生命の樹が神の街に根付くのは間違っているだろうか 作:ねをんゆう
落ちる、落ちる、
何も見えず、何も聞こえず、ただ自分が落ちていく感覚だけが感じられる
ただそれだけが怖かった
こんな感覚を味わったことなどない
こんな経験をしたこともない
初めてのことは何事も恐ろしいもので、
その初めてが落下だと言うならば声も出せないほど竦み上がっても仕方ない
……いや、もしかしたら既に叫んでいるのかもしれない
いつの頃からだったか……
生まれつき悪かった視力は仕方ないとして、
ある日突然頭部に走った衝撃と共に私は聴力すらも鈍くなってしまった
それこそ耳に機械を取り付けても大声で話して貰わなければいけないくらいに
それまでも眼鏡を付けても少し先までしかみえなかったのに、あの瞬間に私の世界が更に狭まってしまったことは間違いようのない事実である
文字なんて殆ど知らない
言葉だって上手に伝えられているのかも分からない
誰かとまともなコミュニケーションを取る機会すらほとんど無かった
そんな私の主な情報源は、
1日数時間だけ許されたテレビと、
夜しか見られない窓の外、
そして私の病室を休憩所代わりに使っていた声の大きい看護師さん達だ
私が余計なことを言わないと分かっているからか、
聞こえていないと思っているからか、
"気持ちが悪い"と、
"早く死んでしまえ"と、
機嫌が悪くなれば決まって私の元へとやって来て、
そんなことを何度も言って帰っていく看護師達
時々やってくるお医者様にそのことを伝えたにも関わらず、
結局最後の最期まで変わらなかったのは、
やはり私の言葉が伝わっていなかったのか、
それとも私の言葉に意味が無かったからなのか
そんなことを思い出してしまえば、
助けを求めるように、
救いを請うように、
誰かに掴んで欲しいと、
こうして誰にも掴んで貰ったことのない右手を掲げる行為すら馬鹿らしくなってきてしまい
恐怖と不安を失望と諦観が塗り潰していく
……諦めなんてとうの昔にしていた筈なのに
それでもこうして救いを求めてしまったのは、
やはり私が未だに諦め切れていないからなのだろうか
普通の筈の生活を
普通の筈の身体を
愛してくれる人を
愛してもいい人を
人の手の温もりを
私の手の行き先を
自然と涙が溢れてくる
力なく降ろした右手が左手に抱え込むように握り締められる
喉が収縮し、胸の中心が痛みを訴える
そんな自分を慰める様に身体を丸め、
自分で自分を抱き締める
けれど抱き締められるのは自分の胸の中だけで、
私の頭や背中はその冷たさから逃れられることはない
冷たさは容赦なく私を外側から蝕んでくる
寂しい、悲しい、苦しい、辛い、
こんなことは何度も思ったけれど、
今日のそれは一段と激しいものだった
人が人を慰める
人が人を愛する
人が人を抱き締める
テレビの中では何度も聞いた
窓から見える世界でも何度か見られた
けれどそれを体験したことはない
だから外の世界に希望があると信じられたし、
自分がそこへ行けないことを悲しく思った
でも今考えれば、
もしかしたらそれすら自分の作り出した都合のいい幻想だったのかもしれない
人は人を愛さないし、
人は人を慰めない、
抱き締めたりなんかしないし、
誰もが誰もを憎しみ合っているかもしれない
だって他ならぬ自分自身にその機会が無かったのだから
むしろそちらの方が現実味がある
幸福の約束とされる結婚をした筈の両親は互いに憎み合い、
幸福の結果とされる実の子に対して彼等はやはり憎悪を抱いた
救いの象徴であるお医者様は機械の様に心が無く、
優しさの象徴であるはずの看護師達は常に自分を罵倒し続けた
本当にこの世界に愛などあるのだろうか?
愛とは人が作り出した都合のいい産物なのではないだろうか?
……もしそうならば、この世界に対する未練が本当に1つも無くなってしまうではないか
落ちる、落ちる、闇の底へ
一歩も引き返すことなど許されず、
ただただ深い闇へと身を浸す
そうして聞こえてくる誰かの悲鳴
悍ましい液体音
吐きそうになるほどにむせ返る金属臭
……地獄
いつか何かの番組で聞いたその光景に似ていた
罪を犯した人間が辿り着く先であると
そして何度も何度も言われた覚えがある
『地獄に落ちてしまえ』と
これほどまで苦しんでも、
どうやら神様はまだ許してくれないのだという
本当にこの世界に救いなど無いということなのだろう
フツフツと自分の胸の中に熱いものが湧き上がる
熱い癖に妙に刺々しく、
湧き上がるほどに頭の中が白くなる
なにもかも壊したくなって、
なにもかも許せなくなる
あの闇底に沈むにつれて、
その熱は勢いを増して行く
……ああ、これが憎しみなんだ
『愛などない』
『世界には憎しみしかない』
『人は憎しみ合うことしかできない』
そんな思考がこうして自分の身で証明されてしまった
結局自分もそんな彼等と同じだった
自分だって憎しみに溺れるのだ
この抑え切れない黒い感情に身を任せてしまえば、
どれだけ楽なのだろうか
何も考えず、
何もかもをめちゃくちゃにする
きっと凄く楽しいに違いない
きっと凄くスッキリするに違いない
そうして憎しみに身を任せ、
心を黒く染め上げ、
頭を白に染め上げようとした
時……
抱き抱えていた胸の内から、
今まで一度も体感したことも無いような温かい光が溢れ出した。
その発生源である光の球体は私を引き摺り込もうとする冷たい闇を撃ち払い、何も見えなかった筈の世界を明るく照らし出し、誰にも抱かれることのなかった私の体を枝の様なもので優しく抱き留める。
勢いよく上層へと伸びた光の枝はこの体を容易に持ち上げ、グングンと落ちる筈だった私を引き上げる。
その光がどうにも暖かくて、
優しくて、
嬉しくて、
眩しいほどに真っ白なその世界へと引き込まれる寸前まで、まるで母の腕の中に包まれる赤子のように、私はそれにずっと縋り付いていた。