一度空を見上げてから、地面に視線を落とす。
夕方と呼ぶほど遅くはないが、そろそろ戻らないと帰りの電車が危ぶまれる時間。
心地良い疲労感が全身を満たしている。
凛とのハイキングは楽しかった。気分転換になったし、友情も深まったと思う。非日常に触れて、新しい曲へのインスピレーションも得た。
総じて楽しい一日だった。たった一つ、足の裏の不快感を除いては。
ハイキングコース自体は初心者向けだったが、そもそも体力には自信がない上、日中が思ったよりも暑くなり、随分汗をかいた。
その疲れと汗をすべて吸い込んだ上、靴の中にあって捌け口もない靴下が、どれだけ真姫の足の裏を攻め立てたか想像に難くない。
単に湿っぽいだけならよかったが、途中からかゆみも帯びて、断続的に真姫を苦しめている。
今もまた、かゆい。脱いで掻けたらどれだけ気持ちがいいだろう。そんなことを思いながら、真姫は大きな石を蹴るように、何度か足の裏を押しつけた。
不意に、少し前から黙っていた凛が口を開いた。
「ねえ、真姫ちゃん」
「なぁに?」
うわの空で答える。
凛の声のトーンの違いを察知できるほど、今の真姫は集中できる状態になかった。
だから、凛が気が付いていることにも気付かなかった。
「足、どうかしたの? ちょっと前から、気になってるんだけど」
トクンと、大きく一度、胸の鼓動が全身を震わせた。
恐る恐る振り返ると、凛は心配そうに真姫を見つめていた。
さっきから凛が静かだったのを、真姫は疲れているからだと思っていたが、そうではなかった。真姫が時々足を気にしているのを心配していたのだ。
「足、痛いの? 捻ったりしたの?」
真姫はたじろいだ。
もはや足になんらかの異常があることはバレている。真姫が思う以上に、隠せていなかった。
今ここで、なんでもないとは言えない。本当のことは絶対に言えないけれど、必要以上に心配もさせたくない。
「ちょっと疲れただけ。ほら、こんなにも歩いたの久しぶりだから」
良いと悪いの中間くらいの状態を開示したら、狙い通り凛は安心したように息を吐いた。
「そっか。良かった。真姫ちゃん、無理するから、痛いのに言わないのかなって心配したニャ」
凛が微笑む。
真姫も綺麗な作り笑いを浮かべた。そういうのには慣れている。
「じゃあ、行きましょ」
再び歩き始めた真姫の手を、凛がつかんだ。そして先程の大きな石に、半ば強引に座らせる。
「きゃあ!」
「少し休んで行くニャ」
笑顔のまま凛。
疲れたと言ったのだから、凛が休もうと提案するのは自然な流れだった。
しかし、実際には真姫は休むほど疲れてはいなかったし、何より早く戻ってお風呂に入りたかった。
「で、でも、電車の時間が……」
「いいからいいから」
何も考えていないように、明るい声でそう言いながら、凛が真姫の前に座る。
ほとんど同時に、凛は真姫の左足を取ってふくらはぎを揉み始めた。
「あっ……」
「真姫ちゃんは座ってて。大丈夫。凛、陸上部だったから、上手だよ?」
凛の指先が、真姫の足を気持ち良く刺激していく。
しかし、真姫はその快感に身を委ねられる心境ではなかった。
足と凛の顔の距離がものすごく近い。果たして靴という名の防御壁は、どれだけ持ちこたえてくれるだろう。
そんな真姫の焦りなどまったくお構いなしに、凛が真姫の靴ひもをほどき、靴を脱がせたのはほんの2秒くらいの時間だった。
「……!」
一瞬だった。
拒むどころか、声を上げる間もないほどあっさりと、最後の壁は崩壊して、真姫が今日の多くをなげうって守ってきた秘密が、凛の前にさらけ出された。
凛が無造作に真姫の足を両手で取り、親指を足の裏に押し込む。
じゅくっと、湿っぽいものが靴下から凛の指に伝わっていくのがわかった。
「!!」
真姫は言葉も出ない。
凛は何か言いながら、真姫の足の裏をマッサージしているが、もはや耳に入らない。
下を向いているので凛の表情はわからない。
凛はほとんど自分の顔の前で、真姫の足をほぐしている。いくら外とはいえ、かゆみまで帯びてきた足先が、何のニオイも発していないはずがない。
真姫は恥ずかしさのあまり、叫び声を上げて逃げ出したい衝動に駆られた。
トイレのドアをいきなり開けられたような気分だ。ショックのあまり頭が真っ白になる。
凛は一体どう思っているのだろう。
何やら気を遣うことを言ってくれているが、内心ではドン引きしているのではないだろうか。いつも澄ました顔をしているのに、明らかに昨日と同じ柄の靴下を履いている不潔な自分を、蔑んでいるのではないだろうか。
凛の手に足の汚れが滲みていく。
自分の前に跪き、汚いものを拭うように足をマッサージしている凛を見ていたら、真姫は言い知れぬ感覚に囚われた。
「反対もねっ」
凛が今度は真姫の右足を取る。
しばらく外気に触れて冷たくなっていた左足と違い、右足がまた、新しい温もりを帯びた不快な湿り気をさらけ出す。
(ああ……)
真姫は恍惚としてきた。きっと凛のマッサージが上手だからだ。他にどんな理由があろう。
そっと凛の頭に手を置いた。
「真姫ちゃん?」
凛が初めて顔を上げる。その表情はいつも通りで、きょとんとした愛らしい瞳に、真姫のよくわからない優しい微笑みが映っていた。
真姫は何も言わずに凛の髪を撫でた。
凛はすぐに顔を戻して、無言で真姫の足を揉み始める。
ゾクゾクした。
とても気持ちがいい。
この大自然に二人きり。真姫の、恐らく人生で最も汚い状態の足を、凛が素手で揉んでくれている。
これは優越感だろうか。
いや、むしろ恥ずかしい思いをさせられているのは自分の方なので、決してそんなことはない。
これがマゾヒズムというものだろうか。
どうでもいい。
「はい、おしまい。少しは楽になったかニャ?」
凛が立ち上がりながらそう言った。顔は見えない。
真姫も立ち上がる。確かに足は随分楽になっていた。
「ええ、ありがとう」
先に歩き始めた凛の手が気になった。
隣に並んでその手を取ると、少ししっとりしていて、真姫は嬉しくなった。どうして嬉しくなったのかはわからない。
そのまま手を繋いで歩く。
凛は何も言わない。
放っておけばずっと喋り続ける元気いっぱいの女の子が、今日は時々黙り込む。
やっぱり自分を蔑んでいるのだろうか。それはそれでアリだ。
いや、何がアリなのか。凛は大事な友達だから、嫌われたくない。
繋いだ手が湿っぽい。
遠く向こうに屋根が見えてきた。
戻ったらお風呂に入って、荷物をまとめて今日中に東京に帰る。
凛とこうしていられる時間もあと少し。
名残惜しむように、真姫は凛の手を強く握った。