その日のお風呂を、真姫は一生忘れないだろう。
こんなにも石鹸が気持ちいいなんて知らなかった。泡泡の自分の指が、足の指の隙間を潜り抜ける感触。
少し熱めのお湯をかけて、水を弾く足の表面を見ながらうっとりしていると、隣の洗い場から声をかけられた。
「ねえ、真姫ちゃん」
「なぁに?」
顔を向けると、凛は真姫の方を見ておらず、シャンプーでわさわさ髪を洗っていた。
そしてそれをシャワーで流しながら、何事もなかったように口を開く。
「もう一日泊まっていって、明日の朝帰ろっか」
真姫は、その提案の意図を測りかねた。
昨日と今日、二日間凛と一緒にいて思ったのだが、凛は単純そうに振る舞っているが、それなりに色々と考えている。根から単純な穂乃果とは違う。
しかし、足が気になるハンディキャップのなくなった今、全力で考えても、凛が何を考えているのかわからなかった。
「着替えはどうするの?」
すぐには賛成せず、否定的にもならないように聞いてみる。
あの靴下をもう一日履くのは地獄の門戸を開くようなものだし、替えの下着ももうない。
「服は別に問題ないし、下着は洗っておけばいいニャ」
凛が、やはり真姫の方を見ないで答える。
「まあ、凛がそう言うなら……」
今夜つける下着は気になったが、とりあえず靴下を洗えるならよしとした。
それからは他愛もない話に興じ、お風呂から出てご飯も済ませた。
暖房をつけた部屋に、洗った下着をぶら下げる。凛が「一晩くらい、下着は要らないニャ」と言い出したので、上下ともつけない選択をした結果、なんだかスースーしてとても落ち着かない。
それともう一つ。
(これは予想外だったわ……)
真姫は難しい顔で唸った。
足がかゆい。
靴下を脱ぎ、綺麗に洗えばすべて解決すると思っていたが、そうではなかった。怪我をしたら治るのに時間がかかるのと同じだ。
それっぽい軟膏もないし、そもそも初めての経験で対処方法がわからない。とにかく綺麗に洗って、時をやり過ごすしかなかった。
夜、同じベッドに入って、この二日間を振り返る。その頃にはもう、すっかりいつもの凛に戻っていた。
そう思っていた。
静かになると、足のかゆみが気になってきた。右足の親指で左足の裏を、左足の親指で右足の裏を、交互に掻いてみる。
そうして落ち着きなくもぞもぞしていたら、すっと真姫の左腕を、凛が抱きしめるようにつかんだ。
右腕に凛の柔らかな感触がして、鼻息が首筋にかかる。
「凛……?」
真姫がそう口を開くより先に、凛が言った。
「真姫ちゃん、落ち着かないの?」
「え、ええ」
「どうして?」
ちらっと見ると、すぐそこに凛の顔があった。
部屋は薄明りを灯しているので、表情までよくわかる。よくわかるが、喜怒哀楽が欠如したようなその顔を見て、何を考えているかはわからなかった。
今日の凛は理由を聞きたがる。
真姫の口から言わせたいのだろうか。足がかゆいと。
……足がかゆいと?
おかしい。真姫は思った。
凛は恐らく、真姫が足がかゆいことに気が付いていない。
不意に朝の会話を思い出した。真姫が緊張していると言った言葉を真に受けて、凛は真姫に何か言わせようとした。凛自身も何かを言いかけた。
凛は何か勘違いしている。ようやく真姫は、そのことに気が付いた。
「誰かと一緒に寝たこととか、全然ないから」
「ウソ。昨日は真姫ちゃん、凛より先に寝てた」
「……」
言葉に詰まる。
凛が半身だけ覆いかぶさるように体勢を変えた。パジャマ1枚ずつしか覆いのない胸が触れ合う。
「凛も、今日は少し落ち着かなかったの……。緊張してたのかな? 真姫ちゃんと同じ……」
熱っぽく、凛が言う。
いや、同じではない。真姫は何も緊張していなかった。しいて言えば、今緊張し始めた。凛は何を勘違いして、何のためにもう一日泊まると言ったのか。
かゆい足が熱い。
「それでね、今日真姫ちゃんをずっと見てて、わかったんだ」
凛の体が熱い。吐息が熱い。
全部が熱くて、頭がぼーっとする。
「凛も、真姫ちゃんのこと、好きかも……って」
喋る唇が、意図せず真姫の顎を撫でた。
いや、意図されていたのかもしれない。
両手が落ち着かなかったので、思わず凛の体を抱きしめた。触れ合った部分が熱を帯び、汗ばんでくる。自分も火照っていることに気が付いて、真姫は慌てた。
凛は何も言わない。真姫の答えを期待している様子もない。
──違う。
真姫は完全に理解した。
凛は今、「自分も真姫が好きだ」と言った。「も」とは何か。
今日一日、靴下を我慢していたすべてが、凛に「真姫は凛が好き」という勘違いを引き起こした。だから、凛の一言は問いではなく、答えだったのだ。
凛が仰向けの真姫の体によじ登り、脚を絡めて、両手を背中に回す。
普段は男の子っぽい凛から、甘い女の子の匂いがする。むせそうだ。
もはや状況を整理する余裕も時間もなかった。
凛の顔は真姫の顔の5センチくらいにあって、その距離は秒速1センチで縮まっている。
汗ばんだ凛の左手が、真姫の頬に触れた。
全部誤解だ。
一日中、昨日と同じ靴下を履いていて、恥ずかしくてもじもじしていただけだ。
そのせいで足がかゆくて、もぞもぞしていただけだ。
凛にそれを伝えることができるチャンスは、もうあと3秒しかない。
それともいっそ、このまま目を閉じて、この心地良い温もりに身を委ねようか。
あと2センチ。
凛の体温と、柔らかさと、弾力と、湿度と、気持ちで、押し潰される。
吐息が絡み合う。
あと、1センチ──
─ 完 ─