求道者のヒーローアカデミア 作:紅葉色の紅葉
誤字脱字修正ありがとうございます。本当に申し訳ない……。
あ、あと評価もありがとうございます! なんとランキングに一時的にですが載っていて、ヒャッホイ!と飛び上がってしまいました。
今回は玖錠紫織枠が出てきます。
彼女しか思い浮かばなかった……。
それと明日とか言っておいて遅れてすみません。
では本編どうぞ。
チクタク、チクタクと流れる時を刻む秒針が、経過を音で知らせる。
鞄には既に筆記用具などの必要な物は全て入れた。二度も確認しているのだから、忘れ物なども当然ない。
後は身嗜みだけ。
宗次郎は全身鏡の前に立って、初めの頃は億劫に感じていたネクタイを結ぶ。
引き取られて初めの頃、厳五右衛門の言い付けで小学校に通わされていた。だがその時は私服が許可されていたのに対し、中学からは制服などと言う窮屈の極みのような服を強制され、本当に嫌だった。
がしかし、今では慣れた。苦も習慣となれば日常と化すということだろう。
可笑しなところが無いのを確認し、玄関へ向かった。
「では、僕は行きます」
見送りに来た祖母へ向き一言告げると、ふわふわと日向のように微笑み頷いた。
その顔に宗次郎は引っかかりを覚える。
祖母は基本笑みを絶やさず、春の陽光を思わせる顔色を常に浮かべている人だ。
だが何故だろうか、こうなにか、殊更に微笑ましいことに笑っているような。
それこそ男では出せないような女性特有の雰囲気を感じる。
こういう時は決まって、宗次郎にとって面倒な事が起きる前兆だ。
悪意のないその顔からは、害が及ぶ訳では無いと分かるのだが、きっと億劫なことなのであろうなと、何処か達観していた。
祖母の手前それを表に出すことは無いが、宗次郎は少しばかり働く嫌な予感を抱きながら、杉の匂い香る引戸の玄関を潜った。
「おっはようー!」
いきなり視界を覆ったのは、み空色の花。
大空を体現したような少女が、宗次郎の祖母とは違う種類の笑みという花を咲かせている。
天真爛漫を地で行く彼女を認識した途端、気付かない程に僅かだが、宗次郎の眉が吊り上がった。
基本他人など眼中にあらずとしていた宗次郎にしては、かなり珍しい反応である。
誰かを見た途端に顔色を例え極小でも変えるなど、それは
有象無象ではなく、ただ一人の一個人。
宗次郎がそう認識する人物は、この世界において片手の指にも満たない。つまりは希少な人物であるということ。
ただそれがいい方向であるのか、と聞かれれば少し違う。
目の前の少女は、宗次郎が唯一苦手とする人物というカテゴリーに位置していた故に、宗次郎から他人とは認識されなかったのだ。
要は、少し不得手だから覚えていたということ。
そしてそんなことは露知らぬ少女は、変わらぬ調子で宗次郎の隣へ移動した。
「おはようございます、ねじれさん。何故ここにいるのでしょうか? 今日は友人と出掛けると聞いていましたが……」
波動ねじれ、宗次郎が認識する人物の一人。
加えて言うならば、近所に住みよく自分の家に来る、もしかしたら友人と呼べるかもしれない一人だ。
そして、宗次郎が雄英に行きたくない理由の一つである人物だった。
生来の人懐っこさと遠慮の無さを兼ね合わせた彼女は、ある種の宗次郎の天敵であり、中学時代に先輩であったねじれに宗次郎は色々と振り回されてきた経験がある。
何処までも己であり、行動理念と基準までもが己優先である筈の宗次郎においては、それだけで苦手とするには十分な理由である。
振り回された過去があるということは、一つの屈辱と同義だ。
だがしかし、何故かねじれの頼みは断れないし、というか断る前に勝手に決め付けられてしまう。
だから泣く泣く言う事を聞くしかないのだ。
無視をするというのも手ではあるが、それはそれで逃げや負けを認めるようで何か腹が立つので却下である。
まさに宗次郎の性格が奇跡的に災いした結果が、ねじれという少女への苦手意識であった。
「うん。でも、宗ちゃん今日でしょ受験。だから応援!」
「ねじれさん、その呼び方はやめて下さいと何度言えば……」
「えー! 可愛いじゃん。何で駄目なの? ねーなんで?」
これである。この少女のこういう所が苦手なのだ。
元はと言えばこの渾名は、初対面の時にねじれが宗次郎を女と勘違いした時に起因する。
話の噛み合わなさと違和感を感じ、急いで誤解を解いたのだが未だにやめてもらえない。
思い起こせばその時から、彼女への苦手意識が始まったのだろう。
自分の常識とは掛け離れた、自己の辞書に遠慮という言葉がない自由奔放な少女。
それまで他人など風景に描かれた一部程度にしか思っていなかったが、ねじれという人物が現れたことで初めて、友人と呼べる者が出来たのかもしれない。
「……もういいです」
「えー教えてよー」
「お断りします。教えたところでやめはしないのでしょう?」
「うん!」
「……ならいいです。もう行きましょう、このままでは遅れてしまう」
はあ、と諦めたように息を吐き出した。
こうして二人は歩き始める。
その間にもねじれのマシンガントークは止まらず、無視すれば反応があるまで問いかけてくるのが分かっているので、会話に相槌を打ち思ったことを適当に返していた。
そして彼女を苦手としている宗次郎ではあるが、認めている部分もあるのだ。
昔に一度、とうとう我慢の限界だった宗次郎から彼女へ仕合を申し込んだ事がある。形式としては一太刀を凌げばいいという物だ。
当然に自分の圧勝だった訳だが、その仕合が切っ掛けである変化があった。
ねじれは、未熟だったとはいえその当時の宗次郎の一刀を
己の個性に理解が深く、実力は目を見張るものがあるだろう。
勿論、色々なまぐれやありえない奇跡が重複した結果の上に成り立っている。
だがしかしだ、宗次郎に言わせれば、そのまぐれすらねじ伏せる事が出来ない己が未熟に過ぎるのだ。
それ以来だろう、宗次郎が彼女に辛く接することが無くなったのは。
刃を向けた宗次郎に対して、今も変わらずに関わり続けてくれているという振り切った異常なまでの善性、それも宗次郎が彼女を個として認識する要因かもしれない。
「ではここら辺で」
「うん、頑張ってね! 絶対合格してね! また一緒に学校行こー」
「確約は出来ませんが。ええ、出来る限りの善処はしましょう」
バスに乗る直前まで話し掛けてくるねじれに、宗次郎は苦笑いを零す。
プシューと音を立てながら閉まるバスを、それでも見えなくなるまでねじれは見送っていた。
☆
『エヴィバディセイヘイ!!!』
耳を刺すような音量が会場へ響き渡る。
案内板へ従って着いた先は、大量の生徒を収納出来る大講堂。
この講堂を埋め尽くす夥しい数の少年少女が、ヒーロー科最難関の雄英へ足を踏み入れんとする願いの卵なのだ。
これだけいる中でも、雄英の門を叩けるのはごく少数。
確率に表せば数パーセントの狭い通り道だ。きっと誰もが死に物狂いで椅子を取りに来るだろう。
そんな熱狂の渦の中で、一人無感情にプレゼントマイクを見詰める影があった。
言わずもがな、宗次郎である。
冷めた視線からは、今にもつまらないと言葉が出てきそうなほど、感情が見受けられない。
それもそうだろう。
所詮、宗次郎にとっては親の言いつけで受けに来たに過ぎないのだから。
だからといって手を抜くつもりは無いが、乗り気かと言われれば断じて否だ。
この果てしなくつまらない高等学校に所属すると言うだけで、およそ三年もの貴重な時間が失われてしまう。
それを考えるだけでやはり陰鬱となってしまうのは、剣に生きる宗次郎ならではだろう。
『それでは皆、良い受難を!』
漸く無駄に長い説明が終わった。
配られたプリントを最後に確認しながら、宗次郎は傍らに置いた竹刀袋を手に持つ。
今回の受験においては、予め申請することで帯刀を許可された宗次郎の愛刀。
厳五右衛門の話によれば上は相当揉めたらしいが、そこはそれ厳五右衛門は雄英に居る友人の根津というコネを使い、監督下において他者に危害を加えない、という条件の下何とか許可を下ろしたらしい。
そうでなければ困るというもの。別に刀を持たずとも、徒手での戦闘は心得もあり不得意ではないが、実力を満遍なく発揮するにはやはり刀は不可欠だ。
ねじれに言われたこともあって、今回ばかりは少しだけ本気とやらを出そう。これで落ちたとあれば、何を言われるかわかったもんではない。
いや、それ以上にこの程度の受難は容易く乗り越えて当たり前。
宗次郎は熱の宿らぬ水底の瞳を開きながら、指定された会場へ向かった。
☆
場所は市街地を模した広大なフィールドだった。
模したとは言っているが、間近に寄ってもその作りは精巧で、まるでどこかの街をそのまま切り取ったかのようだとしか思えない。
人の身では広大に過ぎるこの場所は、だが宗次郎からしてみれば少々広いだけの舞台に過ぎない。
約半径1kmにも及ぶ超越的な感知能力は、市街地を蠢く無数の気配を感じ取っていた。
これが説明にあった仮想敵であろう、その総数は五百と端数。
そしてこの市街地の端に、巨大な異物が置いてあるのを捉えた。十中八九0P敵に違いない。
なるほど、退屈には違いないが、体を動かせるだけマシというものだ。
いつもは水を吸わせた巻藁で行っていることを、今回は動く鉄の塊で行うだけだ。
宗次郎は食後の運動とでも捉えることにした。
「お前それ本物か?」
声を変えてきたのは、髪を逆立てた濃い隈のある少年だった。
宗次郎の持つ刀を指さし、不思議そうにしている。
緊張を和らげるために声を掛けてきたのだろうか。だが、少年には緊張の色が見えない。
むしろ不自然な程に落ち着いている。
周りが己が己がと気を昂らせる中、自身の気を沈めるというのは中々に至難な技だ。
それこそ宗次郎のように日頃鍛錬を積んでいるのならまだしも、目の前の男からはその様子が伺えない。
というこは何かを狙っているのだろう。自分の気を落ち着けられるほどの必勝の秘策、もしくはその真逆で端からこのテストを諦めているか。
しかしどちらにしろ宗次郎の知るところではない。
目の前の男は他人で、記憶に留める価値もない路傍の石の一つだ。
「ええ、そうで……っ、へぇ」
不要だと判断した会話を短く終わらせようとした時だった。
男の質問に答え声を発した時、ほんの一瞬だけ筋肉が硬直した。
時間にすればコンマ一秒にも満たない硬直だったが、宗次郎は確かに何かの攻撃を受けていたのだ。
見れば視線の先の男が目を見開き驚愕している。
その様子から察するに、今のは眼前の男が原因なのだろう。
「なんで──!?」
「今のは貴方の仕業ですか。何のつもりかは知りませんが、あまり余計な事はしないで頂きたい。余計な剣を振るのは余り好きではない」
この時も幾度となく男は自身の個性である“洗脳”を試すが、宗次郎に効果はない。
一度目は本当に刹那だが効き目があった、だが二度目からは完全に無効化されている。
男の個性は完全に宗次郎に殺されている状態だった。
仕方ないことであろう、洗脳というのはすなわち精神の乗っ取り。相手の個我を揺さぶり、その隙を突いて操縦桿を奪う行為だ。
それは逆説的に言えば、己という確固とした我を確立していれば意味をなさない。
こと宗次郎という宇宙規模の密度で自己愛が確立している存在を相手に、男の個性は相性が悪過ぎたとしか言い様がない。
「と、いけない。他人に危害を加えれば失格でしたか、忘れていました」
思い出したように呟いた宗次郎は、直ぐに興味が失せたと言わんばかりに視線を外した。
降りかかる火の粉は払うのが宗次郎の流儀だが、今だけはそれは許されない。
それに払う必要無しと判断し、背を向けた。
ままならないこの状況に宗次郎は、まったく面倒だと一人愚痴る。
対照的に男、心操人使は胸の内に怒りを募らせていた。
余計な剣と言ったのか? 個性による攻撃をされてなお、コイツは直ぐに興味を無くしたと?
──否、違う、言い方が違う。言葉を正しく使うのならば、初めから興味を持っていない、だ。
宗次郎は降りかかる火の粉は確かに払うが、心操のことは火の粉とすら認識していない。
心操から視線が既に離れていることが、その証拠であろう。
巫山戯るな。俺は道端に転がっている石ではない!
こちらを向け、向かないと言うなら振り向かせてやる。
腕を宗次郎の肩に掛けようと伸ばした刹那──。
『ハイ、スタート』
合図が響くのと同時、颶風が疾走するかの如く、宗次郎の姿が消えた。
☆
モニタールーム。
眼前には無数の映像が映し出され、そこには用意した機械を相手に孤軍奮闘する子供達が必死に足掻いていた。
笑いながらそれを観戦するのは、雄英に所属しているプロのヒーロー達。
喜悦に頬を綻ばせるその最奥で、判断基準に基づいて落第点と及第点を選考している。
今年は豊作だ。この子は筋がいい。あの子は合格しそうだ。
個々人が思い思いの言葉を残していく中、途端に画面が切り替わると全員が笑みを霧散させた。
「彼が厳五右衛門の子供だね……」
「名前は明空宗次郎。五年前に
「無個性という点かい、相澤くん?」
引き継いで答えたのはオールマイト。
落ち着き払った厳の声は、相澤消太の言わんとしていることを理解していた。
この個性という世界の歪みが許容された超人社会で、それだけ無個性というのは異質なのだ。
一昔前とは違い、今はあって当たり前の者が備わっていない落ちこぼれ。
生きることにすら必死である落伍者が、ヒーロー育成の名門である雄英に入ろうなどと、その難題たるや出来たのなら偉業と言ってもいいだろう。
ましてや今回の演習で、今現在もぶっちぎりで加速度的に敵を撃破しているなどとは、赤の他人が聞けば出来の悪い冗談にしか聞こえない。
「彼は本当に無個性なのか!? もうすぐで倒された仮想敵が四百を超えるぞ!」
信じられない現象を目の当たりに声を荒らげたのは、ヒーロー科の三年を担当する講師のスナイプ。
今空気を震わせる広がった言葉は、この場にいる講師全員の気持ちを代弁していた。
元々この市街地演習に配置された
しかし、これはどういうことだろうか。
一人の少年がモニターに影すら残さない速度で動き、瞬きした瞬間には数十の仮想敵が同時に細切れになっている。
まるで暴れ狂う鎌鼬でも通過したかの如く、静かにただのガラクタと化しているのだ。
宗次郎の他にこのブロックでポイントを取れたのは、せいぜいが二三人しかおらず、それも一ポイントが限界だった。
呆然としている受験生達の方が無個性にすら見えてしまう。
……そしてとうとう、宗次郎は残った最後の仮想敵さえも叩き切った。
「厳五右衛門から聞いてはいたけど、これは厄介だね」
薄い笑いを浮かべながらも白いネズミのような男性、根津は慎重に宗次郎を観察していた。
心には一言、“危険”という単語が浮かび上がる。扱いを間違えれば、この少年は最強最悪の犯罪者になりうる、と。
そして彼の言葉を肯定し、講師陣が次々に溜まっていたものを吐き出す。
「ええ、本当に無個性だとは思えない」
「撃破ポイントだけでも合格基準を大幅に超えている」
「これはヒーロー科の一枠は彼で決定だな」
誰が呟いたのか、最後の言葉に待ったを掛けたのは相澤消太だった。
「これで決めるのは不合理に過ぎると思いますがね。仮に合格にしたとして、ヒーローの資質にあるとは思えない」
これまで幾度となく、潜り抜けた修羅場の中で培われた観察眼が警鐘を鳴らしていた。
合理性を求める気質故に、見込みが無ければ即座に切り捨てられる判断力と決断力を持つ相澤は、宗次郎の中にヒーローとしての素質が欠片も存在しないのが分かった。
寧ろ画面越しに感じる空気感が、ヒーローとは真逆の性質であると、そう思えてならない。
だからこそ、最後まで見極めなければならないだろう。
相澤の口から出た言葉は、抹消ヒーローとして己に言い聞かせる為に出たものでもあった。
それに同調したのは、笑みを浮かべながらも冷静な瞳をしていた根津だった。
「うん、僕も同じ感想さ! でも、このまま放置も出来ない」
「ええ、だから彼の合否は最後まで綿密に見極めるべきだ」
「うんうん、そうだね。……でも、事と場合によっては
最後に綺麗に根津が纏めた直後だった。
画面に映し出された宗次郎が、この場の全員から声を奪う事をしでかした。
☆
時は少しだけ遡る。
心操は必死であった。
無我夢中に、先の出来事を忘れようと他人を洗脳しては仮想敵を探している。
しかし仮想敵は見つからず、行く先々で目にするのは転がった仮想敵の残骸。
もうすぐで終わるかもしれないというこの時まで、心操は0ポイントのままだった。
だが悲嘆することは無い。0ポイントなのは、なにも心操だけにあらず。
むしろポイントを一つでも取れたものは運が良い部類だ。
(……クソっ)
こんな時ですら自身の個性の不便さが恨めしい。
他人の体を操って高みの見物をするしかないこの個性が、なぜこんなものを持ってしまったのか。
もっとお誂え向きなものが欲しかった。こんなヴィランじみた異能ではなく、もっといいものが。
だからこそ、自分の個性にコンプレックスを抱いているからこそ、“強く想う将来があるなら、なりふり構ってはいけない”という信念が生まれた。
だと言うのにだ。刀を持ったアイツは、そんな心操を虚仮にした。
いやこれが単なる思い込みだと言うのは、心底理解している。
だが、目だ。あの深海よりも昏い目が頭から離れない。
心操人使を石とすら認識しない、あたかも風景の一部と会話をしているみたいに……。
下手をすれば独り言とすら思われているかもしれない。
……苛立つ。自分よりも恵まれた物を持っているというだけに過ぎないのに……。
俺は人間だ。景色じゃない。認識しろ。お前みたいな恵まれた奴に負けたくない。
様々な思いが鍋で煮詰められている。煮詰めすぎて爆発しそうだ。
段々と激憤が蓄積していく中、たまたまソイツを見つけてしまった。
「はっ! お誂え向きな個性を持ってる奴は良いな。雄英のこの演習でさえも楽勝だってか? ああ全く羨ましいよ!」
思わず突いて出てしまった言葉は、自身でも驚くぐらい怒気がこもっていた。
これ程までに自分はコイツに切れていたのか、改めて気持ちを認識する。
「……えっと貴方は……。ああ、さっきの方ですか。すみません、忘れていました」
「──っな!?」
ふつふつと吐き出したはずの赫怒が再燃する。
つい先程言葉を交わしたばかりなのに、時間にすれば一刻も経っていないのに。
既にこの男は自分のことを忘却していたというのか。
どれだけ……どれだけ自分を……!
心操は自身の思考が自惚れていたと理解する。
宗次郎は心操のことを人としてすら認識していない。
砂利に気を割く人間はいないのと同じだ。
転がっている塵を記憶しているほど、宗次郎は奇人ではない。
「──巫山戯……っ!」
怒りに咆哮をあげようとする心操の心を押さえつけたのは、覆うほどに大きな巨影。
ビルを掻き分けて姿を覗かせるそれは、資料に乗っていた0ポイントの仮想敵。
少年少女に受難を与えるためだけに雄英が用意した、最大の壁。
“PLUS ULTRA”──これにどう対応するのか、逃げるのか、立ち向かうのか、協力するのか……それとも膝を屈するのか。
ヒーローとして、上を目指すならまずは小手調べだ。ここで行動を示してみろと、笑い観察している。
「……っ」
心操がまず思い至り行動したのは、逃げの選択だった。
敵わないから逃げる。それは生物として当然の本能で、本来は正解だと称えられるべき行動だ。
自身の力量に余るから、仕方なしに逃げる。そうだ、心操人使の個性では逆立ちしたってかすり傷すら付けられない。
だから逃げよう……。誰かが、お誂え向きな個性を持つ奴が倒すと思うから……。
────だから阿呆なんだよ。
宗次郎に言わせれば弱者の諧謔に過ぎない。
冗談が上手いな。笑わせるなよ。敵わないから逃げる?
極め尽くした馬鹿め! 敵わないからこそ挑めよ! それは自身を高めるためのまたと無い機会だろう?
願いの丈が高いなら、実力差などは関係ない。己の渇望こそがより強固なら、最後に勝つのは己であろうが。
それを知らないから塵は所詮塵だ。
例えどれほどの想いを募らせようが、塵が抱く渇望ほど意味の無いものはない。
汚れ切った
宗次郎が秒で忘却してしまうのも当然と言えよう。
そんな塵芥を記憶に留めるほど、この宗次郎は暇ではないのだから。
「おい何してんだ!」
だから心操は、嗤って進む宗次郎に魅入られる。
心操人使という人生を万繰り返そうと、今居る宗次郎の高みには届かないし見えない。
それはもう定められた絶対法則に近い領域で、当たり前のこと。
宗次郎という異分子は、どこまでも肥大化していく。
やがてはこの社会へ波紋を広げ、癌が世界を蝕み、既存の法則が軋み喘ぐ。
だが知ったことか。どこまでも宗次郎は高みを目指すだけ。
自己ただ一人だけが到れる場所に歩みを進め、全てを凌駕する存在となりたいだけなのだから。
「明空神明流……」
深く腰を下ろし、刃が収められた場所に手を添えた。
異常で異質な空気を内包した笑みは、心操の恐怖と憧憬を駆り立てる。
修羅だ、血に濡れた修羅が嗤っている。剣気に世界が焼かれ、歪み始めていた。
だが殺気は不気味な程に静かだ。
川がせせらぐように、流動的でありながらも超密度の殺気が血管を血液と共に巡っていく。
静謐な殺意。形容するなら、これが一番であろう。
宗次郎が構え最高の一刀を放たんとする予備動作の最中、痺れを切らした巨大な仮想敵が鉄塊腕を振り下ろした。
死ぬ、間違いなく宗次郎は死ぬと、心操の視界が徐々に速度を失っていく。
……ああ終わった。
「────絶ち風」
心が何もかもを諦観した一刹那────蒼き剣閃の輝きが、近付いていた未来を斬り殺した。
「──は? え?」
轟音を立てながら、空を塞いでいた巨影が崩れ出す。
宗次郎を見れば刀は鞘に収まったままだった。
余りの瞬撃に知覚出来なかったのだ。目を閉じていた訳ではなかったのに、音も結果も、あらゆる全てが納刀された後に追ってきた。
物理法則を完全に無視した居合術。
個性に頼っている愚か者共では到達出来ない至高の剣閃を、奇妙な話だが心操人使は目の当たりにした瞬間だった。
玖錠紫織に近い人は誰か……。
そんな事考えていたら、性格的にねじれ先輩かなと。
それとねじれ先輩が宗次郎に斬られたのに普通に接してるのは可笑しくね? とお思いでしょうが、それはねじれ先輩が「あれやっべ、宗ちゃん怒らせちゃった?」と半ば自業自得と思っている節があるからです。
……それで納得して、お願い……。え? 駄目? ソンナー!