前田セタンタとの戦闘が終わり、約半日が経過した。
すでに陽は落ち、夜の闇と静寂に包まれている。だが、一か所だけ。漂流者たちが根城とする政府市庁舎だけは灯りがともり、緊迫感に包まれていた。
「あー痛たい……人間の身体とは不便よのう」
信長は痛む肩を押さえながら、大げさにため息をついた。
サーヴァントとしての力は使えるが、肉体自体は50歳前後。かなり無理やり魔術回路を通したこともあり、信長の肉体はボロボロである。
「だが、あいつよりマシか」
信長は部屋の奥でいびきを上げる男に視線を向けた。
島津豊久。
与一やエルフたちが傷口を縫い終え、包帯だらけの身体を横たえている。
この世界に麻酔などないので、直接、身体に針を刺していたというのに痛む素振りを見せず、すっかり寝入っていたのは驚きだ。もともと身体中が傷だらけ縫い跡だらけ。きっと、セタンタに挑んでいった勢いのまま、常に戦場を駆け抜けてきたのだろう。
「豊久さん、大丈夫でしょうか?」
信長が豊久を眺めていると、マシュが不安そうに呟いていた。
「サーヴァントではないのに、あの傷では……」
「んー、まあ、大丈夫じゃろ。すやすや寝てるし」
「たしかに、寝ていますけど……」
マシュは目を伏せた。彼女の隣には、オルミーヌが同じように沈んだ顔で腰を降ろしている。サーヴァントを一人倒したというのに、全体的に暗い空気が執務室を支配していた。
その空気を換えるように、サンジェルミが手を叩いた。
「しけた顔をしてるわね。一人、サーヴァントが仲間になったのだから喜びなさいよ」
「む、意外と驚いてないな。『アンデルセンが英霊だなんて、冗談じゃないわよー!』とか言うと思ってたのじゃが」
「織田信長が並行世界の女信長と入れ替わったことが事実だと分かった時点で、もう何が来ても取り乱さないって決めたのよ。もっとも、ハンス・クリスチャン・アンデルセンがショタで不釣り合いな低音ボイスのギャップに、驚かなかったといえば嘘になるけど……誰得よ、これ」
サンジェルミは憮然とした顔で、悠然と椅子に座り書物を読み漁る少年サーヴァントを軽く見据えた。
「でもね、アンデルセン。貴方は魔術師のクラスで召喚されているのでしょう? 回復魔術とか使えないのかしら?」
「作家に何を求めている。全知全能の神だと思っているのか?だとしたら、認識を改めるといい」
「え?」
アンデルセンが難しい顔で答えると、オルミーヌが不思議そうに瞬きをする。
「どうした?」
「いえ、先ほど、なんとか三世を吹き飛ばしていませんでしたっけ?」
「あれは特別だ。俺は著作を引用した魔術を行使できる。だが、それ以上のことはできない。今回の場合、ワラキアの王が退却の術に抵抗しなかったからこそ成功したようなもの。ただでさえ最弱の三流作家が、著しく弱体化している。戦闘に関しては、一般人にも劣ると考えてくれ」
アンデルセンは軽く笑いながら語れば、今度はマシュ・キリエライトが首をかしげた。
「ミスター・アンデルセン? 弱体化とは? 私が見た限り、負傷しているようには見えないのですが」
「……ふむ」
アンデルセンは笑いを止めた。やや真面目な顔になると、何かを取り出すように手を掲げる。すると、どうだろう。何もなかった空間から一冊の装飾本が現れたのだ。アンデルセンは何食わぬ顔で本を手に取ると、表紙を軽く叩いた。
「サーヴァントともなれば、誰しもが宝具と呼ばれる切り札を持っている。俺の場合、この本……すなわち、俺の自伝「我が生涯の物語」の生原稿だ。
この書の1ページ1ページが俺の童話を愛する読者から供給される魔力によって、『読者の見たがっているアンデルセン』の姿を取り、分身となって行動できる。もっとも、この宝具の本質は別にある。ほら、見てみろ」
アンデルセンは軽く本をめくって見せた。
しかし、不思議なことにすべてが白紙。文字どころかインクの垂れた後すら見当たらない。
オルミーヌが眼鏡をかけなおし、ページをよく見ようと目を凝らしている。その後ろから、与一がひょっこり顔を覗かせた。
「なにも書いていないね」
「この本は白紙に戻さないと意味がない。主役として選んだ対象の人生を、新たに一冊の本としてに執筆することによって発揮されるのだからな。数ページ程度なら偶然を起こす程度にしかならんが、万が一にも脱稿し、本の出来が良ければ、主役を理想に満ち溢れた最高の姿にまで成長させることができる」
「うむ! 分かったぞ!」
信長は身体を仰け反らせながら叫ぶと、自信満々に腕を組んだ。
「つまり! 巨大要塞を召喚したり、空を飛んだり、へし切からビーム出したり、この世を魔界に変えたり、とにかく最強無敵で天下布武しまくる真の覇王こと
「可能ではある。だが、お前の人生を書き上げるだと? ばかばかしい。
「べ、別に書いてほしかったわけじゃないし! 試しに言ってみただけだし!」
信長は口を尖らせた。
アンデルセンの能力を使えば、本来の肉体に戻ってあっさり時間解決できるスーパー信長になれる!と思ったが、思うように進まないものである。
「ひとついいかしら、アンデルセン」
その一方、サンジェルミは興味深そうに目を光らせた。
「筆が乗るか乗らないかは別として、
「過度な期待はよしてもらおう。俺のお眼鏡に叶う人物が存在し、仮に最後まで書き上げることができたとしても、現時点では不可能だ」
アンデルセンは断言した。
「あら、どうして?」
「はぁ……さっきも言ったと思うが、この書の1ページ1ページが作家アンデルセンを愛する人々から供給される魔力によって構成されている。いくら文字を連ねても、満足に足りる物語を完成させたとしても、魔力が足りなければ意味がない。さあ、ここまで言えば、いかに頭の鈍い読者たちにでも分かるだろうよ」
「……あー、僕、分かっちゃった」
アンデルセンに返答したのは、与一だった。
「僕、君の作品は悪いけど知らないんだ。君は知ってる?」
与一はオルミーヌに話を振る。彼女も申し訳なさそうに首を振った。続いて、ドワーフやエルフたちも知らないと口していく。
「……マシュ、よもや、これは……」
「はい、信長さん。私も気づきました……。
ミスター・アンデルセン。貴方の宝具が十分に発揮できない理由は、この世界に『人魚姫』や『雪の女王』といった作品が存在しないからでしょうか?」
「その通りだ。俺を知っている者は、この世界に誰もいない。すなわち、一冊の本を書き上げたところで、宝具を発動できるだけの魔力を供給することができない!」
かなり悲惨な事実を口にしているというのに、アンデルセンは不敵な笑みを浮かべていた。うまく運用すれば、漂流者を含む人間や亜人たちであっても、サーヴァントや廃棄物たちに立ち向かえる強力宝具なのに、「アンデルセンの愛読者がいない」故に、まったくもって使い道のない宝具に成り下がってしまっているのだ。
「じ、冗談じゃないわよー!」
サンジェルミは完全に血の気が失せていた。
「あんたのことを知ってる人間なんて、十人にも満たないじゃない!」
「ほう、十人もいたのか。それは作家冥利に尽きるというものだ。おい、なに世界が終わったような顔をしている? まさか、ろくに戦いをしないうちから諦めるのか? それならそれでいい。俺は本棚の隅にでもこもり、自由気ままに執筆活動をさせてもらうとしよう」
「むぅ、聞き捨てならないのう」
信長はずいっと前に出た。
「つまり、おぬしの愛読者を増やせばよいだけではないか! 識字率に限らず、
信長はいつものようにマントをなびかせながら宣言しようとしたが、本来の衣装ではないことを思い出し、物足りなそうに手を振った。
「そうと決まれば、さっそく舞台作りじゃな。ただ語るだけではつまらぬじゃろうし、どうせなら、芝居にした方が目を引くし衆知しやすい。安心せい、いつでも主役を引き受ける準備はできておるわい!」
「まずは『雪の女王』か『親指姫』あたりを語ろうと思っていたが……よかろう。では、『はだかの王様』を上演するとするか。喜べ、織田信長。お前は主役の王様に大抜擢だ。はりきって演じてもらおうか」
「げぇ! 題名的に不穏なんじゃが!?」
「あの、アンデルセンさん?」
ここで、声を上げたのは、オルミーヌだった。
「つまり、魔王信長や廃棄物退治に協力してくれるということでしょうか?」
「お前には耳がついていなかったのか? いや、頭を働かすための栄養分がすべて胸に行っていたのだな。……と、待て。椅子を振り上げるな、落ち着け。物書きを物理的に廃業させる気か?」
アンデルセンはオルミーヌの攻撃をひょいっと避けると、一番安全だと思われる場所――マシュ・キリエライトの後ろに隠れた。
「進捗は期待するな。俺が演じようと思っていたが、これだけ演者がいるのだ。お前たちが芝居に勤しんでいる間、たっぷりと執筆の時間に充てるとしよう。なに、ここには愛読者がいる。俺がいなくても、芝居に起こせるはず……いや、待て。練習前に一度、原稿は見せてもらおう。まかり間違って、人魚姫が王子と結ばれハッピーエンドなんて展開が爆誕したら困る」
「原作は尊重しますので、ご安心ください」
アンデルセンはマシュが嬉しそうな顔で頷くのを見届けると、「では、執筆に入る」と部屋を去ろうとする。
信長は、その後ろ姿に言葉を投げかけた。
「待て、アンデルセン。おぬしは、カルデアのサーヴァントではない。はぐれサーヴァントなのじゃろう? ならば、多少なりとも、ぐだぐだ粒子に汚染されているはずじゃ」
「俺がぐだぐだ武将になっているはずだと?」
「誰と融合しているのか。一応、聞いておいた方が良いと思っての」
信長は微笑みを浮かべながら尋ねてみる。
この世界の聖杯によって召喚されている以上、ぐだぐだ粒子に汚染されていることは確実。余計な因子が合わさり、多少なりとも方向性が変わってしまう可能性がある。
たとえば、松平アーラシュは今川義経と行動を共にしていた。
真田エミ村は真田丸を築城し、織田幕府……もとい、金色魔太閤秀吉を名乗る魔神柱側として戦っていた。
もちろん、本来の霊基が主体となっているが、最終局面に入ってから「俺は明智アンデルセンだ」と名乗り、居城を燃やされたらたまったものではない。
「あまり名乗る気はしないが、聞かれたからには答えるしかあるまい。もっとも、便宜上はぐだぐだ武将になるが、俺と融合している者は戦国の武将ではない。……聖杯は何を考え、この配役を俺に割り当てたのやら。シェイクスピアあたりが適当だろうに、まったくもって悪意しか感じない」
「誰じゃ? 太田の牛ちゃんとか?」
「第六天魔王を中心に事件が起きているからといって、すべてが万事、己の関係者で塗り固められていると思ったら大間違いだ」
アンデルセンは言い切ると、心底疲れたように息をこぼした。
「薩摩だ」
「ん?」
「薩摩アンデルセン。
アンデルセンは部屋の奥で眠りに落ちている男を一瞥すると、静かに部屋を去っていった。
※
ところ変わり、エルフの集落。
廃城の一室には、藤丸立香をはじめとしたカルデアの面々と安倍晴明を中心とした漂流者たちが顔をそろえていた。
「先ほど、封鎖された
「サメって……」
立香は湿った視線を聖女に向ける。
ジャンヌは既に普段の清楚な服に戻っており、申し訳なさそうに笑っていた。
「すみません。どうやら、戻り損ねたみたいですね」
「戻り損ねたって……そういうもの?」
「サメのことはいいのです。問題は、サメが首都に侵入したことです」
安倍晴明は咳ばらいをすると、すぐに話を元に戻した。
「我々は地上から首都に潜入することはできません。謎の結界が張られています。ですが、サメは入ることができました」
「金髪姉ちゃんのサメだけが、特別ってわけでもねぇよな」
立香は苦笑いで返す。
ジャンヌのサメなら空から降ってきたり、常識離れした距離を泳いで追いかけてきたり、容易にこなしそうな気がした。結界だって、「あそぼ」の一言と共に破ることができそうだ。
「サメはともかく、空中には結界が張られてねぇ可能性があるってことか。しかし、空から入るとか無茶があるだろ。でっかい城を造って飛び込むには時間がかかりすぎる」
秀吉は一夜城を建てたと有名だが、あれは例外中の例外。誰にでも真似できるわけではないし、どうやって築城したのかは説はあれど、正確には未だ不明とされている。
「さすがに、空を飛べる人はいないか」
立香はサーヴァントたちを見渡した。
ここにいるのは、ジャンヌ、森長可、沖田総司、茶々、坂田金時、織田信勝。六人とも空を飛べるスキルも宝具もない。
「マスターは一度、空を飛んだことがあると聞きましたが」
「あれは、飛んだというか、物理的に飛ばされたというか……」
ジャンヌの問いかけに、立香は目を逸らした。
土台と矢を繋ぎ、おもいっきり放つ。矢と土台は一緒に飛び、二日かかる距離を一瞬で一跨ぎ。なんと効率的で乗る人のことを考えていない。それこそ、「宝具・人間発射台」。
新宿でも改良版に乗せられる羽目になったが、二度と御免である。
「物理的に飛ばされた? 藤丸、そのあたりの話を詳しく!」
「そ、そうだ。廃棄物ジャンヌがワイバーンを使ってたよね?」
信長に話を詰められそうになったので、急いで話題を変えることにした。
頭の中にぼんやりとしか残っていない設計図でも、信長や晴明といったここにいる面々の手にかかれば、あっという間に再現されてしまいそうだ。
「ワイバーンに乗って移動するのは、この世界では常識?」
「あれは、廃棄物だけです。ですが、局地的に巨大な鷹を飼いならし、軍用としている場所があります」
「オルテではなく?」
立香が尋ねると、晴明は重々しくうなずいた。
「グ=ビンネン。日本人漂流者を客員提督に迎えた商業集合国家です」