授業後、あるいは帰りのHR中。
飯田天哉。尾白猿夫。この2名は先の授業で気絶し、保健室にて強制的な休養を余儀なくされた。二人とも意識を取り戻し1-A教室へ戻る道中、飯田天哉がぽつりと口を開いたのは、その道すがら、二人だけの足音が響く、そんな静寂の中だった。
「先ほどはすまない。俺のせいであんな負け方を…」
廊下を踏みしめる上履きの擦過音が、やけに響いているような気がする。保健室を出て教室に戻るだけの道がこんなにも長く遠いモノと思ったのは、初めてだった。
「いいって。孤立してるとこを狙われたのはしょうがないし、何より轟の半冷で勝負が決まると思っていた節もあったからさ」
尾白は笑みを添えながら返す。だが、その目は飯田を真っすぐ捉えながら揺らぎはしない。言葉だけが慰めの形をしている。
「違うんだ…。チームの和を乱すのを恐れて、遊撃する行為を否定できなかったんだ」
「??」
一瞬だけ尾白の歩幅が乱れる。たった1歩のリズムの狂い。その小さな間が、飯田の心に突き刺さる。まるで見えない責任の刃物を押し付けられた様に。
「垣根くんの思惑に気づいていたんだ。遊撃に一人使って孤立させることだよ。一度出しているものは通じないんじゃないかと思っていたし、何より警戒すべきは各個撃破だった。轟くんを遮ってまで主張していれば…」
悔恨を言葉にするほどに、歩幅が重くなる。前へ進む足と釣り合うように、後悔という名の重りは心の奥に沈んでいった。
「あー…轟、ギラついてたからなあ。割り込めないのもしょうがないよ」
それが慰めなのか、事実確認なのか。判断もつけられぬまま。ただ、胸に残るのは失敗と敗北の感触のみだった。
入学してあまり日も浅い、轟の纏う雰囲気は柔和とは程遠い。まだ彼の本心を引き出せていないと言われればそれまでだし、彼の方から歩み寄る気がないと言えば、それも正しい。どちらにせよ、扱いづらいというのは紛れもない事実だった。
「僕は今日1つ学んだ。共に困難へ立ち向かう仲間の視野が狭まっているときは、こちらからも割り込まなければならないと!!」
飯田の声が、やや熱を帯びて廊下に反響する。その声は、反省と決意の狭間で震えていた。まるで敗北すら糧に変えようとする、真っすぐすぎる少年の音だ。
「いいね。俺も相性の問題とは言え…本当かぁ?基礎から見直さなきゃいけない気がする」
廊下の終端。つまりは1-A教室の前へ着いた。
二人は足を止め、何でもないようにガラリとドアを開けた。――――けれど、一歩の重さを誤魔化せるほどには、心は軽くなっていなかった。
扉の向こうから流れ込む空気が、ひどく現実的だった。汗とチョークと、戦いの熱気がまだ残る教室の匂い。まるで『現実に戻れ』と告げる境界線のように感じた。
クラス全体の空気が、一瞬だけ凍る。気を付けの姿勢で固まったクラスメイトと相澤の視線が、一斉に飯田と尾白に集まった。
遅れて戻った二人へ向けられたのは、心配と安堵だった。そしてほんの少しのざわめき。張り詰めていた空気は一転して、
「静かに。…2人とも戻ったか。では改めてさようなら。君たちは戻ってきた2人に先ほどの話をしておくように」
必要な連絡事項などは、心優しいクラスメイトが補完してくれるだろう。相澤はそう判断し、簡潔に言葉を切った。
形式ばった挨拶が終わった途端、教室の空気が一気に解き放たれる。
机の軋み、制服のボタンが椅子に当たる金属音、そして抑えていた声が一斉に放たれる。まるで水面に石を力強く投げ入れたように、静寂は瞬時にかき消されていった。
「みんなー!反省会をしたいんだけどどうだ?」
切島は提案する。その口調に無理な押し付けはない。ただ、純粋な向上心がにじみ出る、そんな提案だった。
クラスメイトは様々な言葉で応答する。返ってくる声はほとんど好意的だ。「いいねー!」だったり、「やろうやろう!!」だったり「凍らされて動けなくてイイトコ無しだった!!」だったり。むしろ待ってました!!と言わんばかりに次々と声が雪崩のように広がっていく。
各々好きにしていながらも、気づけば視線も意識も切島を中心に吸い寄せられていく。
熱の中心へ。誰かが引っ張ることで、教室全体が一つの塊になる。
そうだ。皆同じだったのだ。胸の奥に溜め込んでいた言葉がある。今日一日の鬱憤も、悔しさも、そしてほんの少しの誇らしさも、声にしてこそ解放される。
誰もが負けたのではない。経験をしたのだ。その境界を、口に出すことで確かめようとしていた。
しかし同意だけが全てというわけではない。
「………」
小さな沈黙が差し込む。教室を出ていくそれを追いかけるように、
「僕も参加したいです!!…あ、待って、かっちゃん!!」
緑谷出久は参加する意思を見せる。鞄を背負うことをせずに教室から飛び出していった。まあ、参加するという言葉は事実なのだろう。ただし、今は別の事情が優先されているらしい。
普段は傲岸不遜で、誰に対しても高圧的な態度を崩さない幼馴染。今の彼の背中は、いつもとは違って若干背中が丸まっているように見える。まるで爆発しつくしたエンジンの残り火のように、音はまだ鳴っていても、熱が抜けていた。
その姿を追いかけるために、慌てて席を立ったのだった。
戦闘訓練で敗北したという事実がよほど堪えたのだろう。敗北とは、単に負けたという事実ではない。自分の信じていた理屈が通じなかった現実のほうが、ずっと痛いはずだ。
そんな彼らを横目に、垣根帝督は異を唱える。
「面倒だな。第一、俺は反省点ねえし。だがお前は俺にフィードバックして欲しいわけだ」
「あー…。やっぱバレる?」
「まぁ…18時から19時までの間に終わるなら付き合っても。状況次第じゃ時間は前後するが、それでいいか?」
「よしっ、垣根確保!!」
切島の顔が明るくなる。
既に帰り支度を終えていた彼は再び机に荷を下ろし、スマートフォンを制服のポケットへ突っ込んだ。制服の袖口にある飾りボタンとスマートフォンの強化ガラスの当たる音は、教室の喧騒に紛れて消えていく。
…周囲が感情を共有するほど、垣根だけは少し遠くから世界を見ている。そんな立ち位置が、妙に板についていた。
「先に始めててくれ。俺は食堂行ってくる。なんか包んでもらえねえか聞いてくるわ。ポテトとか」
「おっ、マジか!いいね。サンキュー!!」
切島との会話を終えてすぐ、垣根は教室を出る。ドアを閉じても背後から談笑の声が続いていたが、それらは膜の向こう側の音のように遠のいた。
廊下で轟を見つけた。食堂で注文する前に先ほどの訓練のことで少し。一言だけでも伝えておくべきだと思ったのだ。
無礼な態度を取っておいて謝罪が出来ないほど自分が傲慢だとは思っちゃいないし、何より知り合って間もない奴に嫌われたいと思うほど世捨て人ではない。相手が自身に対して礼節を欠いた事をされていない限り、という前提ではあるが。
「…訓練とは言え、あんなこと言って悪かったな。…どうだ?お前も反省会してくか?聞こえてたろ」
「いや、いい。実戦を考えたらあれくらいの罵声は有り得ることだ」
少し冷めたような口調。しかし訓練中の氷点下とは違い、そこにはわずかな温度があった。眉間の皺の減った柔らかい表情で言葉を返す轟。垣根帝督が煽った意図を、彼なりに好意的な解釈をしているらしい。
「それに、こうやって表向きの謝罪をしてくるとは言え、あれは本心だったろ」
突き刺すような直言。だがそれは単なる皮肉ではない。本音と建前。口先だけでの取り繕い。そういった人間関係の機微が分からないほど、轟焦凍は子供ではなかった。
「反省会は遠慮しておく。お前に…名前、垣根だったよな。個人的に聞きたいことがある」
先ほどとは違い、真剣な顔をしている。
あの戦闘の最中、彼の中で何かが引っ掛かったらしい。
名前を覚えていない…というよりは元から人の名前を記憶することが得意ではないのだろう。
その声音に含まれる”個人的”という単語が、わずかに空気を変えた。廊下に漂う灯の光が、二人の間に薄い境界線を描く。これから交わされるのは単なる会話ではなく、どこか踏み込んではいけない領域の匂いがした。
「…わかった。ここでは聞けないことか。そんでおま…あー、轟。頭は冷えたか?」
「あぁ。なりたくないものになりかけてた。目を醒ましてくれて、感謝してる」
静かな言葉に、微かに影が差す。まるで、ここにはいない何かに怯えるような。
…父の影。その名を出すまでもなく、轟の言葉の隙間からエンデヴァーという音が滲みだしていた。
「電話なら19時過ぎ、メッセージでいいなら明日の始業までに返す。それでも?」
「ああ。電話前にメッセージ送ってくれると助かる。親父には聞かれたくないからな」
最後の言葉と同時に、その表情は再び曇った。父親という名の重い鎖を引きずっているかのように、轟焦凍の抱える複雑な家庭事情が、その一言に凝縮されていた。
…垣根は何も言わなかった。ただ、理解という感覚だけが頭の片隅に残る。己にも似た影が潜んでいるからだ。
言葉は交わされ、しかし互いの距離は一歩も縮まらない。なのに、奇妙な連帯感だけが、確かにそこに生まれていた。
後ろからずっと聞こえる。しつこく、しつこく、頭の中で一定のリズムを持ってカチカチとなる秒針のように。
「かっちゃん」
教室を出る前から聞こえる。五月蝿い。今は誰かと話す気分じゃない。
「かっちゃん!!」
しつこい。外に出てまで無視している事実をどうやら受け入れてくれないらしい。五月蝿い。本当に、耳障りだ。
「かっちゃん!!!待って!!!」
校門の辺りでとうとう痺れを切らしたらしい。
先回りして進路を塞ぐように立ちはだかる姿に、嫌でも昔の光景が重なった。目の前に来られちゃあ流石にもう逃げ場はない。
…それに、逃げるという行為が負けを認めるみたいで嫌だったから余計に腹が立つ。
聞きたくもない木偶の…緑谷出久の話が始まった。
「これだけは…君には言わないとと思って」
こちらが譲歩して話を聞こうというのに、目の前のモサモサ頭は目を合わせない…どころか目線を下にしている。まるで地面に逃げ道を描いているかのよう。
教室から校門までのストーキングコースを完走したというのに、本題で目を合わせない傲慢さ。
爆豪勝己は自身のこれまでの所業を棚に上げるが、この男は失礼すぎやしないか。
何よりここまで舐められている、という事実は心底腹が煮えくり返る。
てめェには、俺がそんなに弱く見えているのか。
「人から授かった個性なんだ。誰からかは絶対に言えない!言わない…。でもコミックみたいな話だけど本当で…!おまけにまだろくに扱えもしなくて……人に言われなきゃ気づけないくらいで、全然モノにできてない状態の借り物で…!僕はまだまだで…!」
声は震えて、涙を堪えて、そして顔を上げて、地面を踏み締めた。
怯えている。恐怖している。それでも、
「いつかちゃんと自分のモノにして、僕の力で君を超えるよ」
(騙してたんじゃないって言いに来たのに、何を僕は)
やっと目を合わせた。その瞳に宿るのは、決意という名の小さな炎。純粋で、それ故に恐ろしく、鬱陶しいほど真っすぐで、だが確かに開花する可能性を秘めていた。
「なンだそりゃ…借り物…?わけわかんねぇこと言って…これ以上コケにしてどうするつもりだ、なぁ!?だからなんだ!?今日、俺はてめェに負けた!!!そんだけだろが!そんだけ……」
理性の防波堤は崩れた。実戦訓練で木偶に敗北した事実。戦略で、体術で、知恵比べで、とどのつまりは、全てなわけ で。
あの一瞬が、爆豪勝己の中の自尊心を粉々に砕いた。
挑戦者の顔付きをしているのが理解できる。勝ったのはお前で、負けたのは俺のはずだ。
ムカつく。ムカつく。その顔を、やめろ。負けた俺の前で、挑戦者の顔をするのをやめろ!!
「氷の奴見て、敵わねえんじゃねえかって思っちまった…!クソ…!!!ポニーテールの奴の言うことに納得しちまった…!!翼の奴見て、華があるって思っちまった!!!クソが!!!クッソ!!!なあ!!てめェもだ!デク!!」
涙と弱音と、怒鳴り声。
それは感情の爆発そのものだった。
自尊心ってやつは、持ち主が一番苦しむ。壊れた瞬間、超えられた瞬間、当人の中でだけそれは崩れ落ち、轟音を立てる。
誰よりも強く、何者にも負けないNo.1を目指していたから。だからこそ、この屈辱を味わう羽目になった自分自身を許せなかった。
恵まれた個性に胡座をかいていたわけではなかった。
それでも足りないというのであれば。
更に研鑽し、研究し、爆発を練り上げる。
「こっからだ!!俺は…!!こっから…!!いいか!?俺はここで、一番になってやる!!!」
咆哮のような叫び声が、夕暮れの校門に響く。それは敗北を受け入れたもの慟哭であり、怒りであり、そして同時に再起への誓いだった。
「俺に勝つなんて、二度とねえからな!!クソが!!」
言い捨てて背を向ける。やはり校門へ向かった。その背中から、怒りと悔しさがまるで焔のように立ち上る。少し呆けた調子の足取りから、確かに大地を踏みしめる足取りに変わっていた。
もう、負けた奴の歩き方ではなかった。
――――遠くから、間の抜けた声が届く。
どこまでも間に合わなくて、空気の読めないおじさんオールマイトは、何やら言い合っている様子の幼馴染たちを見つけて声を張った。
「爆豪少年。言っとくけど、自尊心ってのは大事なもんだ!!君は間違いなくプロになれる能力を持っている!!君はまだまだこれから…」
いつの間にか近づいていたオールマイトは爆豪勝己の両肩に手を置く。「成長する」と言いかけたが、彼にそのまま遮られるように。あるいは、涙を隠すように。オールマイトの言葉は宙に浮いたまま消えていく。
「放してくれよオールマイト…歩けねえ。言われなくても、俺はあんたをも超えるヒーローになる!」
既に立ち直っている――――いや、まだ痛みの只中で立ち直ろうと必死にもがいている彼は、自分を追いたてるように、震えた声で宣言した。
それは慰めを拒絶する意志であり、同時に彼自身を叩き起こす叫びでもあった。敗北の痛さは既に糧に変えるために咀嚼している。
敗北を受け入れながらも、膝を折らない。絶対に。
爆豪勝己という少年の強さが、その言葉に込められていた。
Call…prrrrrrr
「垣根。俺は仮にもNo.2の息子だ」
受話口の向こうに、何の反応もない。どこかを歩いているのだろう、靴音と町ゆく人のざわめきが聞こえる。どれもが現実である証拠なのに、今だけはノイズのように感じられた。
「親父が仕事してるところを何度も見てきてる。現場に連れられたことも多々あった。垣根のあの落ち着き方は、親父のサイドキックたちにも勝るそれだった。どこでそれを…」
ここまで口を紡いでハッとする。プロにも勝るそれなぞ、生か死かの状況で、緊迫した場面を切り抜けないと身につかないものではないのかと、思い至る。
理屈や教本で身につくような生易しいもんじゃない。
あの落ち着きは、炎の熱でも凍気の冷たさでもない。死そのものの温度を知る人間が持つ静けさだ。
あれは、人の死臭が染みついている種類の落ち着きだ。火傷の痕と恨みみたいに、経験そのものが身体に刻まれている。
「…もしかして、あまり言いたくない奴だったか」
沈黙。通話越しの雑踏の音だけが、僅かに流れる。
そして、その沈黙を破るように、
「意外だな。もっと遠慮なく突っ込んでくるもんかと思ったが」
感情の籠ってない声色かと思ったが、どうやら少し笑っているのだろうか。通話の向こうで、口の端が僅かに上がったような。そんな気がした。近くにいるわけでもないのに、電話越しのはずなのに、空気の温度が一瞬だけ変わった。わずかな湿度、わずかな呼気の流れ。でも、それは穏やかな常温だということを理解する。
「悪い。…誰にでも、触れられたくない過去はあるだろうしな」
「身に覚えがありますって感じだな。お前が右の方しか使わねえのも…。まあ、察しはつく。気が向いた時でいい。俺も頃合いを見て話す」
どこか揶揄うような、そして何かを誤魔化すような調子。
それでも、互いにそこを追及しないという暗黙の了解が、妙に心地よかった。誰かに深入りされないことが、こんなにも救いになるなんて、以前の俺なら気づきもしなかっただろう。
「………助かるよ。すまねえな、態々。また明日な」
通話を切る。
耳に残ったのは、電子音ではない。ほんの一瞬だけ響いた、垣根の笑い声…だと思いたい。
電話の切れた後、部屋の静寂がやけに大きく感じる。兄姉との会話と同じくらい、心が穏やかだった。
熱と氷の狭間にある、ちょうど人間らしい温度。
不思議と胸が熱くなる。多分これが”友達”ってやつなんだろう。
俺はまだそういうの、まだ上手く扱えない。
誰かと並んで笑う方法も、肩を並べて歩く距離感も、全部。これから覚えていくことばかりだ。
けど、悪くはないって、そう思った。
胸の中の氷が、ほんの少しだけ溶けた気がした。
静岡県のとある路地裏。22時を過ぎたあたり。垣根帝督は『ピンセット』を装着して、喧騒を背中に速足で薄暗いその場所を闊歩していく。居酒屋や雀荘が入ったビルの裏、一般家庭の間、割烹旅館の勝手口、寿司屋の搬入口、表からじゃ観測できない、ありとあらゆる街の継ぎ目を嗅ぎまわるように、静かに踏み抜いていった。
授業で個性を全力で行使しなかった。まだ、脳への負荷は許容範囲だ。つまりは――――夜にも動ける。
とは言っても最近はチンピラすら見かけない。
チーム、カラーギャング、顔を売ることに必死だった連中も、ある日を境に揃ってゆっくりと活動が減っている。
そういった連中の悪態も、酒で腐った笑い声も、薬物で爛れた嬌声も。血の臭いと一緒に吹き溜まっていたはずの汚濁が、今は跡形もなく乾ききっている。
この街にヒーロー殺しが襲来したわけでもない。
この街はオールマイトの通勤路なわけでもない。
この街のヒーローが大物を捕まえる、派手な検挙劇があったわけでもない。
ましてや警察が突然優秀になって、検挙率が上がったなどという話がないのにも拘わらず、だ。
それでも路地は異様なほどに静まり返っていた。
異形型の個性で醜悪な見た目をしており、社会から弾かれた者たちの同盟。
悪役らしい個性に準じるよう、ゆるやかに堕ちていった連中の同好会。
こういった同類が集まる寄せ集めの組織は消え失せ、元々構成員を「家族」だとみなしているヤクザぐらいしか残っていないのだ。しかも、一般人には手を出さない昔気質の連中だけが。
腐った肉に集ったハエやウジ虫が、いきなり、一斉に姿を消したのだ。
…となれば、だからこそ不自然だった。
垣根帝督には、ひとつ仮説がある。
嵐の前の静けさ。何かしらの大型犯罪の仕込みが進んでいる、としか考えられない。それがまだ、牙を剝いていないだけ。
表に出ている犯罪は、せいぜい古くから仕込まれた小規模な計画や衝動的ば犯罪程度。全体的に犯罪率は下がっている。数字だけを見れば、平和だ。
それ自体は喜ばしい事だが、それは本当に正しくそうだろうか?
純粋に、犯罪率だけが下がっている。それだけ。実に不自然な現象。
だが、それを見て安心できるほど、垣根帝督はおめでたくない。
警察がマークしていた悪人はこの街を出ていったか?――――否。
警察がマークしていた悪人は摘発されたのか?――――否。
要するに、街のゴロツキ共が一斉に消えたように思えるのは、理由はともあれ息を殺しているからに他ならない。
厚遇のシゴトが舞い込んできたとか、思想に染まり街の深部へ潜ったとか、犯罪計画を共同で計画していたりだとか、或いはそれの指示待ちだったり。
理由は無数に考えられる。だがそれは絶対に「浄化」などではない。腐敗は地中に根を張ったままだ。
日常生活に「暴力」という手段が入った人間が、易々と陽の当たるところに帰ってこれるわけがない。一度闇に足を踏み入れた者は、そう簡単には光の世界に戻れやしない。
皮膚に入り込んだ毒針が、折れても骨の奥で腐り続けるのと同じ。
それが、現実というものだった。
(どこに潜伏してんだろうな。こういった手合いは薄暗い路地裏や廃墟のビルだと思ってたんだが)
色々な区画を確認して回ったが、やはりそれらしい影は見つからない。建物の目星だってつきやしない。最後の一区画にたどり着いて、僅かな違和感が立ち上る。月明かりに照らされている室外機の一角が不自然に明るくなっている。
(ここだけ不自然だな。生ゴミの臭いだったり、タバコだったり、クスリだったりの臭いがするもんだが)
路地裏にもあらゆるオブジェクトがある。生ゴミの入った袋、もう機能していないほどボロボロと風化したゴミ箱、動物の排泄物、感染症の象徴であるネズミ、人類の営みからは――――特に日本では設置されてないことがあり得ないほどにまでなった室外機。そして、それらを覆い隠すような大量のゴミ山。
ゴミを掻き分けて比較的新しく設置されたであろう室外機まで辿り着く。あぁ、灰色の汁が服についた。不快な感触が皮膚に纏わりつく。
室外機に触れる。動かない。
室外機を押してみる。動かない。
室外機を引いてみる。ズレた。
露になった部分を注視する。
ガスパイプどころか、熱交換器のフィンすら見当たらない。ただ、地面を突き刺すように太めの塩ビパイプが埋もれている。耳を当てると、誰かの話し声と、それを一定のリズムで掻き消すファンの唸り。とどのつまりは、お手製の換気扇なのだろう。
ビルに地下が存在するなら基本設計図、実施設計図、施工図のどれかに記載があるはずだが、記憶している限りは存在しない。
あるとすれば、下水道の通り道だけ。
「はーん。地下ね」
鼻で笑うように呟く。
続いて、しゃがんで空気を仰ぎ寄せる。
鼻を突く刺激臭でも漂ってくるかと思えば――違った。
鼻腔の奥に、ほんのわずかに電気を舐めたような匂い。
地下拠点から排出されるなら、もっと鉄錆や腐敗、人の営みの滓が混じるはずなのに。
それどころか、むしろ清潔とすら言えた。この空気はどこか人工的だ。
……つまり、内部では脱臭処理が行われている。
誰かが空気を "管理”している。
疑惑を確信へ変えるために、今度は更に身を屈める。
(今ので確信した…O₃か)
地下を拠点にする以上、酸素不足は避けたい。だから換気扇を設けた。そこまでは理解できる。
供給される外気の臭いか地下の臭いか。どちらにせよ、気に入らなかった誰かがいる。
結果、どこかの小悪党がオゾン脱臭なんて小細工をした。
「……街の裏に潜るくせに、そういうとこは潔癖ってか」
垣根帝督は立ち上がりながら、鼻で笑うように口の端を吊り上げた。
自分で隠れ家を“消臭”したせいで、こうして足跡を残した。
科学の無知ってのは、時に滑稽だ。
そして、彼はゆっくりとその”室外機”を見下ろした。
まるで最初から結末まで知っている映画をもう一度眺めているように。
無機質な眼差し。静かな確信。
「垣根帝督。久しぶり」
不意に、後ろから声を掛けられた。反射的に肩がビクっと上がる。いつからいた?どこから近づかれた?多少は警戒していたはずだが、それでも気配がまるでなかった。その一点で、垣根は一瞬だけ目を細め、振り向く。
「誰だテメェは」
光沢のある、スカートの裾ほどの長さまである銀髪。まったく光量が足りていないはずの月の反射は、この区画を昏く照らしていた。
それは柔らかいのに鋭い。それでいて、触れたら指先ほど一息に切れそうなほど整っていた。
翡翠のような瞳は、暗闇の中でもはっきりとわかるくらい光っていると思ったが、観測そのものを返す鏡のように光を返す。
まるで彼女の瞳がこちらの内側まで覗き込んでいるような、そんな錯覚さえ覚える。
「私にはつい最近の出来事のように感じるがね。君が倒れる前、コンビニで会っただろう」
抑揚は少ない。冷たさでも無関心でもなく、ただただ事実を伝えるだけの声。
水色の制服のようなものを着飾った、端正な顔立ちの少女が目の前にいる。
「俺の名前を知ってるのは話が違うだろうが」
夜の裏路地。
薄暗い月を反射するコンクリートの鈍い光が、二人の間に落ちる。
ましてやこの時間、この場所で話しかけてくる時点で、目的がなければおかしい。ましてや、夜の街の裏を闊歩している最中に話しかけてくるなど、何かしら目的が無ければおかしい。
ただ「君」だの「少年」だのと未成年の夜間外出で声を掛けてくるのならまだしも、名前を知っている。
のであれば。
瞬きもせずに、2対4枚の白い翼を展開する。その内の1枚を眼孔の前に、カミソリのように鋭くなったそれを近付けるが、目の前にいる女は臆することなく、旧友へ話しかけるように垣根帝督の目を見据え、あまつさえ微笑んでいた。
「AFOは私の
その固有名詞を聞いて、一瞬だけ思考を止めた。
この国で生まれたが故に晒された悪意、それが作り上げた、ありふれた悲劇に触れてしまったのだろうと。
その名前を出すということは、つまり。
「上条当麻への手掛かりを探している。そうだろう?…身の上話をしよう。私はこどもの命を奪われた」
思わず、眉を顰める。
何を言っているのか。
目の前にいる少女の顔つきは、第二次性徴期真っ最中の少女の顔だ。東欧系の血が混じっているのか、やや整った彫りの深い顔立ちをしてはいるが、それでもさして変わらない年齢のはずだ。
「ふざけた事抜かしてんじゃねえ。年齢は俺とそう変わらねえだろうが」
「若く見られるというのは、案外悪くない心地だ。…垣根帝督。私は一世紀以上、生きているよ」
はにかむ彼女は頬に、手が添えられる
やはりどこからどう見たって
「一世紀以上生きてんのが事実ならその若々しさの理由は?大体、複合型個性じゃねえと有り得ない現象だろうが」
言葉は取り繕っただけ。真に聞きたいことは、1つ。
お前は身体に、個性そのものに、何をされたか、だ。
「百年ほど前に、死ぬ寸前に個性を押し付けられたさ。物事を失敗する個性を。名をつけるなら、
その声は、とてもとても、澄んでいた。
恐怖も、怒りも、悲しみもなく、ただ事実として語る。
百年。
その時間を軽く口にするその様子に、垣根は無意識に眉を顰める。時間の重みが、会話の現実感を削り取っていく。
AFOの個性で出来ることは知っているらしい。全てを信用するつもりは無いにしろ、あの男に阻まれたという匂いはあった。
だが、何より異様なのは――その瞳だ。
語っているのは死の記憶だというのに、怯えがない。
まるで、死の向こう側を一度確認して帰ってきたような光。
恐怖を卒業した者だけが持つ、冷たい透明な光。
「死ぬ寸前だぁ?」
乾いた声が、思考の隙間から漏れる。垣根自身も気づかぬほど、喉が掠れていたが。
思わず突き付けていたその凶器を下ろした。
「医療従事者の友人曰く、発見時、速やかに死亡確認が取られたそうだ」
「疑問点はそこじゃねえよ…。死ぬことすら失敗した、と?」
「ああ。何も成せなかった。果たせなかった。死を明確に感じた。五体満足ですらなかったよ。死ぬ前は聴覚が最後まで残っているって話があるけど、あれは事実だね」
少女の声色はどこか茶化したような笑いに変化した。その笑みはひどく脆い印象を受けた。長い年月を経て、悲しみを処理する仕方を学んだ者の、無理に軽く振る舞う笑い方。
自身に起きた惨劇を第三者の物語のように語っている。
現実感を手放すほどの時間を、その歳月の中で過ごしてきたということか。
いつの間にか彼女の右腕に背丈を優に超える銀色の杖が収まっている。
空いた片方の腕で垣根帝督へ手を伸ばす。
その仕草は崖から落ちる者を救う手にも、溺れる者が縋る手にも。そして、溺れる者が誰かを道連れにしようとするような手にも見えた。
垣根は黙ってその手を見つめる。
取りはしない。だが、退けもしない。思考の奥で古びた警鐘がなっている。
やめろ、と。
一人で探すのには限界がある。
でも、誰かの手を借りる、ということに抵抗があるのも事実だ。だって、自分を助けてくれる人を、三度も失いたくないから。自分が助けを求めることで、誰かを喪うのはもっと嫌だ。それだけは、もう御免だった。
「君に協力したい。…断られても、私が身勝手に君の事を支えるさ」
声音は誘惑でも命令でもない。まるで、滅びを覚悟した者が口にする決意のように、静かで重かった。
沈黙を以って応えとした。
拒絶ではなく、ただ保留するために。
「手始めに、この下に潜んでいる者のところへ案内しよう」
後ろを向いた彼女は、月明りで鈍く光る銀色の杖をついてこの仄暗い夜の街を進んでいく。
風を切る音が、一定のリズムを刻む。
杖がアスファルトを叩くたび、空気の波が起きる。
カツン、カツン。
まるで、闇の奥へ沈んでいくための秒針が確実に時を削っているようだった。
ついて来いということだろうか。
風が動いた。
オゾンの臭いが、また鼻を刺激する。
さっきまで無機質な証拠だったはずのそれが、今は妙に生臭く感じる。
誰かが、意図的に空気の構造そのものを歪ませているような、そんな錯覚。
夜の静寂をかき乱す。
息を吸うだけで、他者の意思が混ざり込む。そんな異常な世界。
目の前の少女の口ぶりから、今回の目的も、思考の核も、どこか似通っているかのように感じた。
彼女についていくのではない。
彼女に協力することを肯定する行為でもない。
これは、同じ方向を向いた狂気が、偶然、同じ夜、同じ場所で交差しただけ。
互いの理屈がぶつかり、削れ、火花を散らす。その交差点が、誰かの運命をひしゃげさせることになろうとも――止まる気にはならなかった。
(
自分の心を納得させるためだけの論理を展開する。それは救いでも祈りでもない、ましてや誰かが作った筋書き通りに動いているというのなら――。
(まずは、そのふざけた
吐いた息だけが、この場で介入されていない唯一のオアシスだった。
冷えた夜気に溶け、かすかに白く揺れる。
そして、今はいない少年への思いを胸に、二人は音もなく夜の底へ吸い込まれていく。
「君たち、帰りなさい。ここは危ないから」
静謐な声。だがその裏には、硬質な警戒音が混じっていた。
地下施設の空気は、妙に清潔だった。湿度がない。コンクリの壁に反響する呼吸音さえ、除菌されたみたいにサラサラだ。もはやこのレベルになると、空気清浄というより、異物排除に近いのだろう。
その静寂の中で、男はまるで責務だと言わんばかりに、目の前にいる少年少女に対して穏やかな声色で言う。叱るように、導くように。
それがもし
「おっさんがオゾン消毒なんざやらなきゃ、俺たちもここに出向くことはなかったんだがな」
低く乾いた声。挑発でも怒りでもなく、理屈を告げるようなトーン。
目の前の少年の声には、説明と宣告が同居している。余裕のある勝ち筋があるといわんばかりの。
「ふんっ!!!」
完全な不意打ち。言葉の終わりと同時に紫電が爆ぜた。
音よりも早く、光が空気を裂いた。
透明なはずの空気が焼け、焦げた金属のような匂いが鼻を刺す。
力尽くで放たれた電撃は諭していたはずの少年少女へと向けられた。
一瞬の躊躇いも、ない。
目の前の存在を侵入者と認識した瞬間、男の本能は撃つことしか選ばなかった。
ターゲットがどうやら自分である口ぶり。なら、敵でしかない。
迷い込んだから家に帰す。少年少女のアソビバにされても困るから家に帰す。こんな優しい選択肢も彼の中にあったが、一瞬で剥がれ落ちた。
思考よりも前に身体が決める――男はそういう種類の戦場に生きていた。実戦という名の反射だった。
少年少女へのお叱りは、今は殺意の形に変わっている。
返答は電光に置き換わる。
修羅場を知る者の動きだ。
紫電は当たったはずだった。
「…やっぱ電気系の能力者だったか」
垣根帝督は、眉一つ動かさずに目の前の男を見据える。その視線には、焦りも驚きもない。
ただ、想定の範囲内にしか脅威がないことを確認する、冷たい確信だけがそこにある。
背中のラインが静かに割れ、無機の翼が滑り出すように展開した。
緩やかに、されど毟り取るように、2対4枚の鈍く光る白い翼は、垣根帝督の背中から生え広がる。
ゆらり、と空気が軋む。
それは風を掴むでもなく、分子を捉えるでもなく、世界を構成する成分に触れるための仕掛けだった。
翅の1枚1枚が震えたかと思うと、張りつめた。
「まともな奴なら、成すすべなくやられるんだろうよ」
その言葉の端で、垣根の個性は世界を引っ掻く。
無言の論理が空間に広がる。未元物質の性質を利用し、周囲の二酸化炭素を再配列する。
炭素に触れ、奴の電流によって酸素の局所的な供給と剥奪のスイッチを同時に叩く。
たった一つの異物が混ざるだけで、世界の根底を支える法則は別のものへと書き換えられるのだ。
電光のエネルギーが彼の肉体から発生した瞬間、周囲の酸素は局所的に飽和し、燃焼の閾値が著しく下がる。
燃え上がるのは一瞬。とりわけ必殺の一撃を放とうとしたため、火力は尋常ではない。
皮膚が焦げ、衣服が炭化する。たんぱく質の灼ける匂いが、清潔にしたはずの空気を瞬時に汚染していく。
「ぁ、あ”っづい!!!」
痛い。熱い、苦しい。こわい。それら全てが同時に駆け抜ける。
逃げようにも、足が動かない。
しかし、垣根の仕掛けはそこで終わらない。燃焼が呼び起こした酸素の消費は、急速に、局所的に、酸素のバランスをかき乱し、次いで酸素欠乏へと反転するように”設計”されていた。
思わず吸い込んだ呼吸が、内側で裏返る。彼の意識は闇へ落ち始めた。酸素濃度が14%を切る。
そこに残るのは鮮烈な皮膚の灼ける匂いと、破壊された均衡だけだった。
これで、酸素欠乏症の男が出来上がり。
燃焼が収まり、火は自ら消える。男は膝をつき、体を支えきれずに崩れ落ちた。
垣根は近づかない。止めも刺さない。
ただ、冷静に相手の呼吸が浅くなるのを見届ける。
息を吸うという生物が生物であるかぎり当たり前の行為を、攻撃の手段に変える。
これが科学の冷徹であり――理屈の暴力だ。
「ま、酸素濃度を一時的に下げただけだ、死にはしねえだろ。…さて、尋問の準備でもするかね」
そして、彼の背後で銀髪の少女が静かに笑った。冷たい光を持った瞳が、焦げた室内を一瞥する。垣根帝督のチカラが、魔王を超えるであろうことを、彼女は強く確信する。