―――この世界のどこかに幸福があるとすれば、それは同時に、どこかに幸福に劣る不幸が存在している証明である。
暗闇が支配する小さな空間には、狂気に蠢く人影があった。
六畳間の和室。襖を閉め切り部屋の柱とそれに接しているマス縁には掛金が付いており、無骨な南京錠がかかっている。一つだけではなく、十は越えるだろう複数に亘って大小様々な種類が不気味に付いている。さらに窓は外から中の様子が見えないようカーテンで閉め切り、さらにその上からガムテープを無造作に、規則性を冒涜するかのよう四方八方に張り付けられている。
防音性はともかく、一室の空間を隔絶するには十分な、しかし病的な施錠は何の為だろうか。他愛ない疑問は浮上することなく、当たり前に繰り返される行為によって現れている。
―――音がする。
鈍く重く高い音が繰り返し、ステーキの肉を叩くときのような音がする。
それもその筈。蠢く人影が手に持っているのは文字通り肉叩きだった。本来なら肉を柔らかくする為に使うソレは、食品ではなく人に向けられている。他でもない自分の子供に。
主に上半身と太腿を集中的に叩いているのは、そこが一番やりやすいからだろうか、責め苦を受ける子供―――榊原幸希は反抗の意思など持たず、ただされるがまま畳に跪いている。
自分に苦痛を与え続ける親に憎しみは無かった。あるのはやりきれないという思いだけ。
この惨状が既にどうしようもない、治療の施しようがない致命傷であるのは明白だった。それだけに、幸希はやりきれない思いを懐かずにはいられない。
「―――! ―――! ……―――っ!」
狂乱した様子で何かを言っているが、相手が肉叩きを使用する前に繰り出した、強烈なフライパンでの横殴りのせいで耳が良く聞こえない。
幸い鼓膜は破れていないのは経験でわかった。単に衝撃で一時的に聴覚が麻痺しているだけだろう。病院に行く羽目にならず内心で幸希は安堵した。
病院に行けば自分がいま晒されている状況をさとられる恐れがある。そうなれば話しは大きくなるだろう―――警察沙汰を一瞬心配したが、己の世間での日ごろの行いからそれはないだろうと切り捨てた―――真偽の程は知らずとも、身の回りの人間に話が届くのは時間の問題だ。
幸希としては、それはどうあっても避けたい。
肉叩きが飽きたのか殴打するのは止め手放した。ごとんと音を立てて肉叩きの頭が少し畳に沈んだ。幸希の親は次に何をするのか予定でもあるかのように、和室の隅にある古めかしい机に並んでいる器具を手に持った。
殆どが一般家庭にあるだろう器具が並んでいる机の上だけが、この部屋の中で綺麗だった。
長く使用している弊害をものともさせず磨かれた古めかしい机。一定の間隔で正確に並べられた器具。端には何かを書き留めたメモが一纏めの束になって置いてあった。
何故この一角だけ異質なのか、幸希にはわかっていた。
「(まだ……こんなモノが無ければ生きていけないのかよ。あんたは)」
これは証だ。
幸希が暴力を受け続ける証であり、暴力を振い続ける親の証である。
他人から見れば馬鹿馬鹿しくてゴミ箱に捨てるような物だが、これがこの家族の生命線でもあった。だから幸希は何もしない。反撃などするわけもない、ただの木偶となるしかなかった。
だけどこの日の幸希は、明日に杏の家に行くという予定がある。それ故に、これまでとは違った行動を衝動的にとってしまった。理由は単純に、明日になって目立つ傷を出来ればあまり増やしたくなかったから。言い訳が通じるだろうレベルに留めておきたいから。
咄嗟に突き出した手で相手の振う腕を掴む。片方だけでは空いた腕が襲い掛かってくるので、同時に抑えるのを忘れない。長年の喧嘩の経験がこんな所で生きる事になるとは、これっぽっちも思っていなかった。
動きを止められた親は、この幸希の予測出来なかった行動に、途端に不安と恐怖に顔を歪め崩れ落ちた。小さく蹲り、でも幸希に掴まれた両腕だけが力が抜けた状態で伸びていた。
握る腕を痛めないよう僅かに力を緩めて、同じ目線の高さになった親を見据える。目の前の相手は蹲り顔も伏しているせいで視線が交わる事はなかった。
―――率直に、哀れだと思った。
「なぁ……もう、やめよう」
優位に立っているのはどちらなのだろうか。そう思わせるほどに幸希の声には力が籠っている。
怒りではない。憎しみでもない。たった一つの願いを込めて、幸希は言葉にする。
一言。この一言を言えばこの人は大人しくなる。それを自分は知っている。ただ一言、それを口にすれば済む話だ。
この時初めて幸希は認めがたい感情が湧き上がった。彼にとってこの状況を脱する事が出来る魔法の言葉は、出来る事なら言いたくない呪詛のようなものだ。その言葉は今を―――“親”を認めることの言質になってしまうから。
しかし、背に腹は代えられない。
事態が露見するのと、今を食いしばって乗り越えるのであれば、最終的に幸希の天秤は後者に傾いた。
「―――親父」
※
朝である。新しい朝だ、希望の朝だ。
清々しい天気の下で歩くのは心地が良い。昔はこんな陽気には体力作りの為にランニングをしていたが、今となってはそれももう必要ないな。
サッカーはもうやらない。俺は……いや、俺達はあの場所にはもう戻れないし、戻るつもりもない。これは隣で能天気な顔して歩いている春原も同じだろう。
「昔は、こんな天気にはよくランニングしてたよね」
同じことを思ってたのか、春原は空を見上げる。釣られて俺もまた同じように見上げてみる。
雲一つない青天は広大にどこまでも広がっている。そう、どこまでも。例えどこまで行こうとも、空は変わらず俺達を見下ろし続ける。
「珍しいな、お前が昔の話をするなんて。思い出すだけでも嫌な思い出じゃないのか?」
「別に僕はサッカーが嫌いになったわけじゃないよ。嫌いなのは……あの“場所”だけだ」
一拍置いて吐き出した声には間違いなく、唾棄に似た感情が含まれていた。
あの場所。つまりは俺達が昔在籍していたサッカー部の事だろう。乱闘騒ぎを起こして辞める羽目になった元居場所。嫌ったのはサッカーそのものではなく、それを取り巻く環境だった。
「もし、あの場所が俺達にとって居心地のいい場所になったら、お前はまた始めるか?」
「ありえないね。未練が無いって言ったら嘘になるけど、それよりも楽しい事を僕はもう知っちゃったから」
楽しい事? 軽く鼻で笑い飛ばして春原は、空から視線を外して俺の方を向いてきた。
「だって、こうやって榊原や岡崎と馬鹿やってる方が僕には楽しいからね」
「……ばーか、いま良い事言ったな自分とか思っただろ」
「あ、ばれた?」
「そういうの、女子の前じゃやらない方が良いぞ」
「なんでだよ? 絶対いけると思うんだけどな」
「絶対ボロが出て倍幻滅されるのが落ちに決まってるだろ。お前馬鹿なんだから」
馬鹿をやらずにはいられないから、こうしていつも付いて回ってるんだろうな。どいつもこいつも救いようがない。
部活っていうコミュニティから爪弾きにされて、学校そのものにすら居場所をなくした俺達は身を寄せ合った。それは決して傷のなめ合いとか、そういうサブイボが立つようなもんじゃなくて、どっちかと言うと類は友を呼ぶと言うやつなんだろう。春原と類というのは非常に遺憾だが、これ以外に適切な言葉が思いつかない。
周りがみんな勉強とか受験が日常だと思ってたりするつまらない連中とは違う、娯楽を大事にする奴だと思ったのだ。だから、俺もこいつらから離れるような事がなかった。
「それにしても、委員長の家って楽しみだなぁ。やっぱり部屋とかも、女の子らしくて可愛い感じなのかな」
「下着漁ったら殺すからな」
「言いがかりと同時に脅迫って、あんたどんだけ僕のこと信用してないんすかっ!」
「でも一瞬考えただろ?」
「…………」
露骨に視線をそらす春原。何でもないような素振りを本人は意識してるんだろうが、ハッキリ言って白々しい。バレバレだ。
制裁としてたまたま持っていた爆竹を春原のパンツの中に入れる事にした。
「ひょっ!?」
乾いた音がした瞬間、心臓がひっくり返ったような裏声で短く悲鳴を上げ、そのまま空を仰ぎ見て背中から倒れた。
金髪なんて髪してるくせに、内面が小心者だからこういうのには弱い。多分、その内小学生にも負けそうな気がする。
杏の家は迷うことなく無事到着出来た。当然だろう、俺が杏の家への道のりを間違えるわけなんてないんだから。愛の度量が違う。
しかし、思ったよりも時間がかかってしまった。予定なら十分は早く到着できたはずなんだけど。原因である後方から遅れて付いてくる春原に振り返る。
「お前のせいで予定時間よりも遅くなっちまったぞ、どうしてくれる」
「そりゃこっちの台詞だよ! おまえが僕にあんな事するからこうなったんでしょ」
「あれは春原に巣食う虫を退治するために、仕方なくやったことなんだよ。これから人様の家に入るっていうのに、害虫なんか持ち込んだら不味いだろ」
「どんだけ不潔な存在なの僕!?」
糾弾する春原を無視して杏の家の門に付いているインターホンに手を伸ばす。これまで幾度となく彼女の後を警護してきた俺だが、実は家を訊ねるのは初めての事である。
緊張で体が震えて、上手くボタンを押す事が出来ない。というか、ここまで来て不在だったらどうしようとか、なんでウチをしってるの? とか不気味に思われたらどうしよう、とかネガティブな想像ばかりが広がってしまう。
あ、不味い。なんか怖くなってきた。どうしよう、帰るか? でもここまで来てそれも、いやこんなのいつもの事だし……でも春原が居るし。そうだよ春原が居るんだから、なにも俺が気味悪く思われる可能性は少ないだろう。その為に春原とその妹を出汁にしたんだ。
「なに固まってんのさ、早く呼ぼうよ」
「……あっ? っておいお前何っ……」
葛藤の渦に呑み込まれてて気が付かなかった。
声がしたかと思えば、横から春原の腕が伸びてあっという間にインターホンを押していた。なんだか横取りされたような、そんな悔しい気持ちが少しあった。
「なに先に押してんだよっ」
「え、だっていつまで経っても押さないで固まってるから。何かいけなかった?」
「……なにもいけなくねぇよ」
ボタン一つに腹を立てる程狭量じゃないし、むしろ俺が出来なかった事を何も考えていない馬鹿がやってくれたんだ。感謝するべきだろう、けどそれをしたら増長するのは目に見えてるから絶対にやらない。
インターホンを押したら、家の方から家主を呼び出す電子音がした。暫くそのままで待っていると「はーいっ」って声が返って来た。間違いなく杏の声だった。俺が聞き間違えるわけがない。
心臓の鼓動が次第に大きくなっていくのを感じ抑えていると、扉が開いた。
―――私服の杏が現れた。
「あれっ? あんた達、どうしたの? てかなんでウチしってるの?」
案の定杏は質問を投げかけて来るが、私服のインパクトで思考回路が上手く回らず返答できない。
見かねたのか春原が一歩俺より前に踏み出した。
「芽衣を迎えに来たんだよ。榊原がどこか連れて行ってやろうって言うから」
「へぇー、案外お兄ちゃんしてるじゃんあんたも」
「僕じゃなくて、提案したのは榊原だよっ」
「はいはい、幸希も結構いいとこあるわね。ちょうど良い、あたしと椋も一緒に行くわ。……椋ー、芽衣ちゃーん、出かけるわよー!?」
黙っていたら福の方から歩いてやってきた! よくやったぞ春原! 後で何か奢ってやろう。
杏は呼びかけながら踵を返して家へと戻って行った。ばたんと扉が閉まり、春原と俺は外に置き去りにされた。
束の間待っていると、今度は椋と芽衣を引き連れて三人が出てきた。当然、みんな学校が休みなので私服である。
「で? どこに行くつもりだったのあんたら?」
「えっ……?」
やべっ、何も考えてなかった。つい素っ頓狂な声を出してしまい、杏は訝しんで俺を見てる。どうしようどこに行こう、こういう時は……これまで培ってきた漫画や雑誌の知識を知恵に変換して昇華するんだ。
「もしかして何も決めてなかったわけ?」
「んなわけないだろっ、ちゃんと決めてたさ、ほら行くぞお前ら着いてこい!」
先陣を切って歩きだす。あれ、そういえば俺杏の家に入れなかったな……。こんなチャンス次はいつ来ることやら。
さて目的地は何処にしよう。こういうとき少女漫画だったら―――駄目だ、俺が読んでるのって大体主人公の好きな男はイケメンで完璧な男ばかりだ。そのどちらでもない俺じゃあ適応できないじゃないか。
どうしよう、とりあえず商店街の方にでも向かうか。
※
昼前の商店街は、休日という事もあってか人で賑わっていた。
この町よりも田舎から遥々やってきた春原芽衣は、好奇心に満ちた眼差しで通り過ぎる建物や景色を片っ端から目に焼き付けていた。
兄の様子を見に来たのが本来の目的ではあるが、そこは年頃の女の子。都会への憧れを少なからず懐いていた芽衣からすれば、この機会を逃すという選択肢は存在しなかった。
前を歩く幸希の少し後方、椋と杏が並んで歩いている横にちゃっかり陣取っている陽平が笑っている。サッカー部を辞めてからの兄が、他に何か打ち込めるものがあるのか、生活に苦労してはいないか等の心配をしていた芽衣から見て、兄への心配は未だ拭えない。
せめて彼女の一人でもいれば、この心配事からも綺麗さっぱり別れを告げられるのだが……。唯一仲がよさそうな前方を歩く姉妹は、それぞれがそれぞれの想い人がいるのを知ってしまっている。
学校で兄がどんな生活をしているのか昨日の晩に訊いてみたが、彼女の“か”の字も脈がありそうな女性はいなかった。
「(ホント、大丈夫なのかなお兄ちゃんは……)」
芽衣は集団から少し遅れて後ろを歩き、見られないように兄への憂慮を吐息にして吐き出した。
今は楽しもう。せっかく案内を提案してくれた幸希の気遣いに報いるよう、精一杯今日と言う日を満喫しよう。そして、あわよくば椋の恋路を応援すべく、自分も出来る限りのサポートをしよう。
胸の前で小さく握り拳をつくり意気込んだ芽衣は、椋の恋愛対象になっている相手へ改めて視線を向けた。
「(……あれっ?)」
恋路を手伝うならまずは相手の事を詳しく知るべきだ、と芽衣は思っておりそれを遂行すべく幸希の動向を観察していた。
芽衣から見てまだわからない事だらけの幸希は、よく見ると隙さえあればいつも杏の顔を窺うように盗み見ている。そして彼女の反応に一喜一憂している。懸命に話に入っている椋など、まるで目に入っていない。
「(杏さんは昨日、榊原さんに好きな人がいるかもしれないって言ってたけど……これって、もしかしたら)」
昨晩、根掘り葉掘り聞いた後に、協力をかって出た芽衣はまず幸希について色々と二人から話を伺っていた。その時に杏が呟いた言葉が、今になって鮮明によみがえってくる。
―――でもあいつ、椋にも話したんだけど……もしかしたら好きな人がいそうな感じがするのよね。
乙女の恋愛思考回路は時に物凄い回転数で回り、とてつもない解答を導き出す。
杏の発現をあの夜は話半分に聞いていたが、今はそれが本当なのかもしれないという予感と―――もし本当なら、この恋はどうしようもないくらいに報われないだろう、という悪寒がした。
「(榊原さんの事が好きな椋さん。そして、杏さんの事が好きな榊原さん。なのに、杏さんが好きなのは、榊原さんの親友の岡崎さん)」
全てが一方的で、全てが噛み合わない。
勘が間違ってなければ、いや、間違ってくれた方がどれだけ楽か。それでも、否定する程見当違いとも思えない。だからこそ芽衣は一人、この関係に気が付き胸が痛くなった。
だって、こんなの誰も幸せになれない。一歩踏み込めば、みんな傷つき涙する。これを恋だとは定義したくなかった。
辛い思いをするだけの感情が恋と言うならば、いつか誰かに恋するだろう自分もまた、こんな想いを懐くのだろうか。そう思うと恋なんてしない方が良いと思ってしまう、それが嫌だから否定したかった。
「(この事を椋さんに……駄目、こんなのを言ったら二人の姉妹関係まで壊れちゃう)」
いま椋が幸希にいくらアピールした所で、暖簾に腕押しだろう。何処まで続いているかわからない綱を、暗闇の中でひたすら手繰り続けるのと変わらない。
なんとしても早まった行動をさせてはいけない。椋の状況は額に銃口を向けられているのとなんら違いないのだから。ただ一言、“銃を持つ者にとって打ちたくなるような言葉”を言ってしまったら最後、椋は拒絶の弾丸で打ち抜かれしまう。そうなった時、果たして彼女が立ち直るまでにどれぐらいの涙を嵩増せばいいのだろう。
「(駄目……どんなに考えてもわたしじゃ何も思いつかないっ)」
所詮自分は部外者。この三角関係には入る事が出来ない。
なら、自分よりも近い関係にある誰かに伝えれば。しかし、それには非常に狭い条件が積み重なる。この町の住人である芽衣に、そんな交友関係などあるわけもない。
杏と椋の知り合いで、何より幸希と親しいかつ、秘密を絶対に漏らさないだろうという信頼をおける人物など―――。
「(あっ……!)」
袋小路かと思われた道が一気に開けた。
目の前にいるのは誰だ? あれは自分の家族だ、普段は乱暴で目立ちたがり屋ではあるが、こと真剣な事になれば真面目に受け止めてくれる、信頼できる人物だ。
「(お兄ちゃんなら、もしかして……)」
天啓のようにひらめいた案だったが、抵抗もあった。
まずそこまでしてこの一件に首を突っ込んでも良いのだろうか、という遠慮があったのだ。それに椋はまだ告白をするつもりはないときっぱり言っていた。ならばここはまだ静観していた方が得策なのでは。
「(それにまだ、榊原さんが本当に杏さんの事が好きなのか、確信があるわけでもないし……)」
結局のところ憶測でしかない。心の隅では間違いないと警鐘を鳴らしているが、浅慮によって起こした行動が何を招くのか、それを恐れた芽衣は自分を誤魔化すしかなかった。
まだ中学生という年頃なら、むしろ賢い選択だと思うだろう。よって、最終的に芽衣は幸希が本当の所、いったい誰が好きなのかを確信するまでは黙っていようと決めた。
長考の末、やはりとるべき行動は幸希の事を探るという、最初に思ったものだった。
※
クレープ屋に行き、おもちゃ屋のおっさんとチャンバラごっこをしたり、ゲームセンターでプリクラを撮ったりと遊びまわった後、俺達はすっかり日が暮れた夕焼け空の下、帰路についていた。
思いつきで行動していたが、案外それでも何とかなった。行く場所に困れば杏や椋があそこに行きたいだのなんだのと、意見を言ってくれたおかげで必要以上に悩むことも無かった。
芽衣も楽しかったのか、ゲームセンターで撮ったプリクラを見てにこにこしている。五人集まって一斉にとった集合写真みたいになっているが、彼女にとってはそれでも良かったのだろう。どうしてか、俺だけ椋と二人で撮る羽目になったのはいまでも納得いかない。それなら俺は杏と一緒に撮影したかった。さりげなく肩を抱いたりして。
「日も暮れてきたし、そろそろ帰る?」
「そうだな、俺もこれからバイトに行かなくちゃならないし」
そろそろ稼いでおかないと。
俺の発言に、杏は意外そうな顔をしていた。
「学校は遅刻ばっかりするクセに、バイトになるとホントあんたって真面目よね」
「バイトは金を貰ってるからな、遅刻したら減給になっちまうんだよ」
「なら学校だってお金払って通ってるんだから、勿体無いとか思わないの? そう考えれば結構遅刻することもないんじゃない?」
「そんな思考操作しなくたって、最近は遅刻せずに行ってたぞ。お前の妹がそれを証明してくれる、なぁ椋?」
「はい、お姉ちゃんが注意してから、榊原くん最近は遅刻しなかったんですよ」
何がそんなに嬉しいのか、椋は笑顔でそう答えた。
杏はその椋の言葉に嘘がないと判断したのか、真偽を吟味するような難しい顔をしたかと思えば、一転して顔を綻ばせた。不覚にも、その表情に血が熱くなるのを感じた。
「ま、ちゃんと来てるなら良いのよ。遅刻しないで行くのは、あんたの為でもあるんだからね。ただでさえ停学なんてくらって大変なんだから、卒業出来なくなったら椋が悲しむわよ」
「悲しむって……お姉ちゃんっ、そんな事言わなくても」
「椋を泣かせるような事だけは、しないでよ幸希?」
「……ああ、わかったよ」
俺と一緒に卒業したいって、暗にそう言ってんだよな杏は。まったく、妹を建前にしないと言えないなんて素直じゃないんだから。
頬が緩むのを感じてだらしない顔になってると思い、ばれないように顔を逸らすと、春原と芽衣が普通に仲良さそうにして歩いていた。
「これからどうする? もう結構いい時間だけど」
春原の意見には同意出来る。確かにもうそろそろ時間的にも晩飯時と言っても差支えないだろう。
「暗くなってきたし、ここらで解散するか? ちょうど分かれ道だし」
「そうね、あたしも晩御飯の準備しなくちゃいけないし、そろそろ帰りましょうか」
「芽衣ちゃん、今日も家に泊まっていきますよね?」
「良いんですか? 二日も連続で泊まっていって」
そのつもりじゃなかったのか、、芽衣は遠慮がちにそう言った。
人の良い椋の事だから、そんな事気にするまでもないだろう。現に、彼女は芽衣の言葉に慈愛のこもった笑みで答えた。
「勿論です、わたしは芽衣ちゃんが泊まってくれると嬉しいです」
「えへへ、それじゃあお言葉に甘えますっ。椋さん、杏さん、今夜もお世話になります」
今夜も芽衣は杏の家に一泊か。俺も女だったら遠慮する事無くお泊りを所望するんだが……。
分かれ道に差し掛かり、芽衣が春原に軽く挨拶をして杏達の方へと駆け寄って行った。
「それじゃあまた学校で。幸希は来週ね、今度はせめて喧嘩してもばれないようにしなさいよー」
「榊原さん、春原さん今日はありがとうございました」
「明日はわたしがそっちに行くから、ちゃんと待っててよねお兄ちゃん」
別れを告げ三人は俺達に背を向けて帰って行った。こうしてみると、三姉妹に見えなくもない、仲睦まじさだった。芽衣の適応能力というか、人間社会に溶け込む能力は兄貴なんかよりよっぽど優秀だった。
肝心の春原は妹の最後の言葉に「まったく、これじゃあ明日は昼まで寝れないじゃん」とか文句を垂れながら、しかし表情はどう見ても嫌そうには見えなかった。
「このシスコン」
「いきなり何言うんだよっ」
「違うのか?」
「違うに決まってるだろっ、ったく最近のお前、何かと僕に暴言とか暴行ばっかじゃない? ちょっとそういうの控えろよ」
溜息を吐いたかと思えば、説教をしてきた。珍しく真剣な表情で。
「すまん、ドがつくほどのMのお前が喜んでくれるかと思って」
「いつ僕がそんなこといったんっすかねぇっ」
「前世で僕は君の奴隷でした、どうぞ思う存分痛めつけて下さいって入学当初に自己紹介してたじゃん」
「あっさり過去を捏造するなよっ! それじゃあ僕が変態みたいじゃんか!」
いや、これを除いてもお前は十分に変態としての素養もあれば言動をしてるだろ。
岡崎からの話によれば坂上に因縁をつけた時には、男子トイレに誘い入れたり、おっぱいの貸し出しを要求したりと、色々セクハラをしまくっていたらしい。大体岡崎の陰謀なのはわかるが、普通そんなのおかしいと思うだろ。
「まぁ、待て。この話を聞けばお前も自分の性癖に納得がいくだろう」
「な、なんだよ……だから僕はMじゃないって」
「お前は俺と出会った時、前世で俺の奴隷でしかもドMだった記憶を思い出した。それは、衝撃だった。お前は自分の性癖に辟易して毎日苦悩していた」
話し始めると、春原は大人しくなって話を聞き始めた。単純なのか、素直なのか……きっと馬鹿なんだろう。
「そしてある日、お前は気づいた。……そうだ、実際に叩かれてみればいいんだ。気持ち良くならなければ僕はMじゃない。そう思いついたお前は、俺に懇願してきた。
どうか、僕を殴ってください……と。そして……俺はこいつがMだと確信した。な、やっぱりお前はドMじゃん」
「なんでそこで終わるのさ! 途中までまともに進んだかと思えば、お前が勝手に思い込んでただけじゃん! というか、それも捏造だよっ」
「チッ、わかったよ」
「舌打ちっ!?」
春原で遊ぶのをやめて、俺はこいつの住んでる寮の方へと足を向けた。
途中、何処かの店で何か買って、春原の部屋でいつも通り深夜近くまで時間を潰すとしよう。最終的に、泊まるかどうかはそれから決めよう。岡崎は死んでもそれだけはしないっていつだったか言ってたけど。
夕焼け空がアスファルトや建物までも茜色に染める風景を眺めながら進む。すると、いつだったか学校をサボった日にオッサンと野球をした公園まで来ていた。反対側を見れば、この間あさりパンをただでくれた古河パンが建っている。
ちょうどいいや、晩飯はパンで簡単に済ませよう。
「春原、先帰っててくれ。俺は晩飯かってくから」
「あいよ、そんじゃあな」
ドライに挨拶を交わして春原と別れた。
古河パンの前まで来る。今日はさっき見た公園にはガキ共がいなかったから、オッサンが店番をしてるだろうか。なんにせよ、また古河の母親でも来てくれればタダでくれたら嬉しいのだが。
「こんちゃーっす」
ガラスの引き戸を開けて中に入ったが、店内には人が一人も居なかった。いいのか、こんな適当な営業で。よく潰れないなこの店。
暫く誰かが出てくるのを待ってみたが、一向に出てくる様子がない。もしかし留守なのか? いや、でも上からおっさんらしき声の雄叫びが聞こえるんだが……。
「おーい! 誰か居ないのかー!?」
今度は二階にも届くような大きな声で呼びかけてみる。これで出てこなかったら、勝手に会計してパン持って行くぞ。野菜の無人販売みたいに。
声を掛ける事数秒、反応が無かったので仕方なく諦めようと思ったそのとき、ようやくオッサンが面倒そうな顔をして出てきた。仕事しろよ……。
「ったく、こっちゃあ忙しいんだよ、おまちどう……ってなんだてめーかよ」
「てめっ、仕事もしないで客に文句を言うなっての」
「しゃあねえだろ、取り込み中だったんだよこっちも」
聞く耳持たないって感じでオッサンは懐から取り出した煙草に火を点けた。なんだか俺が間違ってるような、そんな理不尽な雰囲気になりつつあるのを感じる。
「で、俺の邪魔をしてまで何しに来たんだ?」
完全に邪魔者になっていた。俺以上に傍若無人な人だこのオッサン。
言葉で何を言ってもしょうがないので、入口にあるパンを乗せるトレイとトングを持ってオッサンに見せつける。
「ご覧の通り……客だ」
「なんだよ、それなら早くそう言えよ。まぁいい、好きなの買え……いや、お前にはこのパンがお勧めだ」
思い立ったように機敏な動きで、商品台の一角にあるパンが乗っているトレイごと持ってきた。ネームプレートには、シジミパンと書いてあった。
「前回のあさりパンよりグレード下がってないか? これ」
「……訊くな。何も訊かずに、このパンを買っていけば良いんだよ」
「脅迫みてぇだなそれ」
「今なら半額にしてやる、どうせ……いやなんでもねぇ」
なにか嫌な予感がしたって感じで言い淀んだオッサンは、俺にトレイを渡すとレジにある椅子に座って何かを取り出した。気になって見てみると、それは見たことがある代物だった。
以前、初めて風子と出会った時に持っていた、俺も貰ったヒトデの彫刻の未完成品だった。
「オッサンまでそれもってる……というか作ってるのか? いつからこの町はヒトデブームになったんだ」
「なんだ、お前も知ってんのかこれ。渚に頼まれたんだよ、作るの手伝ってくれって。可愛い娘の頼み事だ、断るわけにもいかねえだろ」
「その割には楽しそうに彫ってるのな」
「作り始めたら凝ってきてな。ちょうど良いや、もう一人の小僧も上に居るからお前も手伝ってけ」
そうか、岡崎が来てるのか。そういや昨日、古河の家に行くって言ってたもんな。
着々と仲を進展させてってるんだなあの二人。それなら様子を見ていくのも良いだろう。
「ま、良いや。それならお邪魔するぜ」
「おう、精々沢山作ってってくれや」
「作ったらパンの値段割引にしてくれ」
「どうせこの時間じゃ売れ残るしな、好きにしろ」
よし、期待してなかったけどこれで晩飯代が少し浮くぞ。
レジでヒトデ量産の作業をしているオッサンの横を通り過ぎ、靴を脱いで段差に気を付けながら暖簾をくぐる。と、その時オッサンが俺を呼び止めた。
「しっかしこの時間にパンを買いに来るとは、明日の朝飯にでもするのか?」
「いや、俺の晩飯だよ」
「家じゃ親が作ってくれないのか?」
「片親だからな、親は夜も仕事なんだよ」
夜も仕事というのは咄嗟に吐いた嘘だ。あの人が仕事なんか出来るわけがない。
片親という単語に気を悪くしたのか、オッサンは咥えていた煙草を口から離して軽く咳払いをした。
「そっか、そりゃ悪かった。親父さんは仕事が忙しいのか」
「……親父は居ないよ、居るのはお袋だけだ」
「そうか、それならまあ、お袋さんに土産でも包んでやるよ、帰りにでも持って行け」
「気ぃ遣わないくても良いよ、貰っていくけど」
不覚にも正直に言ってしまった事に、自分でも驚いた。そして居た堪れなくなって俺は階段を上って行った。これ以上自分の事を訊かれて、家の事が浮き彫りになるのを恐れた。
「一つアドバイスしてやるよオッサン。ヒトデは模様を浮彫にするとよりリアルになるぞ」
「ほう、ちっと試してみるか」
ハードルが上がった事がそんなに楽しいのか、声色が弾んでいた。
きっとあのオッサンに、俺の中に居る理想の父親像を思い浮かべてしまったんだろう。
父親は中学の時に死んじまった。今でも死んでせいせいしている。それほどに、俺にとっては最悪な父親でしかなかった。
―――だから、俺の家族はもう母親だけだ。