*
神経を集中する。ただ目の前のことに打ち込む。視界に入るものを絞り、余計な情報をカットする。眼前に拡がる白と黒の世界。そこに、鼻につく消毒液の匂いや赤ん坊の泣き声は必要ない。その若者は静かに待った。
パチリ
対面する老人が石を置く。なるほど、定石だ。
パチリ
若い方も無難に定石で返す。その後もお互いに一歩も退かない攻防を繰り返した。盤面が白黒で埋まってゆく。そろそろ勝負がつくだろうか。
「
その若者―――灰がゆっくりと立ち上がる。老人に決着はまた次回、というと、老人はにこやかに親指を立てた。無い歯が光って見える。灰は簡単に片付けて診察室へ向かった。
中へはいると、担当の医師が待っていた。
「やあ灰くん、元気にしてるかい?」
「ええ、まぁ………。とくに変わったこともないです」
ふむ、と医師はカルテにメモをしていく。
「じゃあ少し診せてもらうね」
そう言ってペンライトを取りだし、灰の目を片方ずつ見ていく。
「変化は無さそうだね………」
再びカルテに書き込む。今時紙媒体とは珍しいな、と灰は思った。ちらとカルテを覗き込んでみるが、灰には読み取ることができなかった。あれはドイツ語だろうか?
「よし、ありがとう。今日の定期検診はこれで終わりかな。ああ、待って。少し話したいことがあるんだ」
終わりだ、と思い立ち上がろうとしていた灰を、医師は留めた。灰は不安を覚える。
「灰くんは今何歳だっけ?」
「………十七歳です」
手元のカルテに書いてあるであろう質問をあえて投げ掛けられた。医師の意図を図れずに、灰は困惑する。その姿を見て灰の気持ちを察したのか、医師は言葉を続けた。
「ごめんごめん、変なこと聞いちゃったね。ただ、もうそんなに大きくなったのかと思ってね。じゃあ、もうひとつ、質問いいかな」
うなずく灰を見て、医師は続けた。
「灰くん………君、手術を受けてみないかい?」
手術。
その言葉に灰は目を見開く。自分が手術………。今まで考えたこともなかった可能性に、頭が追い付けないでいた。
灰は物心ついたときから色が認識できない体質であった。一般の人間がみている世界が、灰にはすべてモノクロに見えるという。その事実に気がついたのは、小学校の美術の授業で同級生に指摘されたことが最初だった。医師曰く灰の症状は珍しいため、研究させてくれ、と頼まれていたのだ。
そんなわけで、幼い頃から世話になっている医師に、いきなり手術を持ち出された。………なぜ今ごろになってだろうか?
「灰くんの成長は今、円熟期を迎えつつあるんだ。肉体的にも、精神的にも、ね。君のような場合だと、成長中に手術を行うのはリスクが大きいんだ。だから今まで手術を提案しなかった」
医師は、もし灰が積極的に直したいと言ってきていたら適齢期まで待つように説得するつもりだったようだが、灰は他人と同じ世界を視たいと言ったことはなかった。
「ただ、二つほど問題もあってね」
医師は重い口調で続ける。
「さっきリスクの話をしたけど、成長したからといって零%になるわけではないんだ。つまり」
「失敗することもある、てことですか」
「………そういうことになるね。医師の腕に依らず、どうも個人の体質の問題らしい。なにせまだ発展途上だからね、わからないことも多い。今わかっているのは『どうすれば直せるのか』ということくらいなんだ」
目が見えなくなる………灰にとってそれは、絶望である。自分と感性の合わない人間の手を借りなくては生きていけないなんて………。
「そしてもうひとつは、まあ、これも精神的なものではあるんだけれど………」
そういって医師は言葉を詰まらせた。どう伝えるべきか言葉を選んでいるようだ。
「この手術は神経とかに手を加える方法を採るんだけど、手術したあとすぐには強い刺激を与えてはいけないんだ。神経や脳を傷つけることになるからね。だから手術痕が完全に治るまで、目のまわりを包帯で巻かせてもらう」
この意味がわかるかい、という医師の問いに、灰は首を横に振る。
「手術痕が完治するのには、個人差はあるけど、約一ヶ月くらいだと予想される。そのあいだ、もう何も視ることができないかもしれない、という恐怖と闘わなければいけなくなる」
それは、想像するよりもきっと辛いことであろう。もともと灰は恐いものから逃げがちな性質であった。しかし手術をしてしまえば逃げることは叶わないだろう。灰は襲い来る不安に抗う材料を持っていない。
「ここまでのことを踏まえて、決断は君にまかせる。僕に君の未来を決める権利は無いからね。もちろん受けてくれれば、医学の進歩、という意味で僕は嬉しいんだけどね」
そういえばTVなどで彼の名前を見たことがあったな、と灰は思った。
しかし彼は、医師の技量は関係なく失敗する可能性がある、と言った。
「俺、は………」
思考を回転させる。だが、ずっと同じところでだ。意見が堂々巡りを繰り広げている。
「まあ、直ぐに答えを出さなくてもいいよ。ゆっくり考えてくれてからでもいいから」
医師はそう告げ、その日の診察は終わった。一礼して診察室を出る。先ほど囲碁を打った老人はさすがにもう帰ってしまっていた。
灰は会計―――といっても金は払わなくもよかったが―――を済ませ、本棟をでる。
*
エントランスには多くの人が交錯している。さすが総合大学病院だ、と感心する。灰は人の間を縫うようにして進んでいった。………と、誰かとぶつかってしまった。灰も相手も避けきれなかったようだ。相手は灰と同じくらいの年頃の少女だった。
「っと、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
後ろによろめいた少女をすんでのところで手をつかんだ灰は、少女に謝る。しかし、少女の口から出たことばは、感謝でも謝罪でも、ましてや怒りでもない、灰の予想に反した言葉だった。
「あれれ……… 灰くん?」
「えっと………はい、灰ですが」
灰は見覚えのない少女に急に名前を呼ばれ、困惑する。
「やっぱり灰くんだ!久しぶりだあ。その様子だと私のこと、覚えてない感じかな?」
どうやら彼女は昔、灰と知り合っていいるようだった。
「んーとね、じゃあ私の名前。
灰は必死に脳内検索をかけるも、思い当たるものはない。少し申し訳なさそうに灰は菜乃花に問いただす。
「すみません、いつごろ出会ったんでしたっけ」
「そうだね………小学4年生くらいから一緒にいたかな。中学上がるときに私は引っ越しちゃったから………出会ったのは7年くらい前になるのかな」
小学校………灰にとっては嫌な記憶の方が多く、あまり良く覚えていなかった。確かいじめっこに対して積極的に注意していた子が居たような、と、当時の面影がうっすらと灰の頭に浮かぶ。だが、その程度だ。
「そっか………思い出せないか。でもまあ、また今から友達になればいいよね!そうだ、連絡先交換しようよ!」
菜乃花は素早く切り替えて、ポジティブに考えだした。灰はとくに断る理由はなかったので、連絡先を交換した。
その後も菜乃花と灰は雑談をしていた。妙に懐かしい感じがするのは、やはり過去に灰と関わりがあったということだろう。
「あ、時間が!灰くん、またね!」
灰にしては珍しく他人と楽しく話をしていたが、菜乃花が病院にいる理由を失念し、長い間引き留めてしまった。彼女も何かの用事で病院に来ていたのだ。灰はぎこちなく早歩きをする菜乃花を尻目に病院を後にした。
*
灰の家………もとい部屋は、病棟とは違う、寮のようなところにある。高校は大学病院の付属高校で、これもまた病院の敷地内にある。そのすべては、あの医師、藤堂に与えられたものであった。院長である彼は、研究対象である灰への報酬として一般的な生活と大学入学までのエスカレーターを用意してくれている。もちろん光熱費や食費もだ。そういうこともあり、灰は藤堂の頼みを断りづらく感じている。しかし………。
(目が見えなくなるのはなあ)
別に見えなくなると決まったわけではない。しかし、なった場合のことを考えるとこのままの方が幾分かマシであろう。なによりメリットを感じられない。今まで色が見えなくても生きてこれた。突然色が見えるようになったところで何になるというのか。
と、灰はずっとこんなことを考えていた。藤堂はこうとも言っていた。「灰くんには色が見えるようになって、ぜひ自分の視野を広げてほしいと僕は思っているんだ」と。灰はなにも変わらないんじゃないかと考えているのだが、何か変わるのだろうか。
灰は思考に息詰まり、明日の授業の予習を早々に切り上げ布団に寝ころがる。夕方ながらにうつらうつらしていると、灰の部屋を訪ねる者が一人、インターホンを鳴らす。覗き穴を覗くと、見知った影がそこにあった。
「よっす、灰。元気にしてたか?」
それは灰の友人の、
「なんだ、湊じゃないか」
突然の訪問者に灰は驚く。学校以外ではあまり会わないのはもちろん、灰の自宅をなぜか知っていることに。ふと手にしている紙袋に目を落とすと、理由がわかった。
「ああ、これな。学校で配られたプリントとか手紙な」
おそらくこの場所も学校から聞いたのだろう。
「しっかし、いいよな。学校と家がこんなに近くてさ。うらやましいぜ」
使命を果たしたはずの湊はしかし、すぐには帰ろうとせず、灰の部屋を眺めはじめる。灰も拒まず中へとひきいれた。
灰が急な客人にとりあえずのインスタントコーヒーを用意している間、湊はベッドの下やタンスの裏などをまさぐっていたらしいが、なにも見つからずに残念そうにしていた。部屋でくつろぐ湊を横目に、コーヒーをすする。
雑談をしながらしばらくしていると、湊が鞄からカサカサと何かを取り出す。
「灰もいるか?アメちゃん」
「おう、ありがとう」
灰はありがたくもらおうと手を伸ばす。が、湊からの甘い贈り物はなかなか届けられない。湊の方をみると、灰の目には湊が何か迷っているように映る。手にする袋には『カラフルあめだま』とある。
「どうした?」
「いやな、灰にどの色のアメをやろうかと思って」
存外しょうもないことに、灰は嘆息した。色の見えない灰にとってはどうでもいいことのように感ぜられた。
「なんでもいいんだけどなぁ………せっかくだし、お前の好きな色ってのをくれよ」
「あいよ。ホレ、何色か当ててみな」
灰の手に転がる黒っぽいアメ。一般人から見ればそれは赤なのだが、灰にはわからない。湊を見るといたずらっぽく笑っている。
「湊、お前、わかっててやるのやめてくれよ………」
当てずっぽうで答えて間違えるのも癪だった灰は、呆れた感じで湊にそう返した。
「ハハハ、ごめんごめん。それは赤色、イチゴ味だ」
灰はアメの正体がわかり、安心して口に放り込む………かと思いきや、灰はそのアメをいぶかしげに眺めたまま動かない。
「喰わないのか?イチゴ味苦手だっけ?」
「いや、そういう訳じゃないんだが」
色の話のせいで、灰の脳裏には先日の医師の話、手術のことがちらついていた。アメを手の内で転がし、考える。
「なあ、赤色ってどんな色だ?」
「珍しいな、そんなことを聞いてくるなんて」
灰は今までそういった類いの話を他人とすることを避けていた。だが、見えるかもしれないと、そう思うと、灰の知的好奇心はゆっくりと動き始めていた。
「しっかし、どんな色、ねぇ………。赤は赤、としか言えねぇだろ」
一つ灰が誤ったこと、それは相手が湊だったことだ。湊は昔から、(時おり鋭いことばを口にするが)基本的に感覚的な人間だと聞いている。だからこそ灰ともそこまで軋轢無く接することができるのだろうが、こういったことを聞くにあたっては不向きな人間だ。
「はぁ、まあいいや」
灰はあきらめ、好奇心を頭の外へ追いやることにした。
湊はコーヒーを飲み終えたころ、帰っていった。灰は湊が帰るまでアメ玉を眺めていたが、やがて口に含んだ。
「ん、甘い」
聞いた話によると、色によって味覚は大きく左右されるらしい。湊に出してやったコーヒーもこのアメ玉も同じ色に見える灰では、その事を理解するこができない。ただ、確実に理解できることがあるとすればそれは
「湊のやつ、アメ舐めながらコーヒー飲んでたのかよ」
湊の味覚がおかしいということだろうか。
*
菜乃花と灰が病院で会ってから一ヶ月程過ぎたある休日、菜乃花は病院の敷地内の公園で灰を待っていた。彼とはこの一ヶ月の間もちょこちょこメッセージを交換しており、彼らの仲も大分深まってきていた。
ベンチに腰かける。先日までの残暑も過ぎ去り、過ごしやすい季節となってきた。公園では小さな子供たちが元気に走り回っている。菜乃花は膝に置いた手をぎゅっと握りしめる。時計を確認すると、待ち合わせまでまだ十五分はある。さすがに早すぎたか、とかばんの中のものを取り出そうとしたところ、こちらに向かってきている灰の姿が目に入った。
「おーい!」
手を振る菜乃花に応えて灰も手を挙げる。その顔は、何か思い悩んでいるようにも見える。
「悪いな、相談したいことがある、なんて言っちゃって」
灰は、菜乃花に相談を持ちかけていた。メッセージでもできる話ではあったのだが、菜乃花からの"直接会って話したい"との申し出を受け入れ公園で待ち合わせたのだった。
「いいよ、いいよ。私も会いたかったし」
わざわざ直接会いに、集合時間よりだいぶ早く公園で待っている様子を見るに、相談事を迷惑には思っていないのだろう。
「それで、ざっとしか聞いてないんだけど………手術を受けるか迷ってるんだっけ?」
「うん、そうなんだよ」
灰は、医師に手術をすすめられたこと、リスクについて、受けるメリットが感じられないことなど、懇切丁寧に話した。菜乃花は一生懸命にメモをとってくれている。
一通り話終え、菜乃花に意見を問う。
「うーん、これは………………最終的には灰くんが決めること、決めなきゃいけないことだと、私は思う。ただ、私個人の意見としては、灰くんには色が見えるようになって欲しい………かな」
「どうしてだ?」
「どうしてって………灰くんは覚えてないと思うけど、小学校のころ、授業の終わりにすっごく綺麗に虹が出たことがあってさ」
菜乃花曰く、当時の灰は「空のところがぐにゃってなってるのを見て、何でみんな楽しそうなのかわからない。みんなと同じものが見てみたい」と言っていたらしい。
「だから………他のみんなが窓際に集まってる中、灰くんだけ一人淋しそうにしてたのがかわいそうだったから………かな」
「でも、今は別に虹が見たいなんて思ってないし、見えたところでそれをみんなと同じようにキレイだと思えるかどうかなんて、そんなのわかんないよ」
自分から相談を持ちかけておいて否定的なことばかり口にする灰を見て、菜乃花はどう思うのだろうか、灰は気づいていない。それどころか、応援が欲しいのか手術をしない理由が欲しいのかも、灰にはわかっていなかった。
しかし菜乃花は―――殊に他人とのつきあい方に関しては、とても優秀な人間であった。
「そんなことだろうと思って、私は秘策を用意しちゃってます!」
そういって彼女は一冊のノートを取り出した。灰は、どうぞと手渡されたそれを開く。中には一頁につき三つ程のいろいろな"濃さ"の丸と、その丸の色に関する説明が、とても細やかに書かれていた。文章には推敲の痕であろう、消ゴムの影が残っている。言葉遣いの節々からも、彼女の優しさが感じられる。
「これって………」
「私のオリジナル色辞典です!灰くんに色に興味を持ってもらうのが、私の今日の目標でーす」
菜乃花はノートを灰と共に見るべく、肩身を寄せる。ふわりと香る柑橘系の匂いに、灰の息が詰まった。だが菜乃花はお構い無しといったように色の説明をしようとする。
「色の順番は紫から赤の、虹の順番にしてあって、それぞれの元の色をおおざっぱに彩度、明度別にして並べてあるんだけど………、それは、見えるようになってからでもいいかな」
一頁目には、灰にも解りやすいように彩度、明度について説明が為されている。が、それでも色を知らない者にとっては飲み込むのに時間がかかる。灰は表面上の言葉だけは理解し、次の頁へ進む。
「せっかくだし、いくつかピックアップして紹介するね。まずは青色かな」
菜乃花は青の項目の頁を開く。『青』というだけでも相当な種類が存在するということが、灰にも理解できる。
「青は、静かで落ち着いた気持ちになれるような、そんな色かな。涼しいとか寒いっていうのも青系の色から感じられるイメージなんだよ」
「じゃあこれは?」
「この白みがかった青色は水色って言って、氷とかの冷たいもののイメージがあるよ。ソーダ味のお菓子とかも、この色で彩られていることが多いね」
「なるほど………」
というような感じで、菜乃花の説明はテンポよく進んでいった。
緑系の色、黄系の色と進んで行き、最後に赤系の色の説明に入った。
「赤は、なんと言っても、こう………暑く燃え上がるような?そんなイメージかな。例えば炎だったり、あとは………」
「血の色」
ボソッとほんの小さい声で灰が口走った。いや、灰の口からこぼれ落ちた。この発言に驚いたのは、菜乃花ではない。灰自信が最も驚いていた。
妙な間が、二人の間に流れる。そう感じたのは、灰だけだったかもしれない。何秒も経ってから、菜乃花が話し出す。灰にはそう感じた。
「………そう!よく知ってたね?こんな情熱的な色が身体中を駆け巡っているなんて、生き物ってなんて素敵なんだろうって私は思うな」
菜乃花の言葉は灰には届かなかった。灰は先程から停止したままだ。灰の顎を変に粘ついた汗が流れ落ちた。
「俺はなんで血が赤いなんて知ってるんだ?」
「んー、昔に湊くんに聞いたとか?」
小さく呟いた灰の自分に向けた言葉に、菜乃花はそう答えた。菜乃花は灰の様子に気が付いていないのだろうか?
「………あっ」
菜乃花は何かに気付き、様子がおかしい灰を見て安堵した。そして同時に灰の異変にも気が付く。
「灰くん、大丈夫?目がすごい痙攣してるけど………」
菜乃花の呼び掛けに、灰はようやくハッとなった。
「あ、ああ。すまん。少しぼぅっとしてた」
あわてて取り繕い、ノートをペラペラとめくる。赤の項目にざっと目を通す。
「そ、そういえば、菜乃花はどの色が好きなんだ?」
「えっとね、私が好きなのは、これ!」
菜乃花はノートのその頁を開き、指差す。それは黄の頁のある一色だった。
「これはね、『菜の花色』って言われてる色で、私の名前でもある菜の花の色なんだよ!『菜種色』とも言うんだけどね。私の色!」
楽しそうに笑う菜乃花は、先程までの灰の動揺を吹き飛ばした。灰は、目の前の愛らしい女性がどのような色なのか、知りたいと思った。自分のためでなく、彼女と並んで色のある景色を、世界を、見たいと思っていた。
「どうかな、興味持ってくれた?」
「あぁ、本当にありがとう。これ、もらってもいい?」
「もちろん!だって灰くんのために描いてきたんだもん!」
その言葉を聞き、灰はノートを大事そうに抱えた。菜乃花を腕のなかに感じた。手術の意味が、光が、灰の未来を朧気に照らしだした、そんな気分だった。
「なぁ、菜乃花。色を見られるようになったらなんだけどさ」
「?」
「色がみられるようになったら、二人で、いろんな世界を見に行きたいんだ。一緒に。どう……かな」
「う、うん!よろこんで!!」
菜乃花は、とてつもなく明るい、不自然なほど明るい笑顔で、そう答えた。
「今日は本当にありがとうな。今からの予定は、何かあるのか?」
「いや、そろそろお母さんが迎えにくる時間だから、車で帰る予定だよ」
「そうか、じゃあ、また今度な」
「うん!」
こうして彼らは別れた。菜乃花は灰と別れたあとも、動こうとしなかった。しばらくして、彼女の後ろに誰かが立つ。菜乃花はそれが誰だか、見なくても解った。
「よう、人生のやりたいこと、全部できたか?」
「………なにしに来たの?」
「おぃおぃ、かの吉良吉影の言葉を知らないのか?」
「………ええ、できた。もう私のやりたいことはすべて終わりました」
「そうか、よかったな」
彼は終始へらへらとした態度をとり続けた。菜乃花は彼のそういった態度、そしてデリカシーのない物言いがひどく嫌いであった。
「きっと灰は、手術を受けるぜ。ありゃ漢の目だ。今頃帰ってお前のことオカズにでもしてるはずだぜ」
刹那、菜乃花の拳が彼に向かった。しかし、彼女の拳は空を切る。………届かない。
「おっと、怒らせちまったか。だがお前も灰のこと好きなんだろ?だったらいいじゃねぇか」
「彼はそんな人じゃ………ない」
どうだかねぇ、と鼻で笑うように、彼は言った。
「じゃあさよならな、灰によろしく言っといてくれ」
彼は手をヒラヒラとさせて帰っていった。結局彼は何がしたかったのか。ただ、その読めない考えの上で転がされていることは、菜乃花にはなんとなくわかっていた。自分がしたいことをしている筈なのに。
「さ、私も帰りましょう」
そういって、菜乃花はゆっくり、ゆっくりと帰っていった。
見やすさ改善のため、分割しました。
種明かし編、「虹色の灰」絶賛執筆中。
かみんぐ すぐ………