える。
そして──
バリッ
喉を食い破られる音が虚しく響いた。
いま喉を駆け巡っているのは、最早痛みではなく熱を帯びたそれだった。喉だけを火炙りにされたような感覚が、じんわりと其処に漂い続ける。
抉り出された喉の肉が外気に触れ、ヒリヒリとした痛覚が神経を走り続けた。
「フィル姉さま!!」
視界が徐々にぼやけていく中、レミリアの悲鳴にも似た叫び声が聴こえてくる。
「来る……な……レミ…リ……ア……」
自らの声が、食い破られた喉から漏れているのが自分でも分かった。
こちらに向かって駆けてくるレミリアの姿が視界の隅に映る。それを最後に、私の目は何も見えなくなった。