LET JUSTICE BE DONE, THOUGH THE HEAVENS FALL. 作:うんちーまん
《────────火星第一皇女、アセイラム・ヴァース・アリューシア姫の親善訪問を3日後に控え、各地では歓迎の機運とともに緊張も高まりつつあります。地球と火星の緊張緩和に向けた今回の対外訪問。地球に火星人が訪れるのは亡命希望者を除いて15年ぶりの事で、火星独立以来、ヴァース皇族では初の訪問となります。これに対して、各地で訪問に反対するデモが行われており、新国会議事堂には訪問に反対する人々が約2000人集まりました。
訪問予定地に指定されたここ、新芦原市では5日前、連合軍基地に手作りロケット弾16発が打ち込まれる事件が発生しており、警戒が強まっています。また、反火星主義を唱える過激派団体の「Erinyes」が、訪問を中止しない場合新芦原市をクレーターにする、という旨の犯行声明を出しており、今後政府は訪問の中止も視野に入れて交渉に臨みたいとしています。
また政府は、交渉の際に火星騎士は揚陸城ごと地球に降下してくる可能性があり、交渉当日、指定地域から半径30キロ圏内に住んでいる住民にシェルターに退避、もしくは市外に避難する事を呼びかけています────────》
ボウルに卵と牛乳、塩を入れ、泡立て器で溶きほぐす。空気を閉じ込めるようにかき混ぜることが大切だ。卵黄と卵白をしっかり混ぜ合わせることで、色のキレイなスクランブルエッグになるからだ。
中火にしてから、フライパンにバターを入れて溶かしていく。十分に溶けたら弱火にしてから先程の卵液をフライパンに流し入れる。しばらくすると、卵の底が薄く固まってくるので、ヘラで底からすくい上げるように優しく返しながら混ぜていく。またしばらくすると底が硬くなってくるので返す。これらを数回繰り返し、十分だと満足したところで火を消した。
皿にスクランブルエッグを盛り、白米のよそわれた茶碗と味噌汁の入ったお椀をリビングの机に配膳する。
そこでやっと
時計を見る。6時50分。まだ学校に行く時間ではない。
それに、やらなければならない事はこれで終わりではない。
この後は、晩御飯の仕込みをして食洗機に洗い物を叩き込んでから洗濯機を回し、洗濯物を取り込み、戸締りに無頓着な同居人に代わって窓の戸締りをしなければならない。休んでいる暇などないのだ。
伊奈帆の体は忙しく狭い住居の中を動き回る。流しにあった洗い物を食洗機に放り込み、スイッチを押す。さらに洗濯機を回してから、取り込んだ洗濯物をソファーの上に放り投げると、床にばら撒かれた書類を発見し、纏めて机に置く。恐らく彼の姉の物だろうが十中八九後で枚数が足りないと騒ぎ出すので、漏れがない事も確認しておく。
そろそろ姉を起こさなければ、遅刻してしまうだろう。もう1人の方はとっくに家を出ているというのに、実に悩ましかった。
そこで今日がゴミ回収の日だった事を思い出し、キッチンに向かう。ゴミを纏めて玄関に放り投げる。
朝食はとっくに済ませていたので、手持ち無沙汰になった。学校へのバスもまだ出ていない。
つけっぱなしだったラジオを消し、休憩がてらにニュースを確認しようと
携帯端末のロックを解除してニュースを確認する。
──火星のプリンセス訪問まであと3日──活字を目で追う。
15年前に起きた地球、火星間の戦争は地球人の心に憎しみと恐怖を植え付けた。先の戦争の末期に起きた
今回の火星の姫様の親善訪問の際に、テロが起こるであろうことは想像に難くない。彼らは姫の命でもって復讐を成し遂げようとするだろう。
火星国家/通称ヴァース帝国は、国家統治に時代錯誤とも言える君主制を採用している。未だに頂点に皇帝が座し、貴族が先陣を切って戦い、平民が労働に勤しむ文化が残っている──というより復元されているのだ。
仮にテロが成功した場合、彼らは仇討ちを大義に報復を起こす。地球に降下し、血で血を洗う大戦争に発展するだろう。連中はただでさえ資源に乏しい火星に住んでいて、更に独立から1世紀が経ち火星開拓の熱意もすっかり冷めた今、地球の豊かな資源は芳醇な蜜同然だろう。
そうなれば戦地に駆り出されるのは自分達学徒だ。先の戦争で大人は死に、兵力といえばまだ年端もいかない少年少女しかいない。先の大戦で一方的に蹂躙された地球とは違い、火星はまだ本国に残してきた戦力と、
だが理不尽に使い捨てられるつもりはなかった。そのためにこの10年間準備をしてきたのだ。
自らの幸せを奪う者がいるのなら、近しい者を殺そうとする者がいるのなら、誰であろうと殺す。しんと凍てついた思惟の奥底から激烈な感情が染み出し、殺意にも似た感覚が全身を支配する。だがそれは表出することなく皮膚一枚のところで押し込められ、暗くなった携帯端末の画面に映る顔はいつもと変わらず平静を保ったままだった。
「ナオくんおはよう」
背後からあくび混じりに発された声で、伊奈帆は思考を打ち切った。
「おはよ」
振り返るとパジャマ姿の、我が家の「
「……だし巻き卵とスクランブルエッグは、どっちがよかったかな?」
彼女の緩んだ顔の瞳の奥に、画面が暗くなった携帯端末を持って微動だにしない弟を案ずる感情と、不審の
「んー?だし巻き卵かなー」
「残念、今日はスクランブルエッグ」
伊奈帆は内心の動揺などおくびにも出さず、食卓の前に腰掛けた姉のカップにコーヒーを注ぎ、エプロンを外して学校に向かう用意をする。
するともう一人の同居人の不在に気がついた姉が、
「あれ、孝一郎さんは?」
「あの人ならとっくに家を出たよ。それよりいいの?確か今日は訓練教官シフトだったと思うんだけど?」
姉の顔がさっと青くなった。目にも留まらぬ動作で机の携帯端末を掴み、時刻を確認する。
「なんで起こしてくれなかったのよぉ!訓練シフトの時は起こしてっていったじゃん!!」と机を叩いて嘆いた。
自分の怠慢を棚に上げるところが実に姉らしい。そもそも社会人たるもの、自己管理は徹底するものだというのが伊奈帆の考えだった。
「2時間も前から何度も起こしてたよ、
「ちょっと待ってよ!」
通学鞄を背負うと、後ろから引き止める声を流して玄関に向かう。
「大丈夫、次の更に次のバスでも走ればギリギリ間に合うから。経験則として参考までに。あ、洗い物は流しによろしく」
それじゃ、と手に持ったゴミ袋をくるりと回すとドアを閉めた。薄情者ぉ~、と姉の声が聞こえた気がするけれど気にしない。
外に出ると、寒気が肌を突いた。季節はもう冬だ。
伊奈帆は寮のエレベーターに向かう。この寮は完成から半世紀以上経っていて、全体的に老朽化が著しい。地上4階から下へ降りるのに50秒もかかる様なエレベーターを、無能以外の言葉で形容するのは難しい。更にワイヤーが余りにも不協和音を奏でるので、乗るのにはちょっとした勇気がいる。
とはいえ、半世紀もの間火星と冷戦を続け、軍備拡張にあらゆるものを費やして来たUFEに、このような贅沢に金をかける余裕はないのだろう。それに、10年近くてここに住んでいる伊奈帆にとってそれは慣れたものだった。
エレベーターを降りるとゴミ集積所に袋を放り投げ、寮の横に併設しているバス停に向かう。途中、門の隣に設置されている文字の刻まれた金属プレートを横目に、通りすぎる。
「地球連合軍第二新芦原寮」
ふと、そのくすみに何故か幼少期の一場面を重ね合わせた伊奈帆は、再びあの殺意の熱が湧き上がって来たのを感じた。それは伊奈帆を無意味に奮い立たせ、理非の無い怪物に変貌させる狂気だった。
その記憶が焦点を結ぶ前にその思考を振り払った。
時間が早いためか、バス停には人がいなかった。バスが来るまでの時間を、先程見そびれたニュースを見て過ごそうと、体に馴染んだ動作で携帯端末を取り出す。
「ガニメデの食糧プラント設置ラインを更新」「国民のシェルター普及率が30%止まり」「火星への支援物資輸送船が行方不明」などの見出しが踊っている画面を眺めながら、伊奈帆は先程心にできた空洞を塞ごうと過去に思考の根を下ろし、気を紛らわすことに努めた。
物心ついた頃に見た最初の風景はヘヴンズフォール後の九州だった。孤児院の窓から見えるずらりと立ち並んだ闇市の店。野犬がうろつき周り、夜を越せなかった浮浪者が死体となって路地に横たわっている。そこは最も戦争で被害を受けた地域だった。
誰の助けも得られず、全てに怯えて生きなければならない日々。生き残るためには自らの手でその術を編み出さねばならない。だがまだ体が小さく、小柄な自分はあまりにも非力だった。
そこで伊奈帆が手にした力は、知恵で勝ち残ることだった。如何なる存在にも弱点は存在する。そこを突いて倒してしまえばいい。その論理を幼いながらも理解した伊奈帆は、同年代の少年とは一線を画す存在となった。非情な世界が少年の眠っていた才能を開花させ、理不尽から近しい者を守るためには知恵を要することを本能的に理解させた。
歳を重ねるごとに少年と世界との戦いは苛烈になっていき、時には流血を伴うこともあった。
そんな貧困の最たる場所でUFEの兵士に引き取られ、姉と二人で新芦原にやって来たのは5歳の頃だった。
そこでやっと二人は「真っ当な人生」を得ることができた。周りに怯えることなく平穏に生きる場所があることを知ったのだ。
その生活を存分満喫した姉は、今まで守られ続けて来た分、弟の自分を幸せにしようとUFEの士官学校へと進学した。自らの人生を棒に振って軍人になったのだ。
姉であればもっといい人生があったはずだった。「真っ当に」進学して、「真っ当に」就職して、「真っ当に」結婚して。全ては戦争のせいだった。戦争が無ければ姉は軍人になって武器を手に取ることもなかった。
自分が姉と同じ士官学校に進学したのも、そのことに対する引け目を感じたからだった。自分が姉の保護なしに生きていけることを証明したかったのかもしれない。
だがそれ以上に、戦争によって家族の人生を理不尽に曲げられたことが許せなかった。自分なら如何なる理不尽であろうと許容できるだろうが、姉は違う。気丈に振る舞ってはいるが、その内面にある脆さを理解できないほど自分は腑抜けはていない。汚い大人に酷使され、いずれ使い潰される様が目に浮かんだ。
戦争さえなければ。
力が欲しかった。理不尽に抗う力が。それさえあればいくらでも戦える、そして大切なものを守ることができる。
だから自分は士官学校に進学し、戦争の趨勢を左右できる立場を目指した。
世間は火星との協調を謳っているが伊奈帆の中には、いつか必ず再び戦争が起こるという静かな確信があった。彼が培って来た情報分析能力と彼の直感はそう告げていた。
その時のために、伊奈帆は牙を研ぎ続けているのだ。