GRIDMAN//CODE:Cypher 作:オンドゥル大使
♯4‐1
瞼を開くと見えてくるのは、黄昏の景色であった。
夕映えに沈んだ街並みを見下ろす視点に、傍で声が弾ける。
「いい景色。私、夕焼け空が一番好きだなぁ。ホラ、セブンのあの名作回を思い出すし」
傍らで自分と共に景色を一望するのは紫の髪の少女であった。好奇心旺盛な瞳が周囲を捉えている。
紫色のブラウスに、白の服飾。どこか、滑稽にも映る恰好であったが、少女は特段、構えた様子もない。
自分は、と言えば、どこか茫然と夕焼け空を見据えているのみだ。
この空が懐かしいわけでも、ましてや記憶の中で特別な景色なわけでもない。ただ、どこか珍しいな、と心の奥底で感じていた。
暫く、夕焼け空は目にしていない気がしたのだ。
だが、そんなはずはあるまい。この世界はいつだって、夕映えに包まれた、柔らかな時間が流れている。穏やかに、たおやかに、何者にも染まらない、逢魔ヶ時の風景。この背の高い鉄塔から望むのも、一度や二度ではないはずだ。
そう、そのはずなのだ。
しかし、どこか遊離しているのは何故だろう。隣にいる少女も、どうしてだか今、名前が思い浮かばなかった。
「……お前は」
「お前って、失礼でしょ。私の名前、忘れちゃった? あ! 記憶喪失とか言うギャグ?」
めっと厳しく指摘されたかと思えば直後には少女はころころと笑っている。めまぐるしい感情の波だな、と他人事のように感じていた。
だが、どうしても思い出せないのだ。それどころか自分の名前すらあやふやであった。
額に手をやり、己の記憶を手繰る。
「オレは……」
「那由多君、でしょ? 私の彼氏」
そう言い聞かされ、那由多はああと持ち直していた。
そうだ、自分はこの少女と恋仲であった。思い出すと思考が明瞭化され、ぼやけていたピントが合うかのように、次々と言葉が出てくる。
「そうだ、オレは那由多で……この場所でずっと、待っているんだ。……待っている? 何を?」
「だって、君は待ち続けているもんねぇ。あっ、そろそろ帰ろっか。夕飯はカレーがいいなぁ」
自ずと周囲から立ち上るカレーのスパイスのにおい。夕焼け空を豆腐屋の宣伝音声が流れていく。
どこまでも穏やかで、誰よりも優しい空間。
そんな場所に、自分は佇んでいた。
たった一人ではない。傍らには少女がいる。
「お前……いや、君の名前は……」
鉄塔から降りる最中、尋ねた那由多に少女は頬をむくれさせる。
「……ふざけてるんだったら怒るよ? ……それとも、本当に記憶がないの?」
「……すまない」
謝った自分に彼女は嘆息をつく。
「私の名前はアカネ。アカネって呼んでいたでしょ?」
そうだった、と思考の補正がかかる。彼女の名前はアカネ。――新条アカネであった。
「君は新条アカネだ」
「何そのリアクション。ウケるー! 記憶喪失ネタ引きずる?」
「いや……どうだろうな」
うまい返しが思い浮かばず頭を悩ませていると、アカネは地面を蹴って跳ね上がっていた。
「じゃあさ! 家まで競争ねっ! 私、足速いんだー」
ふふん、と鼻息を漏らすアカネに那由多はそうだったか、と思い返していた。
新条アカネは――足の速い自分の恋人。ちょっと変わっているところと言えば、特撮やアニメに造詣が深いところだろうか。ちょっとした発言に引用元を問い質されて困る事が多々ある。
それでも彼女は他者を慮る事が出来るし、自分もそんな彼女を尊敬はしている。
ふと駆け出そうとして、はて、と足を止めていた。
「オレの……家?」
「あれ? おーい。記憶喪失さーん。もうっ、そのネタウケないからやめなよ」
そう言われても本当に思い出せないのだ。戸惑う那由多の手をアカネは取っていた。
「一緒なら帰れるでしょ? 一緒に帰ろ?」
そう言われると少しだけ安堵する。自分には居場所があるのだ。
帰れるだけの、居場所が。
「……アカネ。オレは頭でも打ったのだろうか」
「そんな事はないはずだけれど、ちょっと今日の那由多君は変だねぇ。もしかしてさ、侵略宇宙人の電波を受信しちゃったんじゃない?」
「……宇宙人」
「ジョーダンだって! 真面目にいちいち捉えないで。君は那由多君で、私の恋人。そんでもって、私はアカネ。それでいいでしょ?」
そう、そのはずだ。その帰結で問題ないはず。
しかし、どこか。何かをなくしている気がする。何か、とても重要な事を、欠いている気がするのだ。
だが、分からない。何が、どう欠けていて、何がどう欠落しているのか、まるで見当もつかない。
そもそも最初からないものに意味を求めるのが間違いか。
ない、のだから、ある、という状態に意義を見出すのはそもそもの失敗であろう。
「オレは……家があって……」
「そうそう! ここじゃん。家」
トタン屋根の一軒家には「彩」という看板がある。
「……店だったのか」
「今知ったみたいな台詞……。演技もそこまで来ると板についているね! 案外、那由多君は演技派なのかも!」
ただいま、とアカネが玄関を潜る。自分もその後に続いていた。古式ゆかしい木造家屋の形式に那由多は困惑する。
「……こんな建築物がまだ存在していたのか」
「何言ってんの? うちは貧乏なんだから、貧乏を卑下しちゃ駄目でしょ」
ぴんとデコピンが見舞われる。そうだ、何もおかしい事はない。木造建築くらいは別によく見る話だ。
進んで行くとコンクリートで固められた部屋と、その奥に続く居間とキッチンが窺える。那由多はアカネがコンクリート張りの部屋に入ったところで、視界に入った筐体に足を止めていた。
「……ジャンクか。こんなに立派な……」
「何言ってんの? いつもジャンクはあるじゃん。うちはリサイクルショップなんだからさ。ジャンクは……まぁ有り合わせのパーツで作った趣味の産物」
そのジャンクの画面を一瞬、水色の光が走ったような気がした。覗き込むと、何かが自分の顔の代わりに反射する。
その何かを記憶の中で探る前に、那由多は声に反応していた。
『おやおや。お客さんだねぇ』
「お客さんじゃないよ。おかえり、でしょ」
『ああ、そうだった、そうだった』
アカネに窘められた相手は、背の高い漆黒の人物であった。
黒いマントを身に纏い、顔面はマスクのような形状のものを身につけている。赤いサングラスの内奥に黄金の眼窩が見え隠れしていた。髪は逆立ち、燃え盛っている。
どう見ても普通ではない相手――そう認識した瞬間、那由多は外套より龍の意匠の拳銃を取り出していた。
突きつけ問い質す。
「貴様……何者だ!」
「ちょ、ちょっと那由多君? 何やってんの、《アレクシス》じゃない」
「《アレクシス》……?」
『やぁ、那由多君。わたしの事は忘れてしまったのかな? アカネ君のお目付け役兼、保護者だよ。ほら、そんな――オモチャの銃は捨てて、さ』
《アレクシス》の言葉に那由多はハッと我に返る。どうして自分は、赤い玩具の銃なんて相手に突きつけているのだろう。
「……すまない。さっきからどうにも」
「気が動転しているのかな? ちょっと心配……。《アレクシス》、留守番お願いしていい? 病院で診てもらったほうがいいかも」
『請け負おう。カレーでいいね? 夕飯は作っておくよ』
「お願いー。那由多君、行こ?」
アカネに手を引かれ、那由多は家を出ていた。よくよく目を凝らせば同じような建築物が軒を連ねている。
どれも異様に背の低い――いや、何故「異様に」なんて思ってしまったのだろう。まるで高層建築物が当たり前であったかのような思考回路だ。
夕映え空に彩られた建築物の屋根瓦が反射し、眩い光を放っている。その光の中に、何かが見え隠れしたような気がしたが、気のせいだろう。
暫く歩いていくと、白亜の建築物に行き着いた。
「これが……病院……」
「……あんまししつこくっても面白くないよ? 病院くらい当たり前じゃん」
「ああ、そうだな。オレは……診てもらえばいいのか?」
「私、待合で待っているから。……変な病気とかじゃないといいけれど」
アカネの不安を他所に那由多は病院へと歩み進んでいた。白い装束に身を包んだ人々が行き来している。
それを那由多はまるで初めて見るかの如く、茫然と眺めていた。
「……内科はあっちだよ?」
「あ、ああ。そうだな。こういう時は……ナイカ? でいいんだったか」
アカネは端末をいじくっている。その様子もどこか滑稽に思えてしまうのだから、自分はともすれば重症なのかもしれない。
目にするもの全てがおかしいように映ってしまう。
何年も生きてきたはずだ。何年もこの街で……育ってきたはずなのだ。
なのに、実感があまりにも薄い。この黄昏の街角に、何の感慨も湧かない。むしろ、異様な孤独感に苛まれていた。
ここは――まるで自分の居るべき場所ではないような……。
「あっ、呼ばれたよ。行って来たら?」
名前が呼ばれ、診察室へと那由多はおぼつかない足取りで入っていく。
何がどうなっているのか。問い質す必要があった。
「……オレは、どうやら記憶に齟齬があるらしくって……」
『それはいつからですか?』
顔を見ようとして、その面持ちが影のように暗く沈んでいる医師に、那由多は頭を振っていた。
「いや……いつからなのかも分からなくって……」
『それは記憶障害かもしれませんね。ですが、すぐ治りますよ。あなたはそれをおかしいのだと、認識しているのでしょう? でしたら一時的なものです。一応、向精神薬を処方しておきましょう』
「……お願いします」
促されるまま、那由多は診察室を出ていた。出る直前、医師や他の者達の影がどろどろに溶けたような感覚に襲われ、不意に振り返る。
既に診察室の扉は閉ざされていた。
「那由多君。おかしなところがあるって?」
「いや……一時的なものらしい。薬はもらえるみたいだ」
「よかったね。おかしなところがないんなら何より!」
アカネの言う通りなのだろう。おかしなところがないのならば、それでいい。この景色に、この世界に、何か疑問を挟む余地があるだろうか。
アカネがいる。世界は黄昏に染まったまま静止しているがさしたる問題ではない。
そして家には《アレクシス》が待ち構えていた。
芳しいカレースパイスの香りにアカネが、やった! と声を弾けさせる。
「今日は《アレクシス》の得意な、シーフードカレー!」
『君達にお腹いっぱいになって欲しくってね』
アカネに促されるまま、那由多は食卓を囲む。
いただきます、の号令でアカネがカレーを口にかけ込んでいた。那由多も真似をするが、噛んでも噛んでも味がない。砂を食んでいるかのようだ。
『どうしたのだね? 那由多君。おいしくなかったかい?』
「那由多君……やっぱりちょっと……」
「いや、おいしい」
そう言っておけば、ここでは「異常」ではなくなる。笑顔になったアカネに《アレクシス》は笑い声を上げていた。
『元気が何よりだからねぇ』
「《アレクシス》! おかわり!」
『おいおい、アカネ君。ダイエットをしていたんじゃないのかい?』
「今日でダイエットは終了! 一キロ痩せたもん!」
『駄目だよ、リバウンドを警戒しなくっちゃ。炭酸水で我慢するといい』
むぅ、とアカネがむくれる。その様子が可笑しくて那由多は自ずと口元を綻ばせていた。
――ああ、こんなにも穏やかで、平和だ。
心を乱される事もない。この黄昏の街は、理想郷のようであった。
豆腐屋の宣伝車が走り回っている。どこか遠くから、子供達の声が木霊する。
窓から吹き込む涼しげな風は、秋の到来を予見させていた。
「もうすぐ秋だねぇ」
『過ごしやすくなるといいねぇ』
アカネと《アレクシス》の温厚な声音に、那由多は味がしないながらもカレーを頬張っていた。