GRIDMAN//CODE:Cypher 作:オンドゥル大使
ぴしり、と何かに皹が入ったかのような音を関知する。
那由多は足を止めていた。アカネが小首を傾げる。
「どうしたの? 那由多君」
「……ここは、俺の居場所じゃない」
「何言ってんの? 私の彼氏じゃん」
「いや……違う。何か分からないが今、それは違うと感じた。……ここは違うな。別種の場所だ。何がどうなっているのか、前後の記憶は曖昧だが……お前は、俺の知っている人じゃない」
その言葉にアカネが顔を伏せる。
「……知っている人じゃないと嫌なの?」
「ああ。守ると誓ったのはたった一人だ。お前じゃない」
残酷かもしれない事実を、アカネは咀嚼していた。
「そっか……。そうだよね。那由多君は、自分の世界を守りに戻りなよ。私は、ここにずっといる、それしか出来ないからさ」
「……すまない。気持ちに応えられなかった」
「ううん、いいの。だって短い間だったけれど、那由多君がここにいてくれたから、私は必要とされた。ここにいていいんだって、君が規定してくれたんだよ?」
面を上げたアカネの瞳は潤んでいる。ともすれば自分が必要だと思わなければ、彼女は消えてしまうのかもしれない。泡のように儚く、そこにいた証明すらも奪われて。
だが、それでも自分の向かうべき場所は、いるべき場所は、ここではない。
戻らなければいけないのだ。それは、自らに課した信念を取り戻すための戦いへと。
アカネが握っていた手を放していた。名残惜しそうに離された指先を、彼女は別れの挨拶に沿える。
「行ってらっしゃい。那由多君。君の世界を守って」
自分の世界を守る。そうと決めた那由多の双眸に宿ったのは光であった。
この夕映え空が永遠に続く世界ではない。無限回廊の黄昏から、自分は解き放たれなくてはいけない。
那由多の足は自然とアカネと共に過ごした家へと向かっていた。
「彩」の看板が立てられた家の玄関を、初めてアカネが促す以外で開ける。
開けた先の空間は黒く歪み、濁っていた。
灰色の廊下の先に夕暮れの部屋が一室だけある。
那由多が押し入った瞬間、廊下は消え失せ、残っていたのは四畳半もない狭い一室であった。
その部屋でちゃぶ台を挟んで座り込んでいる相手に那由多は言葉をかける。
「……《アレクシス》」
『やぁ、那由多君。その様子だと、外の影響で一時的におかしくなっちゃったかな? だが、大丈夫だとも。この宇宙船は堅牢でね。ちょっとした齟齬はすぐに取り戻せる。君は、アカネ君と共に永遠の時間に戻れるんだ』
「アカネには別れを言ってきた」
断じた口調に、《アレクシス》はマスクの下部を明滅させる。
『おかしいねぇ。君はアカネ君の彼氏だろう?』
「違う。オレは那由多。ハイパーエージェントだ」
こちらの声音に迷いがないのを悟ったのか、《アレクシス》は嘆息をついていた。
『……度し難いねぇ。別にここでもいいじゃないか。君に危害は一切加えなかっただろう? いつでも殺せたのに、わたしはむしろ君を尊重した。その一件に関して、思うところは?』
「ない。ここから出せ」
懐から取り出した玩具の銃は既に元の姿を取り戻しつつあった。龍の意匠が施された拳銃は正確無比に、《アレクシス》の心臓を狙っている。
彼はどこか不承気に、その様子を達観していた。
『……不都合は何もなかったはずだ。アカネ君はいい子だろう? 彼女の人格は元々、わたしが以前に関わった事のある少女から抽出したものでね。まぁ、その時には苦い経験があったわけだが、ここでは二の轍は踏まないと、最小限の干渉に努めていたのに。その均衡を崩したのは迴紫だ。《ウィザードグリッドマン》。あの力は強大過ぎる。バランスなんて関係がない。わたしは彼女に何度も警告した。そううまく事が運ぶはずがない。何か手痛いしっぺ返しが来る、と。その時に、わたしと組んでいればうまくかわせるとも、交渉していたんだがねぇ。生粋の面倒くさがりなのか、彼女は応じなかった。だから、君をここに呼んだんだ。なぁ、そうだろう? 那由多君。いいや。――グリッドマン』
那由多は引き金に指をかける。《アレクシス》はちゃぶ台を挟んだ向こう側から何でもない事のように言ってのけていた。
『わたしを倒してどうする? わたしなんて君からしてみれば敵でもなければ味方でもない。倒すべきはナイトウィザードと迴紫だ。わたしが提供した永遠が気に食わなかったかな? なら、次はもっとうまく騙そう。アカネ君も、君の思い通りにすればいい。気に食わない部分は消去して、気に入っている部分だけを強調すればいいだけの話だ。アカネ君の何が駄目だった? 性格かい? 容姿かい? 君の好きなようにデザインし直そう。この世界も、君が好きな時間帯でいい。わたしは夕刻が好きだから、この時間に設定しているだけだ。他の時間帯でも構わないさ』
《アレクシス》の誘惑に那由多は一切応じなかった。引き金を絞り、《アレクシス》の顔を高重力砲が掠めていく。
窓が割れ、どこかで猫が鳴いて飛び出していったのが伝わった。
『……何がそんなに不愉快だった? わたしは平和的に君達と交渉を結びたいと思っている。ならば、ここでわたしに銃を向けたって何にもならないだろう。何度も言うが、君の敵は迴紫達だ。彼女らを抹殺したいなら手を貸すよ』
「必要ない。元の場所に帰せ」
『帰せと言われてもねぇ……。もうここまで来てしまった』
不意に夕映え空の皮膜が崩れ落ちる。視界に入ったのは青くぼやける地平であった。世界の外へと出ようとしているのだ。那由多は銃口を《アレクシス》の頭部へと据える。
「今すぐに戻れ。さもなければ撃つ」
『分からないねぇ。君は、あんな世界に名残惜しさでもあるのかい? 青錆びの、朽ち果てた世界だ。何も必要なものはない。それに、壊しても惜しい物なんて。壊れた世界に何を思うんだい? あんなもの、崩して、壊して、作り直すのも馬鹿馬鹿しい。他のフロンティアを目指すべきだ。君はもっといい道を選べるはずだよ』
「二度はない。今度こそ撃ち殺す」
冷徹な論調に《アレクシス》は静かにため息をついていた。
『……分からないなぁ。あんな世界に頓着する君も。あんな世界で王を気取っている迴紫も』
「……確かにお前の言う通り、酷い世界かも知れない。終末が蔓延した、おぞましい場所かもしれない。……だが守ると決めた者がいる。信を投げるに足ると決めた場所がある。ならば! オレはそのために生きよう。そのために戦おう。それがハイパーエージェントであるはずだ!」
『記憶は相変わらずなんだろう? 誰も愛してはくれないさ。記憶もない、確かなものも何一つない、がらんどうの君なんて』
「空っぽでも、オレは抗い続ける。迴紫を前にして、オレの中で何かが変わった。戦うべき道を見据えたんだ。ならば、それを全うするまでオレは逃げるわけにはいかない」
『それは闘争本能だ。人間が原初より得ている醜い本性そのものだよ』
「それでも……オレは戦う。戦い続ける!」
《アレクシス》はほとほと呆れたとでも言うように頭を振り、立ち上がっていた。
瞬間、その瞳が赤く輝き、床が消滅する。風圧に煽られる中で、那由多は落ちていく己を自覚していた。
「記憶は戻らない。それでも……守るべきものはあるはずだ。オレは! グリッドマン!」
左手首に蒼い脈動が至り、アクセプターを顕現させる。
『愚かしいねぇ。わたしと戦うなんて』
那由多は両腕で十字を形作り、叫ぶ。
「アクセス・フラッシュ!」