すみません。
ある程度書いた後に5回くらい手直ししたせいで思ったよりも時間がかかってしまいました。
彼女が……ご主人様が行方不明になった。
早朝、昨日から相変わらず落ち着かない心を鎮めるために、廊下で何をするのでもなく外を眺めていた僕の耳にそんな最悪の知らせが飛び込んで来た。
うっすらと、頭の中で靄のようにかかっていた眠気が一瞬のうちに吹き飛び、跳ねるように立ち上がった。急いでその会話の聞こえた方に行き、両の耳をその会話にだけ集中させた。
『濃霧の中で妖怪の襲撃を受けたとの連絡を最後に、護衛とともにご主人様は消息不明になった』
妖怪という言葉を聞き取った僕は、背筋の凍るような悪寒を感じ取った。僕は妖怪がどういうものか知っていた。つい昨日だってその妖怪の危険性を伝える記事や妖怪を糾弾する記事に目を通したばかりだった。僕はこの都市の中で、人間や神様たちの中で妖怪がどれだけ危険視されているのか知っていた。そんな危険な存在に、僕のご主人様が襲われた。
こんなことをしている場合じゃない。ご主人様が、僕の大切な人が危ない。
そこまで理解が追いついたところで、僕の足は勝手に動いていた。
門の前で話していた会話の声の主たちの脇をすり抜け、通りの人混みを駆け抜け、そしてこの都市の門から飛び出した。屋敷から慌てて追いかけて来た女中たちの声も、戸惑いながらも止めようとしてくる門番たちの声も全て置き去りにしていった。もう僕を止めるものは何もない。
燃えるような激しい力が急に体の奥底から湧き上がってきて身体中を駆け巡る。そしてその力に突き動かされるように足を前に、もっと前にと運んで行く。
勢いのままに邪魔な草をなぎ倒し、逃げ惑う小虫を撥ね飛ばす。
僕は自分でも驚くような、今まで出したこともないような早さで北の山へ向かって駆けていた。
聞いた限りではまだ死んだとは決まっていない。とにかく今はご主人様の生存を、その微かな希望を信じて助けに行くしかない。何もせずにただ待ち続けるという選択肢は僕には無かった。
(ご主人様が妖怪に殺されてしまう!早く……早く助けなくては!)
もう、それしか考えられなかった。
●
都市の北門。
そこは今、山で妖怪の襲撃を受けた要人を救出するための部隊が集結していて、普段の早朝の穏やかな空気を感じさせない緊迫した雰囲気があたりを支配していた。
私が話を聞きつけて今日の用事を全部ぶん投げてここまですっ飛んで来た時にはもう遅かった。
永琳が山で消息を絶ったという連絡が入ると同時にシロが屋敷から脱走したという話まで舞い込んできた。今までほぼ完璧に言いつけを守ってきた忠犬そのもののシロが脱走。それも、目撃者たちによると都市の門を物凄い速さで抜けて、永琳が消えたという山の聳える北の方角に向かって走り抜けて行ったという。
この状況、このタイミングでの脱走となれば、もちろん理由なんて一つしかないだろう。
まず、シロのことだから主人であり、育ての親でもある永琳の危機を感じ取り、いてもたってもいられなくなり飛び出したのだろう。彼女を守るために。
だが、シロは狼だ。私たちのような神やその眷属でもなければ妖怪でもなんでもない、本当にただの、動物としての狼だ。
だから勝てない。
何人もの護衛の軍人を出し抜いた上で、私が弓を教えた永琳を相手に少なくとも互角以上に立ち回れると思われる、そんな強力な妖怪相手に勝てるわけがない。
もしこのままシロが山に入って、その妖怪を見つけたとしよう。だが狼と妖怪ではその強さに圧倒的な差がある。例え動物という括りの中では捕食者として君臨する狼とはいえ、相手が力のある妖怪であれば簡単に被捕食者に転げ落ちてしまうのがこの世界。
さらに、永琳も私もシロが都市の中で暮らしていく以上は必要ないことと考えていたせいで、シロに一切戦闘に関することを教えていない。当然、屋敷に入り込んだネズミなどの小動物以外狩りの経験もない。
つまり、シロは野生の他の狼よりもむしろ弱いだろうと考えられるのだ。そんなシロがいくら妖怪に戦いを挑んだところでたやすく殺されてしまう可能性が高い。
最悪、2人とも死んでしまうかもしれない。
そんな最悪の未来が頭の中をよぎる。
今は捜索と救出のための部隊の編成を急がせているが、それを待っているうちに手遅れになってしまうのではないかという不安が胸の内にあった。
今からでも家に戻って弓を取り、私1人でも先に行くべきだろうか。などと悩んでいる時間さえ惜しかった。最後の通信からすでにいくらか時間が経過している以上、ただここで待っているわけにもいかない。
実際、私は周りを慌しく動き回っている兵士の誰よりも強いし、誰よりも早く山に行ける。この場の最高戦力である私が先に行って邪魔な妖怪を蹴散らしながら探していた方がよっぽど彼女たちの生還率も上がるだろう。
それに、現時点で山に向かった全員と連絡が取れず状況が掴めないせいで軍が二の足を踏んでいると言うのなら、なおさら私が行くべきだ。今この場ですぐに出れる神は私くらいしかいないのだから。永琳たちを襲った妖怪と遭遇しても本気を出せば遅れは取らないと言う自信はあるし、もし仮に相手が私の想像を上回る大妖怪であっても、私が久々に派手に暴れてその場に釘付けにできれば捜索隊の被害も抑えられる上に時間稼ぎもできる。
「私は先に行くわ。部隊の編成が終わり次第すぐに出発して追って来なさい」
「つ、月夜見様……危険です!あと数分もすれば出発できますのでそれまで……」
「時間が経てばそれだけ救出対象の生存率は下がる一方よ。妖怪はあなたたちが準備してから着くまで律儀に待ってはくれないの。それに、私1人でも早く行けるなら、そうした方が何倍もいいでしょう。何より……」
門の入り口から見える山は、不自然で気色の悪い霧に覆われていた。
「山にかかる霧、あれが広がれば広がるほど、むしろ危険度は増すばかりでしょうね」
私はあの不気味な霧が、十中八九妖怪の仕業であると考えていた。
山を覆うほどのあの霧が目くらまし程度であれば良いが、もしそれだけでなく使用者に対して有利で都合のいい環境を作り出せる類の妖術か能力によるものであった場合は……そしてその襲撃が1人の妖怪によるものであれば、少し厄介なことになりそうだった。
下級から中級程度の妖怪が複数人で徒党を組んでいるだけであれば各個撃破すればそれで終わる話ではあるが、大妖怪クラスがいるとなると途端に厳しくなる。
どれほどの力を使っているのかは分からないが、単体であれだけのことができるとすれば相手はそれ相応の妖術を扱えるだけの技術と力を持っているか、あるいはそうしたことを実現可能とする強力な特殊能力を持っているだろうことは容易に想像がつく。
もしそんな奴にいきなり襲われたのだとしたら、いくら腕のいい軍人でも時間稼ぎすら厳しいかもしれない。もしそんな奴の懐に特別な力を持たない狼が無謀にも身一つで飛び込んでしまえば、どうなるかなど火を見るよりも明らかだった。
もはや残された時間は、私が考えていたよりも短いかもしれない。
私は覚悟を決め、踵を返して石畳を蹴って飛び上がる。
下の道をわざわざ走って帰っている余裕はない。そう考えた私は空から最短距離で自宅の庭まで飛び、土足でそのまま上がり込んで一直線に自室へと向かった。畳や床なんか後で掃除すればいい。今はそんなどうでもいいことを気にしている暇も余裕もない。
私は自室のふすまを乱暴に開け放って駆け込むと、最近は使う機会も減って部屋の飾りと化していた弓と矢筒をひったくってそのまま庭へと飛び出して空へと上がる。矢筒は空のままだが途中で神力を使って矢を作れば問題ない。
目指すは北。薄気味悪い霧に覆われた山。
私はいまだに出発できていない北門の兵士たちには目もくれず山へと飛んでいった。
山に向かう途中、ちょうど都市の方角から草むらや藪を貫いて山へ一直線に伸びていく獣道のようなものを見つけた。
もしかしてと思い、低空に降りながら少しだけ速度を下げた。踏み潰された草から出た汁の匂いが鼻をツンと突いた。まだ出来てから時間が経ってない、新しいもののようだ。もちろんこれを作れるのは彼女……シロしかいない。おおよその時間も方角も一致する。彼女はここを通っていったのだと確信したが、同時に私は違和感を感じていた。獣道の植物は果実が、枝が、茎が、その悉くが随分と派手に潰れ、ひしゃげていた。猛烈な早さを破壊力に変換して周囲の植物を蹂躙しながら何かが駆けていく姿がありありと想像できた。だからこそ上空を飛ぶ私からはっきりと視認できたわけだ。だが普通、狼一匹通っただけでこうはならない。これでは狼ではなく巨大な熊が通っていったかのようだ。
でも、もしシロが今回のことをきっかけに妖怪として覚醒してしまったのだとしたら、そのなぎ倒された草花の惨状にも納得できてしまうものだった。後天的に妖力を得た妖怪は數十分から数時間はその力を制御しきれずに破壊や衝撃といった現象を周囲に振りまくこともある。動物としての狼の能力を頭一つ分二つ分飛び越えた妖怪としての力があれば、この程度なんて事はないだろう。
親や先祖に妖怪の血が混ざっていた場合、その子孫は妖力を持たない動物として生まれてきた場合でも後天的に妖怪として覚醒する可能性があると言う話を聞いていた私は、すぐにその可能性に思い当たり、飛びながら理屈を頭で組み立てていった。
部下兼親しい友人の家族が、私自身も気にかけて世話をしていた愛着のあるペットが、突然妖力を発現させて妖怪になったなど、内心では否定したい気持ちが燻っていた。
だがそんな気持ちとは裏腹に、その獣道にわずかに残る妖力の残滓が、何よりも雄弁にその憶測を裏付けていた。
●
僕は、妖怪になってしまった。
でも今は不思議と嫌な感じはしなかった。
人間や神様の敵である妖怪になってしまったから、もうこれ以上彼女の隣にはいられないのに、もう一緒に寝たり、抱きしめられたり、撫でられたりして貰えないのに。
でもそんなことよりも、ご主人様を失うことの方がもっと嫌だった。彼女を失えばきっと他のみんなも悲しむから、もちろん僕だって想像しただけでどうにかなってしまいそうなくらいに悲しいから。
僕は人の言葉を理解するようになってから、人間と妖怪が決して分かり合えないことを知った。そして人間と妖怪が、人間と動物以上にどんな海よりも深い溝で、どんな空よりも高い壁で隔てられていることを知った。
だから、僕が妖怪になってしまったからこれ以上は都市に、彼女たちの側にいられなくなってしまったことを悟った。でも、そんなことよりも、このまま何もしないでいることの方がよっぽど嫌だから、その方が絶対に後悔するから。
だから僕は走り続ける。
今までの僕のありったけのありがとうも、大好きも……そして、さようならも伝えられないまま永遠に別れるなんて絶対に、絶対に嫌だから。それだけは絶対に認められないし何よりそんなのは、自分で自分が許せなくなるから。
獣の妖怪として全ての人間や神様に拒絶されても構わない。これから永遠に離れ離れになってもいい。たとえ彼女の代わりに僕が倒れることになったとしても後悔はない。
ただ一つ、ご主人様さえ生き延びてくれればそれでいい。だから、今は……今だけは、何に代えてでも大切な人を守る。ご主人様が助かるのなら、僕は妖怪としての自分を受け入れられるし、それこそなんだってしてみせる。
それが今の僕にできる、最後の恩返しだから。
●
僕が山に着く頃には日は昇り、曇天の空が広がっていた。
周囲にはうっすらと霧が立ち込めてきて、それは山の奥へ進めば進むほど濃く、深くなっていった。僕はここに入って少しした段階で、これが自然に発生したものではないことを感じ取っていた。
この霧の中に、僕の中に芽生えたこの力とほぼ同質のものを感じ取っていた。それは妖力だ。しかもその妖力は霧が濃くなるとともによりハッキリと、鮮明に感じ取れるようになっていった。
だがそれと同時に体にある違和感を覚え始めた。この霧に入ってからと言うものの、霧により視界が悪くなるのはもちろん、鼻や耳が少し遠くなったように感じられた。妖怪になってからまだ半日どころか数時間と経ってはいないが、妖怪になれば身体能力は強化されると言うことはこの身をもって僕は理解していた。もちろんその強化される能力の中には五感だって含まれている。だがこの霧の中では強化されたはずのその能力が、むしろ妖怪化する前に毛が生えたような程度には弱体化しているような気がする。
恐らくはそれがこの霧の効果であり、この霧を発生させた奴の力なんだろう。
音はともかく匂いに関しては問題なかった。この嗅覚を鈍らせる霧の中にあっても、この近くを通ったはずの、かすかに残るご主人様の匂いを僕の鼻は確かに感じ取っていた。狼の鼻は人間の何千万倍も優れているし、この鼻は大切な人の匂いを忘れるほど馬鹿じゃない。
みんなと同じものを食べる事もできず、同じ言葉で話す事もできず、見える世界だってきっと違っているこの不便な体のことを恨むことの多い僕だったが、今日はこの霧の中でさえなんとか匂いを嗅げる鼻の良さに感謝すらしていた。
もしも僕がみんなと同じ人間であったのなら、きっとこの匂いもわからずにこの霧の中を迷うばかりになっていただろうから。
問題はこの霧に含まれる妖力だった。この霧の妖力が、この山のどこかにいるはずのご主人様の霊力をかき消してしまっているらしく、霊力を目印にして探すと言う手段が取れなくなってしまっている。
感覚を鈍らせ、視界を遮るこの霧は捜索する上での最大の障害として立ちはだかっていた。
この霧がどうやって作られたものなのか、どこの誰が作ったのかなんて僕には分からない。でもそれがご主人様の捜索の邪魔をすると言うのなら、ご主人様のことを傷つけようと言うのなら、僕が必ず見つけ出して殺してみせる。
ご主人様に仇なす奴に、容赦はしない。
ここに来るまでに結構な距離を走ってきたが妖怪としてのこの体はまだ動ける。それに目的はすでに明白だ。
だから僕は進む。
沢を越え、木々の間を抜け、藪を分け入り、岩を飛び越えた。気が付けば太陽は登り薄雲と霧の間から顔を覗かせていた。
ご主人様の匂いは近くなっている。しかもそれ以外の匂いも判別できるようになり、それが僕に多くの情報を与えていた。ご主人様以外の人間らしき匂い、焼けた倒木から漂う焦げた匂い、強い衝撃でほじくり返されたかのような土とそこから漂う何かの薬のような匂い、人の汗と獣の匂いを混ぜたかのような嗅いだこともない匂い、そしてご主人様がよく使っていた傷薬の匂い。
さらに感覚を研ぎ澄ませる。すると、この妖力の霧にかき消される前の霊力と謎の妖力を感じ取れた。霊力の方はご主人様のものとは少し違う。恐らくは護衛が生きているのだろう。妖力の方はこの霧の主とは違うものだ。恐らくはこの場に妖怪は複数いて、それが護衛の生き残りと戦闘をしたのだ。しかもそれほど時間は経っていない。妖怪になりたての僕でもその残滓を感じ取れるほどなのだから。
だがそれでも依然として見つからない。
この霧の中には人間たちが使っていた道具が土に汚れた状態で転がっていた。身体中を何かに滅多打ちにされた妖怪の残骸があった。頭に矢が突き刺さった妖怪の死体があった。見るに堪えないほどに貪られた恐らくは人間のだったと思われる亡骸もあった。そしてその先には彼女の銀の髪が木の肌に絡まっていた。彼女の服の青い布が枝に引っかかっていた。彼女が拾ったのであろう薬草が入ったバッグが切れた紐とともに捨てられていた。
確かにそこに痕跡はある。どれも新しいもので、だからこそ追いつけそうで追いつけないという焦りとともに、僕に希望を抱かせた。
(ご主人様は何かから逃げ続けている。まだ動いている。まだ生きているんだ)
そう思うだけでも地面を蹴る足に力が籠る。霧が深さを増してさらに視界が悪くなる中、僕は臆することなく前に進み続けた。
(必ず間に合わせる!必ず助けてみせる!)
心のうちに静かな決意を宿らせて。
誤字脱字などに関してはご報告いただけると(以下略)。
次回の更新は未定ですが1〜2週間前後を予定に更新できればと考えています。
ただし今後は殆ど不定期と言っていいような状態になるかと思われます。
(2019年9月23日 一部誤字の修正と内容の追記)