ORCHO-PASS PAGES of MEMORY Page.2「正義と罪」 作:マクギリシマ
車から降りると、園児たちのはしゃいだ声が聞こえてきた。どうやら中庭の園庭で遊んでいるらしい。
御留我はそんな声が耳に入ると不思議と気持ちが軽くなったような気がして、かすかに頬を綻ばせた。
「おはようございます、刑事さん」
園舎のドアをくぐって出てきた若い女性保育士が御留我と宜野座の二人を出迎えた。
「何度もお邪魔してしまい申し訳ありません。今日は捜査ではなく、軽い聞き込み程度ですので」
宜野座が会釈を返し、穏やかに言った。それを聞いて安心したのか、保育士の女性は緊張していた表情を少し緩めたようだった。
二人は園の応接室へと案内され、革張りの客人用ソファに腰掛けた。昼間だからだろうか、照明は灯っておらず、外から差し込んでくる夏の陽射しが部屋のありとあらゆるものの影をくっきりと映し出していた。
「椎名さんと宮内さんのことは、園児たちには転勤ということにしています。みんな 特別気にしてる様子はありませんけど、やっぱりどこか寂しがるような節もあって」
保育士の女性は二人に麦茶を運びながら話した。同僚が亡くなったのは自分たちにとってもさぞ辛いことだったろうに、子どもたちのことを最優先に心配できる意志の強さには頭が下がる思いがした。
「椎名さんは、園児たちにとってどういう存在だったんでしょうか」
御留我がそう聞くと保育士の女性はわずかに首を傾げたものだから、慌てて言葉を言い繕った。
「あ、いや…その、なんというか、子どもたちは椎名先生のことをどう思ってたのかなって…」
御留我の意図を察したのか、上手く言葉にできない彼をほんの少し可愛らしく思った様子でふふっと笑いをこぼし、先生はこう言った。
「それは子どもたちに直接聞いてみるといいですよ。刑事さん、あの子たちに人気ですし」
「?」
「覚えてませんか?“まっするおにーさん”」
御留我は初めてここを訪れたときに園児たちにそう呼ばれて取り囲まれたことを思い出した。同時に悪戯っぽく微笑みかけてくる先生を前に、子ども扱いされているようで悔しいような、こそばゆいような気分になった。
「じゃあ、みんなのところへ行きますか?」
先生が部屋のドアに手をかけようとしたとき、御留我はとっさに制止して言った。
「それなら、
椎名美里がどんな先生であったのか。それを、椎名が守った理人くんという園児を通じて知ることができるのならばと、御留我は食らいつくような思いだった。
おそらくまだ会ったことはない、全く知らない男の子。だがそれは御留我にとっては、事件当時椎名に対しても同様だった。今まで全く知ることのなかった、そしてこれからも決して知ることのなかったはずの他人だった。だが彼女にも当たり前のように人生があって、彼女の正義があって、そして彼女の幸せがあったのだ。
俺の知らなかった幸せ。
知らないものからは目を背けていた。そうはっきり自覚していたわけではない。ただ平然と、公安局の執行官である自分の職務を盾に、それに立ちはだかる邪魔者として退けてきた。単なる“対象”に過ぎなかったのだ。
今さら「知りたい」などと図々しく踏み込むことさえ愚かしく感じられたが、もしもその人物を知ろうとするならば、その答えを求める相手もこれから初めて知っていくことになるのだろう。
御留我は保育士の先生を真っ直ぐに見据え、返答を待った。横目で宜野座の様子を伺ったが、彼は何も言おうとはしていなかった。
先生は一瞬目を丸くしたが、すぐにもとの柔らかい笑顔に戻って快く了承してくれた。
「ええ。呼んできますね」
「あ!まっするおにーさんだー」
表の園庭で待っていた御留我たちの前に、先生に手を引かれ出てきた男児の第一声はそれだった。御留我はその子のあまりある勢いに一瞬おどけながらも、すぐに笑顔を繕って手を振った。
「遊んでくれるのー?」
少年は御留我のそばまで駆け寄り、くりくりとした目を輝かせて尋ねた。ふんわりとした短い黒髪でまだ御留我の膝下ほどの背丈しかない男の子が、天を仰ぐほど目一杯顔を上げて御留我を見上げる。御留我は目線を合わせるためにゆっくりとしゃがみこんでから優しく語りかけた。
「いや。今日は、君にちょっと聞きたいことがあるんだ」
後ろに立っていた宜野座は何も言わずにその場を去っていった。
「うんいいよ!」
無邪気な返事をもらい、御留我は一泊おいてから彼に訊いた。
「理人くん、美里先生のこと好きか?」
「うん、大好き!でもさきこせんせいは意地悪してくるから嫌い!」
唐突なその言葉にたじろいでしまった。それは宮内の虐待を「意地悪」としか認識できていないことと、こうも簡単に切り捨てるように表現してしまうことへの虚しさからだった。
「そっか…。でも、二人ともいい先生だから、そんなこと言っちゃだめだ」
宮内のことを「いい先生」などとは世辞にも言いたくはなかった。だが今、この純粋無垢な少年を前に、他になんと言えばいいのかがわからなかった。
「さきこせんせいとみさとせんせい、ケンカしてたよ」
「大丈夫だ。今は二人とも仲直りして…別の保育園で頑張ってるから」
無知な幼児に不安がらせないよう、でまかせを言って聞かせたが、これほどまでに残酷な嘘があっただろうかと悔いた。
今や訪れることのない未来なのだ。椎名が生きてさえいればあり得ない話でもなかったのかもしれない。そうなればどれほど良かったことか。もしもそうなる可能性が一握りでもあるとするならば、何年、何十年だろうと待ち続けよう。
そんなことさえ考えてしまった。
御留我が哀愁に浸るような、それでいて困り果てたような憂の笑みをたたえてあさっての方向に目をそらしていると、少年がふと思い出したように語りだした。
「みさとせんせいはね、僕とおんなじでパパとママがいなかったんだって」
何気ない日常のように、今日保育園であった出来事を母親に嬉々と話すかのように、目の前の少年は目を輝かせて話す。まだ喋り慣れない様子でたどたどしくも、懸命に口を動かして言葉を紡いでいく。
「それでね、『ぼくの本当のパパとママが迎えに来てくれるまで、せんせいがママだからね』って!」
そうか。
御留我は目を見開く。
最後まで残っていた謎が解けた。なぜ、椎名美里が孤児であったということが知られたのか。宮内から虐待を受けるこの子に、椎名自身の口から語ったのだ。
『先生もね、理人くんぐらいの頃、パパとママがまだいなかったの。先生も一緒だから、大丈夫。あなたの本当のパパとママが迎えに来るまで、先生がママだからね』
春先の柔らかな光が射し込む園舎の中、泣きべそをかく小さな男の子と向かい合ってしゃがむ椎名美里。優しく、包み込むような口調で語りかける一人の“母親”の姿を、御留我は脳裏にはっきりと巡らせた。
「っ…」
御留我は少年の両肩に手を置いてそのまま俯き、歯を食いしばった。目頭が熱くなり、視界がぼやける。
孤児であることで蔑まれた理人くんにとって椎名は、単なる保育士以上の存在だったのだ。母親でいてあげるというその言葉は心の支えだったに違いない。いや理人くん本人にとっては、そこまでの意味を成していないかもしれない。むしろ逆に椎名は一保育士という存在に過ぎないのかもしれない。きっと里親に引き取られ、大人になっていくにつれて保育園での記憶は薄れていく。当然椎名も、いずれ名前すら思い出せないような朧気な記憶の中の存在になるのだろう。しかしそれこそが孤児である理人くんが得られる幸せ、最適解なはずだ。普通の人と同じように育てられて、普通の人と同じように幼少期を忘れていく。普通でなかった、孤児であった過去は薄れていく。孤児を預かるここの保育士たちは、椎名は、きっとそれをわかっており、そして同時にそれを願っているはずだ。自分たちが忘れられていくとわかっていながら、わかっているからこそ限られた時間の中で、その子どもたちに精一杯の愛を分け与えていく。
血はつながっていなくとも、そこから混ざって繋がって…それはそう、“家族”だ。
御留我は涙を堪え、顔を上げて言った。
「理人、お前のパパとママは、絶対に迎えに来てくれる。だから…いや、けど…それまでの間、俺がお前のパパでいてもいいか?」
「ほんとに?!やったー!まっするおにーさんがパパだー」
御留我の途切れ途切れの半透明な、それでいて確かに心の通った強い言葉に、目の前の少年はぱっと晴れた表情になり、飛び跳ねながら喜んだ。
御留我はそんな無垢な姿を見て優しく頬を緩めると、再び目頭が熱を持ち始めて下を向いてしまった。
なぜだろうか。
他人であったはずなのに、出会ってから僅かな時しか過ぎていないのに。椎名に関して言えば、まだ“出会って”すらいないのに、どうしてこんなにも自分の心の奥底まで突き刺さってくるのだろう。御留我自身の子供の頃の記憶か、それとも子供の頃の記憶にすら刻むことのできなかった願いか。生まれてから今まで、必要ないと強がってはいても手に入れられなかった幸せ。この先どれだけ進み続けようと掴み取ることのできない何か。それに対するやり場のない切なさと、この少年には絶対に失ってほしくないという悲願とが御留我の頭のなかで熱く湧き上がってきていた。
「御留我、そろそろ帰るぞ」
頭上からの宜野座の落ち着いた声に我に返り、御留我はゆっくりと立ち上がった。
遠目から何も言わずに微笑みながらこちらを見据える先生に頭を下げてから、
「じゃあな」
と、首をめいっぱい伸ばしてこちらを見上げる少年に笑ってみせた。
「気は済んだか?」
車に戻る短い道すがら、ゆっくりと歩く宜野座が素っ気なく切り出した。
御留我は「ああ」と簡単に返すと、そのまま思いの丈を語ることにした。まっすぐ歩く監視官の背中に静かに話す。
「まだはっきりとはしちゃいないんだが、俺が何をすべきか少しわかった気がすんだ」
前を向いたままの宜野座の瞳孔が微かに開いた。
「俺が過去に殺した人間はどう足掻いたって戻っては来ない。これまで殺してきた奴らには今からじゃもう、こんなふうにそいつの幸せを知ることも出来ない奴が大勢いるはずなんだ。それを悔やんだところで何も変わらねぇ。だが、その罪が消えることもないと思ってる」
宜野座は表情一つ変えずにゆっくりと歩き続ける。御留我は一歩大きく前に踏み出して彼の横に並んで歩いた。
「だから俺にできることは…迷わねぇことだ。決して足を止めない、止まらずに進み続ける。俺が殺してきた分の、いやそれ以上の命を、幸せを守るために進み続けることで、そいつらを弔っていく」
宜野座の横を歩き、彼と同じようにただ前を見据えたまま、御留我は強い意志を込めて言葉にした。
どうするべきか、一体どうすればそれを成し得ることができるのか、今はまだ御留我の中でくっきりとした形にはなり得ていない。ただ、これまでのようにただシステムの言いなりになって自分が何をしているのかを省みることさえなくなるような、そんな獣のようにはいたくない。右手の人差し指にかかる引き金がずっしりと重いこと、その銃口の先にはその身一つには収まりきらぬほどの一人の人生が溢れていることを脳の海馬に色濃く焼き付けて…。そんな刑事として生きていきたい。
「好きにしろ。執行官として責務を果たすならお前の目的などどうでもいい」
宜野座は軽く鼻を鳴らして冷たく言い放った。その返答を御留我は特に気負おうとは思わなかったが、次の瞬間、冷淡だった監視官は意外な言葉を投げてきた。
「だが見失うなよ御留我。お前が いの一番に守らなければならないものだけはな。それ以外は全部後回しにしろ。それで出来たツケくらいなら、俺がいくらでも払ってやる」
彼がこんなことを言うのはあまりにも予想外だった。宜野座は潜在犯を、執行官に嫌悪の念をぶつけている。それは自他ともに認めることだ。だがそれ以上に、彼は執行官も含め共に市民を守る刑事として、部下として足並みを揃えようとしているのだろうか。それ故の責任ならば、監視官という上司として背負う覚悟があるのだろう。
「わかったら前を向け」
いつの間にか立ち止まり、あっけらかんとして宜野座の背中を見つめていた御留我に、彼は初めて振り返ってそう言った。
御留我は彼の広い背中に、不思議と兄貴分的な影を感じた。
「いや、似合わね」
そう呟くと、御留我はくすりと笑ってから小走りで駆け寄った。
夕日に照らされた二人の長い影は、前へ前へと伸びていた。