「……」
「……」
ずずず、とそばを啜る音だけが暫し響く。そんな二人を眺めつつ、結衣の母親は足元のサブレを軽く撫でて思う。我が娘はともかく、その彼氏さんは何やら少し様子が変だ、と。
「ヒッキーくん」
「はぃ?」
「声めっちゃ裏返った……」
対面の八幡を思わず見やる。結衣の視界に映るのは何やら挙動がおかしい我が彼氏。さっき何かあっただろうかと首を傾げるが、彼女の中では当然のように答えが出てこない。
それはそうだろう。普段通りの寝間着姿だ、結衣にとってはいつものことなのだ。両親と自分、そして飼い犬。気を使う相手などいやしない。飼い犬の散歩に駆り出される時ですら、朝早ければ準備を怠るレベルだ。
「もしあれなら、わたしから結衣に言うけれど」
「あ、いえ、その……お気遣いなく」
予想を立てて言ってみたが、どうやら正解らしい。ぎくしゃくとしながらそう答える八幡を見て、結衣の母親は小さく溜息を吐いた。勿論彼のその言葉がやましい意味で言っているわけではないのは理解できる。欠片もないわけではないのも分かる。四割くらいだろう。
「あ、そうだ」
スマホを取り出すと、彼女はどこぞと連絡を取り始めた。ポン、ポン、と返信の音が鳴る中、あ~やっぱりと口角を上げる。
「ねえ、結衣」
「ん?」
「ママ、ちょっと比企谷さんと今から初詣に行こうと思うんだけど」
「は?」
何言ってんだこいつという目で母親を見た。夜物騒だからとわざわざ来てもらっといてそれかよと思いながら母親を見た。が、当の本人は全然気にすることなく、勿論向こうの家族も一緒よと笑みを浮かべている。
「ヒッキーくんの妹さんもちょっと頭を冷やしたいって言ってるらしくて、せっかくだから夜の屋台巡りでもしようって」
「え、小町まで?」
マジかよ、と八幡の動きが止まる。まあ確かに一人置いていくわけにはいかないだろうから選択としては正しいのであるが。しかしだ、そうなるとそもそも受験だからなるべく邪魔をしないという意味でここに来た当初の目的が水泡に帰すわけで。
しかし小町の、当の本人の願いならば仕方ない。はぁ、と溜息を吐いた八幡はそういうことならと頭を掻いた。
掻いてから、言ってから、気付いた。
「じゃあそういうわけで、サブレも連れて、行ってくるわね~」
「湯冷めしちゃ駄目だよママ」
「勿論よ」
そうなると完全に二人きりなんですけど、と。
「どしたの?」
「……いや、何でもない」
何でもなくはない。最後の砦、ママさんいるからが使用不可になってしまったのだ。もうすぐこの空間には、勢いを付けると体と胸部に動きのラグが出る少女と自分しかいなくなってしまうのだ。まかり間違ってしまうと、大変いかがわしい状態になりかねない。
除夜の鐘も鳴り終わる頃、由比ヶ浜家のチャイムが鳴る。はいはい、と玄関に結衣の母親が向かうと、八幡以外の比企谷家が勢揃いですいませんうちの息子がと親同士のお約束のようなやり取りを繰り広げていた。
「おい母さん」
「あら八幡、あんたちゃんとしてた?」
「してたよ。あんたらが来なけりゃこのまま問題なく正月を迎えてたよ」
「それはぁ、つまりぃ? お兄ちゃんはこれから問題が起きてしまうってことでいいのかなぁ?」
「え。何? 小町さん受験勉強のやり過ぎで頭おかしくなった?」
キシシと笑う小町にドン引いた八幡だが、彼女の表情が不満げに変わるのを見てすいません冗談ですと頭を下げる。そんないつもどおりのやり取りを見て、結衣はあははと笑みを浮かべた。
「あ、結衣さんごめんなさい。うちのバカ兄……が……」
視線を結衣へと移す。そうして彼女の顔を見て、そしてその姿を見て。そしてゆっくりと自分の足元を見た。しっかりと足が見えた。
視線を戻す。自分の目がおかしくなったのでなければ、あれはまさしく。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「え? 大丈夫?」
「お前さっき自分でからかったじゃねぇか」
「何か、リアルな予想図が出てくると、流石の小町もちょっと引くかな、って」
何かを想像してしまったのか、うげ、と顔を歪め八幡から視線を逸らした。その反応はどうなのと思わないでもなかったが、八幡としても気持ちは同じなのでその辺りは触れない。
その傍らで少し上がっていきますか、いえいえおかまいなく時間もあれですし、というやり取りをしていた親共は、じゃあ行ってくるわねと二人に告げる。どうやら本気でこの家に二人を残すらしい。縋るように八幡は小町を見たが、まあこれはこれでありだな、という結論に達した彼女にはまるで通用しなかった。そのまま無情にも玄関のドアは閉じ、ガチャリとついでに鍵も閉められた。
「玄関開くと寒っ。ヒッキー、リビング戻ろ」
「お、おう」
ててて、と結衣は戻っていく。それにノロノロとついていった八幡は、先程までいた一人と一匹が本当にいないことを確認し溜息を吐いた。
「どする? 部屋戻る?」
「は!? え?」
「何その反応」
怪訝な表情を浮かべ、結衣が八幡の顔を覗き込む。近い、と思わずそれを押し戻した彼は、はからずも彼女の口元に手を添えてしまった。弾かれたように手を離し、そして唇に触れてしまったその手のひらをどうしていいのか分からずブンブンと振る。
何やってんだこいつ、という目で見られた。
「いや、お前、だから」
「何だかよくわかんないけど、こっちにいた方がいい感じ?」
「いやもう正直どこにいても大して変わらんというかむしろすぐさまここから逃げ出したいというか」
「意味分かんないし」
はぁ、と溜息を吐いた結衣を見て、八幡はコノヤローと彼女を見やる。自分が何に悩んでいるかピンときていない様子の結衣に、ならば教えてやろうかと思わず口を開きかけ、そしてイメージを実践しようと手が伸びかける。
が、それだけだ。そこからどうすればいいのか、が八幡には分からない。書物や映像媒体で知っているので知識はある。こういう風にするというイメージトレーニングも何度かした。が、所詮イメージだ。実際にやろうとすると、当たり前のように体が動かず、頭も真っ白。フリーズした挙げ句再起動を繰り返す完全故障状態だ。自身の母親が何を言おうと、小町がいくらからかおうと、当の八幡はそこに踏み出す覚悟がない。
臆病者と笑いたくば笑えばいい。しかし未経験者はどうしていいのか分からないのだ。そもそも付き合うのだって今回が初めて。無理に決まっている。
「……ね、ヒッキー」
「お、おう」
ソファーにぽすんと座った結衣が彼を見やる。微笑んでいるその顔を見て、どうにも気まずく八幡は視線を逸らそうとし。そうするとぷるんと揺れる大山脈が視界に入ってしまうと動きを中止した。
さて、そんな八幡を気にすることなく、結衣はそのまま彼に向かって手を広げる。言い方は悪いがすしざんまい的なポーズを取る。
「おいで」
「……は?」
「だから、ヒッキー、おいで」
「ちょっと何言ってるか分かんない」
分かっている。これ以上なく分かっている。が、その言葉を理解した場合、彼が取る行動はあの胸元へとダイブしなくてはならないわけで。いくらキンブオブチキン八幡といえども、あの状態でハグされたらそのままプッツンしてしまう可能性だってある。
というかあいつ分かってんのか。あまりにも無邪気に自分をノーブラ山脈へ誘う結衣を見て、八幡は謎の怒りが湧いてきた。こちとら必死で我慢してるのに、ごめん嘘ですただヘタれてるだけですでも悪いの向こうです。そんな思いが浮き上がってきた。
「ガハマ」
「ん?」
「お前自分が何やろうとしてるか分かってんのか?」
「ハグ」
「この時間じゃもう脳外科医はやってないか……」
「酷くない!?」
「酷くねぇよ。何なのお前? 何でいきなりハグしちゃおとか言っちゃってんの? ドラえもんのオープニングにしちゃ古過ぎる」
「いや意味分かんないし」
むう、と微笑みから不満げな表情に変わった結衣であった。が、しかし。ばっちこいすしざんまいのポーズは解いていない。準備万端だからさっさと来いと言わんばかりのままである。
勿論八幡は動かない。正確には動けない。え? あれ行ってもいいの? いいわけねぇだろ。という新たなリトル八幡が頭をぐるぐる回っていたからだ。口だけはとりあえず動いているのが幸いだろう。
「いや、だってさ」
「……何だよ」
「何かヒッキー、ママがいたからか、あんましひっついてきてくれなかったし……」
「おい待て何か俺がいつもガハマにくっついてるみたいな捏造やめろ。事情を知らない人が信じちゃうだろうが」
「いや今あたしとヒッキーしかいないし」
「尚悪い。お前この状況で、そういうことするっていうのは、それは、その、あれだぞ」
語彙力が死んでいる。が、しかし八幡を責めることは出来まい。何せ彼は未経験者だ。今まできちんと女子とお付き合いなどしていないのだ。折本かおりという女子の悪友はいても、男女の恋愛には何の役にも立たなかったのでノーカウントなのだ。
ともあれ、八幡の非常にテンパった姿を見た結衣は、そこで溜息と共にその手を下ろした。何言ってるか分かんない、と呆れたように呟いた。
「あのさヒッキー」
「な、なんでございませう」
「あたし、ヒッキーの恋人なんだけど」
「お、おう。そうだな?」
「別に、イチャイチャするのに理由はいらないじゃん?」
「いやいるだろ理由。何の理由もなくそんなことしたらただのバカップルじゃねぇか」
いやお前らは紛うことなきただのバカップルだよ。と、三浦優美子と海老名姫菜と戸部翔と葉山隼人と一色いろはと雪ノ下雪乃とついでに折本かおりが言ったような気配があったが、生憎と八幡には何も感じとれなかった。ついでに結衣も感じ取れなかったらしく、そうかもしれないけど、とぶうたれている。
「……理由言ったら、ヒッキー引くし」
「え? 俺が引くような理由なの?」
「うん。ヒッキーは、多分引く」
「そ、そうか……」
じゃあやっぱり何も言わずに諦めるのがいいんじゃないかな。そう思った八幡であったが、それを口にするのは何となく憚られた。向こうもそれを薄々勘付いているのが理由の一つだが。
それはそれとして、聞いてもみたい、と思ってしまった。好奇心は猫を殺す。きっと聞いたら八幡は死ぬ。だから聞かずに逃げるのが一番で、最適解。それでも、敢えて。
「ま、まあ、お前が言うからには聞いたら俺は間違いなく引くんだろうが……どんな理由だ?」
死にに行ってしまった。猫を殺す毒へと、好奇心へと突っ込んでいってしまった。
ぐ、とそれを聞いた結衣は視線を落とす。聞くんだ、と小さく呟きながら、でも一応さっき少し言ったんだけどと言葉を続けた。
「へ?」
「……ヒッキーが、くっついてくんなかった」
「はい?」
「……だから! ママがいたからヒッキーがあんましこっち来てくれなくて、寂しかったの!」
「…………えーっと、ガハマさん?」
「ほら引いた! 知ってるし! ヒッキーこういうの嫌がるって分かってるし! でもさ、でも……せっかくだから、いつもより、イチャイチャとか、したかったな、って」
後半はほとんど聞こえないような声量だった。胸の前で指をピコピコとさせながら、そっぽを向いて、彼を見ないようにしつつ、ぺしょぺしょと呟いた。
テレビの音量は大分下げられている。それでも、画面から流れているお笑いの声で掻き消される程度。勿論少し離れている八幡には聞こえるはずもない。
だから八幡は聞いていない。結衣のその呟きを、決して耳にしていない。彼が彼女のことを分かっていない限りは、それを聞くことは出来ない。
ぼす、と音がした。結衣が視線を動かすと、彼女の隣に座った八幡が、非常に不満げな表情で見詰めてきている。
「で?」
「へ?」
「何がしたいんだ、お前は」
「え? へ? ……あ、うん、えっと」
普段から死んだような目をしている八幡は、仏頂面だと完全に顔だけはその手の輩だ。が、結衣はそんな彼の顔を見て笑顔になった。ぶつくさと文句のように述べたその言葉を聞いて、弾けんばかりの笑顔になった。
「へい、ヒッキー」
「……さっきよりテンション高くてウゼェ……」
「酷くない!?」
すしざんまいリターンズ。それを眺めて床に広がるほどの溜息を吐いた八幡は、ふんと鼻を鳴らす。そして、ゆっくりと、渋々に、本当に渋々といった動きで、その中心部へと。
「え、っへへへ」
「何だその笑い、気持ち悪い」
「酷くない!?」
こんにゃろ、と彼の背中に回していた手に力を込める。ギリギリと締まっていくが、そうはいっても所詮は女子の細腕。思ったより痛いが、叫び声を上げるほどのダメージはない。
はず、なの、だが。
「あ、ちょ、待て! 待て待ってください!」
「ふっふっふ。あたしをバカにするから悪いのだ」
「いや違うそうじゃなくて、痛いとかじゃなくて。いや思ったより骨ミシミシいってるけどそっちじゃなくてだな! いやちょ、ほんと待って。シャツとパジャマだけじゃ先端ガードしきれてないから!」
先端? と目をパチクリさせた結衣は、次の瞬間顔を真っ赤にさせて八幡を突き飛ばした。ソファーの端と端に位置取ることになった二人は、そのままゼーハーと息をしながらお互いを見る。結衣はともかく、八幡も何故か胸をガードしていた。
「待て、これは事故だ。俺は悪くない、いや、誰も悪くはない。だから通報はやめてくださいお願いします」
「……」
顔を真っ赤にさせたままの結衣は、八幡の言葉に答えない。しかし段々と息を整え、大きく息を吸い、吐くと、ゆっくりと首を横に振った。
「え? 通報?」
「違うし! ていうか別に彼氏彼女だから、その、そういうことしても……」
赤面を倍加させると、結衣はそこでクッションへと顔をうずめた。駄目だ駄目だ限界だ。そんなことを叫びながら、ジタバタとソファーの上でもがいている。
人間自分より慌てている人を見ると冷静になれるというのは本当らしい。八幡はそんな彼女を見て幾分か落ち着き溜息を吐いた。別にやらねぇよ、と言い放った。
「え?」
「何だそのリアクション」
「いや、なんていうか……ひょっとして」
「一応言っておくがさっきは八割方エロに傾いたからな」
ビクリと結衣の肩が跳ね上がる。おずおずと八幡を見るが、しかし彼は呆れたような表情で頭を掻くのみ。じゃあ何で、とクッションを抱いたまま彼女が問い掛けると、面倒くさいと言わんばかりにジロリと視線を向けた。
「他人にお膳立てられてそれに従うのは気に食わん」
「……すえぜんくわねばとか、言うじゃん……」
「生憎と俺は出された料理にノーと言える日本人だ」
「……あたしじゃ、駄目?」
その質問は違うだろ、と八幡は結衣を見る。自分の今の発言はそういう意味ではないと分かるだろと視線で述べる。が、彼女はそれでも不安なのだと、言わなければ分からないと言葉で返した。分かっていても、それを請うた。
「……お前じゃないと、駄目だ」
「…………っ!?」
「が、ガハマ?」
「ヒ、ッキー!」
クッションを投げ飛ばし、全力で八幡へと飛びついた。そのまま彼を押し倒すような形で覆い被さる。重力に逆らわず、山脈は大瀑布へと変わった。
「だから俺は――」
「うん、分かってる。だから」
今回はこれで。そう言って彼女は唇を重ねた。これまでより、今まで以上に。濃厚で、絡み合うように。お互いの唇を、一つにした。
つつ、と二人の交わりで出来た糸を拭ったタイミングで結衣のスマホが着信を知らせる。わわ、と手を伸ばしてそれを取ると、彼女は相手を確認して通話にスライドさせた。
『あけましておめでとう、由比ヶ浜さん』
「うん、あけおめ、ゆきのん。どしたの?」
電話の相手が雪乃だと知った八幡が結衣の下であからさまに嫌な顔をする。そして悪寒がしたのでとりあえずどくようにジェスチャーをした。
『ええ。もしよかったらなのだけれど。今から初詣にいかないかしら?』
「あ、うん。行く行く! 他には誰が来るの?」
どうやら見えなかったらしく、八幡の願いは届かず通話は続いていく。向こうの声は聞こえないが、彼女の反応からして初詣にでも行こうと言われたのだろう。夜が明けてからなのか、これからなのかは知らないが。
『今の所姉さんに潰された隼人くんを叩き起こして三浦さん達と連絡を取ってもらっているわ、寝ている姉さんは放置』
「あ、優美子たちも来るんだ」
『ええ。そういうわけだから、由比ヶ浜さんには比企谷くんに――』
嫌な予感がした。先程よりも一層、数倍、猛烈に嫌な予感がした。ちょっと待て、と。慌てて彼女の口を塞ごうとした。
「ヒッキーならここにいるからすぐ聞けるよ」
『――――え?』
「ばっ、おまっ!」
「ヒッキー、ゆきのんがみんなで初詣行こうって」
電話口で動きが止まったのが八幡にも分かった。流石の雪ノ下雪乃も、この状況は予想出来ていなかったらしい。出来ていたら誘わなかったであろうから、当然といえば当然なのだが。
『え、っと……その、お邪魔、だったかしら……』
「どしたのゆきのん。何か急にかしこまって」
『いや、その。由比ヶ浜さん、比企谷くんは今どこに?』
「あたしの真下」
「ガハマぁぁ!」
ひゃふ、と電話口で小さな悲鳴が上がる。どうしたどうした、と雪乃の後ろで起きた陽乃と連絡を終えた隼人が近付いてきた。
『……ごめんなさい。さっきのお誘いは忘れてくれていいわ。行為中に失礼しました』
「へ? ……ち、違う違う! してないしてない! まだやってない!」
『これからだったのね。それは重ね重ね、大変失礼いたしました』
「違うって! そういうんじゃなくて! あと敬語やめて」
結局、誤解がとけるまでに十数分の時間を要し、その間全てを諦めた八幡はただひたすらに心を無にして現実逃避を行うのであった。
尚、いやだってある意味誤解じゃないしなぁ、と脳内のかおりが大爆笑していたことで、彼はなんとか正気を取り戻したらしい。
おっかしいなぁ……もっとこう無難に
「今年もよろしく、ヒッキー」
「おう」
みたいな終わりになるはずだったんだけど。