CLANNAD~終わりなき坂道~   作:琥珀兎

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長かった。半年以上も間隔が開いてしまうとは申し訳ありませんでした。


第十九回:露見と告解

 人が生きていく上で重要なものは何か――言うまでもない水と食料だ。

 この時代、日本で水を入手するのは容易くプライドを捨て去れば公園の水でも十分だが、食糧はそうもいかない。野草や木の実やきのこ等、自然界には多数の食糧が生息し今か今かと俺の胃袋にノーロープバンジーをするのを楽しみにしている食物もあるだろう。しかし、人間まともな社会生活を送るには金銭を対価に食糧を得なくてはいけない。

 金銭を手にするには相応の時間を対価に、それ以上の労働という隷属に甘んじてようやく手に入れる事が出来る。もっとも、他人から強引に借りるという手もあるのだが、男を下げたくないので俺はやらない。もうやらない。

 というわけで労働である。隷属である。

 いまの俺は一己の奴隷であり、道具である。

 雇用主という名のジジイにこき使われる金の奴隷なのだ。

 

「時に幸希、酒というのは何故生まれたのだと思う」

「酔っ払ってなきゃやってらんねえ世界だからだろ」

 

 総白髪の頭髪を後ろに流した壮年のジジイは、時折こうして突発的に抽象的な質問を投げかけてくる。だから俺も突発的に思いついた答えを適当に口にした。

 問答自体を重要視しているわけでもなく、ジジイは「ふむ」と小さく声を漏らした。グラスをトーションで拭く音だけがやけに大きく聞こえる。

 時間は深夜に差し掛かり日にちを跨ごうとしている頃。実家に帰った芽衣はここを都会と言っていたが、都会はこの時間でも活気がある。しかし、いま店内には俺とジジイしか――つまりはスタッフしか居ないのだ。

 これが都会なら飲んだくれの一人や二人ぐらいカウンターに突っ伏していてもおかしくない。

 暇なら俺の仕事も少ないので大歓迎なんだが、これが毎日続くと店の存続にかかわる。つまりはバイト代が入らなくなってしまうということ。これはいただけない。収入がガクッと下がってしまうのはマズい……が、だからといって俺に客を呼び寄せる術などあるはずも無く、仮にあったとしても行動に移す意欲が無い。

 洗い終わったグラスを全て磨き終えると、ジジイが顎鬚を撫でながら視線を向けてきた。

 

「酔わなければ生きられない世界……それがお前の世界という事か」

「……は? なんで俺個人に限定なんだよ」

 

 そりゃたまに酒を飲んでしまう事もあるが、春原や岡崎の証言曰く俺は酒に弱く、しかも悪酔いする性質らしい。だから滅多に呑まないし、そもそも飲んでいい歳ではないと言われてしまったらそれまでだ。声高に主張するつもりもない。

 なのにジジイはまるで俺が酔っ払いを対象にした答えを、さも本人の主観から発せられたように語る。

 

「違うのか?」

「違う」

「だがこれっぽっちも思ってないわけではないだろう。でなければそんな言葉が出るわけがない」

 

 反論する言葉が見つからずつい視線を逸らしてしまった。

 ちょうどそのとき来客があった。――俺にとってそれはある意味で救いの来訪者だった。

 

「いらっしゃ……んだよ、またジジイかよ」

 

 反射的に扉へ顔を向け嘆息する。直後、後頭部に衝撃が奔った。

 鈍痛に眉を顰め振りかえれば、ジジイがアイスピックを逆手に持っていた。なるほど俺はこれで頭をドツかれたのか。

 

「口が悪いぞ幸希。幸村様はウチの常連だ、ちゃんとした態度で接客をしろ」

「わあってるよ。いらっしゃいませ、コンバンワ」

「ふむ、なるほど……よく続いているようじゃな榊原。関心関心」

「そりゃあな、アンタが保証人になってくれた仕事だ、流石にバックレかます程に落ちぶれちゃいねぇよ」

 

 淀みなくいつものように奥のカウンター席に、歳で曲がった腰を下ろした幸村のジジイは満足げに――ただでさえ皺だらけの顔を――皺くちゃにして微笑んだ。

 おしぼりを手渡しながらジジイが昔を懐かしむように口を開く。

 

「懐かしいな、ここに来た時のお前の顔。まるで昨日のように鮮明に思い出せる」

「長い人生を振り返る前に酒を頼めよ」

 

 学校内でいつも交わすような口調で催促すると、隣のマスターの視線が再び厳しくなる。だけどそれだけで特に言及はされなかった。もう何度も繰り返したやり取りだから、呆れたのか諦めたのか……どっちにしろ後でまたくどくど説教されること間違いなしだろう。

 

「そうだったな、それではスコッチをロックで頂こうか」

「種類はいかがいたしますか?」

「アイラで頼む」

 

 マスターの短い質問に、これまた簡潔な答えを返し幸村は手に持っていたおしぼりを綺麗な筒状に丸めカウンターの脇に置いた。

 もう棺桶に入ってもおかしくない歳のくせして相変わらず癖の強い酒を好んで飲む幸村は、カクテルなどは頼まずいつも決まってウィスキーを注文する。それもバーボンやブレンデッドではなく、シングルモルトばかりだ。

 注文を聞いたマスターは慣れた動作で背後に陳列するボトルを眺め、逡巡の後に一本のボトルを手に取った。

 

「こちらの、ブルイックラディ“スコティッシュバーレイ”というアイラ島原産のシングルモルトをお勧めしますが、よろしいですか?」

「初めて見るボトルじゃのう、まるで青空のような色をしとる。一見するとウィスキーのボトルとは思えんデザインじゃ」

 

 興味を示した幸村はしげしげとマスターが目の前に置いたボトルを眺めている。それが嬉しかったのか、マスターはそのウィスキーに関する知識や雑学、そしてこのボトルが生まれるまでの出来事などを掻い摘んで説明――ではなく、あくまで会話として成立するように朗々と語り始めた。

 手持無沙汰な俺は二人の酒談義を尻目に酒の並んだ棚に視線を向け、改めてその量と種類の豊富さに思わずため息を吐きそうになった。

 これらの酒全てを覚え理解しているマスターは、それがバーテンダーとして当然の基礎と言ってのけるが、ハッキリ言ってこんなの興味が無けりゃ……いやあったとしてもこの量の前には戸惑うだろう。そりゃ今はバイトとしてここのカウンター内に立つからには俺もバーテンダーとして、カウンターの向こう側に座る奴には認識される。どんなに未熟だろうと、客からしたら俺はプロだと思われる。だから新人だから分からないだの出来ないだのと客に暴露するのはもっての外……らしい。

 生来勉強なんてものに興味も無く、机は枕だと言ってはばからない俺は当然ながら酒に関する知識はほぼ皆無といっても良いだろう。そもそも勉強する気がないのだから仕方ない。

 だからこうしてマスターがロックグラスに削り出した丸氷を入れ、酒をキッチリとワンショット注ぎ、その後で少し注ぎ足すのを横目で見ているしかない。これで給料を貰うのは、流石に忍びない。俺でも悪いと思ってしまう。よって――いまの俺に出来る仕事をすることにした。

 

「にしても珍しいな、あんたがこんな夜更けに来るなんて。いつもならもう寝てもおかしくない時間じゃないのか?」

 

 ただ酒を作るだけなら客と向き合う必要はない。だがバーテンダーの仕事には会話も含まれる。会話の端々からその人物の特徴を捉え、趣味趣向から好みの味まで聞きだし記憶する。とジジイならそう片っ苦しく言うが、要は話し相手になるのも仕事の内ってことなんだろう。

 幸村は顔見知り所か同じ学校の教師と生徒。本来ならあってはならない場所でのありえない邂逅ではあるものの、気にする事もない。

 俺が此処に立てるように手助けしたのがこの爺さんなんだから、気負う必要もない。

 

「お前の言うとおり、寝る寸前まで準備しておったのだが……少々お前の事が気になってな。こうして顔を見に来たんじゃよ」

 

 グラスを傾け喉を鳴らすと、丸氷が当たって僅かに湿った髭が静かに揺れた。

 

「サボってるとでも思ったのか?」

「まさか。学校での生活態度には呆れる先生方もおるが、普段の生活に置いてならお前ほど想いやりがあって勤勉な生徒を儂は知らん」

「……なにか悪いモンでも食べたのか? それとも余命でも先刻され――いでっ!」

 

 無言で頭を叩かれた。勿論下手人はマスターだ。

 

「お前と幸村さんの仲はよく知っているが、あまり過ぎた口を利くもんじゃない」

「わかったから、気をつけるよ」

「なに気にすることはない。こいつの愛想のない口調には慣れたもんじゃ、これもまた個性だろう」

「それはそれは、過ぎた口を利いたのは私の方でしたな」

 

 なにが面白かったのか、二人は静かに笑い合った。ジジイ二人が向かい合って笑い合うという構図は、俺からしたらむしろこっちの方が笑える。

 俺の顔を見に来たと、そう言ってこんな遅い時間に訪れた幸村は再びグラスを傾けゆっくりと味わうように酒を飲んでいた。学校内の教師の中で、唯一俺とまともに接するのは彼だけで、だからこそさっきの言葉には不意を突かれた。

 嫌われ拒絶されるのに慣れ切って冷え切ったこの心には、彼の言葉は熱過ぎる。火傷しそうなぐらいの熱を孕んだ言葉は、反射的に俺を遠ざける。熱したやかんに誤って触れてしまった時のように、感慨を懐く間も無く遠ざかってしまう。それは驚愕であり、またある種の憧憬がそうさせるのかもしれない。

 既に妻に他界されたにせよ子宝に恵まれ、真っ当に育ち孫まで居るという幸村の歩んできた人生の旅路。それは俺がいくら願っても手に入らなかった家庭という暖かなものを持つ者の道。いわば彼はその成功者なのだ。きっとこのまま、穏やかな目つきと同様に安息の死をいつか迎えるのだろう。――それが、たまらなく羨ましい。

 

「なぁ……爺さんには無いのか? どうにもならない事に、憧れる事は」

「こりゃまた唐突だな。そうさなあ、そりゃ六十年近い人生を歩んできたんだ、それなりに上手く行かない事など沢山あったさ」

「そんなとき、どうしたんだ? 諦めるのか? それとも――」

 

 それとも、周囲の何かを憎むことで、その感情を閉ざしたのか。

 継ごうとした言葉の隙間を埋めるように、幸村が口を開いた。

 

「――忘れてしまったよ」

「……わすれただぁ?」

「人間の一生は存外長く思えてのう、歳を取ると些細な事を思い出すのも一苦労だ」

 

 還暦を前にした老人は此処ではない、どこか遠くを眺めるような目でそう呟いた。それは俺が良く知る感情を瞳に湛えていた。父親を亡くしてからの母親がよくしていた、回顧の瞳だ。

 あんな父親でも、母さんにとっては必要で……大切だったのだろう。それがたとえ一方的であっても。

 

「浮かない顔をしているな。何を考えている?」

 

 間の抜けた幸村の声が、思索の海へと沈みかけていた俺を引き上げた。

 

「別に、今夜の飯は何にしようか考えてただけだよ。そろそろ上がりの時間だからな」

「そうか、あの方は今日も変わらぬ様子かの」

「変わってくれたらどんだけ救われるか、俺が此処にいる時点でそれがありえない事だってわかるだろ、あんたなら」

 

 そう、ありえないんだ。どんなに願ってもあの人は変わって……いや、戻ってくれない。壊れた時計の針を巻き戻しても、秒針が時を刻むことは決してないのだ。時間は、逆行しない。

 教師という立場と、保護者代理という役割を果たしてくれている幸村は俺の“事情”をよく知っている。だからこうして時折、暇を見ては俺にこんな質問をしてくる。本人としては善意から心配してくれているのだろうというのはわかる。けど、それでもあまり掘り返して欲しくない話題だ。

 誰だって暗い話は好きじゃない。物語として、架空の出来事としてなら別かもしてないが。

 だから俺は誤魔化す様にわざとらしいため息を挟んで言葉を発する。

 

「もう良いだろ。あの人の事は俺がこの先一生背負うべきものなんだ、だから爺さんは気にしないでくれ」

 

 なるべく棘のないように気をつけながら言った言葉を受けて、しかし幸村の表情は寂しげに、それこそ今すぐにでも棺桶に入ってもおかしくないような顔をしていた。

 マスターは何も言わずに氷をアイスピックで砕いて球体を作っていた。彼もまた事情を知る一人、その職業に相応しく感情の機微を悟ったかのように我関せずを貫いている。

 丸氷を作る為に不必要な部分をこそぎ落とす作業を見ていると、削り落とされる氷の破片がまるで、自分にとって不必要なものを捨てているようにも思えた。無情にも溶け消えていく破片を見捨てるには、それこそ氷のような冷たさが必要なのかもしれない。

 

 

 愛の尊さをこの世の何処かで誰かが口にした。

 曰く不滅だと。はたまた美しいものだと。それは決して朽ちる事ない赤々と実った果実のようだと。この世のどこかで誰かが口にした途端、瞬く間に伝播し今では定番となり様々な美辞麗句で飾り立てられ奉られている。

 不満があるわけじゃない。むしろ自分もまた一人の少女に恋し愛すことを目的に生きているような人間だ。恋愛感情に関して否定的になるつもりは一切ない。

 恋は素晴らしい。こんな何もない人間にさえ生きる糧と目的を与えてくれるんだから。

 一歩一歩と前へ踏み出す毎に陰鬱な気分になりつつある身体が、彼女の事を考えるだけで羽が生えたような軽い浮遊感を覚える。

 今夜もまた始まる――けれど、投げ出すわけにはいかない。

 幸村にも言ったが、これは俺が背負うべき、いや拒否権も選択権も始めからありはしない当たり前の負債なんだから。

 アパートの前は俺以外の人通りは無かった。この時間、こんな何もない住宅街に用のある人間なんか居やしない。そんなのは当たり前でわかっている事なんだが、どうにも警戒心が強く軽く周囲を見渡してしまう。

 闇夜の先を見つめてもなにも映るわけもなく、ただ寿命の近そうな街灯が点々と建ち並んでいるだけ。

 

「…………ふぅ」

 

 口から漏れ出た吐息は人影が無かった事に対する安堵か、それともこれから受ける仕打ちへの憂鬱さから出た溜息か。確かめるにはもう時間も経験も足りなかった。

 

 

 

 

“絶対に何か企んでいる”

 確信を持って内心でそう断言した杏はその日、幸希の本心を探るべく放課後から彼の動向を観察――否、監視していた。あの未遂に終わった交通事故から数日、杏の頭の中ではそれだけで埋め尽くされていた。

 不可解な動向の幸希のおかげで彼女は隠れ蓑を失い、想い人が――元より近いとも思っていないが――遠ざかりつつあり焦っていた。

 このままでは自分の周りには何もなくなってしまう。孤独にも等しい孤立への恐れが原動力となり彼女を行動へと急き立てた。その根源の理由すら曖昧なままに……。

 幸希を見つけるのはそれなりに苦労したが、以前陽平や朋也の口から彼がバイト三昧の生活をしているのを耳にしていたのを思い出し、その中で常に変わらず働き続ける店があるのも思い出した。基本的に高給で日雇いの肉体労働から工業高付近の工場でのライン工と範囲は広いが、その店は商店街にほど近い場所に建った小さなBarらしい。

 Barという店がどのような店であるのか概要だけではあるが知っている杏は、始め耳にしたとき眉を顰めた。お酒を主に扱う飲食店など、未成年である幸希が働いていいような場所ではない。クラス委員を務める杏がそれを易々と呑み込むはずも無く当然一度は注意をしようとも思った。――が、朋也と陽平の二人に真面目な顔で止められたので未遂に終わったのが懐かしい。

 太陽も完全に身を潜め月が煌々と街を照らす下で待つこと数時間。我ながら忍耐強いものだと関心しながら待っていると、目的の人物が重々しい扉を開けて姿を現した。

“やっと出てきた。ったく、どんだけ待たせるつもりなのよあいつは。年頃の女の子が出歩いていい時間じゃないんだから、サッサとあがりなさいっての”

 暴論を展開しながら睨む姿は、巡回する警察が目にすれば職務質問をせざるを得ない妖しさだった。ちなみに家族には友達の家に勉強を教えに泊まると、前もって連絡済だ。ここで用が済んでしまえば自宅に帰るしかないが、その時は架空の友人に風邪でも拗らせて貰おう。

 杏の存在など露知らず、幸希は真っ直ぐに歩き始めた。

 ――と、ここで当たり前の疑問が彼女の足をその場に縫い付けた。

 

「……そういえば、尾行した所でわかるようなモンじゃないじゃない」

 

 そう、通常なら本心……つまりは他人の思考など外見をいくら注視したところでわかるはずもないのだ。

 ドラマや映画では都合よく尾行していた人物の謎を視覚化した“何か”を運よく見つけられるが、現実にそんなご都合はそう易々と発生しない。だからこそ彼女はこうして意味もない尾行という選択肢を執ってしまう程に追い詰められてしまったのだ。

 こと自分のみに関してはアドリブの効かない杏は、しかしそれでも今更尾行を止めて家に帰るなんて選択は出来ない。

 

「――あぁもうッ」

 

 こうなったらやけくそだ。せめて幸希の自宅だけでも割り出して帰るとしよう。そうして後日、彼の家に訊ねて直接問いただせばいい。

 短い煩悶の後に下された決定に従い顔をあげると、既に幸希の姿は小さくなっていた。

 このまま足踏みしていたら妥協案すら達成出来ぬまま終わってしまう。杏は慌てて速足で彼の背中を追いかけた。感の良い幸希の事だ、少しでもあからさまな足音を立てようものなら忽ち自分の姿を見つけてしまうかもしれない。と不安に思ったものの、思ったよりも尾行は楽だった。

 なにか考え事をしているのか俯きがちなのか頭が下がったまま歩く姿は、学校で見る榊原幸希とは重ならず違和感を覚える程だ。少なくとも杏は一度だってこんなふうに弱い幸希を見るのは初めてだった。

 

 

 そう、見た事が無かった。あんな風に悩む姿なんか。

 だから相談してもらえるならそうして欲しかった。少なくとも彼女にとっては恩のある人。そうでなくても長い付き合いなのだから一言ぐらいあっても良いのでは、と思ってしまう。

 たった一言。たった一言聞けばいい。

 

 

 でも普段見せる姿が、たとえまやかしの作られた顔だとしても、それは相手が見せたい顔として選んだ結果。ただ不自然だから、いつもと違うからという理由で日常の裏に潜むモノを覗き込むような事はしちゃいけない。だから彼女はそのまま幸希の後ろ姿を黙って追い続けるだけだった。

 無音の尾行もやがて終わりを迎える。商店街から離れたある一角のアパートの前で立ち止まった幸希。

 その瞬間、突然周囲を見渡し始めた彼に先んじて身を潜められたのは天啓とも言うべき反応だった。それまで案山子のように一点しか見ていなかった視線が、忙しなく警戒心を露わに見渡していた。

“この反応、やっぱ何か隠してるのね”

 確信が更に真実味を帯びてきた。やはり幸希はなにかを企んでいる。でなければ人目を気にする素振りなど見せるわけがない。性格的にもありえない行動だ。

 

「…………ふぅ」

 

 しばらくして誰も居ないと思ったのか、深いため息を幸希が吐いた。

 ここにきてようやく彼の声を聞いた杏は、なんだか酷く懐かしく思えた。

 停学期間という空白の時間。しかし幸希とは本来自宅謹慎していなきゃならないのに出歩いているせいか、何度か顔を合わせている。陽平の妹である芽衣がこの街にやってきた時だって、満足げな表情で帰った時だって。なのに一息ついた声だけで、なんとも言えない喉になにかが詰まったような感覚がして酷く居心地が悪かった。

 言語化できない感情に渋い表情をする杏を余所に幸希はアパートへと近づき、一室の扉の前で立ち止まった。

 細心の注意を払いギリギリまで近づき見れば、彼の背中がやけに小さく見えた。まるで叱られるのをわかってて家の扉を開ける事に躊躇する子供のように。

 正直に言ってその姿に魅入られてしまった。この夜の間だけで自分の知らない一面を幾つも見てしまったが、これは極めつけだった。これまで彼女が描いていた榊原幸希の像を砕くには十分な破壊力をもっていた。だから――

 

 

 ――だから、紫陽花のような髪の彼女は聞く事にした。

 

 

 ――声が出なかった。

 

 

 

 

 扉に手を掛けノブを回した瞬間だった。覚悟を決めて、心を閉じ込め、感情を凍らせる準備を終えた所でそれは唐突に訪れた。

 一定のリズムで鳴り響く電子音。

 夜の静寂を切り裂く悲鳴のようにも聞こえた音に、俺は驚いて振り返った。

 アパートの廊下に設置された蛍光灯の明かりがその姿を朧気に、けど確かな人相を照らしていた。

 

「……なんで」

 

 口を衝いた疑問の言葉は何に対するものか本人にもわからなかった。次々と湧き上がる疑問が脳内を圧迫し、冷静な思考を許してくれない。

 なんでここに? なんで杏が? どうして? よりにもよって今、この場所に……。

 聞きたい事は山ほどあった。今ばかりは彼女との出会いに歓迎出来ない自分がいて、それに気づいて嫌になる。否定など、拒絶などもっての外なのに、本能的に忌避している自分がいた。

 俺の言葉は正しく届いたのか、杏自身も予想していなかったのか電子音をまき散らす携帯を取り出すのに手間取りながら、だけども視線は交わったまま。

 

「いやっ、その……さ……っ! ごめんっちょっと待って!」

 

 しどろもどろになりながらこうなった原因の携帯電話をようやく取り出すと同時に、始めから無かったかのように音が鳴りやんだ。

 発信者が誰なのか確認するために開くと、それまで狼狽を見せていた杏の表情が冷めていった。いや、凍りついていた。

 

「嘘でしょ? なんだっていまなのよ……」

 

 どう形容すればいいのか、杏の顔は固まりながらも横一文字に引き締まった口がやりきれない怒りにも似た何かを微かに潜めているように見えた。

 何かあったのだろう事は明確に見取れる、けどそんなことが瑣末に思えるこの状況にいい加減口を噤んでもいられない。幸いにも、彼女が狼狽えてくれたお陰で幾分かは冷静になってきた。

 動悸が激しい心臓を右手で抑えながら、いつものような表情で質問する。あくまでも、悟られないように。

 

「で? なんだって杏がこんな辺鄙な場所に、しかもこんな深夜に居るんだ? いくら辞典があるからって危ないぞ」

「それは、その……」

 

 バツの悪い顔。後ろめたい気持ちが見え見えの杏は、足元に視線を落として歯切れが悪い返答しかしなかった。と思いきや、数秒の後には気丈な面持ちで顔を上げ俺を一直線に見据えた。

 凜とした彼女の表情は、やはり見ていて気持ちが良い。

 

「あたしは、最近のあんたがッ……!」

 

 見惚れていたんだろう。だから気が付かなかったし失念していた。

 着信音に驚いてノブを回したまま振り返ってしまったのを。僅かに扉を開けながら振り返ってしまったのを――

 

「いつまでそこに突っ立ってるつもりだテメェ! さっさと飯の用意でもしねェか!」

 

 半開きになった扉の奥から飛んできた怒声に、杏の表情は再度固まってしまった。

 信じられない者でも見たかのような、思考停止に陥った人間の表情。防衛本能が働き一切の情報を遮断するような反射的反応。

 

「聞こえてんのか!? オイ、お前に言ってんだよ――幸希ッ!」

 

 無理もない。こんな“歪な光景”をみたら誰だってそう思うだろう。

 反射的に俺は扉を乱暴に閉め、呆然とする杏の腕を掴んで走り出した。手を握らなかったのは、こんな時に握った所でなにも楽しくないし、何より彼女との思い出に“アレ”を紛れ込ませたくなかったから。

 

「ちょっ……と、こうき? どこ行くつもりよっ」

「とにかく、いまはここから離れた方が良い。それだけだ」

「でも、いまのって!」

「いいから! 黙ってついてこい!」

 

 思いがけず声を荒げてしまった。ああ、俺も相当にパニクってるらしい。まさか杏を相手にいまさら怒鳴るなんて思いもよらなかった。時間をやり直せるなら今すぐ自分を殴り飛ばしたい。

 思いやりに掛けた言葉に驚いたのか、杏もこれ以上の追求はしてこなかった。それがさらに俺を苛んでしまう。

 

 

 近所の公園まで走った所で立ち止まった。お互いに大した距離でもないのに息が荒いのは、ペースも考えずに走ったせいだろう。

 

「いい加減、手ェ離してくんない?」

「あっ……悪い」

 

 名残惜しく離れる腕を呆然と見ながら、黙ってしまった。どう切り出したらいいのかわからなかった。

 なんかもう一度に殆どを見られてしまったから、なにから誤魔化せばいいのか手をこまねいてしまう。まずは尾行してた事をネタにコメディ方面のギャグを飛ばして――

 

「で、なんだったのアレ?」

 

 考えていた策は、しかし杏の初手によって一気に詰んでしまった。

 顔をあげればそこには冗談を許さないという鋭い瞳。選択を誤れば誤魔化すどころか杏の俺に対する好感度すら地の底に落ちかねない、そんな緊迫感のある状況。

 それでも……知らない方が良い事は、この世に腐るほどあるんだ。

 

「勝手に人のことストーカーしといて、随分な言いぐさだな杏」

「……それは悪かったわ、謝る」

 

 だから彼女の人の好さに付け込むしかない。

 

「しかもこんな深夜に出歩いて。いくら高校生っつったって親が心配するだろ、椋だって」

「っ……!」

 

 椋の名前を出したのは駄目押しだ。妹を何よりも大事に思っている杏だからこそ初めて効果がある言葉。それを噛み締めて……なのに杏の表情は逆に好戦的な色を帯び始めた。

 

「もとはと言えばあんたがっ……!」

「俺が、なんだっていうんだ」

「いまはいい! とにかくあたしが今聞きたいのは一つの事に関してだけ。これまでの全部が吹っ飛びかねない出来事に、正直頭がついてけてないし、こんな事聞くのは卑怯だって……酷い事だと思うよ。でも――」

 

 熱が上がったようにまくし立てる杏が聞きたい事。そんなのは言われるまでもなく理解出来た。

 言葉尻が地を離れ浮き始めると同時に、どんどんと悲痛に歪む表情は、杏が心底人が良いのだと思える何よりの証拠だ。それでも、目の当たりにしたからには見て見ぬふりは出来ないのだろう。彼女の性格的にも、それは出来ないんだ。

 そうして、決定的な質問がぶつけられる。

 

「――あの人は、幸希のお母さんなの?」

 

 お母さん。母親。母ちゃん。ママ。

 呼び方は様々だが意味するのは同じ、産みの親だ。

 けど……。

 

「いや……あそこに居たのは“親父”だよ」

 

 間違いないくそうだ。“母さん”はあんな言葉を俺に言ったりはしない。絶対に。だからあそこに居たのは、姿こそ見てないが間違いなく“親父”なんだ。

 

「嘘っ! 幸希嘘ついてる。だって……だってあれは、どう見たって」

 

 俺の言葉を否定しながらどこか決定づけられないのは、見てしまったからだろう。あの人の歪な姿を。その一人遊びの延長でしかない逃避を。

 もう、誤魔化せない。

 

「でも“着ていた服”が男物だったろ、つまりはそう言うことだ」

「……っ!? それって……」

 

 話すしかない。そう思いながら、これを告げたら俺はもうまともに杏とは交友を持てなくなる。そんな悪寒めいた予感を感じていた。

 だとしたら、恨むべくはあの瞬間に杏へ電話をしてきた者だろうか。投げやりになりながらも、俺は真実を告げた。

 

「そうだよ、おかしいだろ女なのに男物の服を着て、親父みたいな言動を振る舞って罵声を浴びせてたべらんめぇ口調のあれが俺の“母さん”なんだよ」

 

 それは、告解だった。

 これまでの人生を懺悔する告白に違いなかった。







色々と進んだ第十九回。
これよりさらに関係は拗れてくるでしょう。
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