その1
「いらっしゃい、ヒッキーくん」
「あ、はい……ど、どうも。お邪魔します」
「そんなに緊張しなくてもいいのよ? 自分の家だと思ってちょうだい。わたしのことも、むしろ遠慮なく、お義母さんって呼んでくれたって」
「ママ!」
結衣が叫ぶ。そうして目の前の女性をぐいぐいとキッチンに押し込むと、普段の彼女らしからぬ盛大な溜息を吐いた。
八幡は動けない。というか、状況に未だついていけていないというのが本音だ。彼の頭の中では斯様なモノローグが先程からグルグルと回り続けている。
比企谷八幡です。今現在、俺はガハマの家の玄関にいます。え? 何でいるかって? 俺もよく分かんねぇよ! 何でどうしてこうなった? 発端は何だ? 雪ノ下か? いや今回あいつ関係なかったわ。じゃあなんでだよ、おかしいだろ。こういう時の原因は雪ノ下だって相場が決まってる。相場が崩れたのか? 第二のリーマン・ショックでも起きたか? 失業率もうなぎのぼりで鯉の滝登りなんぞ目じゃないってか。鰻では所詮ドラゴン族にはなれんだろうから、FGDやLGDの素材に出来んので無駄だが。
「――ッキー、ヒッキー」
「お、おお。どうした?」
「いやどうしたはこっちのセリフだし。さっきから何か飛んでたよ?」
「あー……悪い。ちょっと現実が見えていなくてな」
「うん。うん? 何か違くない?」
「違わんぞ。俺は本来大晦日に外出するように体が出来ていないからな。だからこれは現実ではない。Q.E.D.iff」
「意味分かんないし」
はぁ、と先程とは違う溜息を吐く。こちらは彼の普段見慣れたもので、そんな彼女の姿を見たことで八幡は幾分か現実感を取り戻した。息を吐くと、改めて周囲を確認する。
紛うことなき他人の家であった。比企谷家ではなく、由比ヶ浜家であった。
「なあ、ガハマ」
「ん?」
「本当に大丈夫なんだろうな」
「大丈夫大丈夫。今日パパ帰ってこないって言ったじゃん」
「…………」
「どしたの?」
世間一般的にその大丈夫は自分の聞きたかった大丈夫じゃない。そんなことを全力で叫びたかったが、八幡は気力が足りなかったのか項垂れるだけで終わらせた。もう好きにしてくれ。そんなことを同時に思う。
「……で、何をすればいい?」
「んー。別に特別やることはないけど」
とりあえずは買い物かな。そう言って結衣は笑うと、先程追い払った母親に向かって改めて声を掛けた。
ことの発端は何だったのだろうか。それすらも八幡は既におぼろげである。ただ、既に部屋の掃除も済ませ後は新年を迎えるだけの状態になっていた彼に向かい、母親があっけらかんと言い放った一言は覚えていた。
「八幡、あんた何か用事ない?」
「は?」
曰く、比企谷家は小町が受験でピリピリしていることもあり、あまり大晦日に羽目を外すことを良しとしない。なので、せっかくだから息子は外で遊んでいてもらったほうが面倒がなくていいという話だ。
「高校生を夜中出歩かせようとするんじゃねぇよ……」
「流石に内容は聞くし、駄目だったら止めるよ。ただ、まあ、ほら、あれよ。何でか知らないし今も妄想じゃないかって疑ってるところはあるけど、あんたには彼女がいるでしょ?」
「少しは息子を信用してくれませんかね」
「……」
「なんだよ」
八幡の言葉に目を瞬かせた母親は、次の瞬間物凄くいい笑顔へと表情を変えた。こいつが自虐をせずにそんなことを言うなんて。口にはせず、そのことを噛み締めた彼女は、バシバシと彼の頭を叩くとごめんごめんと謝罪した。
「謝りながら頭引っ叩くんじゃねぇよ! そこは肩だろ」
「ああごめん。叩きやすかったからつい」
「息子の頭何だと思ってんの!?」
「小町の出涸らし?」
「何で出涸らしの方が先に出来ちゃってんだよ……いや否定はしないが」
「そこはしなさい」
「自分で言ったんじゃねぇか」
はぁ、と溜息を吐いた八幡は、それで何だったかと母親に問い掛けた。ああそうだったと手を叩いた彼女は、今日は家で騒げないので騒ぐなら別の場所でと彼に述べる。だから、何か用事があるなら引き止めないと言葉を続けた。
「別に元々騒ぐつもりもなかったし、小町のためだろ? 部屋に引きこもるくらい造作もない」
「いやあんた年中引きこもってるから」
ケラケラと笑った母親は、しかし表情を少しだけ真面目にする。ダラダラとする用に色々用意することもないから、食事も普通だけどいいのかと問うた。
別に構わないと彼は返す。何より二年前の自分の時もそうだったのだから、妹の時にとやかく言う資格などない。そういう考えだ。
「でも父さんは邪魔にならないようにどっか行ったわよ」
「それ小町に邪魔って言われたからとかじゃないよな?」
母親はそっと視線を逸らす。思春期はしょうがない、と諭すように言葉を紡いだので、まず間違いなく言われたのだろう。とはいえ、何となく小町がそう言った理由も察せられたので八幡は父親には同情しなかった。何かやって欲しいことあるかとかちょくちょく聞きに行ったんだろうな。はぁ、と彼は溜息を吐く。
「そんなわけで」
「だから俺は」
ぴろりん、と音が鳴る。言いかけた言葉を止め、置いてあったスマホを手に取ると、会話アプリのメッセージが。タップしてそれを表示すると、結衣からちょっとお願いがあるんだけどという文字が目に飛び込む。次いで、電話していい? というメッセージが続いた。
「……母さん」
「用事出来た?」
「まだ分からん」
「ぶふぅ!」
「何で吹いた」
「八幡が! 八幡が何か青春ドラマみたいなこと言いだした! は、ははははは!」
「うわぁ、特に用事もなく家を飛び出したくなったでござるぅ……」
『ごめんヒッキー。今大丈夫?』
「ああ。それで何だ頼み事って」
『あー、うん。えと』
今からうちに来れる? そう言って結衣は暫し沈黙をした。返事を待つという意味合いなのだろうが、言葉が言葉なために、何だか余計な妄想をしてしまいかねない何かがある。
勿論八幡は八幡なので、した。その後すぐにそれを否定、ネガティブな方向へと舵を切り、最終的に美人局でツボを購入するところまで行き着く。そうして気持ちを整えた後、どういう意味だと彼は問い返した。
『……実は、今パパがいなくて』
「はぁ……」
何でも用事で出掛けており本来ならば今日帰ってくるはずだった結衣の父親が、出先で大雪に遭い電車が動かず、帰宅が明日以降になるらしいと連絡があったのだとか。そんなわけで、流石にこれ以上二人だけだと心情的にも防犯的な意味でも心細いため、どうにかしなければと話していたらしい。
『で、ついポロッと、ヒッキー呼べないかなってあたしが』
「何言っちゃってくれてますか」
『しょ、しょうがないじゃん! 大掃除とかそういうので忙しくてあんまし話もしてなかったし……』
「いや一週間くらいしか経ってねぇだろ」
『そだっけ?』
「クリスマス終わってからだから、そんなもんじゃないか?」
そう言いながら、クリスマス以降碌に接してなかったことを今更ながら思い出した。普通の彼氏彼女ならば不満もダラダラ長文で出かねない。とはいえ、電話口の結衣はこれとは似て非なるものであるように思えるが。
それを踏まえて自分はどうだ、と八幡は思う。寂しいと思っていたのかとか、これで疎遠になるかもしれないとか。そういう感情があったのかといえば。
不思議と、そういうものはなかった。間違いなく自分の性格からすれば疎遠になるのは簡単で、容易い。何もしなければ関係はゆっくりと薄まっていく。何かをしても、それは薄まる時間を先延ばしにするに過ぎない。そんなことを考える程度には、彼の中で人間関係を諦めていた。だというのに、八幡は結衣との間にそれを感じなかった。
それは自惚れであり、自称であり、傲慢だ。そう自覚する程度には理解していて、しかしそうでないだろうと否定する程度には未知である。他の連中、特にクソ野郎と呼称している相手や悪魔相手の繋がりとはまた別の、切っても切れない腐れ鎖とは違う、そもそも繋がっているという表現すら適当ではないように思えるそれは。
「何だよ。そんな心配だったのか?」
『別に心配はしてないけど。まあヒッキーだし』
「どういう意味だよ」
『いつでもあたしの好きな人でいてくれてるってこと』
瞬時にスマホを耳から離し、そしてベッドへと投げつけた。向こうのスピーカーから何事だ、と叫びが聞こえてくるが、肩で息をしている八幡には聞こえていない。何なのこいつ、電話越しだからってナチュラルに言い過ぎじゃない? そんなことを思いながら、ノロノロと移動してゆっくりベッドのスマホを持ち上げた。
『耳キーンってなったんだけど』
「高低差が酷いようだな」
『いやあたし今家だから。ヒッキーが何かやったせいだから』
「気のせいだろ。俺も家だ」
小さく溜息。その後、まったくもうという呆れたような声が聞こえてきた。それで何だったっけ、と自分に問い掛けるように呟き、ああそうだそうだと声を上げる。
『もし用事ないなら、うちに遊びに来てくれないかなーって』
「……悪いが、今うちも親父がいないから」
断りの返事をしようとしたその最中、コンコンと遠慮のないノックの音が響く。返事を待たずして扉を開けたその張本人は、持っていたスマホを八幡へと押し付けてニヤリと笑った。そこには、バカ息子が彼女の家行くから戻ってきなさいという一文と、すぐ帰るという返事が。
『ヒッキー?』
「……俺が行っても大丈夫なのか?」
『うん! じゃあ――場所分かるっけ?』
「前に一回お前を送ったきりだな」
『分かった。じゃあ駅まで迎え行くよ』
待ってる、という言葉とともに通話が終わる。ホーム画面に戻ったスマホを下ろしながら、八幡は死んだ魚の眼をジト目にして目の前の母親と、何故か面白そうに野次馬しているその後ろの小町を見た。
「向こうの家に世話になるんだし、ちょっとお金持っていきなさい」
「え、あ、ありがとう」
「お兄ちゃん、菓子折りとか持ってく?」
「家族に挨拶に行くわけじゃねえから。向こうのパパさんいないって言ってたし」
え、と小町の動きが止まる。ちらりと母親を見ると、どこか真剣な表情をしながらゆっくりと八幡を見詰めていた。
「そうだ八幡、忘れてた。一応言っとくけどあんた」
「言わなくていい」
「やっはろー、って、何か疲れてない?」
「疲れた」
「あ。うん。なんかごめんね」
短い一文で伝わったのか、結衣がそう言って頭を下げる。駅前でそんなことをやられても目立つだけなので、八幡は早々に切り上げてそこから離れることにした。何かお菓子でも、という彼の言葉に、別にいらないと彼女は返す。
「そうか」
「うん」
「……」
「……」
沈黙。普段は別にそれを気にすることはないのだが、今日に限っては何故かそれが無性に嫌だった。が、何かを話そうと考えれば考えるほど、浮かんでくる単語も文章も支離滅裂でひび割れ砕けていく。縋るように隣の結衣を見ると、彼女はそんな八幡の様子が不思議なのか首を傾げ原因を考えているように見えた。
はぁ、と溜息を吐く。何だか馬鹿らしくなった。無駄に緊張している自分が滑稽になった。何のことはない、普段通りでいつもと変わらない。比企谷八幡の隣には由比ヶ浜結衣がいる。ただ、それだけだ。
「ガハマ」
「どしたの?」
「何か手伝うことあるか? 男手なくて出来なかったやつとか」
「……ヒッキーどうしたの? 熱でもある?」
「どういう意味だ」
「いやだって。いつもだったら絶対言わなくない?」
「失礼な。小数点以下を表示していないからゼロに見えるだけで俺には常にその気がある」
「え? じゃあ何で今それが出てきたの?」
純粋な疑問だったのだろう。何てことない問い掛けだっただろう。が、八幡にはいい感じにクリティカルヒットしてしまった。その理由を思わず口にしかけ、舌を噛み切る勢いで閉じて飲み込んだ。隣にいる結衣がうわ、と思わずのけぞるレベルである。
「……貴重な体験をしたな、誇っていいぞ」
「……まあそれでいいや」
やれやれ、と苦笑した結衣を見て、八幡は不満げに目を細める。お前は一体俺の何を知っているというのだ。そんな意味合いが込められた視線であったが、彼女はそれを受けて平然としていた。全部知っている、という自分勝手な態度など微塵もせず、分かっているという自惚れを見せることなく。
「何にせよ、ヒッキーはヒッキーだしね」
「何だそりゃ……」
「とりあえずは、知らないままでもいいってこと」
「とりあえずってなんだよ」
「これから知ってこーってこと」
「何だそりゃ……」
はぁ、と溜息を吐いた八幡であったが、その表情は先程とは違い呆れたようなものであった。ある意味普段通りの、しょうがないと諦めたような、そうだろうなと受け入れたような、そんな。
今んとこガハママより八幡母の方が目立ってない?