その一瞬、黒橋 想也の心は一つの感情に支配された。
射命丸 文から感じてしまった『恐怖』という感情で彼の心は埋め尽くされ、それ以外のことは何一つ、思考することが出来ずにいた。文から逃げる、といった思考も出来ずに、想也はその場で立ち(浮き)尽くす。抵抗することもなく、文に抱きしめられ続ける。
「......あ、う」
『恐怖』は収まることを知らない、みるみると成長していく。最早言葉を発することすらままならず、想也は廃人のような言葉しか呟けない。
そんな彼を、文は優しく、抱きしめる。
「んふふー。大丈夫ですよー、想也さぁん......♪」
全然、大丈夫ではなかった。
どうやら文は赤子をあやす母親辺りを想像し、彼を優しく抱きしめ宥めようとしているようだが、今の想也には、その行動は逆効果だった。落ち着くどころか深刻化していく。このままでは精神を崩壊させてしまうかもしれない――大袈裟な表現のようで、実際はかなりそれに近かった。止める者が現れなければ、先程の『かもしれない』は現実のものとなってしまうことは間違いない。
......そう、止める者が、現れなければ。
「なに、やってんのよ!?」
現れた。
正確には『追いかけてきた』と表現した方が正しいけれど、まぁ、現れたと表現しても、構わないだろう。
兎に角、その場に現れた少女――封獣 ぬえは、想也と文が
他者から見れば『突然不意打ちの蹴りを食らって可哀想な人』というような印象を受けそうだったが、想也本人はというと、この行為に対して感謝してもしきれない位、蹴りを放ったぬえに感謝していた。「
「――邪魔をしないでくださいっ!」
一方、蹴りが放たれたことを視認していた文は、素早く想也から離れて回避。直後に怒気を孕んだ声色で叫ぶと、ぬえに全力で突進を仕掛けた。蹴りを放った直後であったぬえは、体勢を整えることが出来ていない――回避することが出来ず、まともに文の突進を食らってしまう。
文は鴉天狗という種族であり、幻想郷最速を自称している。自称、というと、ただの強がりという風に聞こえなくもないが、実際はというと、彼女は本当に、幻想郷最速だった。加速、最高速度、共に幻想郷ではずば抜けており、彼女を捉えることは、例え四季のフラワーマスターであろうとも容易ではない。
――そんな彼女が放つ力任せの突進は、まさに「凄まじい」の一言。食らえばぬえのような実力のある妖怪であろうとも、ただでは済まない。
直撃した瞬間、骨がいくつか砕ける音が辺りに響き渡ると同時に、ぬえは先程の想也と同じように弾き飛ばされる。......といっても、来ると分かってない攻撃と、来ると分かっている攻撃では、対応はかなり変わってくる。攻撃こそ食らってしまったが、ぬえは咄嗟に、攻撃に合わせて後方に移動していた。気休め程度にしかなってはいないが、裏を返せば『気休め程度にはダメージを抑えられた』ことになる――ぬえは飛ばされながらも、自身の能力を発動。自身を『正体不明』にすることで、追い討ちをかけに来ていた文の目から、一瞬だけ逃れる。
元々、文はぬえの『正体』を知っている。故に、能力を使用したところですぐに“ぬえ”であると分かってしまうが――しかし、一瞬でもあれば、体勢を整え、スペルカードを発動するには十分な時間だった。
「『平安京の悪夢』!」
スペルカード、『平安京の悪夢』
ぬえ自身、気に入っているスペルにして、彼女の持つスペルカードの中でも難度の高い物の一つ。この幻想郷の中でも、特に実力のある者が使用する耐久スペルという括りに入るスペルカードである。この括りに入るスペルカードは、相手にダメージを与えることでのスペルブレイクは不可能。発動したが最後、制限時間の間は延々と弾幕を避け続けなければならない。
いくら妖怪と言えど、骨が再生するまでは少々の時間を要する――故に、ぬえは耐久スペルである『平安京の悪夢』を発動させることで、時間稼ぎを行うことにしたのだ(あわよくば倒せないか、とも思っている)。
「――幻想郷最速を舐めないでいただきたい」
「っ!? ぐっ!」
が、文は、『平安京の悪夢』を
避けきった、ではない。『平安京の悪夢』の“発動”を避けたのだ。
そもそも、耐久スペルというのは、相手を別空間に隔離するところから始まる。
耐久スペルを使われた瞬間、使われた側は相手が消えたように見えるけれど、実際は逆。他者からすれば『使われた側が消えた』ように見えるのだ。使われた側は別空間に隔離され、決められた時間の間、決められた弾幕を避け続ける。それが耐久スペルというものの種である。
さて、ここまで言えば分かったかもしれないけれど、つまり文は、別空間に隔離されることを回避したことで、『平安京の悪夢』という耐久スペルを避けることなく避けたのだ。
通常、そんなことは出来っこないし、誰も思い付かない。試そうとも思わなかった――けれど、とある少年の『裏』は、そんな裏技を知っていて、それを文に伝えていた。
......知っていた、というより、作った、の方が、正しいかもしれない。
と。
勿論、ぬえはそんな裏技は知らない。知る方法がない。
そのため、ぬえは激しく動揺する。どうして文は『平安京の悪夢』に当たっていないのか、もしかして発動出来ていなかったのではないか、様々な可能性が脳内で渦巻き、みるみるうちに増えていく。このままでは、疑問の思いだけで脳内が埋め尽くされそうである。
(......えぇい、こんなこと、考えてる暇なんてないわ! 後!)
不味い、と判断したぬえは、吹き飛ばされながらも両手で頬を叩き、現実に目を向ける。
幸いにも、まだ文は、あの場から消えてはいなかった。体勢を低くしていることから、まもなく此方へ、追い討ちをかけに来るつもりなのだろう。
――来るのが分かっていれば、迎え撃つことが出来る。
どこから、いつ来るのか、それが分からないならともかく、今、ぬえははっきりと、文の姿を視認することが出来ている。彼女の速さがどれほどのものか、今一把握は出来ていないけれど、それでも、的は自分のみ。自分に来ることが確定しているのであれば、対策は幾らでもある。
......やれる。
確信を持ったぬえは、文にバレないように気を付けつつ、右腕に妖力を集中させる。
警戒されれば、この作戦は早くも終了となってしまう。やられるがまま吹き飛ばされ、体勢を整えることが出来ない状況、という奴を演じつつ、ぬえはなるべく早く、妖力を集約させていった。
(......来るっ)
と思った時には、もう、すぐ傍まで迫られていた。文は右手を腰の辺りに添え、掌底の構えを取っている。今の勢いのままアレを食らえば、先程の突進と同等......否、それ以上のダメージも有り得るかもしれない。ともかく、食らえば致命傷になることは間違いないだろう。
――だが、それは向こうも同じである。
「!」
一瞬で、ぬえはいつもの体勢に戻り、妖力の集まった右腕を文へと向かわせる。それに驚いた文は、ほんの少しだけではあるが、失速した。ぬえにとっては嬉しい誤算だった――このままでは、文の攻撃の方が先に命中することは必至であったから。
そんな誤算を心の中で喜ぶ暇もなく、ぬえは、全力で右腕を振り切った。
大きく、空を切る音が聞こえた気がした。
手応えはない。
その情報から導き出される答えは、
――――空振り。
「残念でしたねぇ。だから言ったでしょう、幻想郷最速を舐めてもらっては困る、と」
失速したのは嬉しい誤算ではあったが、同時に、敗北のポイントでもあった。
あそこで失速していなければ、文は、ぬえの攻撃を避けることは出来なかっただろうに。
......しかし、あそこで失速していなければ、ぬえの攻撃が届く前に、文の掌底が炸裂したいた事を考えると。
結局、ぬえは負けていた。
だから、それ以前。
タイミングを外したこと。それが、ぬえの敗因だった。
「お疲れ様です。さようなら」
背後から、莫大な妖力を纏った何かが、迫る。
「避けなくちゃ」と思っても、身体が、動かない。そんなぬえに向かって、容赦のない攻撃が、降り下ろされた。
一発の霊力弾が飛来した。
その霊力弾は文の手元を狂わせる以外に、煙幕としての役割も持っていた。着弾と同時に煙が弾け、一時的にではあるものの、周辺の視界を悪くさせ、文の視界からは、ぬえだけでなく、それまで見えていた夕焼けに染まった空も、消えてしまった。
舌打ちをしつつ、文は上昇。煙の外に出て、これは何者の仕業なのかを確認。
答えはすぐに出た。
「......想也さん?」
ぬえを抱き、肩で息をしながら、想也は真っ直ぐと、文を見つめていた。
彼の目は、何とも表現し難い感情を孕んでいた。怒りや、悲しみや、動揺。その他様々な感情が混ざりに混ざりあい、本当に、表現し難い目をしている。
「......あら、もしかしなくても、想也さんのご友人でしたか? あやや、これは失礼」
へらへらと笑ってみせる文。
目は、全く笑ってなどいなかった。
「......ふふ、急用を思い出しましたよ。今日はこれくらいにしておきましょう。では、また。想也さん」
と。文は手を振って、飛び去っていく。
彼女が見えなくなると、想也は抱いていたぬえを離し、深く、息を吐いた後に、俯いた。
何分ほど、そうしていただろう。
どうしていいか分からなかったぬえは、一先ず、想也に話しかけた。
「......その。あり、がと」
ぎこちなく笑って、想也はそれに答える。
「......うん」
会話はこれ以上、続かなかった。
◆◆◆
小傘と会うのはどうしても嫌だったが、しかしかといって、このまま一人でぬえを帰らせた場合、どうなるか分からない。そのため、仕方なく、想也は彼女たちの住む家までぬえを送っていくことにした。正確には、彼女たちの住む家の近くまで、だが。
小傘と想也を会わせ想也に謝罪させる、というのが、ぬえが今回、想也の元まで来た理由だったが、先程のことがあったため、強く言うことは出来なかった。
「......あれ?」
家までもう少し、というところで、ぬえがぽつりと呟く。
「......小傘の他に、もう一人。......誰かの妖力を、感じる......!?」
瞬間、ぬえは一気に加速し、家へと向かう。
それに一瞬だけ動揺した想也だったが、『誰かの妖力』という言葉で、最悪の可能性が頭を過る。想也も急ぎ、ぬえを追いかけ始めた。
到着した時には、もう、終わっていた。
先程まで誰かが生活していたとは思えない程に、その家は、荒らされている。
「......こ、がさ?」
多々良 小傘は、寝室にて血塗れで倒れていた。
その彼女を抱き、必死に泣き叫ぶぬえ。それを呆然と見つめる想也。
血の海には、黒色の羽が、落ちていた。
地味に一周年でした。ありがとうございます。
でも、一周年&新年一回目を記念するはずの今回がこんな鬱回で、果たしてよかったのでしょうか。