この街では一番の進学校に在籍する俺こと榊原幸希は、同じ学年の藤林杏に叶わぬ恋をしている。
快活で男勝りな彼女は竹を割ったような性格で、俺が気兼ねなく会話出来る数少ない友人だ。
彼女の言動に俺の感情は左右されて、天にも登れば地の底に落ちる時もある。
そんな彼女を相手に、なぜ“叶わぬ”なんて表現をするのかと言えば、それは彼女が俺ではなく他の人物に淡い想いを抱いているからである。
その憎き羨ましい相手は残酷にも俺の友人―――岡崎朋也だった。
どういうわけだか杏は岡崎の事が好きらしい。直接聞いたわけではないから確証なんてのはないが、八割がた間違ってはいないだろう。
だって、俺は今まで杏の事をずっと見てきたから、あいつが恋する乙女な表情を岡崎の前でしているのは明らかだ。二百円賭けてもいい。
岡崎と春原を交えた四人で話しているときにも、僅かにその表情が変わるのを俺は今まで見逃したことはなかった。その度、俺は言いようのない感情が湧き上がるのを感じていた。
だからといって岡崎が嫌いなわけではない。むしろ数少ない信頼の置ける友人だと俺は思っている。
なぜなら、俺とあいつ……それとついでに春原は似た者同士だから。
どういうわけか、恨むって気持ちにはなれないんだ。だからこそ、俺は自分を責めることでその嫉妬をやり過ごしている。
でも、そんな先の見えないトンネルのような道程に一筋の光明が差し込んだ。
「紹介する、こいつは古河渚つって俺達と同じ三年だ。でもダブってるから年上」
「お、岡崎さん……は、初めまして古河渚です」
そう、この岡崎に紹介された少女『古河渚』と岡崎をくっつけてしまえば良いんだ。
そしたら杏が恋慕してる相手を奪われ失意している時に、俺が慰めてやれば良いんだ。……ちょっとシュミレーションしてみよう。
『悪いな杏。俺、渚と付き合ってるから』
『ごめんなさい。朋也くんは私とえっちなこともしちゃってます』
『そ、そんな……朋也…………ううぅ……』
泣き崩れる杏。
岡崎と古河が二人寄り添って遠くへと去っていく。やがて、フェードアウト。
そして颯爽登場の俺。エフェクトとかバンバンかけてキラキラな感じになってる。
『もう泣くなよ杏……いや、違うか。もっと泣け、泣いて泣いて、涙が枯れたら……その時は俺がずっと隣に居てやるよ』
『幸希……好きっ! 抱いて!!』
ガバチョッと杏が涙しながら俺に抱きついてくる。それを俺が華麗に抱きとめる。
こうして俺は杏と一緒に、この長い長い坂道を歩き始めた。
―――完。
……いける!
やばいぞこれ、すごいぞこれ。
一発逆転の大どんでん返しだ。これまでの苦悩が一瞬で吹き飛ぶような最高の手段だ。
こんなチャンスをみすみす逃すような事はしちゃならない。そうだ、岡崎にはこうゆう小動物がお似合いだ。そうに決まってる。
「俺は榊原幸希だ。岡崎と同じクラスだ、よろしく」
「はい、榊原さんですね、よろしくお願いします」
無難な挨拶をすると古河はニコッと小さく笑った。
儚げながらも可愛らしいその笑顔は、見る人を暖かい気持ちにさせるような類のものだった。
しかし、
「ダブってるって、なんか悪さでもしたのか? 凄いな、人は見掛けによらないとはこの事か」
関心したようにそう言うと、古河は焦ったように手をブンブンと振っていた。
「ち、違います! 私、そんな悪いことしていません。ちょっと長く休んでいただけです」
「そうなのか? それは悪かった」
そうなのかきっと体が悪いのか、あまり変なこと言って興奮させるのはよしとこう。
これからこの子には岡崎の相手役としてしっかり勤めてもらわなくてはいけないからな。
二人に見えないように含み笑いをしていると、岡崎が俺を見てそう言えば、と口を開いた。、
「そう言えば、お前こんな所に何しに来たんだ? もう昼休みも終わるだろうに」
「なに、ちょっとここのベンチで一眠りしようかと思ったんだよ。そしたらお前らが居たからな、邪魔して悪かった、俺はもう行くよ」
長居は無用だ。俺は腰掛けていたベンチから立ち上がり、そのまま背を向けてこの場を後にする。
途中、背中からなんか古河と岡崎の二人がなんか言ってたのが聞こえたが、聞かなかったことにして先を急いだ。植え付けた誤解は、誤解のまま進んだほうがあいつらも勘違いからも意識し始めるかも知れないからな。
さっきまで死にたくなるような気分だったが、今はとても気分が良い。空気は美味しいし、空は美しい。嗚呼、なんて素晴らしいきかな我が人生。
感情とは時に器となる肉体を凌駕した力を宿す事が稀にある。
それは震えるような怒りに燃えた時。それは凍えるような悲しみに慟哭した時。それは飛び上がるような歓喜に胸を打った時。
そして―――あらゆる価値観を覆すような恋をした時。
とても脆い人の肉体はどんな事にも動じない鋼の肉体に進化し、海上を駆け抜けたり、上空を飛行したり、灼熱の溶岩の中を遊泳したり、様々な事を可能としてしまうのではという錯覚にさえ陥る程だ。
そう、人とは感情を動かす事でいくらでも強くなる事の出来る種族なのだ。
だからこそ、俺は強い。
そう……こうして今地に伏している工業高校の連中を見下ろしている俺は、杏に惚れている限り誰にも負けないだろう。
話の顛末はこうだった。
―――遡ること数時間前。
俺は岡崎と別れたあと不真面目にも空き教室で惰眠を貪って授業をサボり、よく眠っていた時にそれは突然やって来た。
耳を劈くエンジン音。重低音の効いたその音は聞いた瞬間にバイクの排気音だと分かった。
男の子ってのは高校生ぐらいになると、大半がバイクが好きになって乗れもしないのに知識ばっかり蓄える無駄な生き物だ。当然、その中にも免許を取得して本物にあり付ける奴も居るだろう。
ただ、俺はその免許を持っていない部類で知識と技量だけしか持ち合わせていなかった。
外では変わらずバイクのアクセルを吹き鳴らす音が五月蝿いぐらいに鳴っている。実際、嫌がらせなんだろう。断続的にアクセルを開けては空吹かしをして聞いたことのあるメロディを奏でている。
「ったく、そんなサービスしたら春原が喜んじゃうだろうが」
そう独りごちて俺はバイクのせいで吹き飛んだ眠気を名残惜しく感じながら、旧校舎の空き教室を後にした。
目指すのは音のする方。恐らくは校庭だろう。正門から入ったなら、その先に続きバイクが走り回れるような所は校庭ぐらいしかうちの高校にはない。
廊下に出て、人がいないのを左右を見て確認すると、俺は思い切って地を蹴り風のように走り出した。
今ここにいるのが四階だから、一階の校庭に出るには少し時間がかかってしまう。
内心、野次馬根性で見に行くようなもんだが、万が一杏に被害が及んだらと思うとその足を緩める事は出来なかった。はやる気持ちを抑え走りながらも、廊下の窓から校庭の状況を確認してみる。この棟の位置が校庭から見える所で良かった。
外ではやはり、といった感じにバイクが二台校庭を我が道の如く走っていた。
一つ予想と違ったのはバイクの種類がMTではなくATであった事。俗にビックスクーターと呼ばれる種類の、50ccのバイクをそのまま大きくしたような形のバイクと、小型特殊の枠内に収まるスクーターの二台だった。
ビックスクーターの方に二人、小さい方に一人乗っている為、計三人が校庭を走り荒らしていた。
アクセルを巧みに扱いながら蛇行走行をしたり、同じところをぐるぐると回って砂塵を巻き起こしたりとはた迷惑な行為を繰り返している。
それを見て俺はさらに走る速度を早くした。部活をやめて二年ぐらいが経っているせいか、思うように足が動かないがまぁ許容範囲内だろう。そのうち慣れるはずだ。
「くそっ、でも、楽ってわけじゃ……っ、ないんだよなぁ!」
ぜいぜい息が上がって酸素を多く欲するが、思うように肺へと届いてくれない。
校舎の三階に降りて来た時、窓を見ると一人の少女が校庭に出ていくのを発見した。あれはなんの冗談だろうか。まさか話し合いであいつらが納得して帰るとでも思ってるのかあの女は。
尚更急がなくちゃと思って視線を外そうとした時、春原が楽しそうに野次馬観戦しているのを見つけた。その横には岡崎も居た。ついでに古河も。
何を言ってるのかこっからじゃ聞こえないが、どうせあいつの事だろくな事を言ってるに決まってる。
仕方ないから三階のここからでも声をかけようかと、一旦足を止めて廊下の窓を開き上体を乗り出した。
「おーいっ! すのは…………っ!? あれって……杏……だよな?」
視界に飛び込んできたのは他でもない、藤林杏その人だった。
この俺が杏を見紛う筈がない。正真正銘、あれは杏だ。ただ、信じられないことにあいつはどういうわけか、あいつまでもが校庭に乗り込もうとしている。
なんでだ。あいつがこういうことに首を突っ込みそうな人だということは分かるが、多分それより先に教師の対応を伺うはずだ。妹も居るんだ、そうそう無謀な事はしないはずなんだが。
原因を探るべく校庭の不良三名を見てみると、さっきまで居なかったものが一つ増えていた。……正確には、一匹増えていた。
「なんじゃありゃ……うり坊か? なんでこんな所に」
不良が乗り回すバイクが円を描いて走る中央に、どうしてだか猪の子供であるうり坊が立ち往生していた。
確証は無いが、きっとあれが杏を突き動かす原因になってるんだろうな。今は椋が必死に杏を止めてるけど、あの調子じゃいつ突貫するか分かったもんじゃない。
急がないと間に合わない。こうなったら、ここから飛び降りてショートカットするしか……。
でも俺が乱入したら高確率どころか、絶対に停学をくらっちまう。
出来ればそれは避けたい。どうしよ……。
キョロキョロと俺は何か探せる物はないだろうかと思って辺りを見回してみた。何か遠距離で投げられる物でも、なんでも良い。
「………………おっ!?」
気がついたときにはあたしの体は勝手に動いていた。
いつもならこんな馬鹿らしいことしないんだと思うけど、それでもあの馬鹿共も中央に居るボタンを見つけちゃったあたしには見て見ぬふりなんて出来なかった。
あの子はあたしの大切なペットなんだから。
手に持った辞典を強く握る。これをあいつらにぶん投げれば、多分ボタンが逃げる隙ぐらいは出来るはずだ。その後の事なんか知ったこっちゃないわ。
「だっ、だめだよお姉ちゃん危ないよっ!」
校庭に乗り込もうとしたあたしを止めたのは妹の椋だった。
椋は顔を悲しそうに歪めながら必死にあたしにしがみついていた。この子にはボタンが見えなかったの?
「離して椋っ、ボタンを助けてあげなくちゃ! これ投げるだけだからっ!」
「駄目だよっ危ないよ! 私もボタンを助けたいけど、お姉ちゃんが危ない目に遭うのも嫌だよ」
そっか、やっぱりこの子にもボタンは見えてたんだ。それなのにあたしの心配もするなんて、相変わらず優しい子。でも、それでもあたしはやらなきゃ。
その時、あたしと椋がいる所より離れた場所からなにやらおかしな歓声のような女子の声が聞こえてきた。
なんだろうと思って見てみると、女の子が一人校庭に向かって歩いているところだった。なんでそれで歓声が沸くのさ?
女生徒は悠然とした立ち振る舞いで姿勢正しく真っ直ぐに校庭目指して歩いていた。ここからじゃ横顔しか見れないから誰なのかもよく分からないけど、美人なのは間違いなかった。
透き通るような長い銀髪に、迷いなんて微塵も感じられない真っ直ぐな眼差し。形の良い鼻のラインに、艶やかな唇は、女のあたしから見ても美人だと思う。きっと男子からも人気が高いだろう。同性の女子からしかラブレターを貰ったことのないあたしとは天と地の差があるように思える。あれっ、なんでだろう……今あたし落ち込んでる?
「ってそうじゃない! あたしはボタンを助けないと!」
「えっ? そうじゃないって、急にどうしたのお姉ちゃん?」
急に声を上げてしまったもんだから椋が驚いてしまった。関係ないけど、この子の焦った表情って最高に可愛いわよね。幸希にからかわれてる時のこの子は凄くいい顔で狼狽えてたりするもの。だからって、あいつを許す訳じゃないけどね。罪は罪で、ちゃんと罰を与えてあげなきゃいけないしね。
っと、思考が逸れてしまったけど、早くボタンを助けないと……!
あたしは前に立ちはだかる椋から、隙を見て脱出をする。
「きゃっ……」
「ごめんね、椋…………っ!?」
その時、誰かが突風のように走り抜けたのを感じた。
一瞬の出来事にあたしの体は咄嗟だったから強張ってしまって動けなかった。遅れて耳元で風が吹いてあたしの髪を揺らしていた。
ようやくその走り抜けた失礼な相手が見えたのは、おかしな格好の背中だけだった。
あれって……コスプレってやつよね?
ちょっと遠目になっちゃったから細かくは見えないけど、あれってきっとそうよね。そうに違いないわ。だって、旧校舎側から来たって事は生徒の筈なのに制服着てないし。
今にも杏が乱入しそうなのを目の当たりにした俺は危険を感じて急ぐことにしていた。
そんでもってすったもんだの末に見つけたのが、旧演劇部室にあった某仮面を付けた正義のヒーローの変身スーツ一着だった。なんでこんなもんがここにあるんだ。
細かいことを考えてもしょうがない。今はこれを着れば俺だってことは分からないと思うから、とにかく早く着替えなくちゃ。
「ラ○ダー……変! 身! とうっ!」
決め台詞を言って刹那のうちに着替えを終える俺。少年の心を持ち続けていれば、こういう芸当なんか朝飯前なのだ。
制服を脱ぎ捨てピチピチのタイツに足を通し胸当てを付け、ブーツを履いて手袋を装着。そして、最後に仮面を被ってさぁ完成。
この旧演劇部室に一人の変身ヒーローが誕生した瞬間だった。
「この沸き上がってくる力は……!?」
両手の平を見てそう呟く。思い込みの力とは恐ろしいものだ。雰囲気によっているとしか思えないが、微妙にノリノリな自分が少し恥ずかしい。
仮面を被った事で顔を隠すことが出来るようになった俺は、すぐさま廊下へと飛び出して勢いをそのままに開かれっぱなしの窓から外へと身を投げ打った。
水平に勢いよく飛んだ後、すぐに下方向へと重力が作用して俺の体は斜め下へと線を描いて落ちてゆく。
落下時独特の何とも言えない胃の腑がこみ上げるよな気色の悪い感覚に襲われ、危険性を訴えるように脳髄が寒気を覚えた。そのせいか意識が軽く薄れ、視界の端から光がチラついてフラッシュアウトしそうにもなった。
でも、これしか……このルートしか最短の道は無かった。四階だと危ないけど、三階ぐらいならちゃんと受身を取れば大丈夫なはず。
今までも何回かこんなことはあった。今回もきっと大丈夫なはずだ。
実際の時間にしては二秒と少しぐらいなんだろうけど、体感時間にしては十秒は引き伸ばされているような感じがした。緩やかに、だけど確実に地面が近づいていき俺の体が恐怖で粟立った。―――あと一メートル。
バンッと重いものを地面に叩きつけた時のような音がして俺の体は地面に叩きつけられた。……いや、正確には転がり落ちた。
始めに着いた両足を着いた瞬間に蹴り出し、力を横方向へと逃がして俺の体は受身を取りながらゴロゴロと転がった。
判断としては間違っていなかった。現に俺の体は足の裏が少し痺れるぐらいで、他には何ともなかったから。
それに、校庭にも間に合いそうだ。
俺のいる場所から杏のいるところまで距離にしておよそ五メートル。野次馬達は不良と銀髪の少女に釘付けになって、俺の事など誰も見ていない。好都合だ。
銀髪の少女がなぜ不良どもに向かっているのか知らないが、そんなことよりも俺は杏があの場に突っ込む原因を取り除かなくては。
俺はその場で四つん這いになって、尻を天に喧嘩を売るように空高くあげた。
「―――位置について、よーい……ドンッ!」
クラウチングスタートの構えからロケットのように走り出す。
ゴールはうり坊。コースは……どこでもいい、とにかく最短コースだ。
再び風となった俺は持ち前の足でグングン群衆を縫うように追い抜いていく。途中、椋ともめてた杏の横を通ってついでに髪の匂いなんか嗅いじゃおうかと思って鼻を利かせてみたが、仮面を被っているせいでホコリの匂いしかしなかった。ガッデム!
「お、おい! なんだあれ!?」
「うおっ……! ありゃ仮面ライ○ーじゃねえかよ!」
「しかも平成だぜ! ありゃク○ガだよ」
「俺としてはア○ゾンの方が良かったな……」
「というか何しに来たんだ? ヒーローごっこでもしようってのか?」
ごちゃごちゃ五月蝿い野次馬共が何かを言っているのが聞こえてくる。くそう、いいじゃねえかよクウ○でも。カッコイイじゃん。
とうとう校庭まで踏み入れた俺は、不良に向かって歩いている銀髪の少女を追い抜き、バイクを乗り回す悪の組織の構成員にまでたどり着いた。この時、銀髪の少女が驚いた顔をしていたのを、視界の端に捉えていた。
ここで問題が発生した。このままの速度で奴らを無視してラグビーみたいにうり坊を拾って逃げるつもりだったんだけど、肝心のうり坊が不良の手に渡ってしまったのだ。
嫌がるうり坊を不良の一人。なんか銀蝿とか金蝿とか呼ばれそうな髪型の男が、嗜虐的な笑みを浮かべて胸に抱いていた。……好きなの小動物?
「なんだてめぇは!?」
不良の一人が俺に気がついてバイクの足を止めた。
なんつー安っぽいセリフだ。目立ちたいならもっとキャラを立たせて……いや、よそう。
俺は毅然とした態度で仁王立ちし、右手を天高く上げ握りこんだ拳から人差し指を出して、ビシッと連中に突きつけてやった。
そして、こう言った。
「近くのスーパーではしらたきが一つ85円! 二十分歩けば二つで150円のしらたきがあります、さぁ、君はどっちで買う!?」
「えっ? ちょ、ちょっと待てよ! もう一回、ちゃんと聞こえなかったからもうい―――」
「―――もう遅い! 先手必勝!!」
悩んでいるうちに爆走して駆け寄り、一人乗りの方に飛び蹴りをかます。
「ぼへぇあァァ!!」
なんつってるのか分からない雄叫びをあげながら男は昏倒した。
ついでに抱えていたうり坊を抱きとめることは忘れない。
「なっ……てめっ……!」
「ふざけっ……!?」
「さぁそんなしらたきですが! さて、糸こんにゃくとしらたきは何が違うのでしょう!?」
「えっ……そりゃ、作りか―――」
両手を同時に振りかぶって混乱している二人に思いっ切り叩き込む。無駄に鍛えた腕力任せに殴ったので、拳からメキメキと相手の骨が軋む音が響いてきた。
息の掠れるようなうめき声が男達から漏れ、やがて眼球がぐるりと回って白目を剥き気絶した。
突然すぐには答えられない質問をして相手に隙を作って攻撃する。これぞ面倒短縮術。
これが聞かないのはよっぽどの馬鹿か、とんでもなく冷静な奴ぐらいだ。
「ぶひっ、ぶひぃ……」
「おお、可愛いなこいつ。愛い奴愛い奴」
なんか懐いてくるうり坊を撫でてみると、嬉しそうに顔を綻ばせ堪能している。
さて……。俺の周りに倒れている男共を見下ろす。やってしまった……。つい勢いに身を任せて倒してしまった。バレたら停学かもしれん。
地に伏したこいつらは、きっと工業高校の連中だろう。バイクに学校名の書かれたステッカーが貼ってあるし……馬鹿だろこいつら。
呆れてぼーっとしていると、背後から忍び寄る控えめな足音が聞こえてきた。
「おまえ……いったい誰なんだ?」
凛とした声が耳に語りかけてきた。
ハッとなって振り返ると、そこには不思議そうな顔をしたさっきの銀髪の少女が俺を見ていた。
透き通るようなまっすぐな眼差しは、何人たりとも侵すことの出来ない聖域のようにも思えて。
「…………蜜柑と伊予柑とサバ缶の中で柑橘系はどれでしょう!?」
「えっ、それならふた―――」
「―――さよならっ!」
隙をついて俺は森の方へと逃げ出した。
あのまま律儀に答えてたら教師達が押し寄せて俺の正体がバレてしまう。そんなの凄く恥ずかしくて死んじまう。きっと春原はバカ笑いして俺を指差すし、岡崎は岡崎で春原を止めながらも笑うだろう。それに杏にバレたら俺は死ぬ。
うり坊を抱き抱えたまま俺は森の中へと突入した。ある程度奥に進んだ後、うり坊を逃がしてやり服を着替え……ようとして着替えを演劇部室に置いてきたのを思い出した。……嗚呼、詰んだ。
仕方ないから森の中で放課後を待つことにした。それしか方法無いし。
時間が経って放課後になった。
そこで俺はとんでもない事実に気がついた。
「……授業中に行けば人目につかないかもしれなかったじゃん…………」
いつも春原をバカ呼ばわりしてた俺もまた馬鹿の仲間だったわけで、軽く凹んだ。
トボトボと……でも人目にはつかないよう細心の注意を払って俺は旧校舎にまで潜入を果たした。
長かった。物陰に隠れたり、石を明後日の方向に投げて視線を逸らさせたり、ダンボールに隠れて進んだり、やたらと困難が待ち受けていた。それらを全部回避した俺は、きっと優秀な工作員になれるかもしれない。
体力も消費してへばった俺は、蒸れた仮面を外して顔面に涼しい風を受け廊下を静かに歩きながら演劇部の教室に、ドアが空いてたからそのまま入った。
…………ん? ドア、空いてんじゃん。
「あれっ……? 榊原?」
「榊原さんが、なんかかっこいい服を着ていますっ。ヒーローみたいです」
「………………」
結局、岡崎と古河にはバレてしまった。
「あははははっ……!!」
「はぁ……死にたい……」
「岡崎さん、駄目ですよそんなに笑っては……榊原さんが可哀想です」
俺の格好を見て岡崎はバカ笑いしていた。
想像通りだけど、やっぱりムカつく。そんでもって死にたい……。
古河は俺を可哀想に思って岡崎を止めてくれてるが、今はその誠意さえ痛いです。泣きたい時に優しくされると、余計に泣きたくなる心理とよく似ている。
「っはぁはぁ……あー笑った。それで? さっきの乱入者はやっぱり榊原だったわけね」
「やっぱりって、もしかしてお前俺だって分かってたのか?」
一頻り笑って満足した岡崎は、目尻に浮かんだ涙を拭ってそう言った。
「あたり前だろ、あんなやり方で相手をヤる奴なんか、俺はお前しか知らねえよ」
「クソッ、付き合いの長さがアダになったか……」
「大体、なんであそこに乱入したんだ? 俺もあの坂上智代に加勢しようかと思ったけど、お前は次問題起こしたら停学だろ?」
そっか、岡崎はあの少女……坂上智代って言うのか、彼女に加勢しようとして……。それじゃあうり坊は見えなかったのか。
正直に言っても良いけど、うり坊を助ける為って言ったらまた面倒くさそうな気がするので誤魔化すことにしよう。
「そりゃまぁ……つい、な。それより、なんでお前らこんな潰れた部室に来てたんだ? シッポリやらかすつもりだったのか?」
「んなことするかっ! ……古河が演劇部に入ろうとしてここに来たんだよ。生憎、随分前に廃部になったらしいけどな」
「岡崎さん。シッポリ……ってなんですか?」
古河が俺の発言の中に理解できない言語を岡崎に聞いていた。岡崎は困ったように狼狽えて、恨みがましく俺をひと睨みしている。無視無視。
しかし、演劇部か……部活をやりたいだなんて、というか岡崎が部活に関わろうとしていることの方が俺には不思議でならない。あれだけ部活って単語にすら嫌悪感のようなものを抱いていたのに。……案外、古河とは本当に良く似合いそうな気がしてきた。
俺なんかが余計なちょっかいをかけなくてもくっつきそうだ。でも、油断は大敵だ。いつ杏が岡崎に告白するか分かったもんじゃない。
ふう、と一息ついて俺はあれこれ説明している岡崎と、それを聞いている古河に向かって口を開く。
「俺、これから着替えたいから、悪いんだがちょっとの間出てってくれないか?」
「そうか、いや、俺ももう行くからいいよ」
「それでは榊原さん、さようなら」
二人して教室を後にする。……仲、いいじゃん。
一人寂しく着替えを始めた俺は仮面をそこらに放り投げて、隅に置いてあった制服を引っ張り出した。
あのうり坊は無事住処に戻れただろうか。どうしてあの場所に来ていたのかは分からないけど、杏はあのうり坊を可愛がってたりしたのかな。
それに、あの坂上智代とか言ったかあの銀髪の子は。俺を未確認生物のように見ていたが、なんかあの子もどこかで見たことがあるんだよな。ナンパってわけじゃないが、本当にどこかで見た覚えがある。記憶の片隅に、どうしてかカビのようにこびり付いている。
手袋を外して仮面のある場所に投げ捨てる。ラバー製だったせいで、なんか手がゴム臭い。
ブーツを脱いで捨て、ピッチピチの下半身タイツを脱ぎ捨てる。動き回ったせいで汗をかいていた俺の下半身は、通気性が良くなって涼しい気持ちに包まれた。なんかこう、自由ってのはこういうことなのかなって柄にもなく思ってしまった。
「さて、制服制服……」
下半身パンツで胸当てをしたまま制服を取り出した。傍から見れば変質者のそれだ。
―――そう思ってしまったのがいけなかったのか。
ガラッと無機質な扉の空く音が俺の後ろ、背中側から聞こえてきた。
その瞬間、俺のゴールデンなボーイがヒュッとなって縮み上がったのを、今でも忘れない。
「ぶひっ、ぶひ~っ!」
気がつけばさっきのうり坊が俺の足元に居て、すりすりと頭を擦りつけてきた。
きっと扉が少し空いてたのかもしれない。うり坊が一人でこの教室の扉を開けることなんて出来やしないんだから。でも、なんでここに?
「こらー! ボタンーー!?」
廊下からとっても聞き覚えのある声が聞こえてきた。というか、すっごく聞こえる距離が近い。
明らかに走っている音が聞こえてすぐ、キュッと上履きの擦れた音がして……俺は恐る恐る振り返った。
「ったくボタンったらー、駄目でしょ勝手に入ってきち…………っ!?」
「………………」
沈黙。
目線が合って、相手の目線が下に下がって、また合って。
まるで刻が止まったかのようだった。
二人と一匹の時間が永遠を刻み、想い遥かに飛んで行き、いつまでもこうしていたいとさえ変態思考な俺は思ってしまった。
「……あ……あん、た…………」
しかし。
―――神は人類に時間という枷を与えた。
「な、なに……その格好…………」
―――停まる事を、神様は決して許さないのだ。
俺は決意を固め、大きく息を吸った。
「―――ここで問題! 夢のような現実と、現実のような夢、君はどっちを―――」
「―――アホみたいな事言ってんじゃないわよーーー!!」
「オ○シディアンッッ……!!」
岩のように硬い杏の辞典が投擲され、俺の頬に突き刺さった。
最後に、顔を真っ赤にして取り乱す杏を見れた事を―――俺は後悔しない。