──ない。
真姫はひどく焦った。
朝、まだ早い。隣では凛がぐーすか寝ている。
外に散歩に行こうと着替え始めて、初めてそのことに気が付いた。
靴下の替えがない。
どれだけバッグの中を漁っても、出てくる気配がない。
一度大きく息を吐き、冷静に出発前のことを思い出す。
いい加減、旅行の準備くらいは自分でしようと、張り切って服やら何やらバッグに詰め込んだ。
その中に靴下が入っていたかどうか、記憶が定かではない。意識していなかったようにも思うし、確かに入れたような気もする。
しかし、現実問題、今ここにないのだ。
昨夜は気付かなかった。下着はお風呂に入る前に出すので、その存在を確認したが、その時に翌朝履く靴下のことまで気が回らなかった。
もしその時に気が付いていれば、すぐに洗って、夜の内に乾かすことができた。
後の祭りだ。
昨日丸めて放り込んだ袋から出してみる。
しっとりした湿度とともに、すえたニオイがして、真姫は思わず眉をひそめた。
これをもう一度履くのは勇気が必要だ。しかし、実際に靴下はこれしかない。
思い切って履いてみると、足先がひんやりした感触に包まれた。ぞくっとして一度身震いする。
新しい靴下の購入が急務だ。しかし、それは困難だった。
一番近いコンビニですら、かなり離れた場所にある。そのため、もう買い物の必要がないくらい、食べ物も飲み物も買ってあり、わざわざ凛を巻き込んでまで行く理由がない。
素直に話すのはナシだ。替えの靴下を忘れたことも、仕方なく昨日の靴下を履いていることも、凛には知られたくない。
それは恥ずかしいことであり、プライドが許さない。それをするくらいなら、澄ました顔でこの靴下をもう一日履き続ける方がましだ。
幸せそうに眠っている凛の隣で着替えを済ませて、靴を履いて外に出てみる。
太陽は地平線から完全に顔を出し、空は雲一つない快晴。今日行こうとしている山もくっきり見える。
自然の空気を堪能するように、ゆっくりと歩き出す。朝はだいぶ涼しくなってきたが、日中の気温は上がりそうだ。
鳥のさえずりが歌のように聞こえる。ふっと生まれる新しいメロディーを、胸の引き出しに仕舞っていく。
いい朝だ。ただ一点、足先がしっとりしている以外は。
部屋に戻ると、凛はすでに起きて、着替えを済ませていた。ちょうど食事の準備を始めようとしていたところで、真姫を見て明るい瞳をした。
「おはよう、真姫ちゃん。お散歩?」
「ええ。おはよう」
言葉少なに返事をする。靴を脱ぐと、わずかに靴下のニオイが気になって、真姫は凛に背を向けたまま表情を険しくした。
気付かれやしないだろうか。だが、今の時点では、昨夜の状態と変わりはない。昨夜大丈夫だったなら、今も大丈夫なはずだ。
外に出てしまえば、一日中靴を履いている。帰ってきたらすぐにお風呂に入るから、それほど問題にはならないだろう。
今を乗り越える。それで解決だ。
「今朝は凛が特製目玉焼きを焼くニャ!」
「特製って、何が違うの?」
「ベーコンを敷く!」
「それは楽しみね」
ウキウキと料理を始めた凛の隣に行き、流しで手を洗う。
今日一番凛に近付いたが、大丈夫だろうか。凛は猫だから、鼻が利くだろうか。それは犬だったか。猫はどうなんだろう。
聞いてみようと思ったが、今その話題を振るのは冒険だ。
「今日は真姫ちゃん、静かだニャ」
不意に、凛が言った。
「そ、そう? 私はいつもこうだと思うけど」
「うーん。今日はちょっと何か違う感じがする」
ギクッとして距離を置く。そのままテーブルにつき、食事を待つ体勢に入った。作るのは凛の仕事で、食べるのが真姫の役目だ。
「そうね。きっと、こうして凛と二人きりの朝に緊張してるのよ」
適当なことを言うと、凛の動きが一瞬止まった。
おかしなことを言っただろうか。真姫は不安になった。背中越しなので、凛の表情はわからない。
再び凛は料理を始めた。そして、今の真姫の台詞はなかったかのように、別の話を始める。
「天気は良かった? 凛、そういえばまだ一度も外を見てないニャ」
「ええ。今日も楽しくなりそうね」
「そうだね」
それから、何気ない話を繰り返し、やがてテーブルに並べられた朝食に手をつける。
凛特製目玉焼きはなかなか美味しかった。
いい匂いが立ち込めている。靴下は劣勢のようで、食べている最中は、真姫も事態を忘れていた。
「目玉焼きくらいは焼けるようになりたいわ」
「誰でもできるニャ」
「ベーコンは難易度が高そうね」
「そうかなぁ……」
食べ終わると、食器も凛が洗う。別に真姫も、皿くらいは洗ったことがあるが、凛は自然と片付けをするし、真姫は自分以外の人間が働くことに慣れていた。
歯を磨く。
ソファに座ったまま、そっと靴下に触れると、朝よりも湿度が上がっているように感じた。いや、実際に散歩に行った分、確実に増していた。
少し嗅いでみたくなり、足先を顔に近付けると、いきなり後ろから凛に声をかけられた。
「何してるニャ?」
「きゃあ!」
思わず歯磨き粉を噴き、声をかけた凛の方が慌てて床を拭く。
自分の足と凛の顔が接近して、真姫は反射的に立ち上がってその場から逃げた。
「真姫ちゃん、どうしたニャ?」
「どうもしない!」
早くこの家から出なければ。外に出てしまえば、真姫の足の問題は、靴の中でクローズする。
振り向くと、凛が不思議そうな顔で真姫を見つめていた。心配そうな顔ではないので、ひとまず安心だ。
「真姫ちゃん、凛といると、その……」
凛が何かを言いかけて、視線を逸らす。
「べ、別に嫌とかそんなんじゃないから!」
「そうじゃなくて……」
真姫の不安をすぐに否定してから、凛はやはり口を閉ざして俯いた。
見たことのない表情で、何を考えているのかわからない。もしかして、靴下のことがバレたのかと思い、真姫は思わず赤くなって声を大きくした。
「な、何よ! 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ!」
そう言いながら、本当にはっきり「足が臭う」などと言われたら、きっと立ち直れない。真姫は心臓が飛び出しそうになった。
凛は上目遣いに真姫を見上げ、それから、真姫が想像もしなかったことを聞いた。
「真姫ちゃんは、凛といると、緊張するの?」
真姫は安堵した。ああ、食事前の話か。
「そう。緊張するの」
「どうして?」
「どうしてって……」
一歩踏み込まれて、真姫は言葉に詰まった。
そもそも緊張などしていない。凛といると居心地がいいし、昨日だって一瞬として気まずい空気にならなかった。
とはいえ、今さら嘘だったとは言えないし、本当のことは絶対に話せない。
「そんなの知らないわよ! とにかく、凛が嫌いだとか、嫌だとか、そういうのじゃないから! 違うから!」
「うん……」
そんなことはわかっているというふうに、凛は頷いた。
一旦その話を打ち切り、真姫はとにかく予定を進めることにした。今日は凛とハイキングだ。この微妙な空気も、外に出てしまえば、ニオイの問題と一緒に吹き飛ぶだろう。
「早く準備して外に行くわよ」
てきぱきと荷物をまとめる。
凛はもういつも通りで、同じように準備をしながら、今日行く山のことをああだこうだ言っている。
用意が整うと、二人で並んで外に出た。これでもう安心だ。
靴の中はじめじめしているが、足首から上のすべては爽快だ。
外の天気は、早朝同様上々。隣で凛が気持ち良さそうにのびをした。
「さあ、行くわよ!」
元気にそう言って、無意識に凛の手を取って歩き出す。
難局はひとまず乗り越えた。凛がどうも微妙な反応をしているのが気になるが、どうやら足のことではなさそうだし、よしとする。
真姫は一人で頷くと、凛の手を握ったまま歩き始めた。